醸成 を 図る。 人財育成への取り組み

インナーコミュニケーションとは?組織の一体感を醸成する方法と効果

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企業は時として業績が低迷し、本業をおろそかにして顧客の信頼を失ったり、社員の意識が低下したりといった問題を抱えることがあります。 そうした状態を根本的に改めるためには、企業としての価値観やミッションを再確認したうえで、組織風土の改革に取り組む必要があるでしょう。 健全な経営は、よい組織風土づくりから 企業が健全に経営され、一人ひとりの社員が前向きに日々の仕事に取り組み、誰もがやりがいを感じ、常に自分を磨き、きちんと利益を上げながら社会に貢献するのが、一つの理想のあり方といってもいいでしょう。 そういう会社をつくっていくためには、単に規則や指示命令を厳格化しても、かえって社員に反発心が芽生える可能性があり、大きな効果は望めないと考えられます。 それよりも、よい組織風土をつくっていくことが重要です。 よい風土がつくられ、それが全社員に根づいたら、誰もがおのずからよりよい仕事をしようと考えるはずです。 その結果、健全な経営が実現し、社員たちは充実した人生を送れるようになるのです。 組織風土改革のプロセスとは? では、どのように取り組めば、よりよい組織風土を醸成していくことができるのでしょうか。 今現在、会社に理想的でない状態があるとしたら、どのように組織風土を改革し、理想に近づけていくことができるのでしょうか。 最初に行うべきことは、「価値観の見直し」であると考えられます。 自分たちの事業は何のために存在しているのか、自分たちのミッション(使命)は何なのか、どういう理念のもとに行動するのか、といった経営のベースとなる「価値観」をしっかりと考えて、整理し直すのです。 これが「風土づくり」の基礎となります。 自分たちの価値観・ミッションを明確にするためには、経営の中核を担うメンバーが徹底的に話し合うことが重要です。 自社の価値観・ミッションを端的に表す「パワーワード」を見つける 価値観やミッションが明確になったら、それを会社全体で共有しなければなりません。 共有するためには、価値観やミッションを「最適な言葉」で表現する必要があります。 言葉には力があります。 自社の価値観・ミッションを短い言葉、あるいは一つのフレーズで的確に表すことによって、全社員に強く印象づけることが可能となります。 強く印象づけられる言葉のことを「パワーワード」と呼びます。 価値観やミッションを端的に表現し、なおかつ覚えやすく、オリジナリティが感じられることが大切です。 自社にとってのパワーワードを考え出すには、何度も何度もディスカッションを繰り返し、数限りない候補から選び出し、さらにとことん吟味するくらいの熱意が必要です。 最高のパワーワードを見つけるためには、極端な話、何年かかってもかまわないと考えるべきでしょう。 パワーワードの浸透に努めて「共通言語化」を図る 自社にとってのパワーワードが完成したら、これを会社全体で「共通言語化」する段階に移ります。 共通言語化とは、誰もが記憶していることはもちろん、何か問題が発生したとき、会議が紛糾したとき、判断に迷ったとき、横道にそれそうになったとき、当事者がそのパワーワードを思い出し行動を起こすことで解決の道を見出せるようになる、という意味です。 共通言語化するためには、パワーワードを額に入れて飾るだけではいけません。 ミーティングなど機会があるごとに唱和したり、経営者や管理職が部下に指導をしたりする際に、繰り返し伝えて説明し続けることが肝要です。 また、共通言語化を進めるうえで、社内全体で人間関係をしっかりと構築することも不可欠です。 互いに信頼し合っていない状態で、言葉だけ上から押しつけられても、多くの社員の心には響かないでしょう。 上司と部下が一対一で話し合う機会を増やしたり、あるいはまた職場単位で自社の価値観やミッションについて話し合う機会をつくるなどして、時間をかけ、手間をかけて浸透させていくのです。 上司と部下の関係の質が高まれば高まるほど、ミッションが浸透し、社員の意識変革が進んでいくはずです。 組織風土を改革し根づかせるには、トップの覚悟が欠かせない PHP研究所でも、各企業の組織風土を改革するため研修を行っていますが、風土改革において重要なのは、その会社のトップが本気で取り組むことです。 社長や役員が真剣に改革に取り組み、何年もかけてよい組織風土をつくり上げていかなければなりません。 新たなパワーワードにまとめた価値観やミッションが、企業の風土として根づくまでには、トップが全力を注ぎ続けるという前提で、およそ5年から10年はかかると考えたほうがいいでしょう。 なかなか人間は劇的に変化するものではないからです。 パワーワードを共通言語化したうえで、それを日常の業務に反映させ続けることで、少しずつ変化し、徐々に定着していきます。 その間、新入社員も入ってきます。 まっさらの状態で入社し、純粋にその会社の価値観やミッションを身につけた社員が増えることで、組織風土の変革はさらに進みます。 そうしているうちに、大部分の社員が共通の価値観のもとで、共通のミッションに向かって努力するようになるでしょう。 それが「企業風土」となり、さらに次世代に受け継がれながら、その会社は発展の道を進んでいくわけです。

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文大統領率いる韓国政府、対日本予算を増額し、日本の対韓世論の醸成を図る?!

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Q 先日、メールのやりとりの中で、「いくつかご質問があります。 」という一文がありました。 相手が、私に対して質問したいことがあるという状況です。 自分が質問したい場合に、そのことをさして「ご質問があります」は、なんだか違和感があるな、と思ったのですが正しい用法なのでしょうか? また、そういったご質問に対して、「"ご"回答いたします。 」と自分が回答することに対して「ご」をつけるのは正しいでしょうか? 仕事のメールでしばしば見かけるし、私も曖昧な使い方をしているかもしれないと思って、不安になってきました。 まスマートな表現をお教えいただけましたら幸いです。 ちなみに私は下記のようにしています。 質問があるとき「下記の事項についてお教え下さいますでしょうか」「ご教示下さい」「質問があります」 回答するとき「ご質問頂きました件につき、下記の通り回答いたします」もしくは、質問事項(引用)に回答を付記する。 A ベストアンサー こんにちは(^^ この件、昔上司と議論になったことがあります(汗。 基本的には、敬語はNo. 2のkeydaimonが仰る通り、「尊敬」「謙譲」「丁寧」の3種類に分かれます。 では、この「ご」はどれに当たるかというと・・・この3種類、どの用法でも使われます。 (Goo辞書「ご」で調べてもそうありますね)。 ですから、文法的には「ご回答いたします」はアリです。 たとえばNo. 回答の場合は、(「ご回答」を避けるために) 「ご質問いただきました点につきましては、以下の通りですので、宜しくご確認お願いいたします」 と書いたりします。 ちなみに蛇足ですが「いたします」には「謙譲」「丁寧」の両方の意味がありますが、相手によっては「丁寧」の意味しか無いと思っている場合がありますね~。 これもあいまいなとこです(^^; こんにちは(^^ この件、昔上司と議論になったことがあります(汗。 基本的には、敬語はNo. 2のkeydaimonが仰る通り、「尊敬」「謙譲」「丁寧」の3種類に分かれます。 では、この「ご」はどれに当たるかというと・・・この3種類、どの用法でも使われます。 (Goo辞書「ご」で調べてもそうありますね)。 ですから、文法的には「ご回答いたします」はアリです。 たとえばNo. Q 私は中国人で、日本語を勉強中です。 「を通じて」と「を通して」は形的にも意味的にも非常に似ています。 皆様はどのように使い分けをするのでしょうか。 中国人の著者が書く参考書で調べてみたのですが、使い分けの説明が付かずに例文しか並んでいません。 疑問に感じるのですが、下記の例文の中の「を通じて」と「を通して」とお互いに交換できるでしょうか。 また、これらの例文は中国人の著者が作った例文なので、不自然のところがありましたら、ご指摘いただけますと幸いです。 「を通じて」の「一年を通じて」、「一生を通じて」、「生涯を通じて」のような使い方はさておき。 「を通じて」 1.秘書を通じて社長との面会を乞う。 2.学生会を通じて、学校側に意見を出した。 3.テレビを通じて広告をする。 4.問題があると、民主的論議を通じて解決する。 「を通して」 1.書物を通して世界を知る。 2.両国の文化交流を通して、相互理解を深める。 3.仲人を通して娘の縁談を進める。 4.臨床実践を通して治療経験を積み重ねる。 また、質問文に不自然な箇所がありましたら、併せてご指摘いただけますと幸いです。 どうか、よろしくお願い致します。 私は中国人で、日本語を勉強中です。 「を通じて」と「を通して」は形的にも意味的にも非常に似ています。 皆様はどのように使い分けをするのでしょうか。 中国人の著者が書く参考書で調べてみたのですが、使い分けの説明が付かずに例文しか並んでいません。 疑問に感じるのですが、下記の例文の中の「を通じて」と「を通して」とお互いに交換できるでしょうか。 また、これらの例文は中国人の著者が作った例文なので、不自然のところがありましたら、ご指摘いただけますと幸いです。 「を通じて」の「一年を... A ベストアンサー 他の方(No. 4の方)にもお答えいただいて、よかったです。 私の自信のない(誤っているかもしれない)回答で、質問者の方が誤解したまま終わってしまうようなことがあったらいけないですから。 2でも少し書きましたし、No. という文は、(「通して」「通じて」の問題以前に) 意味がわかりにくく、何か読みにくいような、くどいような、自然でない印象を受けます。 (でも、「日本人はこんな文は書かない」と言えるほど不自然な文ではないです。 ) なぜそう思うのかはよくわからないのですが、以下の理由があると思います。 ・「臨床実践」という言葉を聞き慣れない。 医学の世界ではどうか知らないが、普通の日本人が使うような言葉ではない( 4のご回答でも指摘がある。 ) ・「臨床実践」「治療経験」・・・四字の漢語が二つもあって、重苦しい印象を受ける。 更に「積み重ねる」があることによってごてごてした印象を受ける。 私なら、もっと軽い感じに、 「実践的な臨床経験を積み重ねる。 」 「臨床経験を積み重ねる。 」 「臨床の経験を重ねる。 」 「臨床の実践経験を積む。 」 などなどでもよさそうに思います。 4の方もおっしゃっている通り、質問の例文に関しては、 2と 4は、似ているようです。 改めて、いくつか意見を述べておきます。 一つ目は、 「民主的論議」「文化交流」などの長めの漢語があると「をつうじて」で、 「仲人」というような和語だと「をとおして」の傾向があるのではないか、 ということです。 (短めの漢語は、中間。 ) 二つ目は、 「を通じて」というのが、何か形式的な印象を与える、ということです。 「仲人をつうじて」とはあまり言わないような気がしますが、 もし「仲人をつうじて」と言えば、何か仲人を(人ではなくて)道具のように扱っている感じがします。 三つ目は、 「を通じて」は、二つのものの間に「何かが挟まっている」が、その間に挟まっているものそのもの(秘書、書物、・・・)を重要視せず、二つのものの関係を重要視している。 「をとおして」は、「間に挟まっているもの」を重要視している、ということです。 四つ目は、 「を通じて」という表現は、公式であり外向きであるが、 「をとおして」という表現が、ややくだけた表現だということです。 これらは、「まあそんな気がするかな」程度の意見なので、きちんと詳しく検討する必要があるだろうと思います。 改めて考えても、 2 3も、 4のご回答も、みんな正しいような気がするのです。 4では >「通して」という場合,文字通り「それを通り道にして」という意味があるように思います.(q304さんの 3のご意見と矛盾してしまうのですが...あくまで私の個人的印象です.) とのご指摘がありますが、必ずしも矛盾とまでは言えず、別のご指摘かもしれません。 3では >「秘書を通じて」というのは、秘書を、単にそういう地位とか役割のようにとらえていて、 >(秘書を単なる「とおりみち」のようにとらえている。 ) >具体的な人を思い浮かべていないんじゃないかな、 >ということです。 の 「秘書を単なる「とおりみち」のようにとらえている」 というのは、"単なる" に意味の重点があって、 「秘書に重きをおかない」という意味です。 ところで、質問では、 「皆様はどのように使い分けをするのでしょうか。 中国人の著者が書く参考書で調べてみたのですが、使い分けの説明が付かずに例文しか並んでいません。 」 とありますが、 この著者自身、本当に使い分けすべきと考えているのでしょうか。 他の方(No. 4の方)にもお答えいただいて、よかったです。 私の自信のない(誤っているかもしれない)回答で、質問者の方が誤解したまま終わってしまうようなことがあったらいけないですから。 2でも少し書きましたし、No. という文は、(「通して」「通じて」の問題以前に) 意味がわかりにくく、何か読みにくいような、くどいような、自然でない印象を受けます。 (でも、「日本人はこんな文は書かない」と言えるほど...

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現地大学と連携した調べ学習を軸に国際理解、国際感覚の醸成を図る

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スポンサーリンク 高揚の意味をおさらい 「意識の高揚を図る」という意味を考える前に、まずは「高揚とは何か」という事を復習しておきます。 高揚とは、 「気分が高まる、精神が興奮状態になったり昂ぶっている状態」という意味の言葉です。 高揚感とは、そのような状態を感じている事を意味しております。 以前から何度も警鐘を鳴らしております通り、この精神が高揚した状態や、高揚感を覚えている状態というのは、大変厄介なものであります。 なぜならば、高揚している状態や、高揚感全開という状態では、冷静な判断なり対処が出来なくなっている可能性が大きいのです。 仏教・仏法においては、このような興奮状態や、精神が高揚している状態は、刺激にまみれている状態と観ます。 仏教は、刺激に支配されてしまったり、高揚しているという刺激に囚われることを戒めます。 特に禅宗では、そのような刺激や興奮している状態に虎罠無い事を説きます。 高揚している状態や、高揚感というパトス(精神性・情緒)とは、付き合い方を間違えないでありたいものです。 瞑想法など、仏教には高揚している状態、高揚感を上手くやり過ごしたり、上手に付き合う方法もあります。 参照: 参照2: 高揚という言葉の意味を学ぶと共に、それらの事柄も学んでおくと、高揚による失敗も防ぎやすい事でありましょう。 意識の高揚を図るとはどういう意味か 高揚や、高揚感の意味を学び直したところで、次に私が耳慣れない状態で聞いた「意識の高揚を図る」という事についてです。 「意識の高揚を図る」という言葉の意味は、どうやら :物事を、より重要視すること、重要度を高く位置づけること ということのようです。 「ことのようです」と、曖昧な表現をしているのは、色々な事物を読んだり、使われている言葉の雰囲気や文脈から、そのように解釈したから、という私の色眼鏡も入っている事に、ご注意頂ければと思います。 要するに「これは重要である」と認識する事を、「意識の高揚を図る」と言う言葉で表現されているのです。 もっと短く一言でまとめるならば 「啓発」の事であろうと、私は解釈しております。 この意味を学んだときに、もしかしたら「意識高い系」と、なんとなく目標を高く持って邁進する人や、目的・目標達成意識の高い人の事を揶揄した言葉に、対抗したのかなあ、と邪推したりも致しました。 自己啓発に嵌まっている人は、まさに「意識高い系」と揶揄される事が御座いますし。 恐らく、これは私の妄想でしょうがね。 「意識の高揚を図る」という言葉を使われた場合は、 ある事柄の重要度を高く認識する、このような意味で捉えるのが妥当なところであろうと、私は頂いております。 スポンサーリンク 意識の高揚を図るという言葉は、意味はわからんでもないが・・・ 意識の高揚を図る、という言い回しについて、意味を把握することは出来ました。 ただ、なんだかまどろっこしいと言いますか、ちょっとわかりにくい表現だな、と言うのが、最初にこの言葉を聞いたときの率直な印象であります。 現代社会においては、この「意識の高揚を図る」という言葉は、どのように使われているのかを観れば、何となく私が「わざわざこんな表現にせんでも」と、思う一端が垣間見て頂けるかと思われます。 例えば、 「安全意識の高揚を図る」「環境意識の高揚を図る」など、そのように使われる事が御座います。 このような使われ方から、意味も何となく推察出来るかと存じます。 「安全意識の高揚を図る」というのは、安全意識を高める、という意味で捉えても、問題無いことでありましょう。 「環境意識の高揚を図る」は、環境に関する意識を高める、という意味と解釈出来ます。 私はこのような使い方を読ませて頂いたときに、「安全意識の向上」とした方が、よりわかりやすい気が致します。 わざわざ「意識の高揚を図る」とするよりも、なんだかスッキリ致します。 一体、どうしてこのような表現が生まれたのか、その事を色々と考えると、このような説を思いつきました。 本来、「高揚」というのはパトス(精神性・情緒)の変化を表す言葉であり、意味もそのような意味や文脈で使われます。 高揚するのは精神であって、意識ではありません。 しかし、「昂ぶる、高める」というその意味だけが抜き出されて、意識の向上は意識が高まる事であり、したがって「意識の高揚」や、それを図るという使われ方をするようにさすらった、そのような事を考え出した次第であります。 それに、意識が向上すれば、それについての精神性も高まる事も御座いましょう。 故に、「意識の高揚を図る」という表現は、まんざら間違いでもなさそうだ、そのような解釈に現段階では至っております。 ただ、私のように聞き慣れていない人であったり、「なんのこっちゃ」と言われるようであれば、安全意識などを語る場合には、「安全意識の向上」と、素直に言えば良い気が致します。 意識の高揚を図る意味はわかるが、執着にならぬように 意識の高揚を図るという言葉の意味や使い方の例から、どのような文脈で語られるかも観てきました。 意識の高揚を図るということそれ自体には、良いも悪いも無く、むしろ安全意識を高めるなどの意味で使われる場合は、共有すべき事でもあるように思えます。 ただ、私は「意識の高揚を図る」のは結構ですが、その事によって、高揚を図る対象である事柄について、意識と精神を囚われないようにする注意も必要であろうと考えております。 意識を集中する、意識を高めると言う事は、時には大切な事であります。 何か問題に出くわした場合に、問題解決に意識を集中したり、問題意識を持ち、それを高める事は問題解決の大切な要素にもなりましょう。 しかし注意すべきは、 その意識に集中しすぎるあまり、精神まで囚われてしまい、何度もお伝えしている「危険な高揚」に結びつかないようにする事であります。 「そうはいっても、やはり安全意識などは高揚すべきであろう」「環境意識の高揚を図る事は大切だ」という反論も御座いましょう。 それについては、私も同感でありますし、「意識の高揚を図る」ことそれ自体が悪ではないと考えております。 私が言いたいのは、意識の高揚を図り、集中する事も大切だが、それに囚われすぎないことも大切である、ということです。 要するに、 「意識の高揚を図る事」と「それに囚われない事」のバランスを取る事が大切なのです。 仏教には、先ほどもお伝え致しました通り、物事への執着、意識や精神が囚われることを戒める教えが御座います。 禅宗には 「放下着(ほうげじゃく)」という言葉もある通りです。 一方で、物事に集中する事、 「三昧(ざんまい)」も大切な教えであり、集中する事、没入することの大切さも説いています。 そして、このバランスの取り方を一言で表して下さる仏法が 「中道(ちゅうどう)」です。 意識の高揚を図る事、そしてそれによって生み出されるやる気などの精神性も大切にしながら、同時に囚われぬようにするバランスも調える事。 これが、「意識の高揚を図る」上で、大切な智慧ではないか、そのように思います。 尚、今回の話と関連して、「高揚」や「高揚感」の復習をもう一度される事で、より捗るかと存じます。 参照: 参照2: 高揚の功罪をきちんと把握し捉える事は、自己を調える事に繋がる、私はそのように味わいを頂いております。

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