あわや のりこ。 追悼の森/淡谷のり子さん死去

淡谷のり子

あわや のりこ

最終更新: 2020年6月13日 04:25• ニックネーム 淡谷のり, 淡谷のりこ• 出身地 青森県青森市• 生年月日 1907年08月12日• 没年月日 1999年09月22日• 年齢 享年92歳• 星座 しし座• 略歴 日本のシャンソン界の先駆者。 「別れのブルース」「雨のブルース」「君忘れじのブルース」などの大ヒットから「ブルースの女王」と呼ばれる。 トリビア 1979年、津軽三年味噌CMで淡谷が口にしたコピー「たいしたたまげた!」は当時の流行語になった。 青森市の名誉市民である。 クラシックの歌手として活動を始めたが生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌ったことから低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された。 音楽的な基礎を学んできた自らの経験から辛口の発言が多く、1965年のNHK紅白歌合戦では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」、「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となった。 常々「演歌は貧乏くさいから嫌い」と公言していた。 ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌った。 1953年にNHK紅白歌合戦に初出場、いきなりトリを務める。 初出場でトリを務めたのは淡谷のみである。 「バーブ佐竹はディック・ミネと淡谷の間に出来た隠し子である」という噂があった。 誤報 淡谷のり子の関連ニュース•

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追悼の森/淡谷のり子さん死去

あわや のりこ

本名は淡谷 のり(あわや のり)。 身長150. 3cm。 日本のシャンソン界の先駆者であり、代表曲からブルースの女王と呼ばれる。 デビュー当初は、綺麗なハイトーンで素直な歌唱だったが、やがて、妖艶なソプラノで「昭和モダン」の哀愁を歌った。 叔父は元代議士の淡谷悠蔵。 1910年の青森市大火によって生家が没落。 10代の頃に実家が破産した。 1923年、青森県立第一高等女学校を中退し 母と妹と共に上京。 東洋音楽学校(後の東洋音楽大学、現:東京音楽大学)ピアノ科に入学する。 しかし、家がだんだんと貧しくなり、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを勤めるなどして生活費を稼いだ。 淡谷をモデルにした「裸婦臥像」は二科会に出展された。 オール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い十年に一人のソプラノと絶賛された。 母校の研究科に籍を置く。 1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売される。 1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。 映画館の専属となりアトラクション等で歌う。 古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。 A面は「酒は涙か溜息か」。 1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。 日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。 1953年に『第4回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たす。 この頃からテレビのオーディション番組の審査員やバラエティ番組などに出演する。 音楽的な基礎を学んできた自らの経験から辛口の発言が多く、1965年のNHK紅白歌合戦では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」、「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となる。 1970年代前半には「全日本歌謡選手権」(よみうりテレビ)の審査員を務めた。 五木ひろし、八代亜紀、山本譲二など、後に歌謡界を代表する立場に育つ若手の後輩歌手を、厳しくかつ愛情をこめて指南している。 清水アキラらの下品なネタや、ダチョウ倶楽部、ピンクの電話、しのざき美知に代表される「バカバカしいネタ(淡谷談)」を披露する芸人に対して、歌謡界の超大御所である淡谷が仏頂面で容赦のない酷評を下すのが、番組の恒例行事となっていた。 晩年までテレビやコンサートで精力的に活動を続けてきたが、1993年に脳梗塞で倒れる。 軽度ではあったが言語障害や手足にマヒが残るなど体調は悪化、またこの頃から急速に仕事への意欲を失い始めた。 寝たきりとなり療養生活を送っていた1996年、後輩たちによって淡谷の米寿記念コンサートが行われ、久々に姿を現した。 このコンサートのフィナーレで全員合唱の中、口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が淡谷最期の人前での歌となった。 1999年(平成11年)9月22日午前4時30分、老衰のため東京都大田区内の自宅で死去した。 享年92歳。 特記事項 1996年、後輩たちによって淡谷の米寿記念コンサートが行われた。 このコンサートの際に森進一に「別れのブルース」を、美川憲一に「雨のブルース」を、「それぞれ形見分けではないですが差し上げます、歌っていって下さい」と発言し、話題を呼んだ。 このコンサートのフィナーレで全員合唱の中、口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が淡谷最期の人前での歌となった。

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淡谷のり子

あわや のりこ

略歴 [ ] 生い立ち [ ] 1907年、青森市の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。 1910年のによって生家が没落。 10代の頃に実家が破産し、1923年、を中退し母と妹と共に上京。 東洋音楽学校(現・)ピアノ科に入学する。 後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。 歌手を目指すための基礎を学んだ。 しかし家がだんだんと貧しくなったため、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを務めるなどして生活費を稼いだ。 当時は「霧島のぶ子」を名乗っており、この時期、淡谷の裸婦像を描いた画家にがいる。 その後、復学し ()の弟子であるの指導を受け首席で卒業。 春に開催されたオール日本新人演奏会(主宰)では母校を代表して「」の「アガーテのアリア」を歌い 十年に一人のソプラノと絶賛される。 歌手デビュー [ ] が始まる1929年の春に卒業。 母校の研究科に籍を置く。 母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。 クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。 1930年1月、新譜でからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。 でも吹込みをはじめる。 当時、の活躍以来、、、、ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた。 1930年6月、の電気館のステージに立つ。 映画館の専属となりアトラクションなどで歌う。 当時、東洋音楽学校からは、らが流行歌手として活躍していたが、出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていた。 淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された(後年復籍)。 1963年に起きた内紛(東洋音楽大学事件:創業者一族の鈴木理事と経営側理事が対立し、双方がを「警備員」として大学に呼び込んだスキャンダル)に際しては、卒業生たちが東京声専音楽学校(現在の)に集まり、理事たちの異常な行為を糾弾した。 スターダムへ [ ] 1931年へ移籍。 の「私此頃憂鬱よ」がヒット(同盤A面はの「」)。 淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。 1935年の「」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。 が勃発した1937年に「」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。 の情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。 その後も数々の曲を世に送り出し名をとどろかせる(なお、この頃のバックバンドのメンバーには 日本のジャズの父と言われるがいた)。 その当時に淡谷のピアニストを務めていた和田肇 1908〜87 と1938年に結婚するが、翌年離婚。 その後は生涯独身であった。 尚、淡谷には娘が一人いるが、和田との間の子供ではない。 慰問活動 [ ] 戦時下で多くの慰問活動を行い「なんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、その後の中には、禁止されていたをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。 「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えてで歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」といった行為の結果、書かされた始末書は数センチもの厚さに達したとのことである。 戦後 [ ] 1953年 戦後は、、で活躍。 やがて、唱法になる。 声楽の基礎がしっかりしているので、胸声一本ではなくハイトーンを失わないところに歌唱技術の深さがあった。 1953年に『』に出場、初出場を果たす。 NHKの公式資料によれば、同紅白で初出場ながらいきなり紅組トリを務めたとなっている。 また、紅白でを除いて初出場でトリを務めたのは淡谷のみである。 この頃からテレビのオーディション番組の審査員やなどに出演する。 歌手オーディションでマイクの前で歌う経験がなく、セーブせずにホールで歌うように歌唱して不合格になった程の圧倒的な声量と、音楽的な基礎を学んできた自らの経験から辛口の発言が多く、1965年の『NHK紅白歌合戦』では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」、「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となる。 しかし複数の歌手や作品に対しては高く、もしくは一定の評価をしており、晩年はの「」をレパートリーに取り入れていた。 同楽曲で1982年4月1日放送の『』のスポットライトのコーナーに出演したことがある。 一方で、大物とされるような歌手であっても嫌いな歌手に関してテレビ番組等で堂々と公言していた。 そして1970年代前半には、『』()の審査員も務めたが、この番組から世に出たについて、同番組審査員のは五木に高得点を付けたが、淡谷は落とす方に回ったと後に述懐している。 1979年、の広告に出演。 淡谷が口にしたコピー「たいしたたまげた! 」(方言で「とても驚いた!」)は当時のになった。 若者からの人気 [ ] からにかけて、『』の名物審査員として若者からも人気となる。 審査員としては辛辣な評価が有名で、のネタによく破顔一笑していた一方でが披露する下品かつ悪ふざけに近い物真似 に対しては、非常に厳しく採点していた。 淡谷の死後、コロッケは一時期淡谷の物真似の封印も検討したが、淡谷の実妹である淡谷とし子から「若い世代の人にも淡谷の名前を知って貰いたい」と言われ、死後20年近くなる現在でも淡谷の物真似を披露している。 また、司会のフジテレビ『』にも度々出演。 「自分の母親に似ている」というと仲良くなったという。 スタジオでも淡谷が原の手を引いて歩くほどだったが、実は淡谷の方が年上だったというエピソードがある。 晩年までテレビやコンサートで精力的に活動を続けてきたが、長年の音楽仲間で戦友ともいえる・が死去した1993年に脳梗塞で倒れる。 軽度ではあったが言語症や手足にマヒが残るなど体調は悪化し、この頃から急速に仕事への意欲を失い始めた。 この時期、自身のライブを録音したテープを聴き「これでは人様に聴かせられない」と絶句し、一線を退く決心をしたとも言われ、露出は無くなった。 晩年 [ ] 1990年代には美容ローラーの広告に他界するまで契約を結んでいた。 一時期は淡谷が愛用している旨のテレビ広告が盛んに流れていたため、清水アキラやコロッケが淡谷の物まねをするときには小道具として使用していた。 晩年、テレビ等への露出が減った際にも広告に「復帰はもう少し待ってくださいね」などとメッセージを寄せ、淡谷が他界すると美容ローラーのメーカーは「ありがとう淡谷のり子さん」と追悼広告を新聞に出した。 晩年は寝たきりとなり療養生活を送っていた1996年、後輩たちによって淡谷の米寿記念コンサートが行われ、久々に姿を現した。 このコンサートの際にに「別れのブルース」を、に「雨のブルース」を、「それぞれ形見分けではないですが差し上げます、歌っていって下さい」と発言し、話題を呼んだ。 しかし、これは周囲が勝手にお膳立てをしたもので、淡谷本人や妹のとし子(同居人で姉の介護にもあたっていた)は、このことを知らされておらず、報道後も(形見分けなど)認めていなかった。 そして、このコンサートのフィナーレで全員合唱の中、口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が人前で歌った淡谷最後の歌唱となった。 軍歌とを嫌い、このようなコメントを残している。 軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。 情けなくなるの。 狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。 私は美空ひばりは大嫌い。 人のモノマネして出て来たのよ。 戦後のデビューの頃、私のステージの前に出演させてくれっていうの。 私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。 汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。 スターになったら、そんな思い出ないやっていうの。 翌1999年9月22日、により死去。 その死は一般紙でも一面で報じられ、テレビでも複数の追悼番組が放送された他、多くの雑誌で追悼記事が掲載された。 ステージ衣装が一着のみではあるが、の(ウェブサイトのURLは外部リンク欄を参照)に展示されている(2006年6月現在)。 賞歴 [ ]• 1971年:特別賞• 1972年:受章• 1972年:郷土大賞• 1976年:(第27回)• 1978年:青森市制施行八十周年記念文化賞• 1978年:日本レコード大賞特別賞• 1979年:受章• 1983年:表彰(第9回)• 1987年:特別賞(第20回)• 1998年:青森市の名誉市民(4人目、女性では初) 代表曲 [ ]• 夜の東京(1930年)• ラブ・パレード(1930年)• 私此頃憂鬱よ(1931年)• 嘆きの天使(1931年)• 二人の恋人(1933年)• 私の故郷(1933年)• ヴェニ・ヴェン(1934年)• 青い小径(1934年)• ドンニャ・マリキータ(1935年)• ポエマ(1935年)• ヒターナ・ヒターナ(1935年)• 思い出のカプリ(1935年)• バルセロナ(1935)• 伊太利の庭(1935)• リラは咲けど(1935)• あこがれのカロライナ(1935年)• ジーラ・ジーラ(1935年)• テレジーナ(1935年)• ダーダネラ(1936年)• モルーチャ(1936年)• 巴里祭(1936年)• 暗い日曜日(1936年)• (1937年)• マディアナ(1937年)• (1937年)• さよならも言わずに(1937年)• 人の気も知らないで(1938年)• 雨のブルース(1938年)• 想い出のブルース(1938年)• 日暮れの窓で(1938年)• ヴェニ・ヴェニ(1938年)• ヴェノスアイレスの歌• ルムバ・タムバ(1938年)• (1939年)• 誕生日の午後(1939年)• 鈴蘭物語(1939年)• ジァニータ、エスパニア・カーニ(1939年)• ラ・クムパルシータ(1939年)• 待ちましょう(1940年)• 満州ブルース(1940年)• すずかけの道(1941年)• 牧場の我が家(1942年)• たそがれのマニラ(1944年)• 嘆きのブルース(1948年)• 君忘れじのブルース(1948年)• 白樺の小径(1951年)• 聞かせてよあまい言葉を(1951年)• 人の気も知らないで(1951年)• 待ちましょう(1951年)• 暗い日曜日(1951年)• 巴里祭(1952年)• 巴里の屋根の下(1952年)• マリネラ(1952年)• 枯葉(1952年)• 二人の恋人(1952年)• ラ・セーヌ(1952年)• リラの花咲く頃(1952年)• マイ・ショール(1952年)• ルンバ・タンバ(1953年)• ジーラ・ジーラ(1953年)• ドニャ・マリキータ(1953年)• ポエマ(1953年)• 小雨降る径(1953年)• パダム・パダム(1953年)• マイア(1953年)• ロマンス(1953年)• 愛の讃歌(1953年)• 雨のプラットホーム(1954年)• 別れの曲(1955年)• 夜のタンゴ(1955年)• マリア・ラ・オ(1959年)• 私の悲しい恋(1959年)• アディウ(1959年)• 忘れられないブルース(1960年)• 遠い日のブルース(1963年)• 昔一人の歌い手がいた(1971年)• シャルメーヌ(1978年)• ラスト・ソング(1982年)• モダン・エイジ(1982年)ディック・ミネとの共唱• 雨の日の別離(1982年)• 昨夜の男(1982年)• 哀訴(1982年)• 恋人よ(1982年)• 抱いて(1992年)• 揺り椅子(1993年)• 昔一人の歌い手がいた(1999年)CD化 主な出演作品 [ ] バラエティ [ ]• (よみうりテレビ)• (フジテレビ)• (フジテレビ)• (フジテレビ)• (フジテレビ)(それ以外にも、の枠に不定期出演していた。 (フジテレビ)• (日本テレビ)初期のみ• (日本テレビ)• (日本テレビ)• (1983年2月28日・1987年1月6日・1991年6月3日、フジテレビ)- テレフォンショッキングゲスト テレビドラマ [ ]• (1981年、)• サスペンス「二度とできない」(1986年、関西テレビ)• (1987年、フジテレビ)• オバの魔法使い(1987年8月10日、フジテレビ) 映画 [ ]• (1949年、東宝) - ブルースを唄う女 広告 [ ]• 淡谷が自身の名曲をそれぞれ歌う3人に対し、歌を磨くより自宅を磨くようダメ出しするオチである。 「カラオケ大賞」• ゲルマニウム美容ローラー 著書 [ ]• 『私のいいふりこき人生』海竜社、 、1984年• 『私の遺言』フジテレビ出版、、1994年• 『ニセモノとホンモノ』ロングセラーズ、、1986年 その他 [ ]• 前田寛治「裸婦」、() 淡谷のり子を演じた女優 [ ]•

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