稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か。 八幡城の戦い 〜稲葉貞通の関ヶ原〜

【ニッポン城めぐりクイズの答え】6/4 稲葉貞通が関ヶ原の戦い後に封じられたのは、豊後国臼杵である。○か×か?

稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か

八幡城の戦い 〜稲葉貞通の関ヶ原〜 八幡城の戦い 〜稲葉貞通の関ヶ原〜 さて、今度は当時の郡上八幡城主・稲葉貞通の動きを追ってみます。 彼の留守中に旧領主遠藤慶隆が、金森勢とともに八幡城へ侵攻してきました。 急を聞いた彼は即座に軍を返し、八幡城救援に向かいます。 稲葉一族 稲葉一族は伊予守通富 通貞 に始まる。 彼は伊予国守護河野刑部大輔通教 通直 の六男で、故あって伊予を追われたが、美濃国守護土岐左京大夫成頼に遇された事が縁で、彼の妹を娶って稲葉姓に改姓し美濃に住み着いたと伝えられる。 「頑固一徹」で有名な西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄良通は、この伊予守通富の長男備中守 初め右京亮 通則の六男、すなわち孫である。 この稿とは直接関係ないが、大永五 1525 年八月二日、美濃土岐氏に属していた稲葉通則父子一党は、美濃牧田の戦いにおいて近江の浅井亮政と大激戦を演じ、父子六人全てが討死という悲劇に遭っている。 このため六男の一鉄良通が家督を嗣いだのだが、わずか十一歳の時の出来事であったという。 写真はその牧田合戦の行われた場所 養老郡養老町 に建つ碑で、南宮山の南東麓、牧田川左岸の田園地帯にひっそりと建っている。 この稿の主人公で、美濃曾根城主から天正十六年に郡上八幡城主となった右京亮貞通は、この一鉄良通の二男である。 貞通は初め西軍に属し、岐阜城主織田秀信の命により石川貞清の守る犬山城救援に出陣、八幡城は末子の美濃中山城主・修理亮通孝にわずかの兵を与えて守らせていた。 これを聞きつけた元八幡城主で旧領奪回を切望していた東軍の遠藤慶隆は、千載一遇のチャンスとばかり、まず井伊直政・本多忠勝両将の許可を取り付け 後に家康の許可も得ている 、娘婿の高山城主金森可重の援助を得て八幡城攻めに踏み切ったのである。 写真は貞通の旧居城・美濃曾根城跡の華渓寺で、この裏手は として整備されている。 さて、遠藤慶隆の娘婿金森可重は法印長近の養子となっており、この時家康の会津征伐に従軍していた。 江戸で家康から慶隆の郡上八幡攻略への加勢を命じられた可重は、急ぎ飛騨高山へと戻り、途中で慶隆に使を送って侵攻経路を指示した。 すなわち可重は坂本口より、金森家臣池田図書は白川口より攻め込むので、慶隆は益田口から攻め込んで合流しようというものである。 八幡城の戦い 八月二十八日、慶隆は四百の兵を率いて佐見吉田を出陣、飛騨街道を田島へと向かった。 翌日金森勢と合流、途中口洞峠で稲葉勢の伏兵に銃撃を受けたが、進路を変えて城の南・阿久田 現郡上市八幡町安久田 へ到着した。 金森勢は可重隊が城の東・小野の滝山へ、池田隊は城の西にある五町山に登ってそれぞれ布陣、三方からの攻撃態勢を構築した。 そして九月一日、八幡城攻めが一斉に開始された。 一方、犬山城にいた貞通はと言えば、実はこの時点で知己の福島正則の勧めにより東軍に転じることを決めていたのである。 これを受けて福島正則は井伊直政と相談し、直政は慶隆宛に八幡城攻撃を中止するよう書状を発したが、慶隆は「もはや手はずも整っている上、貞通父子は今なお犬山城にいて向背の程が知れない」と拒否した。 これが八月三十日のことである。 子の通孝からの急使により慶隆らの侵攻を知らされた貞通は、驚きまた怒って急ぎ八幡城へと戻っていった。 写真は八幡城の天守閣で、前述「上ヶ根の戦い」にも八幡城の遠景のカットを入れたが、実に美しい城である。 さて、再び八幡城。 可重隊は激しい銃撃戦の末に二ノ丸を占拠、慶隆は一ノ門を突破して金森勢と合流、本丸を攻撃して城方の老臣林惣右衛門父子を生け捕った。 両軍は激闘を交えたが日が暮れたため寄せ手は一旦引き揚げ、降伏を勧告した。 翌二日、城内から笠を竿先に掲げた僧 安養寺の末寺福寿坊の僧という が慶隆の陣にやってきて、貞通がすでに東軍に属したことを告げて和平を申し込んだ。 慶隆はこれを受け入れ、人質を取った上で和議を結び、ひとまずこの日は赤谷山の愛宕に陣を移した。 しかし、戦いはこれで終わってはいなかった。 翌三日の未明、皆がまだ寝静まっている時刻に、貞通勢が目と鼻の先の所まで来ていたのである。 こちらは怒りに燃えて八幡城へと急行していた貞通だが、彼は強行軍を重ねて九月三日未明に八幡城下に到着した。 彼の近臣は攻撃をしないよう諫言したが、貞通はこれをはねつけてこう言ったそうである。 「たとえ款を送ったとしても、目前に敵を見て戦わないということは武名を汚す。 敵を討ち破って城を取り戻し、その上で和議を結んでも遅くはない」 さすがは一鉄良通の子、いやはや何ともすさまじい言葉である。 そしてその通りに事を運んでしまうのには恐れ入る。 貞通は慶隆の本陣愛宕を急襲した。 そんなことは夢にも知らない慶隆はこの急襲に慌て驚き、本陣は大混乱となった。 慶隆はかろうじて家中の勇士の活躍で逃れ、ほうほうの体で可重の陣へたどりついた。 一方の貞通は深追いはせず、意気揚々と八幡城に入城した。 そして翌九月四日、改めて和議の使が貞通から慶隆のもとへ遣わされ、ここに正式に和議が成立して両軍は兵を収めた。 慶隆はただちに兵を東濃上ヶ根へ向け、前述の「上ヶ根の戦い」の後半へとドラマは続く。 貞通は家康に初め西軍に加担して東軍の兵を殺傷したことを詫び、薙髪して謹慎した。 竹を割ったような性格できっちり自己の意地を通した彼は、家康から罰せられることもなく、程なく豊後臼杵五万石の主となる。 なんと、一万石の加増であった。

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豊後国 臼杵藩

稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か

【藩名】 臼杵藩 【説明】 臼杵には豊臣秀吉の家臣「太田一吉」が6万5000石で入封していた。 慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で石田三成との関係上西軍に与したために、改易された。 その後、「稲葉貞通」が「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返り関ヶ原の本戦にて武功を挙げたことで、美濃国郡上八幡4万石から臼杵5万石に加増移封された。 貞通は「斎藤道三」や「織田信長」に仕えた西美濃三人衆の一人「稲葉良通(一鉄)」の子である。 弘化元年(1844年)、臼杵藩では農民による狩猟を中心とした鉄砲組を編成し、農兵隊「川登鉄炮卒」が組織された。 幕末の動乱期では、土佐藩の「山内容堂」と縁戚にあったことから佐幕派の立場を貫き、隣藩の岡藩から尊皇攘夷運動の誘いをもちかけられたときも拒絶した。 慶応3年(1867年)10月、新政府が樹立され朝廷から上洛を命じられたがなかなか応じようとはせず、翌年の3月20日になってようやく上洛している。 豊後の諸藩の中では最も遅い上洛であった。 幕末では中立的立場をとった臼杵藩だが、明治2年(1869年)6月、豊後諸藩の中で最も早く「版籍奉還」を行い、最後の藩主「稲葉久通」は臼杵藩知事に任命された。 明治4年(1871年)の「廃藩置県」により臼杵県となり、その後、大分県に編入された。 【場所・アクセス・地図】 〒875-0041 大分県臼杵市臼杵丹生島•

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稲葉重通

稲葉 貞通 が 関ヶ原 の 戦い 後に 封じ られ た の は 豊後 国 臼杵 で ある か か

春日局は、父が斎藤利三、母が稲葉一鉄の娘。 斎藤利三はの重臣となるが本能寺の変後に捕らえられ処刑される。 春日局は母の父稲葉一鉄の庶長子である稲葉重通(つまり叔父)の養女となる。 この稲葉重通の子で、外祖父の牧村氏を継いだのが牧村利貞であり、その娘がである。 武将として• 稲葉重通は、はじめに馬廻として仕え、1万5000石。 本能寺の変の後、父一鉄や弟らとともに秀吉の家臣となり、馬廻りを務める。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに参加し、その功績で河内国内に知行を加増される。 天正13年(1585年)7月、従五位下・兵庫頭に叙任され、同年8月には一時的ながら姉小路氏滅亡後の飛騨の一国支配を任されている。 天正13年(1585年)、後に享保となる作の刀を磨上げに金象嵌を入れさせている。 後に家康からへと渡り、「」の名で呼ばれることとなる。 天正16年(1588年)に父一鉄が死去するが、家督は嫡男で異母弟の稲葉貞通が継ぐこととなり、庶長子であった重通はこれとは別に美濃清水に1万2000石を与えられ大名となった。 秀吉の晩年には御伽衆となり、慶長3年(1598年)10月3日に死去。 跡を子の稲葉通重が継いだ。 なお異母弟・稲葉貞通の家系は、外様大名稲葉家として代々豊後国臼杵藩を領し明治維新を迎えた。 刀、茶器に「稲葉」の名を冠したものがいくつかある。 稲葉重通:「」• 稲葉道通:「」• 稲葉正勝:「」・「」• 子の稲葉通重は、関ヶ原の戦いでは叔父の稲葉貞通と共にはじめ西軍に属し、後に東軍に寝返った。 そのため、戦後に所領を安堵された。 しかし慶長12年(1607年)12月、天野雄光や津田信成ら数名と京都の祇園で遊んでいたときに、酒乱のために茶屋、後藤などの富商の婦女を強引に茶店に引き入れ酒を飲ます等の乱行を起こしたため、幕命により改易され常陸国筑波に流罪。 清水藩は廃藩となった。 この月伏見にて御家人稻葉甲斐守通重。 津田長門守元勝。 天野周防守雄光。 阿部右京某。 矢部善七某。 澤半左衞門某。 岡田久六某。 大島雲八某。 野間猪之助某。 浮田才壽某等士籍を削らる。 こは京洛の富商後藤并茶屋等が婦女。 祇園北野邊を逍遙せしに行あひ。 ゆくりなくその婦女をおさえ。 しゐて酒肆にいざなひ酒をのましめ。 從者等をばそのあたりの樹木に縛り付刀をぬき。 若聲立ば伐てすてんとおびやかし。 黄昏に皆迯去りたり。 酒肆の者これをみしりてうたへ出ければ。 かく命ぜられしとぞ。 元和4年(1618年)6月、配所の筑波にて死去。 嫡男の稲葉通勝は稲葉正勝の家臣となっている。 「」を所持した。 娘:室• 稲葉一鉄は娘を林政秀の次男の正成に嫁がせて婿とする。 長男・稲葉正次は正室の子であったが、春日局の栄達に従い嫡男の地位は春日局の子・稲葉正勝へと移ってしまう。 のち元和4年(1618年)に徳川秀忠に召し出され5,000石の所領を与えられる。 寛永5年(1628年)、死去。 稲葉正次の嫡男・稲葉正能が僅か3歳であったため、遺領は弟・稲葉正吉( 継々室・与祢の子)が相続するが、正能も後に旗本として召し出され、初の日光奉行を務めるなど活躍し、子孫は旗本として存続した。 この娘が先立ったために、代わりに重通の姪である福(のちの春日局)を嫁がせた。 詳細は「」の項参照• 稲葉本家は稲葉貞通が継ぎ代々豊後国臼杵藩主(外様5万石)となったが、稲葉家としてはこのの系統(正成系稲葉家宗家)が相模小田原藩主~下総佐倉藩主~山城国淀藩主(譜代10万石)として栄えた。 養女:春日局• 父はの重臣斉藤利三。 母は稲葉一鉄の娘、安。 福の父斉藤利三はに従い名を挙げるが、山崎の合戦後近江堅田で捉えられ処刑される。 福は母方の親戚筋にあたる三条西公国に養育された。 天正9年(1581年)9月19日没。 天正11年(1583年)、一鉄は亡妻の三周忌のために歌を詠んでおり、稲葉家譜に記される。 三条西実枝は細川幽斎に返し伝授を誓わせた上で「」を授けた人物。 詳しくは「」を参照。 その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者での家臣である林政秀の次男の後妻となる。 夫正成は、関ヶ原の戦いにおいて平岡頼勝と共に主君を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者となる。 その後福は正成と離婚し、慶長9年(1604年)に2代将軍秀忠の嫡子竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。 江戸城大奥の礎を築いた人物。 寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、上洛して御所への昇殿を図る。 この時に武家の娘では昇殿できないため、三条西公国の息子三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家()の娘となり参内する資格を得る。 福は、「三条西 藤原福子」として同年10月10日後水尾天皇や中宮和子(徳川和子、秀忠の五女)に拝謁し、従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜る。 寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。 よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。 子:牧村利貞(まきむらとしさだ)• 天文15年(1546年)稲葉重通の子として生まれる。 外祖父が牧村政倫であったことから、政倫の跡を継いで牧村氏を名乗り伊勢岩出城主となる。 の死後、に仕えて馬廻となる。 天正12年(1584年)には高山右近の勧めを受けてキリシタンとなっている。 その後小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定にも参加した。 天正18年(1590年)、秀吉より伊勢国内において2万650石を与えられた。 茶道に造詣が深く、の一人でもある。 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役にも舟奉行として参加するが、文禄2年(1593年)7月10日、朝鮮において48歳で病死した。 実子の牛之助は幼少のため、家督は父利貞の弟の稲葉道通が継いだ。 牧村利貞の娘に、おなあ()がいる。 はのち義理の叔母にあたる春日局の導きで大奥に入り、家光に仕える。 のち自身の孫娘であるお振の方を春日局の養女として大奥に入れ、家光の側室とした。 お振の方は寛永14年(1637年)に家光の長女・千代姫(のちに尾張藩主徳川光友の正室)を生んでいる。 関連項目.

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