野村 克也。 野村克也さんが選んだ「昭和〜平成・最強ベストナイン」

「努力に即効性はなし。でも裏切らない」大人の心を打つ野村克也の名言3選|OCEANS オーシャンズウェブ

野村 克也

鶴岡一人(旧姓山本:初代親分)は、 野村を追い出した張本人だから、 (当人が仮に何もいわなくても、おもねる取り巻き立ちが、 「鶴岡は野村が嫌いだ。 」と思っている事を 知っていていて、何もしなかったのだから、同罪) 大沢・野村の関係とはまったく話が違う。 大沢は、鶴岡信者だったから、 鶴岡という「重し」がとれて、多少調子に乗った野村「監督」が ワンマンになった事を 気に入らなかった事は事実だけど、 口で言うほど野村が嫌いだった訳ではない。 元々、人一倍努力し、プロとして一芸を持っている「野球馬鹿」は好きな人だったから。 (一見チャラクく見える新庄をほめていたように) 現役時代も、低めのボール球をホームランしたのを見て、 「あの時ほど野村と一緒にプレーできることを幸せに思ったことはなかった」 といった事のある男だ。 (伝聞なので、多少言い回しは違うかもしれないが) 球界広しといえども、現在の野村克也に、 「ノム」(本人は愛称のつもり)と 「呼び捨て」にできる人は「大沢親分」だけだった。 野村も、煙たくは思っていたかもしれないが、 人間性については、 「大沢の中身を知って嫌いにいる人はいないと思っている」 と評価している。 野村の南海監督時代も、日ハム監督だった大沢とグラウンドであった時、 「大沢はん」と呼んで、先輩としての敬意は払っていた。 by あぶさん) 野村が南海監督時代に、選手以外の裏方にも優しかったように、 野村も大沢も、「情の人」だったことに違いはないから。 野村にとっては、大沢は「口うるさい兄貴」のような存在だったのではないだろうか? (鶴岡が、なかなか自分を認めてくれずに、ひねて反発していた「父親」のような存在だったのと同じように) だから、葬儀には出席するかもしれないが、 今回もコメントはマスコミには出さないと思う。 (多分) 野村克也にとっては、その程度の「浅い」付き合いではないのだから。 少なくとも、30年以上野村克也を見ている俺には、そう思える。 (昭和34年生まれの1パリーグ・ファンより).

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野村克也が名捕手2人を評価。どちらもいいが「古田敦也のほうが上」|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

野村 克也

1935年生まれ。 54年、プロ野球の南海に入団。 70年からは選手兼任監督。 その後、選手としてロッテ、西武に移籍し45歳で現役引退。 ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任。 野球評論家としても活躍。 2020年2月11日、虚血性心不全により死去。 光秀の前半生は史料でうかがい知ることができず、その多くは謎に包まれている。 歴史の表舞台に登場するのは、信長の家臣となる永禄11(1568)年で、光秀41歳のときだった。 若き日の光秀は流浪の日々を過ごし、貧困にあえいでいた時期もあったと聞く。 美濃国の守護・土岐氏の一族と言われる明智氏のもとに生まれたとされるが、それさえも定かではない。 光秀が29歳の頃に美濃国守護代・斎藤義龍の侵攻により明智城が陥落したので、その際に美濃を逃れたという。 美濃国では名門と言われている土岐氏の末裔として高い教養を身につけた光秀は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えたが、将軍・義輝は松永久秀に攻められ闘死してしまう。 主君を失った光秀は浪人となり、各地を転々とした。 『當代記』という歴史書によると、朝夕の食事にも事欠く貧しい生活が何年も続いたというのである。

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野村克也氏が「野球は考えるスポーツ」だと断言するワケ(野村 克也)

野村 克也

データにもとづいた野球理論を駆使し、ヤクルト、阪神、楽天といった弱小球団を優勝に導いた名将・野村克也。 勝利の秘密は、みずから取っていた膨大な「メモ」にあるという。 著書『』は、野村流「メモの極意」を初めて公開した一冊だ。 監督時代、奇策「ギャンブルスタート」で相手チームをあっと言わせた野村氏。 しかし、野村氏は「当たり前の作戦だ」と言う。 一体、どういうことか? 本人に当時を振り返ってもらった。 大切なのは気づきの積み重ね 監督として指揮を執っていた頃、私は突拍子もない奇策を用いて相手チームを驚かせることがたびたびあった。 でも、それは相手から見れば「奇策」だったかもしれないが、私にとっては用いて当然の、至極当たり前の作戦に過ぎなかった。 Photo by iStock 例えば、ヤクルト時代に行なっていた作戦に「ギャンブルスタート」というものがあった。 盗塁する際、普通なら投手の足が上がった時 足を打者方向に踏み出した時 にスタートを切るのがセオリーだが、私たちはそれを無視し、投手が投球動作に入った瞬間にスタートを切った。 いわば「見切り発車」のようなもので、傍から見れば一か八かのまさに「ギャンブルスタート」である。 しかし、この「ギャンブルスタート」がかなりの高確率で成功した。 実は、私たちは事前に投手のクセを見抜き、「この投手は2回、ファーストに視線を送ったら牽制はしてこない」とか「この投手は2球続けて牽制はしてこない」といったデータを収集していた。 つまり、ヤクルトにとっての「ギャンブルスタート」はギャンブルでも何でもなく、データに基づいて成功するための方法を弾き出した「根拠のあるスタート」だったのだ。 他から見れば奇策と思えるような策を多用していたからか、私は常に突拍子もない作戦を使ってくる「策士」と思われていたようだ。 だが、私はその瞬間にひらめいた策を気ままに用いていたわけでは決してない。 みなさんは「ひらめき」といったものはある日突然、パッと思い浮かぶようなものだと思っているかもしれないが、先述した「ギャンブルスタート」にしてもその場で思いついた策ではなく、蓄積されたデータをもとに練られた策である。 ひらめきは、それまでに得た知恵や知識、情報といったものがベースになければ決して生まれてこない発想だ。 監督をしていた頃は、それこそ四六時中、車を運転している時も、風呂に入っている時も、野球のことばかり考えていた。 新たに得た情報、ふと気づいた事柄があれば残さずメモし、ノートにまとめてデータとして蓄積した。 そんな毎日を続けていると、ある時ふと「あ、こんな作戦も使えるな」とか「あの投手はこうやれば攻略できる」といった新たなプランがひらめくのである。 「気分転換をしたら、パッとひらめいた」などということも確かにあるが、「ひらめき」を生む大切な要素は「気分転換」ではなく、「日々の気づきの積み重ね」である。

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