伊勢神宮 世界遺産 なぜ。 世界遺産にしたい場所ランキング| 伊勢神宮に鎌倉、東京タワー……登録されないのには理由があった!?

世界遺産にしたい場所ランキング| 伊勢神宮に鎌倉、東京タワー……登録されないのには理由があった!?

伊勢神宮 世界遺産 なぜ

「伊勢神宮行ってきました~」とたまに土産話しを聞きますが、聞いてみたら内宮だけの参拝だったり、外宮、内宮は行ったけど正宮だけの参拝で別宮は参拝してなっかったり。 みなさん伊勢神宮を普通の神社のような扱いで、1ヶ所参拝すればOKみたいな感じの人が多いのも事実です。 一日の中で参拝に使える時間は人それぞれですので、参拝に絶対こうしなければいけないというものはありません。 神様もそこまで厳しくは見ておられないと思います。 また、近年は御朱印がブームになりTVでも「御朱印集めが趣味です」などど言われるタレントさんも少なからずみえるのも事実です。 しかし御朱印というものは、参拝の証として拝受するものであり、神様、仏様との縁結びの証でもあります。 単なるスタンプコレクションとは異なる事だけは忘れたくないものです。 よく言われるのは「 参拝は気持ちが大切」という事です。 それは間違いではありませんが、正式な参拝方法や順番というものも存在し、その伝統に従って参拝される方も少なからずおみえになりますし、それを知っていても損になる事はありません。 今回は、その伝統的な参拝方法というものや、また御朱印を拝受できる7社の順番、1日で7社を回る方法を考察してみたいと思います。 私自身、そんなに数多く伊勢神宮に行っている訳ではありませんので(今年は二回)、偉そうなことを言うつもりもまったくありません。 軽く聞き流して参拝の参考にでもしていただければ幸いです。 Contents• 伊勢神宮とは? 伊勢神宮はどんな神社かおさらいしてみますので、知ってるよという方は読み飛ばして下さい。 一般的に「お伊勢さん」と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。 内宮は皇室の御祖先であり、太陽神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りし、外宮は天照大御神の衣・食・住のお世話をする為に呼ばれた豊受大御神(とようけのおおみかみ)お祀りしています。 内宮は約2000年、外宮は約1500年の歴史があると言われます。 伊勢神宮は、皇大神宮 こうたいじんぐう 「内宮」と豊受大神宮 とようけだいじんぐう 「外宮」を御正宮 ごしょうぐう として、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があります。 これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。 またすべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされています。 簡単に言うと伊勢神宮は神社の頂点であるのです。 正宮(しょうぐう) 天照大御神(あまてらすおおみかみ)をおまつりする皇大神宮(内宮)と豊受大御神(とようけのおおみかみ)をおまつりする豊受大神宮(外宮)。 20年に1度社殿を建て替える、俗に「神様のお引越し」と言われる式年遷宮 しきねんせんぐう が行われる。 別宮(べつぐう) 正宮の「わけみや」という意味があり、正宮にとりわけ関わりの深い神をまつる格の高いお宮です。 皇大神宮に10所、豊受大神宮に4所の別宮があり、式年遷宮も正宮につづいて行われる。 摂社(せっしゃ) 延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう・927年)に所載されている神社。 皇大神宮に27社、豊受大神宮に16社の摂社。 末社(まっしゃ) 延喜式神名帳には載せられていないが、延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう・804年)に記載されている神社。 皇大神宮に16社、豊受大神宮に8社の末社。 所管社(しょかんしゃ) 御正宮や別宮に直接かかわりがあり、井戸や酒、米、塩、麻、絹など衣食住をつかさどる神々が多く祭られており、皇大神宮に30社、豊受大神宮に4社、別宮の瀧原宮に3社・伊雑宮に5社の所管社。 正宮 別宮 摂社 末社 所管社 別宮所管社 計 皇大神宮 1 10 27 16 30 8 92 豊受大神宮 1 4 16 8 4 33 計 2 14 43 24 34 8 125 神宮125社を回る「お伊勢さん125社まいり」はを参考にして下さい。 125社めぐりは旅行会社のツアーなどもありますが、12コースほどあり日数もお金もかかるものです。 個人で回るなら公共交通機関では行きにくい場所もあり自家用車で回るのがベストと思われます。 はなはなもいつかは125社回りを行って、二千人の悠久の時の流れを感じながら125社の神々様に感謝をお伝えしたいです。 正宮・別宮の所在地と御朱印7社 伊勢神宮の御朱印は外宮・内宮の2社の 他、別宮14社のうちの5社の計7社になります。 住所並びに御朱印の授かれるお社一覧 豊受大神宮(外宮)三重県伊勢市豊川町279 (御朱印) 外宮の別宮• 多賀宮 たかのみや 宮域内• 土宮 つちのみや 宮域内• 風宮 かぜのみや 宮域内• 月夜見宮 つきよみのみや 伊勢市宮後1-3-19 (御朱印) 皇大神宮(内宮)伊勢市宇治館町1 (御朱印) 内宮の別宮• 荒祭宮 あらまつりのみや 宮域内• 風日祈宮 かざひのみのみや 宮域内 倭姫宮 やまとひめのみや 伊勢市楠部町5 (御朱印) 月読宮 つきよみのみや 伊勢市中村町742-1 (御朱印)• 月読荒御魂宮 つきよみのあらみたまのみや 同上宮域内• 伊佐奈岐宮 いざなぎのみや 同上宮域内• 伊佐奈弥宮 いざなみのみや 同上宮域内 瀧原宮 たきはらのみや 度会郡大紀町872 (御朱印)• 瀧原竝宮 たきはらならびのみや 同上宮域内 伊雑宮 いざわのみや 志摩市磯部町上之郷374 (御朱印) 御朱印7体を1日で授かる順番(自動車限定) 基本的なルール 伊勢神宮で執り行われている様々な行事は「外宮先祭」と言われ外宮から内宮の順序で行われています。 お伊勢参りは外宮からというのは多くの方が知っていると思います。 また外宮・内宮は参拝者が多いので御朱印待ちの列が出来ます。 内宮をいかに早く回るかで後々の余裕が生まれます。 外宮と内宮には宮域内別宮があり厳密には順番があるのですが、それぞれの正宮を先に回れば問題はないでしょう。 気にされる方は各記事をお読み下さい。 それでも内宮の正宮前に内宮の別宮の倭姫宮と月讀宮を回っているので、1時間ほど内宮に行くのが遅くなり駐車場確保の問題が出てきます。 伊雑宮、瀧原宮は伊勢市外にあり時間がかかります。 伊雑宮は伊勢からも本数が多く電車でいけますが、瀧原宮を電車で行くには伊勢から熊野・新宮方面に乗ります。 これが問題で2時間に1本くらいの本数しかないのです。 仮に行けたとしても17時ぎりぎりだと帰って来れなくなる可能性があるのです。 早朝から公共交通機関を使って1日で7社回られた人もいるようですが、スタンプラリーのようでとても参拝といえる状態ではありませんでした。 以上のような理由と車社会の三重県でありますので、伊勢神宮7社参りは自動車を推奨します。 1日のタイムスケジュール 管理人が様々な要素を考慮しベストな順番を組みました。 朝8:30に外宮の駐車場に到着するとして日程を組んでみました。 各参拝時間が多めに取ってあるのはこのくらい時間をかけて回って欲しいという管理人の思いと、御朱印待ちの時間を考慮したものです。 回るとわかるのですが、内宮に70分とってあるのは駐車場の位置によっては内宮の入口である宇治橋まで結構歩くからです。 実際は90分は欲しいところです。 もっと余裕を持ちたい方は外宮のスタート時間を朝8:00にしたほうがいいでしょう。 10、11、12月は授与所が17時迄なので気をつけましょう。 昼食タイムまでの5社はすべて伊勢市内で近くにあるので、要領よく回ればこのスケジュールより早く回れるでしょう。 おかげ横丁での散策タイムがまったく予定に入れていないので、御朱印の為のスケジュールと割り切って下さい。 もし内宮までが早めに終われば、多少はおかげ横丁を回る時間があるかも知れません。 ただし、飲食店は混雑しますのでお昼代わりの食べ歩きがベストです。 おかげ横丁で1~2時間の散策と昼食を取る方がいいなら始めから1泊2日の予定を立てた方が、二見興玉神社や猿田彦神社も回れて満足度が高いです。 営業時間 11時~19時15分 まんぷく食堂(板橋食堂) 何を食べてもボリューム満点、その名の通り満腹に 〒517-0209 三重県志摩市磯部町恵利原240 電話 0599-55-1047 営業時間 8時~19時 スポンサーリンク 伝統を考慮した参拝ルート(一泊二日) お伊勢参りに行く前には二見浦で禊(みそぎ)をするならわしがありますので、一泊二日の満足度の高いスケジュールを組んでみました。 時間的には余裕がありますのでお昼、宿泊地に関してはお好きなところでと言った感じです。 せんぐう館 外宮宮域内のまがたま池にあります。 式年遷宮の資料館で、1Fはガラス張りでベンチが置かれてあるスペースがあり、まがたま池を眺めながら休憩が出来ます。 残念ながら平成29年10月の台風21号による 浸水被害があり、復旧工事のため現在休館中です。 おはらい町 宇治橋から五十鈴川沿いに続く約800mの石畳の通りで、道の両側を食事処からグルメ・お土産など魅力あふれるお店が軒を連ねます。 レトロ感あふれる参道は、いにしえよりお伊勢参りにあまたの人々が歩いて来た道かと思うと、感無量にならざるおえません。 宇治橋近くにある赤福本店はあまりにも有名です。 おかげ横丁 おかげ横丁は、おはらい町を歩いていると中ほどに石の招き猫。 平成5年の式年遷宮に合わせて赤福主導で観光地として開発され「おかげ横丁」と名付けました。 伊勢路の古き良き時代の街並みが再現されており、おはらい町との境が無いために自然の人流れができています。 伊勢志摩の特産物や老舗の味、様々なお土産を扱う店を中心に約45店が営業しています。 賑やかな街並みに中に所々に座れる場所が用意されており、座って食べるのも、食べ歩きも楽しい時間が流れます。 倭姫宮の目の前にありますので見学すれば伊勢神宮の知識がつき、参拝時に自分の価値観、世界観が変わるかも知れません。 天の岩戸 住所 〒517-0209 三重県志摩市磯部町恵利原 駐車場 普通車22台 無料 名水100選にも選ばれている水が流れており、ペットボトルやポリタンクで汲みに来る方もいます。 駐車場までの道幅が狭いので対向車に注意。 倭姫宮から伊雑宮に行くルート上にあります。 伊雑宮に行った後でも立ち寄れますので時間との相談でそうぞ。 まとめ 伊勢神宮の御朱印情報をお伝えしましたが、いかがでした?少しでも参考になればうれしいです。 最後に気になった事をまとめてみました。 7社参りとは私が作った言葉であり、絶対1日で回らなければならないというものではない。 御朱印7社の回り方は、私ならこう回るというものです。 人によって使える時間は様々ですので。 何日かに分けてもOK。 参拝は気持ちが大切、順番などこだわりだしたらきりがありませんので自分の回りやすい方法でいい。 しかし、知っているのと知らないでは大きな違いがあるので知識として押さえておいた方がいい。 外宮・内宮は参拝者が多いので御朱印の待ち時間が発生する。 特に内宮は一番参拝時間がかかる。 内宮は樹齢うん百年の樹々に囲まれ、夏でもひんやりした独特の空気感がある。 二千年の歴史を感じられる内宮は凄い。 瀧原宮は内宮の様な神々しいたたずまいがあり、伊勢から遠いので人も少ない。 早朝の内宮のような感じを体験でき管理人一押し。 内宮・おはらい町・おかげ横丁など歩く時間も多いのでスマホのバッテリー切れに注意。 二見興玉神社が気になったらを参照。

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なぜ日光東照宮は幕末の戦禍を免れ、世界遺産となったのか?

伊勢神宮 世界遺産 なぜ

PHP文庫『』より 日光東照宮は誰が守ってきたのか 武田と北条の旧臣による見回り 「日光を見ずして結構というなかれ」ということわざがある。 日光東照宮のすばらしい建物を実際に見たこともないくせに、「結構」という言葉を軽々しく使ってはいけないという意味で、東照宮をたたえる語句である。 金と白と黒を基調とした極彩色の建物群は、確かに「結構」というほかに表現のしようがない。 この壮麗な建物群は、将軍家光の命令で寛永11年(1634)から建設がはじまった。 それ以前の建物は父親の秀忠がつくらせたものであったが、わずか20年で取り壊されることになった。 ちょうど家康の21回忌にあたっていることから、伊勢神宮の式年遷宮を意識したのではないかといわれている。 東照宮の造営奉行には秋元泰朝が任じられたが、高藤晴俊日光東照宮禰宜によれば、1年5カ月の工期において延べ650万人(1日平均 13000人)が動員され、総工費は少なくとも約2000億円はくだらなかったという(『日光東照宮の謎』講談社現代新書)。 いずれにせよ、日光東照宮の文化的価値は大いに評価され、1999年、世界遺産に登録された。 だが、世界遺産に登録されるのを当たり前だと思ってはいけない。 雷や火事、暴風雨などの災害から、この建物群を200年以上にわたって大切に守ってきた人々がいたからこそ、世界に誇る日本の文化財となったのである。 東照宮を守ってきたのは、八王子千人同心である。 その名のとおり、1000人の武士団である。 彼らのほとんどは、滅亡した甲斐の武田氏や小田原北条氏の旧臣で、徳川家に再雇用され、八王子宿(東京都八王子市)の千人町を中心に武蔵国多摩郡(武州多摩)に配置された。 千人同心は幕府の直臣でありながら、半農半士の生活を送るきわめて珍しい人々であった。 当初は、豊臣秀吉に対する抑えとして、千人同心は甲斐と武蔵の境に置かれ、甲州道中が貫通する八王子の防備をまかされた。 でも、豊臣家が滅亡すると、国境警備の必要性は薄れてしまう。 それにともなって千人同心の地位も低下する。 たとえば八王子宿の名主たちは「宗門人別帳(現在の戸籍台帳のようなもの)は農民のためのものだから、千人同心も苗字を書かないでもらいたい」と要求している。 千人同心は反発したが、最終的に幕府は「公務以外は農民である」と裁定し、同心の人別帳への苗字記載を禁じたのである。 四代将軍家綱の時代、八王子千人同心の任務は、国境防備から日光東照宮を火事などの災害から守る仕事になった。 これを火の番と呼んだが、この仕事が始まったのは慶安5年(1652)からであった。 当初は100名、50日交替で火の番をしていたが、その後、45名の半年交代というのが定番となった。 千人頭(千人同心のリーダーの1人)は、出発の半月前までに上役の槍奉行に当番の同心たちの名簿を提出し、そのうえで江戸で老中と面会して「朱印」と「伝馬証文」を受け取った。 その後、千人頭は八王子へ戻って当番の同心たちに公務についての諸注意をあたえた。 出立の日は、きちんと隊列を組んで八王子を出、松山、佐野を経て日光へと赴いた。 通常、八王子から日光までの行程は39里30町。 3泊4日で現地に到着する。 ただ道中では千人頭に伝馬2疋、同心45名にはあわせて7疋しか馬の使用が許されなかった。 たったこれだけでは、半年間使用する46人分の荷物は到底運べない。 このため、みんなでお金を出しあって不足する人馬をやとったのである。 火の番の担当になると、同心1人につき、三人扶持の役料が与えられた。 でも出張中はやはり出費がかさんでしまい、役料だけでは生活費が足りなかったようだ。 何とも割の合わない仕事だが、役得もある。 徳川家康の霊廟をまもるという大役なので、道中で大名行列とかち合ったとき、大名のほうが道を譲ることになっていた。 じっさい、加賀藩や館林藩の大名行列が千人同心と街道でであったとき、千人同心たちのほうを先に通したという記録が残っている。 いつも単なる農民として多摩地方で冷遇されている千人同心にとって、自分たちが幕府の御家人であることを実感できる瞬間だったに違いない。 日光に着いた千人同心たちは日光の宿に入り、翌朝から火事羽織を身に着けて御役宅へ出勤することになる。 このおり、火事道具目録や日記帳を受け取り、在勤の千人頭へ交代の挨拶をすませて火消小屋へ入り、いよいよ半年間の火の番がはじまる。 平日の見回りは、朝四ッ時と八ッ時の2回おこなうことになっている。 千人頭が組頭(一般同心のリーダー)1名と同心4名を連れ、あらかじめ決められた道を巡回していく。 また、東照宮や輪王寺の境内だけでなく、日光宿も同心たちが火の用心に見回った。 こうした八王子千人同心たちの働きが200年以上続いたことで、私たちは今でも世界遺産に登録されたすばらしい日光東照宮の建物を目にすることができるわけだ。 河合 敦 (かわい・あつし) 作家、歴史家 1965年、東京都生まれ。 早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。 1989年、日本史の教諭として東京都に採用され、2004年より都立白? 高等学校・附属中学校に着任。 2013年、東京都を退職。 現在、文教大学付属中学校・高等学校教諭、早稲田大学教育学部講師。 教壇に立つ傍ら、歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。 「世界一受けたい授業」(日本テレビ)など、テレビ出演も多数。 主な著書に、『早わかり日本史』『早わかり江戸時代』(以上、日本実業出版社)、『岩崎弥太郎と三菱四代』(幻冬舎新書)、『読めばすっきり! よくわかる日本史』(角川SSC新書)、『目からウロコの日本史』『目からウロコの近現代史』(以上、PHPエディターズ・グループ)、監修に『日本一わかりやすい図解日本史』(PHPエディターズ・グループ)などがある。 戦国時代の誤解が吹き飛ぶ一冊。 『戦国合戦・15のウラ物語』を改題。

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伊勢神宮はなぜ世界遺産登録をしないのか?…その納得の理由に「なるほど!!」の声

伊勢神宮 世界遺産 なぜ

伊勢神宮とは何か? 伊勢神宮の概要は? 伊勢神宮、別名「大神宮さん」 三重県伊勢市にある伊勢神宮。 正式名称は単に「神宮」なのですが、他の神宮と区別するために伊勢神宮という呼び方が定着しています。 また親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」と称されることもありますが、全国に約8万箇所ある神社の総本社に当たります。 全国的にも有名な観光スポットになっている伊勢神宮ですが、本来は皇室や朝廷との関係が強く、天皇や内閣総理大臣といった権威者が参拝することが慣習になっていますね。 伊勢神宮の祭神は? 伊勢神宮が祀っている主祭神はの神「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」と衣食住の神「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」。 まず内宮(ないくう)に祀られていて国民にとっての総氏神である「天照坐皇大御神」は、捉えようにもよりますが日本で一番偉い神様と言っても過言ではありません。 「天岩戸の神隠れ」の神話でも有名で、縮めて「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」という呼ばれ方が一般的ですね。 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 続いて外宮(げくう)に祀られている「豊受大御神」は「トヨウケビメ」とも呼ばれますが、もともとは丹波国の神様。 それが伊勢神宮に祀られるようになった理由は内宮の天照大御神です。 伊勢神宮外宮の社伝によると、雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れ、自分一人では安らかに食事が取れないので、そのお供として丹波国与謝郡から豊受大御神を呼び寄せるよう神託を授けたそうです。 伊勢神宮の誕生は? 崇神天皇 伊勢神宮が誕生するきっかけとなったのは、実在した可能性がある最初の天皇である崇神天皇(すじんてんのう)の時代にまで遡ります。 崇神天皇5年(紀元前93年)、疫病が流行して人口の半分ほどが失われました。 当時宮中では天照大御神と倭大国魂(やまとのおおくにたまのかみ)を祀っていたのですが、疫病がその二神の祟りだと考えた崇神天皇はそれぞれを宮の外へ出すことにします。 天照大御神は皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託され、現在の奈良県桜井市にあたる笠縫邑(かさぬいむら)に祀られることに。 その後、疫病は無事鎮まります。 そして数十年が経ち、天皇は次の垂仁天皇(すいにんてんのう)に。 その頃ずっと神事を担当してきた豊鍬入姫命の後を倭姫命(やまとひめのみこと)が引き継ぐことになります。 垂仁天皇(すいにんてんのう) 『日本書紀』によると垂仁天皇25年(紀元前5年)、倭姫命は永遠に天照大御神を祀るにふさわしい場所を求めて現在の東海地方各地を漫遊。 最終的にたどり着いた場所こそが伊勢でした。 海の幸・山の幸に恵まれたその地を天照大御神はたいそう気に入り、伊勢神宮の内宮となります。 そして外宮に豊受大御神が鎮座されたのはそれから約500年後の雄略天皇22年(478年)。 理由は上記した通り、天照大御神の安らかな食事のためです。 伊勢神宮で行われる式年遷宮とは? 式年遷宮(しきねんせんぐう) 最近では2013年に行われた式年遷宮。 こちらは原則20年に一度行われますが、内宮・外宮という二つの正宮(しょうぐう)、そして14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す行事のことです。 建築物の他に衣服や宝物も制作されるのですが、それにかかる費用は膨大な額。 しかし実はそれが制定された時代には既に現在まで建物を保存できるほどの建築技術が確立されていました。 古くからの慣習となった式年遷宮 事実、現存する世界最古の木造建築物群である法隆寺が建築されたのはそれ以前なのですが、なぜそれにも関わらず式年遷宮を定期的に行う道が選ばれたのかは不明。 推測されている理由は以下のものです。 過去の建築様式を保存するため• 神道の精神として、常に新しく清潔な状態を維持するため• 毎年行われる新嘗祭に対して、20年に一度行われる大神嘗祭とするため• 恒久的な藤原京の建設にあたり、それ以前までの遷移の意義を託すために遷宮が開始されたため ちなみに残っている記録によると、式年遷宮を開始したのは天武天皇。 現代までの途中、南北朝時代に120年以上中断されていた時期がありますが、持統天皇4年(690年)の第1回以降、1300年以上続く伝統行事となっています。 伊勢神宮の正しい参拝方法は? お伊勢参り 伊勢神宮の参拝、いわゆる「お伊勢参り」「お蔭参り」は最初に外宮、次に内宮を回るのが昔からの習わし。 時間などの都合で内宮のみ参拝していく観光客も多いですが、外宮から内宮まではバスか車で15分ほどで移動できるので、可能であればぜひ外宮からお参りすることをおすすめします。 お参りに要するおおよその時間は外宮が30分前後、内宮が60分前後といったところです。 もちろん歩くペースにもよりますが、じっくりとその場その場を堪能しながらお参りしていればそのくらいはかかります。 そして外宮には火除橋、内宮には宇治橋という橋がそれぞれの入り口にかかっているのですが、鳥居の前でまず一礼し、外宮は左側通行、内宮は右側通行で進みましょう。 中央は神様が通る道とされているからです。 道中にある手水舎で手や口を清めるのですが、内宮の場合はご正宮の手前から五十鈴川に降りられる通路があります。 眺めも良く、清らかな気分に浸れるので、ぜひそばまで寄ってみてください。 伊勢神宮ならではの決まりごとには注意 そしていよいよご正宮ですが、以下の三つの注意事項があります。 個人的なお願い事をしてはいけない• お賽銭を投げてはいけない• 写真撮影をしてはいけない なぜなのかというと、伊勢神宮は本来「私幣禁断」。 つまり天皇以外の参拝は許されておらず、一般人が個人的なお願いをする場所ではないからです。 よく見るとお賽銭箱もないのですが、そうはいってもお賽銭を投げる人が後を絶たないため、ご正宮の敷地内には聖域を守るために白い布が敷かれています。 またご神前は「心静かにお参りをするためだけの場所」であり、あまり騒がずに参拝するのがマナー。 写真撮影も禁止されているので、外宮では板垣の外、内宮では石段の下で撮影するようにしましょう。 伊勢神宮の神宮125社とは? 一般的に伊勢神宮というと正宮である内宮と外宮の二つを指しますが、広義では以下のものも含みます。 別宮 外宮 多賀宮• 別宮(べつぐう)…「正宮のわけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次いで尊いとされる神社• 摂社(せっしゃ)… 正宮・別宮を除いた、『延喜式神名帳』に記載されている神社• 末社(まっしゃ)… 正宮・別宮・摂社を除いた、『延暦儀式帳』に記載されている神社• 所管社(しょかんしゃ)…それ以外の神社 内訳は別宮14、摂社43、末社24、所管社42、それらに内宮・外宮の二つを加えて合計125社になりますが、それらを総じて「神宮125社」と呼び、伊勢市以外にも三重県内の4市2郡に分布しています。 そのため全てを回ろうとするときりがありませんが、時間に余裕があればいくつかの別宮くらいには足を伸ばしてみるのもおすすめです。 例えば内宮の境内には荒祭宮(あらまつりのみや)、外宮の境内には多賀宮(たかのみや)という別宮がそれぞれあり、そこでなら個人的なお願いをしてもいいとされています。 伊勢神宮にはおみくじがない? 伊勢神宮にはおみくじがない ちなみに伊勢神宮はおみくじがないことでも有名ですが、なぜ全国に数多くある神社の総本社である伊勢神宮におみくじがないのかというと、それは吉凶を占う場所ではないとされているからです。 十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』でも語られていますが、江戸時代にはお伊勢参りが全国的に大流行。 しかし当時に車や電車などあるわけもなく、老若男女問わず、ほとんどの人は遠方からでも徒歩で伊勢神宮を目指しました。 当然時間やお金も必要ですし、時には道中に命を落としてしまった人も決して少なくないはずです。 しかし総氏神の天照大御神が祀られている伊勢神宮とは、それほどまでの苦労をしてでも人生に一度は訪れてみたい夢のような場所。 また参拝の後はおかげ横丁で赤福・伊勢うどん・海産物などを楽しむこともお伊勢参りの醍醐味なので、歩き疲れた足を休めながらご当地グルメも楽しみましょう。 伊勢神宮の年表を簡単にまとめると? 伊勢神宮の年表を具体的にまとめると? BC5年「伊勢神宮の内宮に鎮座」 全国に疫病が蔓延 大きな被害をもたらした疫病の蔓延 伊勢神宮誕生となったきっかけは崇神天皇5年、西暦に直すと紀元前5年なので今から2000年以上前のことになりますが、この頃全国的に疫病が蔓延。 記録によると人口は実に半数にまで減少してしまったとあります。 当時皇居では天照大御神と倭大国魂神の二神を祀っていたのですが、崇神天皇はこれは恐れ多い行為であり、疫病はその祟りだと考えました。 天照大御神を豊鍬入姫命に託す 崇神天皇 崇神天皇は疫病を鎮めるために天照大御神と倭大国魂神をそれぞれ皇居の外に出すことを決心。 天照大御神の分身とも言える八咫鏡(やたのかがみ)を皇女の豊鍬入姫命に託します。 豊鍬入姫命は八咫鏡を笠縫邑(現・奈良県桜井市)に祀ると、疫病は無事収まりました。 ちなみに倭大国魂神は長岡岬(新潟県長岡市)に祀られることに。 同じく皇女の渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)に託されたのですが、髪は抜け落ち、身体は痩せ細り、祀ることができなかったそうです。 天照大御神が内宮に鎮座する そして天皇は次の垂仁天皇に交代。 紀元前5年には天照大御神は豊鍬入姫命から倭姫命に引き継がれたのですが、『日本書紀』には以下のように記録されています。 「倭姫命、菟田の篠幡に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。 」 天照大御神を永久に祀るにふさわしい場所を求めて旅に出ることになった倭姫命は、大和国を出発して伊賀・近江・美濃・尾張と東海地方の様々な場所を漫遊。 移動中、天照大御神が一時的に祀られていた場所は元伊勢と呼ばれます。 天照大御神(あまてらすおおみかみ) そうしてついに伊勢に到着しますが、暖かい気候、そして海や山の幸に恵まれたその地を見た天照大御神は倭姫命に「ここに永住したい」と告げたそうです。 そうして天照大御神は伊勢に祀られ、伊勢神宮内宮の誕生。 ちなみに内宮のすぐそばに流れている五十鈴川(いすずがわ)は別名御裳濯川(みもすそがわ)とも呼ばれますが、その由来は倭姫命がこの川で衣服を濯いだからだそうです。 478年「伊勢神宮の外宮に鎮座」 豊受大御神が外宮に鎮座する 伊勢神宮 外宮 内宮誕生から約500年後、478年には豊受大御神が外宮に鎮座されます。 豊受大御神はもともと丹波国(京都府・兵庫県・大阪府にかかる地域)に祀られていて、衣食住を司る神様なのですが、この年に丹波国から伊勢に遷座されたことが外宮誕生のきっかけとなりました。 また伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』によると、遷座された理由は天照大御神が雄略天皇の夢に現れて以下のように告げたからだそうです。 「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」 等由気太神が豊受大御神のことを指すのですが、つまり天照大御神が自分の食事を安定させるために豊受大御神を呼び寄せさせたということ。 そのため外宮では鎮座から約1500年間、天照大御神にお食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が毎日朝夕の二回、欠かさず行われています。 690年「第1回式年遷宮が行われる」 天武天皇が式年遷宮を制定する 天武天皇 外宮誕生から約200年後となる685年、天武天皇が式年遷宮を制定します。 上で説明した通り、こちらは20年ごとに伊勢神宮などの建築物などを造り直す行事ですが、毎回膨大な国費が投じられる神宮最大のお祭りです。 しかしなぜ20年ごとに行われるのか、正確な理由は明らかになっていません。 ただそれにより古くからの建築物や宝物を現在でも変わらず綺麗な形で残せているのは確かで、神・人・国家の永遠を目指したと考えられています。 持統天皇が第1回式年遷宮を実施する 制定から5年後、690年には持統天皇がついに第1回式年遷宮を実施します。 ただしその年に完了したわけではなく、690年に内宮、692年に外宮の式年遷宮と分けて行われました。 1467年「応仁の乱により式年遷宮が中断」 応仁の乱が勃発 応仁の乱の勃発 しばらく経って1463年には第40回式年遷宮が行われたのですが、その頃世は戦国時代。 1467年には応仁の乱が勃発します。 それが原因で朝廷は深刻な資金不足に陥ってしまい、式年遷宮の中断をせざるをえない状況に。 第40回式年遷宮を最後に120年以上行われることはありませんでした。 1585年「式年遷宮が復活」 織田信長が伊勢神宮に参拝 織田信長は信仰心が厚い人物だった 長期間に渡り中断されていた式年遷宮を復活させたのはかの有名な戦国武将・織田信長でした。 我々が持つ織田信長のイメージからは少し想像しにくいかもしれませんが、実は信仰心が厚い人物なんです。 1569年には実際に伊勢神宮に参拝したこともあるのですが、戦国時代において経済難に瀕していた伊勢神宮に3000貫文(現・3億円相当)の募金を行なっています。 1582年の本能寺の変で亡くなってしまいましたが、豊臣秀吉がその後を継いで、1585年には約120年ぶりに式年遷宮が復活することになりました。 1650年「江戸時代にお蔭参りが大流行」 慶安のお蔭参り 「伊勢参宮・宮川の渡し」 式年遷宮も復活した伊勢神宮ですが、江戸時代に入るとお蔭参りが大流行します。 1650年の「慶安のお蔭参り」についてはほとんど記録が残っていないようなのですが、『寛明日記』によると流行らせたのは江戸の商人。 復活したとはいえまだまだ資金難の伊勢神宮を立て直すため、衣食住を司る豊受大御神を農民に布教して参拝するよう広めたんだとか。 資料が少ないためこの年の参拝者数はわかっていないのですが、正月下旬〜3月上旬までで平均500〜600人、3月中旬〜5月までで平均2100人が1日に訪れたそうです。 宝永のお蔭参り 1705年の「宝永のお陰参り」ではお蔭参りの流行がいよいよ本格化します。 この流行は主に京都で発生したそうなのですが、2ヶ月間に330万~370万人が参拝しました。 本居宣長の『玉勝間』によると4月上旬から1日に2,000〜3,000人が松阪を通り、最高で1日23万人が通ったとの記録があります。 明和のお蔭参り 現代以上に参拝客でごったがえしていた 1771年の「明和のお蔭参り」は宇治から女性や子供たちの集団が仕事場や家族に無断で参拝してきたことが始まりとされていますが、それが由来でお蔭参りは「抜け参り」とも呼ばれています。 また当時松坂では道路を横切ることすら難しいほどの参拝者がいたそうです。 参拝者の数は実に200万人に登ったらしいのですが、この時の特徴は街道沿いの富豪たちが通行人に施しをしていたこと。 もちろんそれは宗教的な考えによるものらしいのですが、徐々にお金目的で参拝に来る人も増加したそうです。 文政のお蔭参り そして江戸時代最後のブームは1830年の「文政のお蔭参り」。 流行が発生した範囲は以前より狭かったらしいのですが、参拝者の数は427万と逆に増えていました。 この時は手や口を清める時に使うひしゃくを持ち込んでは外宮の北門に置いていくという行為が流行ったそうなのですが、その理由は不明。 また流行発生源である阿波の風習が広まったとも言われています。 ちなみに歴史の教科書にも載っていた「ええじゃないか」はお蔭参りには含まれないのですが、それによる影響を受けて発生した騒動なんだそうです。 1869年「明治天皇が参拝」 明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した 明治天皇 1869年に明治天皇が伊勢神宮に参拝したのですが、実は在位中の天皇が参拝するのはこれが初。 意外にもそれ以前にはなかったことでした。 決定的な理由は明らかになっていないものの、以下の諸説が有力だとされています。 疫病を引き起こした天照大御神を恐れている• 単純に交通費・旅費が不足していた 1949年「第59回式年遷宮が延期される」 占領政策の影響で第59回式年遷宮が延期に 第59回内宮式年遷宮 1945年に日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦の敗戦国になりましたが、その後の占領政策の影響で第59回式年遷宮は延期せざるをえない状況でした。 本来であれば1949年に実施されるはずだったのですが、当時は内宮の宇治橋のみ架け替えられ、その他は4年後の1953年に行われました。 1959年「伊勢湾台風により甚大な被害を受ける」 伊勢湾台風により倒木などの被害 広範囲に被害を及ぼした伊勢湾台風 1959年には歴史に残るほどの大災害である伊勢湾台風が発生しました。 室戸台風・枕崎台風と合わせて昭和の三大台風と称されていますが、伊勢湾台風はその中で最も被害が大きかった台風です。 特に影響を受けたのは三重県と愛知県ですが、それ以外にも被害は全国的なもので、阪神・淡路大震災の数倍、そして関東大震災に匹敵する経済的ダメージがありました。 当時の犠牲者は3,000人以上と言われていて、伊勢神宮では内宮・外宮共に倒木などの被害に遭ったそうです。 2013年「第62回式年遷宮が行われる」 550億円をかけて第62回式年遷宮が執行される 現在までに行われた式年遷宮で最新のものは2013年の第62回式年遷宮です。 2005年から徐々に各行事が始まっていたのですが、その時かかった費用の総額はなんと550億円。 そのうち330億円は伊勢神宮の自己負担で、残りの220億円は寄付により賄われました。 2016年「伊勢志摩サミットが開催される」 G7首脳が内宮に参拝 伊勢志摩サミット そして伊勢といえば2016年に開催された伊勢志摩サミットもまだ記憶に新しいと思います。 正式名称は第42回先進国首脳会議で、伊勢市の隣にある志摩市阿児町神明賢島で開かれることになります。 その場所が選ばれた理由には三重県警察が伊勢神宮に参拝する要人の警護に慣れているということも含まれていて、実際にG7首脳が内宮に参拝しました。 最後に いかがでしたか?この記事では伊勢神宮の長い歴史を誕生のきっかけから振り返ってみました。 私自身、伊勢神宮は地元の近くにあるので毎年初詣に行くのですが、やはり何度訪れても素敵な場所だと思います。 そして参拝の後におかげ横丁で食べ歩きをするのも楽しみで、それもまたお伊勢参りの醍醐味だと言えるでしょう。 この記事でもし伊勢神宮に魅力を感じたら、ぜひ一度足を運んでみてください!.

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