空海 宗派。 真言宗

最澄と空海のよる新しい仏教の時代

空海 宗派

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空海 宗派

密教 読み方: みっきょう 意味:大日如来が説いた深遠な秘密の教え。 密教系の宗派には「真言宗」と「天台宗」がある。 仏教のスタイルに「顕教(けんぎょう)」と「密教」があります。 「顕教」は、広く大衆に向かって世界観を語り、明瞭な言葉で仏教の教えを説くスタイルをとっています。 「密教」はその反対で、信者だけが非公開な教団内で修行を行い、神秘主義的、象徴主義的な教義が中心になっています。 「密教」では、真理そのものの現れとしての「大日如来」の究極の教えが、師から弟子へ厳格なルールで伝えられます。 2.密教思想の基礎 「密教」は、「顕教」を批判する観点から生まれました。 言葉や書物で表し得る「顕教」には本当の真理はない、という考え方です。 本当の真理は、お釈迦からじかに教えを受けた弟子たちから連綿と受け継がれた「何か」であり、それを修行によって獲得するとされています。• 2-1.二つの密教 「密教」は、9世紀に最澄と空海によって日本に伝えられました。 最澄と空海は、ほぼ同時期に中国へ渡っていますが、空海は約2年、最澄は数ヶ月と、滞在期間も、持ち帰ったものも異なりました。 空海が体系化した「密教」を真言密教、最澄とその弟子たちが体系化した「密教」を天台密教といいます。 真言密教 空海が開いた「密教」の宗派は「真言宗」といいます。 この 「真言」というのは、お釈迦様の真実の言葉という意味です。 「真言」は、漢文や中国語に訳していない言葉で、もともとのインド語やサンスクリット語そのままの言葉です。 「真言宗」の呪文のようなお経は、お釈迦様の本当の言葉とされています。 天台密教 最澄が中国から伝えた天台宗の一部には、「密教」の教えが含まれていました。 「天台密教」は、最澄の弟子たちが、天台宗に「真言密教」を取り入れた形で体系化し、比叡山を中心に発展しました。 「真言密教」が秘密主義であるのに対して、「天台密教」は比較的オープンです。 「真言密教」が師から弟子に教えが伝えられ、師につかないと悟りを開くことが出来ないとするのに対し、 「天台密教」では、自らの信仰によって悟りを得られるとしています。 2-2.密教の教え 「密教」の教えの中で、重要なキーワードは、 「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」と 「曼荼羅(まんだら)」です。 この二つを理解すれば、「密教」が何であるか、かなり理解が進みます。 即身成仏(そくしんじょうぶつ) 「密教」と「顕教」の決定的な違いは「即身成仏」という考え方です。 「顕教」では、「悟り」を開いてするためには、永遠の時間が必要とされていますが、「密教」では、老若男女だれでも、修行によってこの世で「悟り」を開き成仏できると説きます。 「悟り」や「成仏」というと、我々には縁遠いことのように思われがちですが、今日では、「悟り」は「最高に幸せなこと」と解釈されています。 「成仏」も死ぬことではなく、「何者にも依存しない、何にもわずらわされることのない、安穏(あんのん)な境地のこと」と捉えられています。 つまり、 「即身成仏」とは、「自分が今本当に幸せであるように生きること」と解釈できます。 曼荼羅(まんだら) 「曼荼羅」は「悟り」の境地を絵柄で示したもので、仏様や菩薩などが模様のように描かれています。 「曼荼羅」では、409体の仏様や菩薩などが、グループ別に12区画に分けて描かれ、中心には大日如来が鎮座しています。 「密教」において、大日如来は全ての中心であり、スタートですから当然です。 大日如来が座る中心付近には大きな蓮の花が描かれています。 これは、人は誰でも仏になりうる存在で、迷いの心をかき消せば、「悟り」を求める心が花開くということを表しています。 今日、「曼荼羅」は図柄としても評価され、曼荼羅アートとして、魔方陣のようなデザイン画が様々なシーンで見られます。• 3.スーパーマン「空海」 「真言密教」をひらいた「空海」は、平安時代に讃岐の国(今の香川県)に生まれました。 「空海」は「真言密教」の開祖というだけでなく、多くの才能を発揮した、いわゆるマルチ人間だったといわれています。 「空海」の考えた四国八十八カ所お遍路のシステムは、今日でいう巨大なスタンプラリーです。 このシステムは、巡礼文化として、世界的にも高く評価されています。 尚、「弘法大師(こうぼうだいし)」というのは、「空海」が亡くなった後に、授けられた呼び方です。 「空海」は天才土木建設技師でもあった 「空海」は 様々な土地で、建築・土木工事を指導しました。 香川県に今も残る「満濃池(まんのういけ)」は、「空海」が改修したことで知られています。 アーチ型の堤防を持つ「満濃池」は、国内最大級のため池であり、今も治水と農業用水確保に大きな役割を担っています。 「空海」が杖をつくと、そこから水が湧き出たという逸話は、水脈を見抜く土木的スキルを持っていたことを伺わせます。• 4.現代社会と密教 「密教」の「即身成仏」は、「本当に幸せであるように生きること」を目指す考え方です。 現代社会は「合理主義」が重要視され、理屈に合わないもの、分かりにくいものは排除されてしまいます。 確かに、合理主義は効率的で、日常の様々な問題解決に有効です。 しかしながら、人間は、合理性だけでは割り切れない部分を持っています。 自分一人が幸せな気分を味わえば満足だということではなく、家族や友人などの周囲の人間みんなが幸せになることが必要になってくるのです。 この辺りの「密教」の教えは、競争社会の中で、ストレスに囲まれて生きる現代人に、自分の生き方を見直す一つのきっかけを与えてくれます。 まとめ 「密教」は、「大日如来」が説いた深遠な秘密の教えです。 「密教」は、9世紀に最澄と空海によって日本に伝えられました。 空海が体系化した「密教」を真言密教、最澄とその弟子たちが体系化した「密教」を天台密教といいます。 世間を騒がせた「オウム真理教」には、「密教」的教義が含まれていたとされていますが、その反社会的行為は、「密教」の本質とはかけ離れたものです。 「密教」が説く「即身成仏」の教義や、表面的なことだけでなく本質的な真理を追究しようとする姿勢は、現代社会にも相通じるものがあります。 「密教」に関する正しい知識を身につけ理解することは、 現代人にとっても大変重要だと言えるでしょう。•

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天台宗と真言宗の覚え方!《最澄・空海》開祖の生い立ちを知り、違いを知ろう

空海 宗派

空性無際容萬象, 海印澄明映三千。 他,涉險渡海,遠赴大唐修習密法, 匯聚印、中、日三國佛學精髓於一身; 著作等身,建構深廣之真言宗思想體系; 漢學素養極高,精通漢字及漢文學; 擅長書法,為日本「三筆」之一; 通曉營造工法,負責修築道場及治水工程; 創建日本第一所平民學校,嘉惠百姓。 804年與最澄等人隨日本第十七次遣唐使入唐留學,拜長安青龍寺惠果阿闍黎門下學習唐密,受獲傳承付法第一人,傳承金剛界與胎藏界二部純密,為唐密第八祖。 終其一生,空海大師承傳了中國漢傳佛教密宗文化,為日本佛教真言宗的開山始祖。 其門下弟子眾多,而以十大弟子為最,從此日本密宗得以法脈興隆,枝繁葉茂。 同時,於諸多領域卓有成就,若稱他為精通五明的「菩薩」,可謂當之無愧! 作者簡介 釋宏濤 宏濤法師,字景雲,山東省泰安市人,一九八三年出生,俗名洪濤。 二十歲時於陜西省西安市終南山嚴福寺披薙出家,二十三歲於印尼茂物市普門寺求受具戒。 曾參學於陝西省法門寺佛學院、美國法雲寺禪學院、西安大興善寺、日本高野山蓮華定院。 中國人民大學哲學院佛教學專業在職研究生結業;陝西省法門寺佛學院研究生畢業,專業方向為唯識學及《瑜伽師地論》研究。 日本高野山大學密教學專攻修士課程修了,獲密教學修士學位。 現為高野山大學大學院文學研究科博士在讀。 曾任陜西省法門寺佛學院副教務長,現任陝西省西安市大興善寺副監院。 獲得之榮譽包括:陜西省第一屆漢傳佛教講經交流會一等獎、二〇一一年中國漢傳佛教講經交流會金蓮花一等獎。 二九,遊聽槐市;拉雪螢於猶怠,怒繩錐之不勤。 成長背景 進京求學 就讀大學 第二章 求道 . 修行 吾今重述生死之苦源,示涅槃之樂果。 其旨也,則姬孔之所未談,老莊之所未演;其果也,則四果獨一所不能及,唯一生十地漸所優遊耳。 虛空藏求聞持法 《三教指歸》 矢志出家 七年精進 動念赴唐 第三章 渡海 . 入唐 隨波升沉,任風南北;但見天水之碧色,豈視山谷之白霧。 掣掣波上,二月有餘;水盡人疲,海長路遠。 飛虛脫翼,泳水殺鰭,何足為喻哉? 入唐準備 渡海赴唐 文采解危 進入長安 參訪長安城 移居西明寺 第四章 傳承密法 今則授法有在,經像功畢。 早歸鄉國,以奉國家;流布天下,增蒼生福。 然則四海泰、萬人樂,是則報佛恩,報師德;為國忠也,於家孝也。 初見惠果 密宗法脈 師事惠果 惠果入寂 決意回國 第五章 虛往實歸 (《仁王經》)謂其功則七難霧卷,謂其德則七福雲集。 護國之冥助如牆如壁,防敵之神力若矛若盾。 五力菩薩振威而往護,百部鬼神乘通而來衛。 滯留築紫 最澄創立日本天台宗 廟堂動盪 與最澄交流 成為嵯峨天皇知交 第六章 高雄山時代 黃葉索山野,蒼蒼豈始終; 嗟餘五八歲,長夜念圓融。 浮雲何處出,本是淨虛空; 欲談一心趣,三曜朗天中。 高雄山灌頂 與最澄的分歧 與時人的交遊 真言教學的推廣 第七章 高野山初創期 於金剛峰寺,奉建毗盧舍那法界體性塔二基,及胎藏金剛界兩部曼荼羅。 然今,工夫數多,糧食難給。 ……伏乞諸檀越等,各添一錢一粒等物,相濟斯功德。 初建大伽藍 勤於著述 修築滿濃池 期盼隱居修道 第八章 東寺時期 弘仁帝皇給以東寺,歡喜不絕。 使成祕密道場,努力!努力! 營造東寺 弘法活動 綜藝種智院 第九章 高野山入定 得道高僧冰玉清, 乘杯飛錫度滄溟; 化身住世何能久, 塵界定留惠遠名。 晚年的活動 圓寂 入定信仰 【影響】 壹 . 真言宗思想 眾生體性,諸佛法界,本來一味,都無差別。 眾生不悟,長夜受苦;諸佛能覺,常恆安樂。 是故為令眾生頓覺心佛,速歸本源,說此真言法門,為迷方之指南。 重要著作 判教思想 「即身成佛」思想 心性觀 貳 . 文化影響力 或臥煙霞而獨嘯,任意賦詠;或對天問以獻納,隨手成章。 ……比興爭宣,氣質沖揚;風雅勸戒,煥乎可觀。 日本漢文學之高峰 文學、文字學、語言學之論著 對日本書法藝術之貢獻 參 . 傳承弟子 夫以密教,是大日如來心肝、金剛薩埵腦膽者也;而輒授非器之者,從密教主御身,有出血之罪。 實惠 真濟 真雅 真然 道雄 智泉 杲鄰 泰範、真如、圓明、忠延 附錄 空海大師年譜 參考資料 推薦序一 中國密教再興應大有望 添田隆昭/高野山真言宗 宗務總長 蓮華定院住職 令和元年(2019)七月吉祥日 (中譯:釋宏濤) 高野山大學遠來之學僧,有君名宏濤者,為興密教之絕學,而叩槐市之門戶。 究其本貫,乃西安市大興善寺住持寬旭大和尚之入室弟子也。 寬旭大和尚兼領惠果、空海兩大師邂逅之地青龍寺,為圖中國密教復興,膝步於高野山金剛峰寺座主中西啟寶座下。 幸許入壇,得傳法灌頂,浴五智瓶水,升傳燈阿闍梨位。 今於青龍寺,高樹曼荼灌頂之法幢,三摩耶戒香彌布華夏耳。 衲承寬旭大和尚所託,為宏濤君重授三歸十善,名曰景雲,於蓮華定院道場為授四度加行印明,教示梵贊。 景雲法師善從提撕,得入兩部曼荼羅灌頂之壇。 景雲法師特呈高野山大學修士課程學修成果之文章,乃弘法大師空海一代傳記也。 拜讀之下,不覺大師所處之平安時代躍然紙上;大師行止,如在目前。 法師涉獵資料廣博,亙貫和漢,令人驚歎,更知其累年修學之勤苦耳。 今於茲可知法師佛道修行之深,而識法師螢雪之功不虛。 應言寬旭大和尚之後圖可全,中國密教再興有望乎!惟期法師愈愈健勝,繩錐精勤,無有懈怠者也。 推薦序二 接續弘法大師之密宗法脈! 釋寬旭/西安大興善寺方丈、青龍寺住持 早在佛教大乘經典東傳初期,真言陀羅尼修行法門就已傳入中國。 至唐開元年間,又有印度高僧金剛智、善無畏和不空先後來到長安,駐錫大興善寺翻譯佛經,建立灌頂道場,推動密法弘傳。 由於三位高僧所譯佛典以密宗經典為主,加之著名天文學家一行阿闍梨等人的理論建構,促使漢傳佛教密宗形成。 青龍寺惠果和尚秉受不空三藏之金、胎兩部密法,進一步發揚「金胎不二」思想,其神通妙用,朝野皆知;衣缽之傳,遍及海外。 西元八〇五年,日僧空海法師來至青龍寺,禮惠果和尚為師,「以兩部秘奧壇儀、印契,漢梵無差,悉受於心,猶如瀉瓶」,獲傳法阿闍梨位。 惠果和尚深知密法之後的傳承因緣,遂命空海「早歸鄉國」、「流布密教」,並預言自己化緣將盡,願生生世世與空海互為師徒。 嗣後,空海法師攜大量密宗經論、儀軌、曼荼羅和修法器具返回東瀛,著書立說、高豎法幢,開創真言一宗,對日本佛教產生了深遠影響;亦使三國傳承,至今未絕。 另據日本坊間傳聞,自空海回國一千二百年後,密法將於中國再興。 唐代盛行的密宗的確如惠果和尚所預感的那樣,在中國化佛教發展的歷史進程中逐漸式微。 由唐以降,直至明清,期間一直有諸多密宗僧侶致力於弘揚密宗儀軌,密法也逐漸與禪、淨相融,根植在四眾弟子的日常修行當中,如早晚功課、水陸儀軌和焰口、蒙山等。 雖然如此,仍難掩「金、胎二部」血脈難繼的頹勢。 上個世紀初,為復興中國密宗,在太虛大師號召下,相繼有大勇、持松和顯蔭等先賢赴日求法;但迫於時節因緣,其復興之宏願,惜未達理想。 而今國運昌盛、邦交復平,恢復漢傳密宗千年前之風貌恰逢其時;我儕當繼先賢遺志,為密法復興之業戮力同心! 為使復興之業不落空談,這其中尚需更多努力;最重要的一個環節,自然是需要有人發心接續空海所繼承和流傳下來的密宗法脈。 並且,對於弘法大師空海,吾人亦不可僅僅停滯在「血脈相繼」的感恩之情,必須要對大師之生涯和思想進行廣泛而深入的學習! 弘法大師作為日本真言宗開祖,同時也參與了日本平安時代的諸多重要歷史事件,為人類留下了寶貴的精神和文化財富,這使得近代以來對他的研究可謂汗牛充棟,其日語類傳記也為數眾多;相較之下,漢語類著作則鮮少有之,實為遺憾。 如今,宏濤法師發心編寫弘法大師傳記,實乃一大功德事。 拜讀之餘,不禁感歎弘法大師之高山仰止;吾輩唯有精進,方不負祖師所囑。 是為序。 己亥蘭月,青龍寺寬旭題 編撰者序 發願效法空海菩薩、荷擔如來家業! 眾所周知,弘法大師空海是一位承傳了中國漢傳佛教密宗文化、開創了日本真言宗的佛教大師,同時他在文學、書法、教育、文字學、文學理論、佛教美術以及建築技藝諸領域亦卓有成就。 若稱他為精通五明的「菩薩」,自然是當之無愧! 正如彌勒菩薩《瑜伽師地論》中所言,「五明處中,其內明處為最、為勝」,空海菩薩留給人類精神文明的最寶貴財富,則是佛教內學中的密宗教義和思想無疑。 而他本人,亦正是因接觸密法而出家,因求學密法而入唐,因弘揚密法而開宗,因修行密法而涅槃。 據空海《三教指歸》的序文中所述,他從十五歲始隨舅父阿刀大足學習漢學,十八歲入大學,後因接觸「虛空藏求聞持法」而放棄仕途,入山修行,並得到了「谷不惜響、明星來影」的修行驗相。 隨後,空海撰寫了可視為其出家宣言書的《聾鼓指歸》。 由此來看,「虛空藏求聞持法」這一密教修行法門,是他立志脫塵的直接誘因。 又,據空海〈奉為四恩造二部大曼荼羅發願文〉中可知,出家之後的他,在浩瀚的佛學義海中探尋成佛之道,就在他「徑路未知」之時,因「精誠有感」,而得遇「秘門」。 此「秘門」則是密宗兩部根本經典之一的《大日經》。 為進一步深入「秘門」,更產生了入唐求法之志。 在經過了九死一生的入唐之行後,空海在青龍寺惠果阿闍梨處如願獲悉了以《大日經》和《金剛頂經》為根本的「金、胎」兩部密法。 他在歸國後所寫的《御請來目錄》上表文中,非常自豪地講述自己已「學兩部之大法,習諸尊之瑜伽」;這兩部大法,正是他當初苦苦摸索的「諸佛之肝心,成佛之徑路」。 入唐求法的經歷,正是空海人生中最關鍵的轉捩點;所謂「虛往實歸」,他之後所將開啟的,是把中國密宗移植至日本本土的人生歷程。 他在參與國是、關注民生之餘,不斷努力地攝受徒眾、著書立說,將密教思想進行體系化的整理、理論化的建設。 在空海之密教思想逐漸穩固和成熟的過程中,真言宗這一密宗宗派也應運而生。 其《即身成佛義》、《辨顯密二教論》、《十住心論》等多種密教專著中,不僅體現了空海自己所證悟的密乘境界,同時亦確立了真言宗的教學方式。 可以說,流傳至今的真言宗之核心內容,仍是空海本人的密教思想。 目今,弘法大師空海於高野山示現「入定留身」已一千二百餘載;他曾與迦葉尊者發同樣大願,待彌勒菩薩龍華三會之時再來度眾。 他的智慧力和悲願力,亦一直由真言宗的弟子們世代相傳。 大師流傳於後世的精神財富,也正是他對中日兩國文明的貢獻。 一方面是包括佛教等各個文化領域的建樹;另一方面,在於對大唐文化、尤其是唐代密宗法脈的傳承;而這兩點,亦使得他成為了構建中日文化交流梁津之重要人物。 正因為弘法大師所傳承的密宗法脈從未間斷,自民國初元至今,華人地區湧現出諸多效仿弘法大師渡海求法的仁人志士,或出於自身修學興趣使然,或出於僧伽荷擔如來家業的使命,紛至遝來日本真言宗各門派下學習大師教法,筆者亦忝為其中之一。 既為大師之弟子,理應熟知大師之生涯,深入大師之思想。 而我在編撰此傳記的過程中,更深知能力所不及,真實的空海依舊難以捕捉,其高深的思想境界仍是難以完整呈現,實為缺憾、慚愧。 唯有發願:繼續效仿大師深入修學,以涅槃為上首,以聞思修三慧而成正覺。 以期懺悔。 本書的編撰,是在慈濟傳播人文志業基金會出版部主編賴志銘博士和韓國東國大學郭磊副教授的誠邀、勸勉下完成的。 筆者就讀高野山大學之時,指導教授乾仁志先生所開講的「空海思想入門」課程給我很多啟發。 編撰之時,曾吸納了松長有慶、高木訷元、渡邊照宏、宮阪宥勝以及靜慈圓諸位先生的諸多研究成果。 為讓讀者諸君更加流暢地閱讀空海的生涯和思想,未能逐一標明所引先行研究的出處,實為遺憾。 由於所搜集資料繁多,遇到不同研究觀點時,曾邀請來海法師和狄宣亞兩位同學一起商議、定奪。 遠在關中的好友屈軍生,也給我很多文字上的修訂意見。 恩師高野山真言宗宗務總長添田隆昭長老和長安青龍寺寬旭大和尚,在百忙中為本書題寫了推薦序,添田隆昭長老還給我提出了一些具體修改意見。 在此一併謝忱。 「哈日族」真的「哈日」? 舉凡「火影忍者」、「航海王」、「柯南」、「神奇寶貝」、「鋼彈」等熱門動漫,以及傑尼斯的「嵐」、「關8」等男團,AKB48、乃木坂46、Perfume等女團,還有眾多俊男美女演出的日劇,加上諸多日本的科技產品、流行事物與觀光景點,都吸引著哈日族們競相追逐;連臺灣的一些綜藝節目,也從日本綜藝中「學習」了不少花招。 不可否認的,MADE IN JAPAN的事物,的確都包裝得相當精美炫目,而且不斷地求新求變,對社會大眾有相當的吸引力。 但是,所謂的「哈日族」們可曾想過:這些華麗耀眼的日本流行事物,便能代表日本文化嗎?若說「哈日」或「認識日本」僅止於追東洋流行、嘗日本美食、覽東瀛美景,這便有如西方哲學家馬庫色(H. Marcuse)所說的「單向度的人」,僅滿足於「文化工業」大量生產的虛擬世界,那就像是將一個人身上的裝飾品當成這個人本身一般地淺薄。 我們不能忽略的是,在日本流行風潮及強大的科技與經濟實力的背後,實有著傳承千載的精神文明。 在宗教及哲學方面,舉其大者,有創立「東密」的「弘法大師」空海、開創「台密」的「傳教大師」最澄,還有禪宗的道元、良寬,淨土宗的法然、親鸞;近代則有西田幾多郎、鈴木大拙、久松真一等國際知名學者,這些大師為日本留下了相當豐厚的精神遺產。 在文學方面,由《源氏物語》以降,《枕草子》、《徒然草》等隨筆集、西行法師的短歌、松尾芭蕉的俳句,及至近代的芥川龍之介、夏目漱石、川端康成、三島由紀夫、井上靖等文學名家的著作,則為日本寫下了璀璨的文學史頁。 除了宗教、哲學、文學之外,日本還有傳統的茶道、花道、書道、武道、工藝乃至於建築藝術等,這些才是日本文化真正的、深層的內涵。 西元七世紀的元曉大師,本欲經由陸路至唐朝求法,後因頓悟「萬法唯心」而另闢蹊徑。 九世紀初,空海大師以則日本留學僧的身分,冒狂風巨浪之險,至中國學習當時盛極一時的佛教密宗及大唐文化。 元曉大師被視為大韓民族的精神脊梁,空海大師則對於日本文化更有其不可替代的地位。 空海大師可說是佛教史上難得一見的天才。 他冒險來到中國後,在三個月內便得受金胎兩部灌頂,並成為傳法大阿闍梨;這對一般人來說,是需要花上一輩子修業的。 可貴的是,空海並不拘泥於舊說,他融合了中印的佛教理論,寫下《秘密曼荼羅十住心論》、《秘藏寶鑰》等鉅著,建構了一套宏大緻密的教理體系,乃至有學者稱其可媲美德國大哲黑格爾(F. Hegel)的《精神現象學》。 空海大師為日本真言宗奠下了不可動搖的基礎;其開宗立派的高野山,則成為真言宗信眾的精神故鄉,並已被聯合國列入世界文化遺產。 直到今天,空海大師的著作仍是日本真言宗各派理論與實踐的依據。 除此之外,空海對漢文化浸淫頗深,根柢深厚,在文學、文學理論、文字學、書法等文化領域,都有相當高深的造詣。 又因密教是將教理「具象化」的宗派,所以十分重視象徵藝術。 空海除了從中國帶回相當豐富的佛像、法器,曼荼羅等佛教藝術品之外,他回國之後,亦親自參與一些佛像雕塑、繪畫等體現密教藝術的創作活動。 更難能可貴的是,空海大師並非拘於一格的佛教學究,他亦熱心地投入社會建設。 為了令教育普及,他創立了「綜藝種智院」,收納一般庶民及貧賤子弟,讓他們也有受教育的機會。 此外,大師還負起監督修建讚岐國滿濃池的責任,令當地農田得以灌溉,不受水旱之苦,令當地百姓十分感念。 由此可見,空海大師的生命實充滿著相當浩瀚恢宏的創造力及傳奇性,無怪乎其被視為「日本的達文西」。 一九四九年諾貝爾物理獎得主湯川秀樹,在一篇訪問稿中,盛讚空海大師是一位多才多藝的天才,稱他把宇宙萬物的生命濃縮到身邊,並適時予以展現出來;湯川認為,這般的氣勢及創造才能,與德國大文豪歌德(《浮士德》、《少年維特的煩惱》等名著之作者)頗為相似。 然而,空海大師對人類至高精神境界之貢獻,又哪裡是「文豪」二字所能涵括?日本有一句格言:「『弘法』奪大師之名」;換言之,提到「大師」,第一位想到的就是弘法大師,由此可知其在日本人心目中的地位。 如今,在佛教界的交流及努力下,傳至日本的漢傳密宗,又將回歸漢土…… 據傳,一位英國牛津大學教授曾說:「沒到過高野山的人,根本沒有資格談日本文化!」由此可見高野山之象徵性。 在全球化的今天,不論是「哈日」、「哈韓」,抑或是「崇美」、「崇歐」,皆已是許多國家大眾文化裡的共同元素;只是,小編我竊以為,文化交流的重點,應在於學習對方文化及文明中的精髓,而非迷失在轉瞬即逝的流行風潮裡。

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