哲学にーす。 むかしの優れた哲学者や思想家はニートが多いですが、現代の...

げんにーび: 正法眼蔵「現成公案」提唱録

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ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844年~1900年)は、数多くいる哲学者のなかでも特に有名です。 ただ気をつけておきたいのは、ニーチェはキリスト教や道徳を批判すること自体を目的としていたわけではないということです。 たとえ自分の生と世界そのものが苦悩に満ちていたとしても、どうすればそれらを「よく」肯定することができるか。 ニーチェがキリスト教や道徳を批判したのは、まさにこうした問いに答えるためでした。 私は最初ニーチェについていいイメージをもっていませんでした。 ただそれは、別にニーチェの思想がどうのというのではなく、「キリスト教が危ないって言ってる自分がアブネーよ」という感じで、ロクに読まずにやり過ごしていた、というのが正直なところです。 しかし実際に読んでみると、そうしたイメージが偏見でしかなかったことを痛感しました。 この経験があってから、私は哲学の著作を先入観をもって読んだり、偏見をもって判断しないように注意するようになりました。 哲学で読まず嫌いは厳禁であることを教えてくれたという意味でも、個人的にはニーチェに感謝しています。 ニーチェは、それまでの倫理の一切を疑い、私たちが(ニーチェの場合は、自分も、だったかもしれません)よりよく生きるための新しい倫理のあり方を徹底的に考えました。 そこから私たちが学べることは決して少なくないはずです。 反キリスト教の理由 ニーチェがキリスト教に対して否定的な態度を取った理由は何かというと、それはキリスト教的道徳が必然的に ニヒリズムに行き着かざるをえないという独自の直観にあります。 ニーチェは、ヨーロッパで最高の価値体系だったキリスト教が作り上げた理想、そしてキリスト教に基づく既存の道徳が、私たちの生を否定しスポイルすると強く確信していました。 その確信の根拠は、キリスト教とは「弱者によるルサンチマンの反逆」である、というニーチェ独自の直観にあります。 ルサンチマンはニーチェの提示した概念のなかでも特に重要なものです。 これは一般に「怨恨」と訳されますが、その中身は、「ちぇっ、なんだよアイツ…」の「ちぇっ」の感じを想像すると分かりやすいと思います。 ニーチェによれば、この「ちぇっ」がキリスト教的道徳の中心にある。 超人=自己のうちに価値の基準を確立しているひと もっとも、ここで弱者とか強者とかいっても、それは別に腕力とか政治的権力の点での強弱のことではありません。 そうした面が全く無いわけではありませんが、むしろ、ニーチェのいう弱者とは、価値の基準をいつも外側に求めてしまうような人であり、対して強者とは、良し悪しについての自己ルールを立て、それをきちんと守れる人のことを指しています。 もっとシンプルに言うと、弱者とは 「みんながそう言うから」と自分で良し悪しを決められない人のことであり、強者とは自分で何がよく何が悪いかを決められる心をもつ人のことを指しています。 「超人」の概念も、この観点から考えると分かりやすい。 意味のない「永遠回帰」の世界で生きるだけの自己ルールと確信を得たひと、これがいわゆる「超人」のことです。 ニーチェは超人を生き方のモデルケースとして示すことができれば、普通の人でもルサンチマンに押しつぶされずに生きることができるはずだと信じていました。 なので、ニーチェが普通の人びとを「畜群」と呼ぶとき、それは彼らを見下しているわけではありません。 世界=「権力への意志」が価値として解釈する現象 どうすれば生をよく肯定できるか。 この問題に対するニーチェの解答を最もよく伝えているのが、です。 『権力への意志』はアフォリズム集ですが、認識論と倫理学の両面において、とても中身の濃いものになっています。 「倫理と認識に関係があるのか?」と思うかもしれません。 しかしニーチェからすれば大ありです。 なぜならニーチェに言わせれば、私たちにとって世界とは、「~したい」という私たちの欲求(権力への意志)に相関した価値として解釈される現象だからです。 私たちの「権力への意志」が、カオスとしての世界を価値として解釈している。 客観があって、それを主観が写し取るという主観ー客観図式は背理である。 この認識原理は、倫理についても当てはまる。 生を肯定する新たな価値体系を構想するには、私たちこそが倫理を作り出していることを原理レベルで捉える必要がある、そうすることで倫理のあり方を変えるチャンスが生まれる。 そういう順序でニーチェは考えるわけです。 したがって、権力への意志を単に「政治権力、国家権力への意志」と理解するのは短絡的です。 権力への意志の内実は、たとえば子どもがようやく自転車に乗れるようになった場面をイメージすると分かりやすいかもしれません。 このように、困難や問題にぶつかりながらも、それを乗り越えて「できた!」に達するとき、私たちは快を感じる。 このことが私たちの生の本質である、とニーチェは言うわけです。 「真の世界」もルサンチマンが作り出したもの ニーチェは、キリスト教の「真の世界」の概念も、権力への意志が作り出しているものだと言います。 現世は仮の生であり、本当の生は死後にやってくる…。 こうした見方は、苦悩を与える世界に対するルサンチマンに由来する。 ルサンチマンは権力への意志のひとつのあり方であり、それによってひとは、現世を否定されるべきものとして解釈する。 しかしそれは結局のところ、価値の基準を自分の外側に求めることであり、拘束感と不自由さをもたらすだけだ。 このようにニーチェは主張します。 芸術と「永遠回帰」で生を肯定する では、一体どのようにして私たちは自分の生を肯定できるのでしょうか?ニーチェの提案は、私たちは芸術と「永遠回帰」によって生を肯定できる、というものです。 芸術は生を高揚させ、私たちに陶酔をもたらして生を完全化する。 そのことは恋愛にとらわれたひとであればよく分かるだろう。 恋したときに世界は色づき、その姿を変貌する。 彼は芸術を生み出すほどの力を手に入れるのだ。 そうニーチェは『権力への意志』にて言っています。 確かにニーチェのいうように、芸術が私たちの生を肯定してくれることがあるのは確かです。 しかし芸術だけではありません。 場合によっては家族や恋人、友人との関係性が生を肯定してくれることもあるでしょう。 ただ、人間関係で何度も失敗を繰り返していたニーチェが、他者との関係性を肯定的に捉えられなかったとしても、それはある意味仕方のないことかもしれません。 「永遠回帰」は、キリスト教的な世界観に対する批判として考えだされたものです。 キリスト教の世界観では、現世における死は本当の意味での死ではありません。 世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、「最後の審判」で永遠の生を得るひとと、地獄に落とされるひとに分けられる。 現世はその裁きの瞬間まで耐えられるべき生である。 キリスト教の世界観はこのようなものです。 対して「永遠回帰」は、世界には始まりも終わりもなく、ただグルグルと回り続けている過程であるとする世界観です。 苦悩は無限に繰り返され、そこから逃れることはできない。 ニーチェ的に言えば、これは吐き気をもたらすような世界観です。 しかし、無限に繰り返されるのは苦悩だけではありません。 幸福もまた、無限に繰り返される。 生の99%が苦悩でも、残りの1%が幸福であれば、その幸福を糧に生を肯定できるはずだ。 不器用だけど誠実なニーチェ ニーチェはそのアンチキリストさがしばしば強調されますが、既成の道徳やキリスト教が気に食わなかったのでそれらに対しケチをつけていたわけではありません。 ニーチェの目的は、生きる意味を肯定できるような価値解釈のあり方を作り出すことにありました。 キリスト教に対する批判は、その目的に応じて行われたものです。 ニーチェの場合、表現そのものに力があるので、言い方が誤解を招くことが多いように思います。 しかし学的な態度という面では、いくつか独断的な思い込みが認められることを差し引いても、やはり誠実だったように思います。 主な著書 ニーチェの主著には以下のものがあります。 『悲劇の誕生』• 『人間的、あまりに人間的』• 『曙光』• 『ツァラトゥストラはこう語った』• 『道徳の系譜』• 『この人を見よ』• 『権力への意志』 『権力への意志』は、ニーチェの死後、妹のエリーザベトによって編纂された断片集です。 第二次世界大戦後、シュレヒタによりエリーザベトの改変を除くかたちで再編集された『80年代の遺稿から』(Aus dem Nachlass der Achtzigerjahre)が、ニーチェ全集第3巻として1954年に発刊されました。 ネットでも読むことができます。

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「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」(小林昌平著)を読んだ。 GW最終日は嫁さんと二人でブログ書いたり本を読んだりしてた。 明日から会社に出勤なんですね。 弊社が何を考えているのかはしらないけど、なんかリモートワークは終わりっぽいです。 緊急事態宣言は延長されているので5月末まではコロナ騒ぎは終わりそうに無いんですけど、それでも上層部は会社に人を集めたいみたいです。 おそらく、数日ぐらいは会社に出勤しないといけないかもしれないけど、しばらくしたらまた在宅勤務じゃないかな?って気もする。 まぁ、沖縄はGWに入る前ぐらいから1日の感染者が0人の日々が続いているので、また感染者が続出するのでなければ通常勤務かもしれないけど。 今日は unlimitedで面白そうな本を見つけたのでの端末に落として読書をしていた。 思ったより良い本だったのでエントリーに起こしておこう。 今回読んだのは、「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」(小林昌平著)という本だ。 この本は、色んな現代人の悩みに対して哲学者の考え方によって解決策を提示するという風な本だ。 たとえば「将来が不安」とか「お金がほしい」とか「死ぬのが怖い」などその様な悩みに対して、だったりとかの哲学者、の様な宗教家、やの様な心理学者の色んな説を引用してきて答えを導き出すのである。 僕はわりかし哲学的な読み物が好きで色んな哲学の読み物を読んできている。 例えばこんなところであろう。 この「その悩み、哲学者~」とアプローチの面で似ている本は、氏の「これからの『正義』の話をしよう」ですかね。 哲学入門書などにありがちな、色んな哲学者の考え方だけを述べて終わりにするのではなく、哲学を実際の生活で運用するために実際に思想を「使う」為の本なのである。 人生の中でぶつかる悩みに対して、どの思想家のどの考え方がに「使えるのか?」で実際に問題解決のために思想を運用するのである。 哲学というのは多くの人の印象にあるように小難しくて理解しにくいという学問かもしれない。 実際にを読んでその思想を読み解こうと思うと一生かかっても理解できないかもしれない。 の使い方というのは、そういう難解な壁に立ち向かってみることで自分の頭で考え抜くために壁打ちで使ってみるというのが本来のやり方である。 こういう事については「考える教室 大人のための哲学入門」(著)で書かれていたな。 だけど、時間が足りない現代人が、いちいちを紐解いてすべてを理解できるまで悩み続けるというのも現実的じゃないだろう。 そのため、問題に応じて実際に解決するために哲学的なフレーバーを利用するというなアプローチで哲学を使うという試みも実際的であろう。 この「その悩み、哲学者が~」の作者がそこまで考えて書いているのかは分からないけど、そのアプローチの仕方は氏の様な現代の哲学者のやり方に近いかな?と思った。 僕の気になったところの感想を述べて、この本のおすすめをまとめようかな? 僕が気になったのは「やりたいことがない。 毎日が楽しくない」の章だった。 この悩みに答えたのは禅僧のである。 来る日も来る日も同じ生活のくりかえし、「生きている」という実感を抱くこともなく、私はこのまま年老いてゆくのだろうか。 そんなふうに、変わりばえしない毎日にむなしさを抱く人は少なくないのではないでしょうか。 しかし、なんでもないその日常にこそ、人生の「悟り」を得る機会がひそんでいるのだ。 日本の宗祖にして日本を代表する者・は、そういってます。 些事、雑事、凡事こそ、悟りに至る修行なのであると、 私たちがふだん、日常で行う行為のすべては何かのための手段です。 事務作業一つをとってみても、このアポ取りはある打合せをセッティングするための、その打合せをセッティングするのはきょう一日を無事に終えるための、きょう一日を無事終えるのは上司に怒られないための、上司に怒られないのは査定でマイナスにならないための、査定でマイナスにならないようにするのは将来の生活への不安をなくすための、というように、すべてが目標への連鎖になっている。 その連鎖に日々私達は追い立てられ、手段としての行為を際限なく重ねていくほかありません。 とはその連鎖を断ち切ることであり、それだけで完結した行為であって、他に目的を持たないのです。 そして椎茸を干すような、他に目的をもたない作業は、と同じ効果をもつということができます。 禅寺で料理や掃除などの作務がと同様に重視されるのはこのためです。 作務がそれだけで充実した行為であるということ、そしてあの老いた典座のひたむきな姿が教えてくれるのは、「何かに役立てるという考えかたをやめる」ことであり、「今ここ、この私に徹する」ことなのです(頼住光子『に学ぶ生き方』より)。 日常を楽しく生きる方法というものは、そのやってる日常茶飯事すべてに対して手を抜かず「今ここ、この私に徹する」という事が重要なのである。 何もかもに手を抜いて中途半端に生きているのなら、それはつまんないであろう。 それを特に努力もせずにつまらないつまらないと嘆くのならば、それはつまらないだろうなーと思う。 僕がブログを毎日書く理由も人生を楽しむため、毎日を丁寧に生きるために日々を綴っているという所が大きい。 毎日ちゃんと決まった時間にブログを綴り、今日一日で気になったことをエントリーとして発表する事は、とは違うけどそれだけで完結した行いである。 こうやって何か集中できることを一つ持つだけで一日の充実感は違うであろう。 と、まぁ、こんな感じの人生の悩みに対する色んな実践的な考え方が色々と書かれているのである。 僕的にはこのの他にも「自分を他人と比べて落ち込んでしまう」のミハイ・や「重い病気にかかっている」のルードウィヒ・が面白かったですね。 実際に生活の中で哲学のエッセンスを使った考え方を知りたいという人は読んでみてもいいかもしれません。

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ニーチェ・哲学早わかり

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食事する哲学者の問題 近年では、食器を「」ではなく「」として紹介する例も見られる。 箸ならば、「1人が2本確保しなければ食事ができない」という制限が少しは自然だが、箸は1本ずつ分けて左右に置くものではないという点では却って不自然さが増しており、海外の文献でも日本通の著者などがそのように言及していることもある。 本稿では古い形式のまま、スパゲティーを2本のフォークで食べる、とした設定のまま解説する。 スパゲッティをボールから取って自分の皿によそうには2本のフォークを必要とし、哲学者は一度に1本のフォークしかテーブルから取ることができない、とする(左右の手で同時に両側にある2本のフォークを取ることはできない、という意味。 まずどちらかの側のフォークを取ってから、逆の側のフォークを取る)。 会話などの別の手段によって調整するわけでもなく、さらに、いったん手に取ったフォークを調整のために手放すことも無い、とすると、5人が左のフォークを手にとって右のフォークが食卓に置かれるのを待つという危険な状態が発生する可能性がある。 デッドロックの可能性は、このモデルで示せるわかりやすい問題だが、それ以外にも解決が必要な点は指摘できる。 たとえばデッドロックを回避できる簡単な解だが有用性の無いものに、常に固定された隣り合わない2人の哲学者(5人の場合)だけが食事できる、というものがある。 これは公平性が無く、残りの食事できない哲学者の観点からは飢餓の問題でもある。 1個だけのを用意し、常に交代で1人だけが食事できる、という手法は確実な解ではあるが効率が悪い(並列処理の問題として見た場合、並列処理が可能であるにもかかわらず、それが活用されない)。 といったように、さまざまな角度から検討できる。 解説 本来、デッドロック問題の解説手段として使われた。 このシステムがデッドロックに到るのは「満たされない要求の円環」が存在する場合である。 例えば、哲学者 P 1 が哲学者 P 2 の手にしているフォークを待っていて、 P 2 は哲学者 P 3 のものを……といったように円環形に要求が連鎖する。 例えば、それぞれの哲学者が次のように振る舞うとする。 左のフォークが得られるまで思索して待ち、フォークを取り上げる。 右のフォークが得られるまで思索して待ち、フォークを取り上げる。 食事する。 右のフォークを置く。 左のフォークを置く。 最初にもどって繰り返す。 この解法は正しくない。 このやりかたではデッドロックが発生し、全哲学者が左のフォークを持ち、右のフォークが持てるようになるのを待つという状況が発生しうる(その場合、右のフォークは決して得られない)。 タイミングによっては、ある哲学者が両方のフォークを取れない状況がデッドロックとは別に発生する。 これをと呼ぶ(スタベーションとは「飢餓」であり、この用語も「食事する哲学者の問題」のアナロジーに付随したジョークが起源である)。 例えば、一方のフォークを取った状態でもう一方のフォークを5分間待ったら、一旦フォークを置いて5分間待ってから再度食事を試みるという規則を設定する。 この方法ではデッドロックは回避される(システムは異なった状態に変化していく)が、ライブロック状態は回避できない。 もし5人の哲学者が全く同時に食卓に着いたとしたら、いっせいに左のフォークを取って5分間右のフォークを待ち、左のフォークをいっせいに置いて5分間待つという状況が発生する。 使えるフォークのない状態は、実際のコンピュータプログラミングでは共有のされた状態に対応する。 リソースのロックは一度にひとつのプログラム(またはコード)だけがそのリソースにアクセスすることを保証する手段である。 あるプログラムが欲しいリソースが他のプログラムによってロックされている場合、そのプログラムはアンロックされるのを待つ。 複数のプログラムがロックされるリソースに関わる場合、状況によってはデッドロックが発生する。 例えば、プログラムが処理をするのにふたつのファイルを必要としているとする。 そのような2つのプログラムが各々1つだけファイルをロックしていたら、どちらのプログラムも相手がロックしているファイルを永遠に待ち続けるだろう。 食事する哲学者の問題は、にまつわる様々な問題を説明すべく一般化し抽象化したものである。 哲学者らが食事に際して経験する様々な障害は、実際のコンピュータプログラミングで共有リソースに排他的にアクセスする必要がある場合の様々な困難に対応している。 これらの問題はの分野で研究されている。 ダイクストラのもともとの設問は、磁気テープ装置のような外部周辺機器に関するものだった。 しかし、食事する哲学者の問題で取り上げられていることは、複数のプロセスが一群のデータを更新しようとしたときに生じる問題として一般化できる。 ののように多数のプロセスが並行動作するのを扱うシステムでは、数千のや同期機構を使い、、、データ破壊などが起きないようそれら機構の使い方を厳密に守らなければならない。 解法 哲学者の位置により右手か左手を優先する解法 この解法では、哲学者の人数が偶数人であるという大前提を置く(人数が奇数の場合には適用できない)。 哲学者を「グループEven」と「グループOdd」の2グループに分類し、隣どうしの哲学者は必ず違うグループになるようにする(この分類は偶数でなければできない)。 そして、「グループEven」の哲学者は必ず先に右のフォークを取ろうとするものとし、「グループOdd」は先に必ず左から、とする。 そのようにすると依存関係の循環は存在しないため、問題は発生しなくなる。 ウェイターを配する解法 比較的単純な解法は、食卓にを配置することでなされる。 哲学者らはフォークを手に取る際に必ずウェイターの許可を取ることとする。 ウェイターはどのフォークが使われているかを把握しているので、デッドロックを防ぐよう調停することができる。 4本のフォークが使用中のとき、最後のフォークを哲学者が要求した場合、ウェイターが許可するのを待つ必要があり、使用中のフォークが解放されるまで許可は与えられない。 哲学者が常に右のフォークより先に左のフォークをとる(あるいは逆)よう決めておけば、話は単純化される。 ウェイターはと呼ばれるダイクストラが1965年に導入した概念のように振る舞う。 具体的に説明するため、哲学者を時計回りにAからEまでラベル付けする。 AとCが食事中で、4本のフォークが使われているとする。 BはAとCの間に座っているので、どちらのフォークも入手できないのに対し、DとEの間には未使用のフォークが1本残っている。 ここでDが食事したいとする。 彼が5番目のフォークを取ると、デッドロックが発生する可能性がある。 そこでDがウェイターにフォークをとってもよいか尋ね、待つよう命じられれば、AかCが食事を終えてフォークを置いたとき、少なくとも1人の哲学者が両手にフォークを持つことができることが確実となる。 したがって、デッドロックは起きない。 リソース階層による解法 もう1つの単純な解法は、リソース(この場合はフォーク)にを割り当てる方法で、リソースの要求順序は常にリソースの順序の通りに行い、リソース解放はその逆の順序に行う。 そして、順序的に無関係なリソースをあるユニットが同時に使うことはないとする。 リソース(フォーク)に1から5までの番号を付与し、動作ユニット(哲学者)は常に番号の小さい方のフォークを先にとり、それから番号の大きい方のフォークをとる。 個々の哲学者がとるフォークの番号は決まっている。 そして、フォークを置く場合は番号の大きい方を先に置き、それから番号の小さい方のフォークを置く。 この場合、5人の哲学者のうち4人が同時に番号の小さい方のフォークをとると、番号の一番大きいフォークだけが残ることになり、5番目の哲学者はフォークをとることができない。 さらに、その番号が一番大きいフォークをとれる哲学者は1人しかいないため、その哲学者だけが両方のフォークを持って食事できる。 彼が食事を終えてフォークを置くとき、まず番号の大きい方から置き、続いて番号の小さい方のフォークを置くので、後者のフォークを待っていた哲学者がそのフォークをとって食事を始められるようになる。 この解法はが最初に提案したものの1つである。 リソース階層を使った解法はデッドロックを防げるが、常に実用的とは言えず、特に必要とされるリソースが最初から全部把握できない場合には有効ではない。 例えば、ある動作ユニットが3番と5番のリソースを持っていて、さらに2番のリソースが必要になったとき、リソース獲得順序を守るために5番と3番のリソースを一旦解放しないと2番のリソースを獲得できない。 そうしてから3番、5番という順序で獲得し直す。 の多数のレコードにアクセスするコンピュータプログラムがあった場合、新たなレコードにアクセスするために番号の大きいレコードを全て一旦解放しなければならないとしたら、あまり効率的に動作できないだろう。 モニタを使った解法 下のコード例で示した解法では、フォークが明示的に出てこない。 哲学者は両隣の哲学者が食事中でないときだけ食事できる。 これはつまり、2本目のフォークを取れない哲学者は必ずフォークを一旦置いて待ち、改めて1本目から試行するという方式である。 フォークごとのロックがないため、哲学者は両隣の哲学者の状態に基づいて食事を開始するかを決めなければならないが、その状態情報が古くないことを保証する必要がある。 哲学者2が哲学者1が食事していないことを確認し、次に哲学者3を見るとしたとき、1は2が3を見ている間に食事を始めるかもしれない。 この解法ではそのような状況を防ぐため、単一の相互排他ロックを使う。 これは特定のフォークに結びついたものではなく、哲学者らの状態を変更する手続きそのものに対応したものである。 それがという機構である。 手続き test、 pickup、 putdown はモニタに結びついており、1つの相互排他ロックを共有する。 食事できるようになるのを待っている哲学者はフォークを持ってはいない点に注意が必要である。 食事したい哲学者がいると、モニタは1つ目のフォークを手放させ、2本目も入手可能になった時点で1本目から再試行させる。 食事が終わったら、哲学者はモニタにシグナルを送り、両方のフォークが利用可能な状態になったことを知らせる。 なお、例に挙げたコードではを防げない。 例えば、1番と3番の哲学者が食事する期間が常にオーバーラップしていると、2番の哲学者はずっと食事できないことになる。 スタベーションを防ぐには、空腹な哲学者が食事できなかった回数を保持し、それがある限度を越えた場合に哲学者の状態を Hungry から Starving に変更する。 そして、フォークを与えるかどうかを判断する際に両隣がどちらも Starving でないことという条件を加える必要がある。 どちらかの隣人が Starving だったために食事できなかった哲学者は、事実上その隣人の隣人が食事を終えるのを待つことになる。 このように依存関係が追加されることで並行性が減っていく。 Starving とするしきい値を大きくすれば、そのような影響を抑えることができる。 Chandy と J. Misra は食事する哲学者の問題に別の解法を提案した。 それは、任意のエージェント(P 1,... , P n)が任意のリソース(R 1,... , R m)を獲得しようとする状況に拡張されたものである。 ダイクストラの解法とは異なり、順番付けも任意である。 彼らはこの一般化された問題を以下のような解法で解決した。 あるリソースを獲得しようとする2人の哲学者の組合せそれぞれについて、フォークを1個生成して識別番号の小さい哲学者に与える。 このフォークは dirty と clean の2つの状態があって、初期状態は dirty である。 哲学者がリソースをいくつか組み合わせて使用したい場合(つまり、食事したい場合)、競合している隣人からフォークをもらわなければならない。 そのような自分が持っていない全フォークについて要求メッセージを送る。 要求メッセージを受け取ったフォークを持つ哲学者は、持っているフォークが clean なら持ち続けるが、 dirty ならそれを手放す。 フォークを要求した側に送る際、それを clean 状態にする。 食事が終わると、フォークは dirty 状態になる。 他の哲学者がそのフォークを要求したことがあったら、そのフォークを clean 状態にして送る。 この解法は大規模な並列実行でも適用可能である。 スタベーション問題も解決できる。 clean と dirty のラベルは、最も長く食事にありつけていないプロセスを優先し、最近食事したプロセスの優先順位を下げる効果がある。 哲学者がフォークを手放さずに2回続けて食事できないという規定を設けた解法と比べてみると、上に述べた解法の方が柔軟だが、傾向は後者と同じだということがわかる。 彼らはこのシステムを非環状グラフで表せるかもしれないとし、もしそうなら、その動作は環状グラフに変換できないことになる。 それは、デッドロックが起きないことを保証しているのと等しい。 しかし、システムが最初に完全に対称な状態(例えば、哲学者が全員左のフォークを持っている状態)に初期化される場合、グラフは最初から環状になり、デッドロックを防ぐことができない。 小さい識別番号の哲学者がdirty状態のフォークを持つよう初期化することで、初期状態を非環状グラフにできる。 EWD-1000. Dijkstra Archive. Center for American History, ;• Ramos 1981. Hoare, C. 2004年. originally published in 1985 by Prentice Hall International. 2012年7月16日閲覧。 EWD-310. Dijkstra Archive. Center for American History, ;• EWD-123. Dijkstra Archive. Center for American History, ;.

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