明智光秀年表。 明智光秀と織田信長の年齢差 豊臣秀吉、徳川家康とも比較

麒麟がくる年表でわかる!明智光秀の生きた戦国時代のまとめ

明智光秀年表

明智光秀が主役となる、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」が発表されましたー。 中々に謎多き人物なだけに、深堀りすると色々出てくるという面白い人物なのですが、今回はざざーっと 「明智光秀って?」という入門編をお送りしたいと思いますー。 一分で分かる明智光秀 まずは「明智光秀」という男がなんなのか、というのを超ザックリ説明していきたいと思います。 明智光秀早見表• 明智光秀は戦国・安土桃山時代に岐阜や滋賀、京都などで活躍した武将。 一生涯の前半部分が謎に包まれている男。 1564年ころ、越前(福井県北部)の大名・朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えた。 足利幕府の15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき)に幕府直属の武将として仕えた。 尾張(愛知県西部)の大名・織田信長に仕えた。 信長とそんな関係性がありつつも、光秀は天正10年(1582年)、京都の本能寺に宿泊していた信長を討伐する「本能寺の変」を起こす。 とまあこんな感じなんですが、本当にザックリなのであしからず。 というか 「諸説あり」な部分が沢山ありますので、詳しいところをこれから掘り下げたいと思います。 光秀の生い立ちは謎に包まれている 光秀は越前の朝倉義景に仕えるまでの前半生、 どこで何をしていたのかがさっぱりわからないんだそう。 「諸説あり」というのは、まさにこの部分のことを指していると言っても過言ではないくらいで、朝倉義景に仕えていたというのも『明智軍記』という記録(江戸時代に書かれた作者不明の軍記)にそのようなことが記されていたからで、本当はどうだったか定かじゃないそうです。 光秀の色んな説• 美濃(岐阜県南部)の出身で、美濃を収めていた武将の斎藤道三(さいとうどうさん)派に属し、後に朝倉義景に仕えた。 (明智軍記より)• 足利義昭に仕えていた細川藤孝(ほそかわふじたか)に「朝倉氏よりも尾張(愛知県西部)の織田信長を頼るべき」と言った。 (細川家記より)• 正体不明の光秀は、細川藤孝の下で足軽をやっていた。 (校合雑記より)• 光秀は現在の愛知県豊川市である、三河牛久保(みかわうしくぼ)の城主・牧野右近大夫(まきのうこんのたいふ)に仕え、領地をもらっており、やがて信長に仕えた。 (武功雑記より)• 光秀は現在の福井県小浜市である若狭小浜(わかさおばま)の鍛冶職人・冬広(ふゆひろ)の次男として生まれ、家業を嫌った光秀は滋賀の大名・近江六角氏(おうみろっかくし)に仕え、明智十兵衛(あけちじゅうべえ)を名乗った。 (若狭観跡録より)• 明智一族の末裔と思われる、御門重兵衛(みかどじゅうべえ)という人物が、信長の前に現れて「明智十兵衛(光秀のこと)」と名を名乗り、日向守(ひゅうがのかみ)という役職になった。 (ソースは不明) などなど、信長に出会うまでの若い頃の説を抜粋してもこれだけある上に、 出生地や出生時期に関してもいくつか説があるくらい謎の多き人物なんですね。 『明智軍記』に書かれている光秀の情報は、江戸時代に書かれたものであり、作者も不明。 そのため「信憑性が低い」と多くの学者の間で言われております。 本来はこうした書物は参考にしないはずなんですが、光秀は謎が多い分これらに頼わざるを得ないんだそう。 出世してからは大活躍 明智光秀は元々無名の武将。 朝倉氏には仕えていたものの、当時この朝倉氏に、後の将軍・足利義昭とその部下・細川藤孝がやってきたことが出世街道のきっかけでした。 光秀は藤孝に「朝倉氏に頼るよりも愛知の方にいる信長さんを頼った方がいいよー、俺も手伝うからさ!」的なことを言って、信長の力もあって義昭が一気に将軍になります。 (行程、だいぶはしょってます) このような経緯もあって、信長と義昭の橋渡し役として活躍。 そこからは信長の不在をついた三好軍による義昭への襲撃を救ったり、信長と同盟関係にあった浅井長政の裏切りの窮地から救ったりと、様々な手柄をたてます。 さらに、信長と対立真っ只中だった浅井&朝倉勢をかくまったことで知られる 「比叡山延暦寺焼き討ち」を成功させた光秀は 「第一級の手柄」を立てて、めちゃくちゃ出世をします。 その後、信長と義昭の仲が悪くなってからは、光秀は信長の家臣一本でいくことを決め、丹波平定(京都と兵庫にまたがる地域の攻略&秩序を回復して取りまとめること)を成功させるなど、信長の腕として熱い信頼を得ていきました。 一見、順風満帆な主従関係に見えるんですが、この後あの有名な事件「本能寺の変」が起こってしまうんですねえ…。 「本能寺の変」で主君・信長を討つ 光秀は、天正10年 1582年 に中国地方に出陣していた羽柴秀吉の援軍を信長に命ぜられ、中国地方の進軍に備えて1万3000の軍勢を抱え、京都の亀山城に入ります。 この時、 何らかの心境の変化で信長を討つ決心を決めた光秀は、京都の本能寺へと進軍し、信長を自害に追い込む形となってしまうわけです。 光秀が信長を討った理由というのも「諸説あり」まして、ここに関してはこのトピックだけで簡単に語れる部分ではないので割愛します。 が、いくつか説を挙げると• 朝廷が背中を押した説• 義昭が復権したかったから背中を押した説• 四国の平定を目指していた長曾我部との協力説 などなどがございます。 かくして、天正10年6月2日に光秀は信長を討ち取るわけです。 このときの織田家は日本の覇権を握っていて、沢山の武将から恐れられていましたし、信長の遺体を確保できなかった 光秀のことを擁護する武将はほとんどいなかったそうな。 その後は近江(滋賀県北東部)を鎮圧して、安土城(信長の居城)も制圧するんですが、中国地方から舞い戻った 秀吉と「山崎の合戦(京都府長岡京市の乙訓郡大山崎町)」で衝突し、敗戦するのであります。 最後は光秀の妻・煕子(ひろこ)の待つ坂本城(現・滋賀県大津市)に逃げ帰る途中で、落ち武者狩りの農民に殺害され、その生涯の幕を閉じます。 明智光秀ざっくり年表 今回ご紹介した流れをざっと掴んでもらうために、めちゃくちゃ大雑把な光秀年表を作りました。 にわか光秀ファンになりたい方はどうぞ。 記事内でも述べてるんですが、かなり「諸説あり」な人物なのであしからず。 「通説だと大体こんな感じ」程度に思っていただけると幸いであります。 享禄元年(1528) 光秀、美濃(岐阜県の辺り9)に生まれる?• 永禄7年(1564) 光秀、越前(福井県東部)で朝倉義景に仕え始める?• 永禄11年(1568) 足利義昭が信長を頼る。 光秀、信長に召し抱えられる。 永禄12年(1569) 正月に京都の本圀寺(ほんごくじ)にて三好さ三人衆に奇襲された義昭を助ける。 4月には秀吉との連署文書に確かな記録として「明智光秀」の名前が登場。 元亀元年(1570) 信長が浅井長政の謀反に合い、光秀と秀吉が信長の窮地を救う。 元亀2年(1571) 9月に比叡山を焼き討ち。 光秀はこの焼き討ちで「第一級の手柄」をたて、近江国志賀群(滋賀県大津市の一部)を与えられ、坂本城を築城する。 天正元年(1573) 信長が将軍・義昭を追放。 天正3年(1575) 光秀、丹波(京都府中部と兵庫県の一部)の攻略を開始。 天正7年(1579) 光秀、丹波を平定する。 天正10年(1582) 光秀、秀吉の中国(毛利攻め)の加勢を命ぜられる。 5月26日に亀山城(京都)に入る。 5月27日に愛宕山(あたごやま)に参詣。 5月28日連歌の会に出席。 6月2日に本能寺へ奇襲。 6月5日近江(滋賀県北東部)を鎮圧して、安土城(信長の居城)も制圧。 6月13日に坂本城(現・滋賀県大津市)へ逃亡中農民に殺害される。 と、ザックリ年表でした。 この合間合間にも光秀さんはかなり活躍しますんで、気になる人はさらに調べてみてくださいませ~。

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明智光秀とは?生涯をざっくりとおさらいします

明智光秀年表

この記事を短く言うと 1,の『死因』は? 「槍で刺されて致命傷を負ったため、切腹」 2,明智光秀の『没年月日』は? 旧暦・ 天正10年6月13日 新暦・ 1582年7月2日 享年55歳(67歳という説もある) 3,明智光秀の『最後の様子』は? 「 秀吉」との「山崎の戦い」に敗北した光秀は、坂本城へと落ちのびる途中で、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩りの百姓たち」に襲撃された。 (または信長の家臣だった小栗栖館の武士団) 竹槍(またはサビた槍)で刺されて深手を負ったため自害したという。 光秀終焉の地は「明智藪」と呼ばれて、現在は「碑」が建てられている。 4,明智光秀の『辞世の句』は?• 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」• 「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」• 「土岐(とき)は今 天(あめ)が下知(したし)る 五月(さつき)かな」 《明智光秀》 「引用元より」 「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に破れた「明智光秀」は、坂本城へと落ちのびる途中、「落ち武者狩りの百姓たち」に「 竹槍で刺されて深手を負ったため自害」 家臣「溝尾茂朝」に介錯(かいしゃく)させ、その首をちかくの竹やぶの溝にかくした。 【 6月14日】、明智光秀の首は、それを発見した百姓により、「村井清三」をつうじての三男「織田信孝」の元に届き、まずは「織田信長」終焉の地である「本能寺」でさらしものにされた。 【 6月17日】、光秀と同じく、捕まって斬首された光秀の家来「斎藤利三」の屍とともに、京都の粟田口に、首と胴をつないだ形で、さらしものとされた。 【 同年6月24日】、「光秀」と「斎藤利三」の首塚が、粟田口の東の路地の北側に築かれた。 信長の側近「大田牛一」が書き残した『太田牛一旧記』によれば、明智光秀たちは小栗栖(おぐるす)という場所で、落ち武者がよく通る田のうえの細道を進んでいるときに、藪のなかから繰り出された百姓の「 サビ た槍で、腰骨を突き刺された」を受けたとのこと。 別の説よによれば、光秀は「落ち武者狩り」ではなく、「信長の家来だった小栗栖館の武士たち」から襲撃されて亡くなった、とも言われている。 そのとき、これで最期とさとった光秀は、自らの首を「知恩院に届けてくれ」と、周囲の者に言いのこした(つまり、この直後に光秀は切腹して、介錯され、みずからの首を討たせたということ) 《京都・知恩院》 「引用元より」 光秀の首のゆくえについて、信長の息子「織田信孝」に届けられた、と解説したが、その他にも諸説あり。 別の説によれば、光秀の首は、本人の遺言にしたがって「知恩院」へ運ばれたが、敵軍によって道をふさがれて届けられず、知恩院への道の途中で埋められ、現在では「知恩院」の近く、地下鉄東西線「東山駅」の南に、明智光秀の「首塚」がある。 光秀・終焉の地「明智藪」 光秀が「落ち武者狩り」または「小栗栖館の武士団」から襲撃され、亡くなった場所は「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれ、現在は「碑」が建てられている。 この場所は、「本経寺」の境内に位置している。 「明智藪」という名前だが、現在は「藪(やぶ)」があるわけではない。 羽柴秀吉(豊臣秀吉) 「引用元より」 兵力は 羽柴軍2万7千(4万人という説もある) 明智軍1万7千人(1万人余りとする説もある) 兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間はとても狭かったため、両軍とも「3千人程度」しか軍を配置することができなかった。 合戦が長引いてしまうと、「にわか連合軍」である羽柴軍の混乱や、周辺勢力の光秀への増援が予想されていた。 そのため、羽柴軍にとっては、決して楽観できる状況ではなかった。 羽柴軍の主力は「備中高松城の戦い」から「中国大返し」を行ったために疲れきっており、「高山右近」や「中川清秀」たち、現地で合流した武将とその軍団の活躍に期待するしかなかった。 秀吉側「3万5千人」に対し、明智光秀はというと、各城にも兵を残したため実数「1万人」程度で劣勢であり、戦いが始まると最大勢力の「斎藤利三」の軍団「3千人」が包囲されたことによりあっという間に敗走。 これにより早くも勝敗が決まった、との見解もある。 明智光秀の『辞世の句』と意味 光秀の辞世とされる詩や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものであり、創作の可能性がある。 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」 じゅんぎゃくにもんなし たいどうしんげんにてっす ごじゅうごねんのゆめさめきたれば いちげんにきす 【たとえ信長は討つとも、主君と家臣の順序について、文句を言われる筋合いはない 彼も我も、同じ「武士」である。 武士たるものが主君とするお方は、ただ一方(天皇)のほかに誰があるだろう。 その大道は、私の心の中にあること。 それを知るものは、やがて知るだろう。 とはいえ五十五年の夢が醒めれば、我も世俗の毀誉褒貶(きよほうへん)にさらされるだろう(毀誉褒貶・褒めるものも、けなす者も多いということ) しかしその毀誉褒貶をする者もまた、一元に帰せざるを得ないだろう。 】 心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ 【主君である「織田信長」公を倒せば、私は謀反人の汚名を着せられるだろう。 しかし、私の心は誰にもわからないのだから、なんと言われても構わない。 命も名誉も惜しくはない 】 1,の『死因』は? 「槍で刺されて致命傷を負ったため、切腹」 2,明智光秀の『没年月日』は? 旧暦・ 天正10年6月13日 新暦・ 1582年7月2日 享年55歳(67歳という説もある) 3,明智光秀の『最後の様子』は? 「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に敗北した光秀は、坂本城へと落ちのびる途中で、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩りの百姓たち」に襲撃された。 (または信長の家臣だった小栗栖館の武士団に襲われて亡くなった)。 竹槍(またはサビた槍)で刺されて深手を負ったため自害したという。 光秀終焉の地は「明智藪」と呼ばれて、現在は「碑」が建てられている。 4,明智光秀の『辞世の句』は?• 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」• 「心しらぬ人は 何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」• 「土岐(とき)は今 天(あめ)が下知(したし)る 五月(さつき)かな」 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。 よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。 ありがとうございました.

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【麒麟がくる】明智光秀の生まれた年は享禄元年・永正13年、どちらの説を採用したのか?

明智光秀年表

明智光秀が主役となる、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」が発表されましたー。 中々に謎多き人物なだけに、深堀りすると色々出てくるという面白い人物なのですが、今回はざざーっと 「明智光秀って?」という入門編をお送りしたいと思いますー。 一分で分かる明智光秀 まずは「明智光秀」という男がなんなのか、というのを超ザックリ説明していきたいと思います。 明智光秀早見表• 明智光秀は戦国・安土桃山時代に岐阜や滋賀、京都などで活躍した武将。 一生涯の前半部分が謎に包まれている男。 1564年ころ、越前(福井県北部)の大名・朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えた。 足利幕府の15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき)に幕府直属の武将として仕えた。 尾張(愛知県西部)の大名・織田信長に仕えた。 信長とそんな関係性がありつつも、光秀は天正10年(1582年)、京都の本能寺に宿泊していた信長を討伐する「本能寺の変」を起こす。 とまあこんな感じなんですが、本当にザックリなのであしからず。 というか 「諸説あり」な部分が沢山ありますので、詳しいところをこれから掘り下げたいと思います。 光秀の生い立ちは謎に包まれている 光秀は越前の朝倉義景に仕えるまでの前半生、 どこで何をしていたのかがさっぱりわからないんだそう。 「諸説あり」というのは、まさにこの部分のことを指していると言っても過言ではないくらいで、朝倉義景に仕えていたというのも『明智軍記』という記録(江戸時代に書かれた作者不明の軍記)にそのようなことが記されていたからで、本当はどうだったか定かじゃないそうです。 光秀の色んな説• 美濃(岐阜県南部)の出身で、美濃を収めていた武将の斎藤道三(さいとうどうさん)派に属し、後に朝倉義景に仕えた。 (明智軍記より)• 足利義昭に仕えていた細川藤孝(ほそかわふじたか)に「朝倉氏よりも尾張(愛知県西部)の織田信長を頼るべき」と言った。 (細川家記より)• 正体不明の光秀は、細川藤孝の下で足軽をやっていた。 (校合雑記より)• 光秀は現在の愛知県豊川市である、三河牛久保(みかわうしくぼ)の城主・牧野右近大夫(まきのうこんのたいふ)に仕え、領地をもらっており、やがて信長に仕えた。 (武功雑記より)• 光秀は現在の福井県小浜市である若狭小浜(わかさおばま)の鍛冶職人・冬広(ふゆひろ)の次男として生まれ、家業を嫌った光秀は滋賀の大名・近江六角氏(おうみろっかくし)に仕え、明智十兵衛(あけちじゅうべえ)を名乗った。 (若狭観跡録より)• 明智一族の末裔と思われる、御門重兵衛(みかどじゅうべえ)という人物が、信長の前に現れて「明智十兵衛(光秀のこと)」と名を名乗り、日向守(ひゅうがのかみ)という役職になった。 (ソースは不明) などなど、信長に出会うまでの若い頃の説を抜粋してもこれだけある上に、 出生地や出生時期に関してもいくつか説があるくらい謎の多き人物なんですね。 『明智軍記』に書かれている光秀の情報は、江戸時代に書かれたものであり、作者も不明。 そのため「信憑性が低い」と多くの学者の間で言われております。 本来はこうした書物は参考にしないはずなんですが、光秀は謎が多い分これらに頼わざるを得ないんだそう。 出世してからは大活躍 明智光秀は元々無名の武将。 朝倉氏には仕えていたものの、当時この朝倉氏に、後の将軍・足利義昭とその部下・細川藤孝がやってきたことが出世街道のきっかけでした。 光秀は藤孝に「朝倉氏に頼るよりも愛知の方にいる信長さんを頼った方がいいよー、俺も手伝うからさ!」的なことを言って、信長の力もあって義昭が一気に将軍になります。 (行程、だいぶはしょってます) このような経緯もあって、信長と義昭の橋渡し役として活躍。 そこからは信長の不在をついた三好軍による義昭への襲撃を救ったり、信長と同盟関係にあった浅井長政の裏切りの窮地から救ったりと、様々な手柄をたてます。 さらに、信長と対立真っ只中だった浅井&朝倉勢をかくまったことで知られる 「比叡山延暦寺焼き討ち」を成功させた光秀は 「第一級の手柄」を立てて、めちゃくちゃ出世をします。 その後、信長と義昭の仲が悪くなってからは、光秀は信長の家臣一本でいくことを決め、丹波平定(京都と兵庫にまたがる地域の攻略&秩序を回復して取りまとめること)を成功させるなど、信長の腕として熱い信頼を得ていきました。 一見、順風満帆な主従関係に見えるんですが、この後あの有名な事件「本能寺の変」が起こってしまうんですねえ…。 「本能寺の変」で主君・信長を討つ 光秀は、天正10年 1582年 に中国地方に出陣していた羽柴秀吉の援軍を信長に命ぜられ、中国地方の進軍に備えて1万3000の軍勢を抱え、京都の亀山城に入ります。 この時、 何らかの心境の変化で信長を討つ決心を決めた光秀は、京都の本能寺へと進軍し、信長を自害に追い込む形となってしまうわけです。 光秀が信長を討った理由というのも「諸説あり」まして、ここに関してはこのトピックだけで簡単に語れる部分ではないので割愛します。 が、いくつか説を挙げると• 朝廷が背中を押した説• 義昭が復権したかったから背中を押した説• 四国の平定を目指していた長曾我部との協力説 などなどがございます。 かくして、天正10年6月2日に光秀は信長を討ち取るわけです。 このときの織田家は日本の覇権を握っていて、沢山の武将から恐れられていましたし、信長の遺体を確保できなかった 光秀のことを擁護する武将はほとんどいなかったそうな。 その後は近江(滋賀県北東部)を鎮圧して、安土城(信長の居城)も制圧するんですが、中国地方から舞い戻った 秀吉と「山崎の合戦(京都府長岡京市の乙訓郡大山崎町)」で衝突し、敗戦するのであります。 最後は光秀の妻・煕子(ひろこ)の待つ坂本城(現・滋賀県大津市)に逃げ帰る途中で、落ち武者狩りの農民に殺害され、その生涯の幕を閉じます。 明智光秀ざっくり年表 今回ご紹介した流れをざっと掴んでもらうために、めちゃくちゃ大雑把な光秀年表を作りました。 にわか光秀ファンになりたい方はどうぞ。 記事内でも述べてるんですが、かなり「諸説あり」な人物なのであしからず。 「通説だと大体こんな感じ」程度に思っていただけると幸いであります。 享禄元年(1528) 光秀、美濃(岐阜県の辺り9)に生まれる?• 永禄7年(1564) 光秀、越前(福井県東部)で朝倉義景に仕え始める?• 永禄11年(1568) 足利義昭が信長を頼る。 光秀、信長に召し抱えられる。 永禄12年(1569) 正月に京都の本圀寺(ほんごくじ)にて三好さ三人衆に奇襲された義昭を助ける。 4月には秀吉との連署文書に確かな記録として「明智光秀」の名前が登場。 元亀元年(1570) 信長が浅井長政の謀反に合い、光秀と秀吉が信長の窮地を救う。 元亀2年(1571) 9月に比叡山を焼き討ち。 光秀はこの焼き討ちで「第一級の手柄」をたて、近江国志賀群(滋賀県大津市の一部)を与えられ、坂本城を築城する。 天正元年(1573) 信長が将軍・義昭を追放。 天正3年(1575) 光秀、丹波(京都府中部と兵庫県の一部)の攻略を開始。 天正7年(1579) 光秀、丹波を平定する。 天正10年(1582) 光秀、秀吉の中国(毛利攻め)の加勢を命ぜられる。 5月26日に亀山城(京都)に入る。 5月27日に愛宕山(あたごやま)に参詣。 5月28日連歌の会に出席。 6月2日に本能寺へ奇襲。 6月5日近江(滋賀県北東部)を鎮圧して、安土城(信長の居城)も制圧。 6月13日に坂本城(現・滋賀県大津市)へ逃亡中農民に殺害される。 と、ザックリ年表でした。 この合間合間にも光秀さんはかなり活躍しますんで、気になる人はさらに調べてみてくださいませ~。

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