ダイアナ 妃 事故。 [ ダイアナ妃死亡の真相を霊視 ]

故ダイアナ妃、事故発生後レスキューにあたった人物が明かす「最期の言葉」

ダイアナ 妃 事故

ダイアナさんのイメージをそのまま入って行きますと、当日のイメージをそのまま 伝えてきます。 アンリという運転手が酒を飲んだのも、パパラッチがダイアナさんの行動を 知っていたのも、すべて、その情報を流したり操作してる者がいたようです。 アンリに酒を勧めた関係者。 パパラッチの中の人物。 そして、トンネルの 中の前を走っていた白い車。 事故が起こってすぐに駆けつけて、トンネル内を 封鎖した人物。 それぞれある共通の意思を持っています。 それは、ドディを痛い目に合わせること。 これは殺人の意味ではなく、 生死を連想するような事故を起こさせるイメージです。 この事故がどのような形で起こったかですが、まず、運転手に酒を飲ませる事です。 アンリという運転手の方は気性も荒く、負けん気の強いイメージの方です。 本人もそう言っています。 この負けん気の強さを酒を飲ませて、パパラッチに 追われてもお前の腕で軽く巻いてしまうようにあおった人物がイメージされます。 そして、パパラッチの中にドディの車を追いかける者がいます。 3という数字が 出ますので、3人の連携のイメージです。 ホテルをアンリが運転する車が出てすぐにパパラッチが追いかけてきます。 次は道順です。 これが生き残ったトレバーの先導のようです。 最終的にトンネルを通るように誘導していたようです。 そして、トンネルの中で前を走って居た白い車が左前から接触しているイメージです。 実際に接触したかは解りませんが、左側から、車を寄せて来ているイメージです。 ) その時に何か光る物体をベンツのフロントガラスに投げられているような イメージです。 この事態を無線のようなもので指示している者がいるようです。 かなり このような計画にたけているイメージの人物で、ドディ氏に大怪我をおわせる または、大きな力で怖い存在である事を、ドディの父親に知らしめることが 目的のイメージです。 ダイアナさんはこの計画に利用されただけで、命までは奪おうなどのイメージは まったくなかったようです。 ダイアナさんの亡くなった理由は、運命であることをダイアナさん本人が伝えてきます。 最後にドディの父親を何故直接狙わなかったかですが、一つはボディガードに 守られており、ガードが堅い事と、次にドディの父が大怪我をしてしまったら 犯人の損益が出てしまうため、ガードがほとんどない、隙だらけのドディを ターゲットにしたイメージです。 あくまでも、信憑性のない私の霊界通信のイメージですので、 その真相はよく解りません。 でも、ダイアナさんはとても容姿や性格など、その人間性がとても素敵な方 だったようです。 あの悲しい事故から、もう10年以上経過していますがその人気は今だに健在です。 ダイアナさんのご冥福を祈りいたします。 ここをクリックしてくださいね 友人よりダイアナ妃の亡くなった真相について霊視してほしいとの 質問がありましたので、ダイアナ妃本人にその真相を聞いてみたいと思います。 ダイアナ妃の亡くなった事故当日の記事です。 その夜のダイアナは、いつもより落着きがないように見えました。 あるいはそれは、 見えない何かに脅えていたからなのかもしれません。 しかし、そんなことは意に介さず、 男たちは急かす様に、ダイアナ・フランシス・スペンサー、元イギリス皇太子妃にして、 公式にはプリンセス・オブ・ウェールズと呼ばれる彼女を、 リッツホテルの裏口に導いていきました。 1997年8月のパリ、時計の針は12時を20分ほど回り、日付は31日になっていました。 前の日の夜、レストラン、シェ・ベノアで予定していたディナーは、ダイアナの写真で 一儲けしようと企むカメラマン、パパラッチたちに追い掛け回され台無しになり、 あきらめなければいけませんでした。 疲れ果てたダイアナは、ボーイフレンドのエジプト人、ドディ・アルファイドとともに 9時過ぎに、ドディの父、モハメド・アルファイドの所有する、リッツホテルに移動しまた そこでしばらく休みを取った後、ドディのアパートメントに帰ることにしたのです。 ドディのアパートメントはダイアナのパリでの宿泊先でした。 ダイアナはその 年は7月、8月の多くの時間をドディと過ごしていました。 リッツホテルの外には、ホテルが借りていた黒塗りのベンツS280が停められていました。 車に乗り込んだのは4名。 運転席にはリッツホテルの警備責任者のアンリ・ポール。 アンリは死後の分析で血中アルコール濃度が0. 18-0. 2%と、この時かなり酔っていた ことが分かっています。 助手席にはドディのボディーガードのイギリス人、 トレバー・リージョーンズ、後ろの席には、ドディとダイアナが座りました。 4人ともシートベルトは付けていませんでした。 ひっそりとリッツホテルの裏側から走り出たベンツを、パパラッチは見逃しませんでした。 たちまち、車の後には何台かのパパラッチの車両に追われることになります。 運転手のアンリは彼らを振り払おうと、コンコルド広場から、セーヌ川の堤防沿いの通り へとベンツを猛スピードで走らせました。 そして、セーヌ川に沿った アルマの地下トンネルを通り抜けようとしたとき、ベンツは突然方向を乱して、 トンネルの13番目のコンクリートの柱に激突しました。 事故の前後については様々な目撃情報があります。 激突前に白いフィアットウーノと ベンツが接触し、ベンツが運転を誤ったというもの、また、前方で白い閃光が目を眩ます ように光ったという証言もありました。 いずれにせよ、100キロ以上の速度と推定される走行中の衝突事故は致命的でした。 運転をしていたアンリと後席のドディはほぼ即死の状態でした。 しかし、助手席のトレバー・リージョーンズは重傷を負いながらも生き延びます。 ダイアナは救急隊が来た時にはまだ生きていました。 ダイアナは救急隊員に、呻きながら 何か「My God」と聞こえるような(救急隊員はフランス人)言葉をもらしましたが、 明確な意識はありませんでした。 ダイアナは病院に搬送されましたが、 頭部に深刻なダメージがあり、31日の早朝、4時過ぎには死亡が発表されました。 36歳の誕生日を迎えて2月足らず、イギリス皇太子、チャールズと正式に離婚が 成立してから、ちょうど一年が経っていました。 特にイギリスの皇室の陰謀説が特に有名であると思います。 そのためこのダイアナ妃本人に事故の真相を直接、霊界通信で聞いてみたいと 思います。 この事故死については誰かの陰謀ですか? そうではありません。 事故自体はある人物いが絡んでいます。 という返答です。 イギリスの皇室は関係していないんですか? 私の子供たちがいるので皇室関連の方々はそこまでの事は誰も考えていないし、 計画もしていないと言います。 では、何故、事故が起きてしまったんですか? これは私ではなく、彼、ドディが原因です。 実際にはドディの父がその原因の 発端のようです。 何があったんですか? ドディの父親は敵も多く、トラブルがあり、かなりマークされている人物の イメージです。 「あることを守らないと、お前に圧力をかけるぞ」というような脅迫イメージを、 その事故が起こる3か月前位より、受けていたようです。 その中には、フランス国の秘密機関に通じる力を持っている方もおられる イメージで、これだけ世界を賑わした事故にも関わらず、詳しい情報をほとんど 公開しなかったのも、事故後にイギリスの皇室との連携まで自らとって、 事故の真相を封印してしまったイメージです。 ブログランキング参加中 (たくさんの方々に見てもらいたいです) ここをクリックしてくださいね.

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故ダイアナ妃、事故発生後レスキューにあたった人物が明かす「最期の言葉」

ダイアナ 妃 事故

スポンサーリンク 世界的に人気を集めていたダイアナ元皇太子妃の事故死を伝えるニュースは、 1997年8月31日に全世界に報道されました。 イギリス国民はもちろん、世界中がその悲報に悲しみを隠せない中で持ち上がったのが「 ダイアナ妃暗殺説」。 というのも、ダイアナ妃が亡くなったこの事故には不可解な点が多く、 事故の原因の真相が明らかになっていないために暗殺ではとされているのです。 また、事故には パパラッチの必要な追いかけも関係しているとの情報も、当時は大きく取り上げられました。 さらに、この事故では 車に同席していたボディーガードが唯一の生き残りとしても注目されています。 暗殺なのか、それとも悲劇的な事故だったのか。 この記事では、ダ イアナ妃の事故の原因を追い、起きた場所や乗っていたベンツ、事故に関係したパパラッチと事故の生存者について迫っていきます。 Contents• ダイアナ妃の事故の場所 ダイアナ妃が、事故にあったのは 1997年8月31日の深夜。 当時、ダイアナ妃は 恋人のドディ・アルファイド氏とパリを訪問中で、宿泊していたホテルには多くのパパラッチが張り込んでいました。 そこでダイアナ妃とアルファイド氏は、パリのオテル・リッツ・パリから抜け出し、アルファイド氏のアパートに行こうとホテルの裏口から車に乗車。 しかしながら、裏口から出た車にパパラッチが気づいてしまい 振り切ろうとしてカーチェイスになってしまいました。 事故現場となったのは、パリにあるセーヌ川北岸に掛かるアルマ橋の下を通るトンネル。 ジョルジュ・サンク大通りの地下を通る100m程度の短いものです。 ダイアナ妃が滞在していたホテルは、パリ中心街に位置していて事故現場はそこから数キロほど。 車は、コンコルド広場からアルマ広場へ向かおうとこの短いトンネルに入りました。 ダイアナ妃が乗っていたベンツは、この トンネルを時速100km以上で走行している途中に中央分離帯に激突。 事故当時のベンツの写真は悲惨なものでした。 すぐにレスキュー隊が到着したにも関わらず、救出には 車の車体上部を取り外すためにかなりの時間がかかったそうです。 事故現場から近いサルペトピエール病院に運ばれたダイアナ妃ですが、 そのまま意識が戻ることはありませんでした。 スポンサーリンク ダイアナ妃のベンツ事故の原因・真相~パパラッチ はたして、この悲惨な事故の原因はなんだったのでしょうか。 この章では、原因と考えられている事柄をまとめました。 イギリス政府の発表内容 ダイアナ妃の事故について、イギリス政府は 事故の原因はダイアナ妃が乗っていたベンツの運転手にあったとしました。 この運転手というのが、 アンリ・ポール氏。 事故後、ポール氏の遺体を解剖した際に 血中アルコールが1リットル当たり1. 74グラムあったというのです。 この数値は、 フランスでの飲酒運転の基準値の3倍にあたるそう。 ちなみに 日本での飲酒運転の基準値は、1リットルあたり0. 15mgとされています。 この血中アルコールの数値から、 アンリ・ポール氏が泥酔状態にあり運転を誤った結果事故に遭ったというのがイギリス政府の発表でした。 しかしながら、この発表に異議を訴える声が次々とあがりました。 まず、アンリ・ポール氏はダイアナ妃が滞在していた ホテルの警備担当者であること。 その立場から 職務中にアルコールを摂取する訳が無いと、常識的に考えありえないと言われています。 次に専門家から、この血中アルコール数値では、運転するどころか 歩くことさえままならないはずだとされたこと。 なにより、ポール氏が事故直前にホテルの監視カメラに記録されていて、その行動に 酔っている様子は見受けられなかったことが指摘されたのです。 とはいっても、実際に彼が事故当時どんな状態だったのか知る人はいなく、政府の発表は覆ることはありませんでした。 パパラッチの執拗な追いかけ行為 ダイアナ妃の事故で、大きい悲しみを抱いた国民が攻めた相手はパパラッチでした。 パパラッチが執拗にダイアナ妃を追いかけたりしなければ、こんな悲劇は起きなかったと考えたのでしょう。 というのも、ダイアナ妃は1997年当時、 熱愛が報道されスキャンダルを求めたパパラッチに執拗に追いかけられていました。 事故当日もパパラッチがホテルの周りを囲んでいて、それを避けるためにダイアナ妃はホテルから移動することに。 苦肉の策で、囮の車を手配したものの裏口で見つかり追われました。 パパラッチの追跡を逃れるために、ダイアナ妃が乗っていた車はスピードを上げパリ市内を走行。 追いかけてくるパパラッチを巻こうとトンネル内に入った矢先の事故でした。 そして、 イギリス国民がパパラッチを責める理由はもう一つあります。 その理由は、のちの報道で ダイアナ妃の乗っていた車に接触した車の所有者がパパラッチのジェームズ・アンダーソン氏だとされたのです。 アンダーソン氏が所有していた白い車は、ダイアナ妃の乗っていた車に接触し現場を走り去ったそう。 実際に、 ダイアナ妃が乗っていた黒いベンツには白い塗料が付着していて傷もついていたと言われており、このことから彼が、事故に大きく影響したのではと、考えた人が多かったのです。 ですが、アンダーソン氏は 2000年にフランス南部の農場で自殺。 「一酸化炭素中毒による自殺」と発表され、彼自身が事故に関して関わっていると吹聴していたとも言われていますが、彼が語った記録はありませんでした。 王室による暗殺説 2003年、イギリスを駆け巡ったスクープがありました。 それは、新聞紙に載せられた ダイアナ氏直筆の手紙の内容。 手紙には、 自分を殺そうとしている人の名前をダイアナ妃が残したというのです。 この手紙を新聞社に提供したのが、ダイアナ妃 元執事のポール・バレル氏。 ですが、彼はダイアナ妃の事故に関して様々な情報を提供していますが、 信憑性は怪しいと言われています。 しかし、この手紙は 間違いなくダイアナ妃の筆跡とされ大きな話題とまりました。 その手紙の内容は、恐ろしくも チャールズ皇太子がダイアナ妃を殺そうと考えているというもの。 その背景には、 チャールズ皇太子がダイアナ妃と離婚後に再婚を望んでいたことや ダイアナ妃の恋人がイスラム教徒だったことからキリスト教の王室が嫌がったなどがあります。 もちろんこの暗殺説に関して、イギリス政府と王室は完全に否定。 理由とされている事にも証拠はなく、怪しい都市伝説のようなものとされました。 運転手:アンリ・ポール氏 助手席:ボディーガードのトレバー・リース・ジョーンズ氏 後部座席:ダイアナ妃と恋人のドディ・アルファイド氏 この中で、生き残ったのが助手席に乗っていた トレバー・リース・ジョーンズ氏 ジョーンズ氏は、事故から10日間ほど昏睡状態で何度も手術をしたそうです。 事故から数か月かけて治療し回復。 ただ一人の生き残りに事故の真相を求める声が出ました。 ですが、 ジョーンズ氏は事故当時の記憶を喪失。 相当なショックを受けたと考えられます。 また、ジョーンズ氏は事故で顔の複数の骨が折れてしまって元に戻すのには、過去の写真を見ながら幾度も手術を繰り返したそうです。 事故の現場は悲惨なものであり、生き残ったジョーンズ氏も記憶喪失。 完全に事件の真相は闇に葬られました・・ 【まとめ】ダイアナ妃の事故の原因・場所〜パパラッチやベンツなど、不可解な真相 以上が、 ダイアナ妃の事故の原因や不可解な真相についてと、事故現場の場所に関する内容となります。 ダイアナ妃の乗車していたベンツ事故、果たしてこれはパパラッチによるものか、はたまた意図的な暗殺であったのか、それについてはこちらの記事で詳細を書いてありますので、合わせて確認してください。 驚きの計画内容が明らかになっています。

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ダイアナ妃 本物の事故写真や陰謀論も浮上?死因は恋人ドディとの交通事故

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ダイアナ妃のプロフィールや皇太子との結婚・離婚など それではまず初めに、ダイアナ妃の基本的なプロフィールや、チャールズ皇太子との結婚・離婚、その後の活動などについて、ご説明したいと思います。 — ねたろう cQxPGoKcnpEOn4Y ダイアナ・フランセス( Diana Frances) 出生 1961年7月1日( イングランド・ノーフォーク・ サンドリンガム・パークハウス) 死去 1997年8月31日(満36歳没)(? フランス・パリ・サルペトリエール病院) 配偶者 ウェールズ公チャールズ(1981年? 1996年) 子供 ウィリアム王子(長男)、ヘンリー王子(次男) 父親 第8代スペンサー伯爵エドワード・スペンサー 母親 フランセス・スペンサー(旧姓バーク・ロッシュ) ダイアナ妃は、イギリスの名門貴族・ スペンサー伯爵家の令嬢として、1961年に生まれました。 スペンサー家は、17世紀以来続く歴史ある貴族の家系で、エドワード・スペンサー伯爵とその夫人・フランセスの間の 三女として生まれました。 しかし、両親は1967年から別居し、1969年に離婚。 ダイアナ妃らの子供の親権は、父親が獲得しました。 そんなダイアナ妃は、のちにイギリスの第1位王位継承権者・ チャールズ皇太子の最初の妃となるのですが、お二人が出会ったきっかけは、1977年に姉・ セーラと交際していたチャールズ皇太子と会った事でした。 この時のダイアナ妃は16歳だった事や、チャールズ皇太子がダイアナ妃の姉・セーラと交際していた事もあり、お二人は恋仲にはなりませんでしたが、その後の1979年、王室のサンドリンガム邸のパーティーで皇太子と再会したのをきっかけに親しい関係となり、1980年に交際が深まりました。 そして1981年2月、ダイアナ妃とチャールズ皇太子は結婚。 1982年5月からは、ダイアナ妃と皇太子は ケンジントン宮殿で生活をはじめ、 ウィリアム王子と ヘンリー王子の2子をもうけましたが、やがて結婚生活や家庭生活、公務について、ダイアナ妃と皇太子は考え方の違いが深刻化していきました。 ダイアナ妃は 過食症に苦しむようになり、皇太子も1980年代半ば以降は、ダイアナ妃のいるケンジントン宮殿に戻らず、 ハイグローヴ邸で暮らすことが増え、 カミラという女性との交際を再開するようになっていました。 このカミラさんとは、皇太子がダイアナ妃と結婚する前に愛していた女性でしたが、皇太子が結婚の申込を引き伸ばした事などから、別の男性と結婚していました。 しかし、カミラさんとチャールズ皇太子は、結婚後も関係が続いていたのだそうです。 離婚後のダイアナ妃は、エイズ問題や地雷除去問題など 慈善活動への取り組みを本格化させていきました。 — ねたろう cQxPGoKcnpEOn4Y またダイアナ妃は、この頃からパキスタン人心臓外科医の ハスナット・カーン氏と交際を開始。 さらに1997年7月からはエジプト人映画プロデューサーの ドディ・アルファイド氏との交際も開始したと言われています。 そして1997年8月31日の深夜、 フランス・パリでドディ氏と一緒に乗っていた車が 交通事故を起こし、ダイアナ妃は36歳で還らぬ人となりました。 そんなダイアナ妃の生前の活動は、ファッションセンスが高く評価され、当時の女性の ファッションに大きな影響を与えました。 また慈善事業への積極的な取り組みも高く評価され、死後もその人気は極めて高いものとなっています。 ダイアナ妃の事故の経緯と、本物の事故写真 そんな悲劇的な最期を迎えられたダイアナ妃でしたが、その死因となった交通事故については、20年が経った現在でも様々な憶測が広がっているようです。 しかし、一般的には以下のような経緯があったと言われています。 1997年8月30日、ダイアナ妃とその最期の恋人だったドディ氏はチャーター機でパリ郊外のル・ブルジェ空港に到着。 宿泊予定のホテル・リッツから派遣された、運転手とボディーガードに伴われて、5ツ星ホテルのリッツに入りました。 このホテルの滞在中に、ダイアナ妃は ウィリアム王子から電話を受けていました。 この日の夜は、ダイアナ妃はドディ氏と、 「ポンピドゥー・センター」というパリの文化施設の近くのレストラン 「ブノワ」で夕食を取る予定でしたが、マスコミがレストランで待ち受けていたため中止。 結局、夜9時50分頃にホテルの部屋の中で夕食を取ったそうです。 この日の夜は、ドディ氏のアパートで寝る予定だったそうですが、ホテルの外で待つマスコミが急増したため、2人はおとりの車を何台かホテル正面から出した後、 8月31日に入った0時20分頃、ホテル裏口からベンツで出発しました。 同乗していたのは、 ダイアナ妃と ドディ氏、運転手の アンリ・ポール氏、ボディーガードの トレヴァー・リース=ジョーンズ氏の4人でした。 一行を乗せた車は、追跡してきたマスコミを巻くために 135キロから150キロという違法な猛スピード で、コンコルド広場から アルマ広場へ向かいましたが、アルマ広場下のトンネルで他車を避けようとして運転を誤り、中央分離帯のコンクリートに正面衝突しました。 シートベルトを締めていなかったドディ氏と運転手ポール氏は即死し、ダイアナ妃とジョーンズ氏は重傷を負いました。 (最終的には、シートベルトを唯一着用していた助手席のジョーンズ氏のみが生き残りました。 ) 事故発生後は、車を追跡していたマスコミたちと通りすがりの医師が第一発見者となりました。 医師が携帯電話で救急車を手配し救急隊が到着するまで、医師とカメラマンの一人がダイアナ妃の応急処置に当たっていたものの、他のカメラマンたちは写真を撮ってばかりだったそうです。 救急隊は1時間かかって潰れた車の屋根を切り、前部座席と後部座席に挟まれたダイアナ妃を車外に出すことに成功。 最寄りの サルペトリエール病院へ搬送されましたが、ダイアナ妃の 頭部と胸部はひどい傷を負っており、すでに助かる見込みはありませんでした。 そして結局、ダイアナ妃は意識を取り戻すことなく、午前4時頃に正式に死亡宣告を受けたのでした。 以下が、そんなダイアナ妃の事故直後の写真になります。 出血するダイアナ妃を車内から救出している様子が写されており、衝撃的かつグロテスクな要素も含んでおりますので、見ても大丈夫という方のみご覧くださいませ。 また、ダイアナ妃の交通事故に関しては、暗殺説なども浮上しましたが、イギリスでは10年に及ぶ調査と裁判が行われ、その結果、2008年4月7日の陪審でダイアナ妃の死は 「過失による交通事故死」という公式結論が出されたようです。 ダイアナ妃の死因は交通事故だが、暗殺説なども囁かれている? そんな暗殺説まで浮上したダイアナ妃の交通事故死でしたが、その背景には以下のような理由があったようです。 まず、ダイアナ妃の当時の恋人だった故・ドディ・アルファイド氏は イスラム教徒であったため、二人の結婚を機にダイアナ妃がイスラム教に改宗する恐れがあり、未来のイギリス国王の産みの母親が、イスラム教徒という事態を防ぐため。 そして、当時のダイアナ妃は既にドディ氏の子供を身ごもっていたという噂が浮上したため、アルファイド一族が未来のイギリス王の異父兄弟となることを阻止するため。 主に、この2つの理由によって、 イギリス政府が暗殺したとする 陰謀論が唱えられたようです。 こうした主張は、ドディ氏の父親である モハメド・アルファイド氏などによって、裁判などでも争われたようですが、ダイアナ妃の妊娠については、検死の結果、事実でない事が判明。 その他の主張についても論破されていき、結局、2008年4月にはダイアナ妃の死は「過失による交通事故死」という公式結論が出されるに至りました。 また、フランスの警察筋の証言によれば、• 事故当日、ダイアナ妃とドディ氏がどんなルートを取るかなど誰も知らず、場所も車種も分からない衝突事故を目論むのは不可能• ダイアナ妃とドディ氏が、シートベルトをしていたら一命を取り留める可能性はかなり高かったため、被害者が生き残りそうな、結果がどう転ぶかわからない事故を企てる者は居ない といった理由から、「陰謀論」を否定していたようです。 上記のような経緯によって、諸説あるものの、ダイアナ妃の交通事故は過失によるものという見方が強まっていったようです。 その後も2013年8月には、イギリス陸軍特殊部隊 「SAS」所属の狙撃兵が裁判で、SASがダイアナ元妃殺害に関与したとする情報を出して波紋を呼んだようですが、ロンドン警視庁の調査の結果、 裏付ける証拠は何もなく信用性なしとの結論が出ています。 しかし2017年6月21日には、元 MI5エージェントの ジョン・ホプキンス氏がダイアナ妃を暗殺したことを告白。 — ねたろう cQxPGoKcnpEOn4Y 短い余命宣告を受け、ダイアナ妃暗殺を告白したジョン・ホプキンスさん 同氏によれば、 上司(2000年代初めに心臓発作で死亡)がエディンバラ公から直接依頼を受け、事故を装い暗殺を決行。 バッキンガム宮殿の管理下にある主流メディアも協力した。 との事です。 ホプキンス氏はイギリス政府のヒットマンとして働き、1973年~1999年にかけて23回の暗殺を行った方で、その職務は「国家安全保障に対する脅威」を抱える個人を、暗殺することを含んでいたそうです。 そして、ダイアナ妃はロイヤルファミリーから直接依頼された唯一のターゲットだったと主張。 さらに、ダイアナ妃だけが暗殺された唯一の女性だったと語っていたようです。 その理由については、 彼女(ダイアナ妃)は、王家の秘密をあまりにも多く知っていた。 彼女は、大きな恨みを持っていて、あらゆる種類の狂気の犯罪を公開するつもりだった。 引用: などと語っていたようです。 またネット上では、ロシアの プーチン大統領が、イギリスのロイヤルファミリーによってダイアナ妃が暗殺された証拠を持っているといった情報も見受けられました。 その理由については、簡潔に述べると、ダイアナ妃の 地雷反対運動が、イギリスの地雷取引の利権に関わるためと考えられているようです。 (情報参照元:) といったように、あくまで説の域を出ない話ではありますが、ダイアナ妃の交通事故については、これまでに多くの暗殺説や陰謀論が浮上しているようです。 そして、今後も議論が繰り広げられていくのかも知れませんね。 終わりに という事で、事故から20年の歳月が経った今でも、イギリスをはじめ、世界中の人々から愛され続けている故・ダイアナ元妃の経歴や事故についてご説明させて頂きました。 歴史ある貴族の出身ながら、感情や心を大切にし、真っ直ぐに生きたその姿は、時に足枷となる事もあったでしょうが、現在も多くの人々から親しまれ続ける要因となっているのかも知れませんね。 それだけに悲劇の事故が、過失だったのか陰謀だったのかは、これからも議論は続いていくのでしょうが、少なくともダイアナ妃のその生き方に関しては、偽りのないものだったのではないかと感じました。

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