ナポレオン コンプレックス。 背の低い男性は攻撃的!?ナポレオン・コンプレックスとは

「低身長男子はケチで攻撃的」ナポレオンコンプレックスが研究で証明されたらしい

ナポレオン コンプレックス

フランスのパリにオテル・デ・ザンヴァリッド、通称アンヴァリッドと呼ばれる歴史的な建造物があります。 日本語では「国立廃兵院」と訳されていますが、もとは栄華を極めたルイ14世によって、病床兵を看護する施設として建てられたものです。 ここには、黄金の冠を被ったように見えるドーム形の屋根をした大聖堂がその礼拝堂として付随しており、その中にナポレオンのお墓があります。 アンヴァリッドの象徴とも呼ばれる美しい大聖堂の中は巨大な地下墓所になっており、その中心にナポレオンの柩(ひつぎ)が安置されています。 また、その周りを取り囲むようにナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が配置されています。 このアンヴァリッドですが、今ではナポレオンのお墓も含め日本からも多くの観光客が訪れる観光スポットになっています。 そこで今回「終活ねっと」では まずは ナポレオンがどういった人物なのかみていきましょう。 ナポレオンは1769年に12人兄弟の4番目としてコルシカ島で生を受けました。 10歳の時に、父のカルロによりフランスのブリエンヌ兵学校に入れられますが、その後、14歳の頃にパリの士官学校に入学しました。 ナポレオンは通常なら4年で卒業するところをわずか11カ月で卒業するという、とても優秀で読書家な少年でしたが、パリではコルシカ訛りを馬鹿にされたためにとても無口だったと伝えられています。 また、ナポレオンは、ヨーロッパを全土にわたって征服した戦術家として名高いですが、軍人としてだけではなく、政治家としてもすぐれていました。 戸籍制度の制定や法典の編纂、会計監査院、大規模土木工事実施に帝国大学など、その偉業の数々はナポレオンのお墓の周りを取り囲む回廊に施された彫刻で知ることができます。 しかし、国民投票によって 皇帝にまで上り詰めたナポレオンも、イギリスを中心とする当時の対フランスへの同盟軍により、皇帝の座から引き下ろされ、最後には大西洋の沖合のセントヘレナ島に幽閉されて、1821年の5月5日に51歳で生涯を閉じます。 その後、セントヘレナ島で埋葬されたナポレオンのご遺体は、ナポレオンの死後19年経った1840年に、最後のフランスの王であるルイ・フィリップ国王の意向で、棺ごと掘り起こされ、フランス海軍の戦艦で アンヴァリッドに運ばれて国葬されました。 「私が深く愛したフランス国民に囲まれて、セーヌ川のほとりで眠りたい」というナポレオンの遺言通りに、今もこの場所で永遠に眠り続けているのです。 ナポレオンは実際には独裁者であるという側面を持ちながらも、フランス革命で王政を打倒した市民にとって、諸外国との数々の戦いで勝利を収めていくナポレオンの姿は、間違いなく フランスの英雄でした。 その英雄を国民投票という民主的な方法によって皇帝に選んだことは、当時も今も変わらないナポレオン人気の理由の一つのようです。 ナポレオンのお墓は豪華絢爛 お墓のある大聖堂は、もとは聖王と称えられたルイ9世のご遺体を安置するために建設されたのですが、パリに戻ってきたナポレオンの棺を安置するために、大聖堂の地下をくりぬいて巨大な納骨堂が作られました。 ナポレオンの棺を上から見下ろすような形状になっていますが、祭壇脇の階段から地下に降りていけば間近で見ることもできます。 観光名所として名高い場所ではありますが、お墓に行くというのは日本人の感覚からすると「お墓参り」ということになるのでしょうか? ナポレオンのお墓参りの前に、その 豪華絢爛なナポレオンのお墓のスケールの大きさについてご紹介しておきます。 石棺 赤い色をした巨大な 石棺は、赤瑪瑙(あかめのう)で作られており、その大きさは縦約4m・横約3m・高さ約5mもあります。 5層構造の棺がさらに石棺に納められた形で、この大聖堂の中に埋葬されています。 台座 フランス北東部にあるヴォージュ地方で採掘された緑色の花崗岩が 棺の台座になっています。 花崗岩は石材でいうところの 御影石でもあり、日本でもお墓の石材として一般的に使われているもので、非常に硬いために加工がしにくいのですが、その分、風化に強く耐久性があり、磨くと綺麗な光沢が出ます。 床 大理石でできた床には、ナポレオンが勝利した8つの戦いの名前が刻まれ、さらに勝利のシンボルでもある月桂樹が、石棺を取り囲むようにモザイク模様で飾られています。 また、上から大理石でできた床を眺めると、まるで石棺が巨大な丸いカーペットの上に乗っているかのように見えます。 この床は、凱旋門のアーチ部分の彫刻でも有名な、彫刻家 ジェームス・プラディエが手掛けています。 ナポレオンのお墓があるのはどんなところ? 17世紀にルイ14世によって建てられたアンヴァリッドは、もとは傷痍軍人を受け入れるための施設であることは冒頭で述べました。 また、建設に35年の歳月を有した15ヘクタールもの巨大な施設は、18世紀初頭には4,500人もの傷痍軍人を受け入れたというのですから、その広さが桁違いであるのはお分かりでしょう。 当時は、病院やホスピスだけでなく、兵舎もあり礼拝堂も備わっていましたが、建物の一部を除いて、現在ではほとんどが 博物館になっています。 では、ここで ナポレオンのお墓がある場所について見ていきましょう。 ドーム教会とは ナポレオンの棺が安置され、事実上ナポレオンのお墓になっている ドーム教会ですが、そもそもドーム教会とは何を指すのでしょうか? 建築様式で屋根の形が丸くなっているものをドームと呼び、ドーム形の屋根をした教会はキリスト教だけに限りませんが、 「ドーム教会」と呼ばれるのはナポレオンのお墓のある教会だけです。 広大なアンヴァリッドの敷地内にあるこの大聖堂は、建物自体は一つですが、内部をガラスで区切られた2つの教会からなり、入り口もそれぞれ別にあり自由に行き来することはできません。 また、ドーム教会は王家の教会と呼ばれ、ナポレオンのお墓があるのはこちらの教会です。 高さ107メートルの吹き抜けになっているドームの真下に、ナポレオンの棺が安置されています。 もう一つの教会は、巨大パイプオルガンが特徴的な サンルイ教会で、兵士の教会と呼ばれています。 アーチ形の天井で白を基調とした厳かな雰囲気の建物は、現在もフランス軍の教会としての役割を担っています。 王族と兵士が同時にミサに与るために、入り口を分けて2つの教会にしたようです。 入場料 ナポレオンの墓のあるドーム教会に入るためには、アンヴァリッド(オテル・デ・ザンヴァリッド)の 入場料が必要になります。 広大な敷地ですので、チケットカウンターはエスプラナード・デ・ザンヴァリッド公園側とヴォーバン広場側の2か所がありますが、ナポレオンのお墓に近いのは公園側です。 入場料は企画展期間中は12ユーロ、企画展期間外は11ユーロですが、 パリヴィジットという交通パスを持っていれば2ユーロの割引を受けられます。 また、約60の美術館に直接入場ができるパリ・ミュージアムパスを持っていれば、入場券を購入する必要はありません。 アクセスの面での話をすると、すぐにナポレオンのお墓に行きたい場合は、メトロのアンヴァリッド駅よりは隣のヴァレンヌ駅の方が近いです。 見学の注意事項 最後に、ナポレオンのお墓があるドーム教会の 見学の注意事項について解説します。 ほとんどが博物館と言っても、現在でも軍事関係の行政機関がある施設でもあり、100名ほどが実際に暮らしています。 なので、入場の際には軍人によって入念な物々しいチェックが行われることをご承知おきください。 また、観光地になっているとはいえ、あくまでもお祈りを捧げる教会であること、また ナポレオン以外にもご遺体が安置されている場所であることをわきまえておきましょう。 ですが、建物としても素晴らしく、黄金の屋根を持つドーム教会では、シャルル・ド・ラ・フォスによって描かれた美しい天井画を見ることができます。 ルイ9世が異教徒との闘いで使用した剣をキリストに渡す場面が描かれていますので、ぜひオペラグラスなどを利用して見学されることをお勧めします。 比較的休館日の少ない建物ですが、 閉館日と閉館時間は必ず確認しておきましょう。 ナポレオンのお墓についてまとめ• ナポレオンのお墓は、パリの中心部のアンヴァリッドにある• ドーム教会の地下は巨大な納骨堂• ナポレオンの棺も巨大である• 建物もお墓部分も豪華絢爛である ナポレオンのお墓と聞いて、どんなイメージをお持ちでしたか? フランスの英雄のお墓を、ご自身の考えているお墓に当てはめることはできませんが、ナポレオンのお墓を見ていると今までのお墓という言葉からイメージされる既成概念は取り払ってもいいのかもしれません。 また、お墓は誰のためにあるのでしょうか? 見ず知らずの人たちがお墓に足を運んでくれるのは、ある意味でとても光栄なことでしょう。 いままでにない新しいお墓の形やあり方を考えてみるのも悪くはありません。 フランスの英雄ナポレオンのお墓ですが、ここにご自身の終活を考えるヒントがあるかもしれません。 最後までお読みくださりありがとうございました。 お墓を建てたいけどどうすればいいかわからない方へ... カテゴリーから記事を探す• 関連する記事•

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ナポレオン・ボナパルト

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スポンサーリンク は歴史上最も偉大な軍事指導者の1人であり、ヨーロッパ史に独自の足跡を残した人物です。 その生涯のピークではフランス皇帝に即位し、そしてヨーロッパの大部分を支配下に収めました。 一方で、その偉大な軍事史と並行して、複数の恋や愛の物語も進んで行きます。 ナポレオン・ボナパルトの生涯の中には、彼が愛した3人の女性が登場するのです。 その女性達とは、最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ、愛人で結婚はしなかったものの真にナポレオンを愛したマリア・ヴァレフスカ、そして2番目の妻で正式な後継者を残すこととなったマリア・ルイーザ。 この記事では、そんなナポレオンの二人の妻と一人の愛人となった女性達について、その生涯を見ていきたいと思います。 ナポレオン一番目の妻「ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ」 1795年、ナポレオンは自身の指導者であり事実上のフランス統治者であった ポール・バラスが主催するパーティーで、将来の妻となる ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと出会いました。 (出典:) この時、ジョゼフィーヌはポール・バラスの愛人で、彼らが初めて出会ったとき、ナポレオンは26歳、ジョゼフィーヌは32歳でした。 ジョゼフィーヌの元々の名は マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリと言い、ギャンブル中毒の父の下、3人姉妹の長女として貧しい家庭に生まれるといった、生家は貴族といっても名ばかりの困窮した幼少期を過ごします。 他の男性とも恋歴を重ねてきたジョゼフィーヌ ジョゼフィーヌは16歳で貴族の アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚。 彼らは長男ウジェーヌ、長女オルタンスをもうけましたが、結婚生活はジョゼフィーヌが20歳の時、1783年に破綻。 しかし、フランス革命中の1794年、彼女はアレクサンドルと共に反逆罪でパリに投獄されます。 この時、アレクサンドルは裁判にかけられてギロチンで処刑されてしまいましたが、ジョゼフィーヌは幸運にも刑を免れ、その後、1795年から1799年までフランスの実質的な権力を握った総裁政府のリーダー格「ポール・バラス」の愛人となったのです (ちなみに、ジョゼフィーヌは獄中でルイ=ラザール・オッシュ将軍と恋人同士となったとも言われます)。 ジョゼフィーヌにとっては渡りに船だったナポレオン・ボナパルト 1795年にジョゼフィーヌとナポレオンが最初に出会ったとき、 ポール・バラスはジョゼフィーヌに飽きていたらしく、代わりに新たな愛人を見つけたがっていたため、どうにかしてジョゼフィーヌから離れる方法を画策していたと言います。 そのような状況に置かれていたことから、ジョゼフィーヌにとって若き英雄ナポレオンとの出会いは、 フランス社会で生き残る手段を獲得するチャンスだったようなのです。 また、ナポレオンも妻となる女性を探しており、年上の女性と結婚をすればさらに社会に受容されると考え、ジョゼフィーヌの年齢は気にしなかったようです。 ジョゼフィーヌは男性を誘惑するのが巧みなまさに「 女優」で、堕落した女性が持つたしなみを全て持ち合わせていました。 二人が初めての出会った時、彼女はナポレオンを誘惑することに全力を注いだのです。 その努力の甲斐もあり、 ナポレオンとジョゼフィーヌは1796年3月に結婚、ジョゼフィーヌは晴れてナポレオンにとって最初の妻となったのです。 結婚から数日後、ナポレオンは新妻をパリに残し、イタリア軍とオーストリア軍との戦闘の指揮に赴いていきました。 ナポレオンの愛と妻ジョゼフィーヌの浮気 ナポレオンは妻となったジョゼフィーヌを心底愛していたとされ、ジョゼフィーヌに沢山のラブレターを送って彼の真剣な気持ちを表していました。 しかしジョゼフィーヌは、この結婚を彼女自身と子供たちが良い暮らしを送るための便宜と捉えていたようです。 彼女はナポレオンがパリを離れている間、 これまでと同様に社交界の人間との浮気(不倫)を繰り返していたのです。 それにも関わらず、ナポレオンのラブレターに返事を書く時にジョゼフィーヌは、夫婦として二人が深い関係であることを示すため、夫が遠くに行って1人取り残されてしまった状況に対する嘆きを綴っていました。 ちなみに、ナポレオンの同僚や部下の多くがジョゼフィーヌの不倫に気付いていたようですが、ナポレオンは自分に対するジョゼフィーヌの愛を決して疑わなかったと言います。 浮気がばれた後からナポレオンを愛し始めるも他界してしまうジョゼフィーヌ ナポレオンは勝利を収めてパリに戻り、1798年には35,000人から成る軍隊を率いて エジプト遠征を行いました。 このエジプト遠征の最中、 ジョゼフィーヌと騎兵大尉イッポリト・シャルルとの浮気がついにナポレオンにばれ、その浮気を嘆くナポレオンの手紙がことあろうことかイギリス側の手に渡り、新聞に掲載されたことで大恥をかいたナポレオンは、ジョセフィーヌと離婚することを決意します。 しかし、この時はナポレオンがジョゼフィーヌをまだ愛していたこと、さらにジョゼフィーヌが懇願したことから、離婚にはなりませんでした。 そして1799年10月、ナポレオンは無制限の権力を持つ政府統領に就任。 また、オーストリア軍に勝利し、再びイタリアをフランス支配の下に収めました。 ナポレオンはフランス銀行を設立し、ナポレオン法典として知られている新たな法「フランス民法典」を施行して国内の法制度を改革。 教育制度の見直しも行いました。 さらに、1804年5月には「ナポレオン1世」として「 フランス皇帝」に即位し、妻であったジョゼフィーヌには「 フランス皇后」の称号が与えられます。 一方で、ナポレオンは自分の後継者となる子供を非常に欲しがっていましたが、ジョゼフィーヌは彼の子を産むことはできませんでした。 そして、エジプト遠征中に起きた離婚騒動以降、急速にジョゼフィーヌへの関心を失っていったこともあり、ナポレオンはついに彼女を愛することを止めてしまいます。 それに対して、理由は良く分かっていませんが、この頃から不思議にもジョセフィーヌは、ナポレオンを心から愛し始めていきました。 最終的に、ナポレオンはジョゼフィーヌへの一切の関心を失ったため、 二人は1810年3月に離婚、しかしナポレオンは、彼女が女帝の肩書きを保持することと、彼女とその子供たちを扶養することには同意しました。 そしてジョゼフィーヌは、1814年に亡くなるまでナポレオンを愛し続けたと言います。 ナポレオンの愛人となった女性「マリア・ヴァレフスカ」 ジョセフィーヌへの愛を失ったナポレオンは次々に愛人を持ち始めました。 1807年、ナポレオンはポーランドのワルシャワで、ポーランドの名門貴族アナスターシィ・ヴァレフスキ伯爵の妻であった マリア・ヴァレフスカと出会います。 伯爵夫人はたいへんな美貌と若さを兼ね備えていました。 (出典:) 当時マリアは20歳だったのに対して、ヴァレフスキ伯爵は既に71歳で、この結婚はそもそも、マリアの生家ウォンチニスキ家の借金をヴァレフスキ伯爵が肩代わりする代わりに組まれたものでした。 また、ナポレオンも当時、最初の妻であるジョゼフィーヌに愛想をつかしていたため、両者にとって不倫関係になることは、全くもって大きな障害ではなかったのです。 マリアはナポレオンと共に、多くの時間をパリとウィーンで過ごすようになりました。 愛人女性マリアとナポレオンの間には息子が生また 1810年3月にナポレオンとジョゼフィーヌが離婚してから間もなく、1810年5月にはマリア・ヴァレフスカとナポレオンの間に、婚外子となる息子が誕生しました。 この赤ん坊につけられた名前は、 アレクサンドル・フロリアン・ジョゼフ・ヴァレフスキで、ナポレオンの姓名ではなく、ヴァレフスキ伯爵の姓名が付けられます。 これは、息子が誕生した時、マリアは法的には伯爵と結婚していたのが理由です。 (出典:) 一方で、アナスターシィ・ヴァレフスキ伯爵もアレクサンドルを後継者として認知し、後にこのナポレオンの子は、ヴァレフスキ伯爵の称号を継ぎます。 ナポレオンを愛するも正式に結婚をすることはなかったマリア・ヴァレフスカ マリアはナポレオンを心から愛しており、彼女の献身的な愛は完璧で誠実なものでした。 1812年にはヴァレフスキ伯爵と離婚し、その後はナポレオンだけを愛するために誰とも結婚しようとしませんでした。 また、1814年、ナポレオンがエルバ島に追放された時には、そこまで会いに行ったと言われます。 さらに、ワーテルローの戦いで敗れ、セント・ヘレナ島へ島流しにされることになったナポレオンがマリアへ二度と会えないことを伝えると、 マリアは涙ながらにセント・ヘレナ島へ一緒に連れていって欲しいと懇願し、また、別れた後は食事も一切喉を通らなくなってしまったほどだったと言います。 その後、自らが衰弱していく様や、子供の将来のことを考えた結果、ナポレオンへの思いを断ち切るためにも、マリアはナポレオンの又従姉妹であるドルナノ伯爵と1816年に結婚。 しかしマリアは、1817年に息子を出産した後に亡くなってしまい、この結婚は長く続かなかったのです。 ちなみに、セント・ヘレナ島へ追放されたナポレオンも、自分の部屋へマリアの肖像画を飾り、マリアから貰った指輪を最後まで指にはめていたと言われることからも、二人は結婚していなかったにも関わらず、両者の愛は紛れもなく本物だったことが分かります。 ナポレオン二番目の妻「マリア・ルイーザ」 ナポレオンは自分の血を引く、正当な後継者を持つことに非常に頑なでした。 以前の妻ジョセフィーヌはナポレオンの子孫を残すことが出来ず、マリア・ヴァレフスカとの間に生まれた息子は婚外子でした。 よってナポレオンは、法的に後継者資格のある子供を得るため、新たに正式な結婚相手を探し始めていたのです。 当初ナポレオンは、ロシアのアレクサンドル皇帝の妹との結婚を申し込んでいましたが、皇帝の母は自分の娘をナポレオンに預けることに反対。 (出典:) その結果、オーストラリア皇帝フランツ1世の娘だった、オーストリア皇女マリア・ルイーザに白羽の矢が立ったのです。 ちなみに、マリア・ルイーザは元々、マリア・ルドヴィカと言う名前で、過去にはナポレオンの侵略によって二度も宮殿を追い出された経験を持ちます。 そのため、マリア・ルドヴィカはナポレオンとの結婚が決まったと聞かされた時、心底絶望して泣き続けたと言われます。 マリア・ルイーザとナポレオンに子供が出来る 1810年4月に結婚した後、ナポレオンは自分が呼びやすいようにマリアの名前をマリー・ルイーズと変えさせます。 また、結婚前こそナポレオンに対して憎悪を抱いていたマリア・ルイーザですが、ナポレオンがとても優しかったこともあり、ナポレオンと時間を過ごすうちにマリア・ルイーザは、ナポレオンに心を開き、愛するようになっていったと言われます。 そして、ナポレオンの望み通り、1811年、二人の間に男の子が生まれました。 (出典:) ナポレオンはこの息子に、 ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトと名付けました (後のナポレオン2世でローマ王)。 ナポレオンとマリア・ルイーザの別れ 1813年、妻がオーストリア皇帝の娘であるにもかかわらず、オーストリアはナポレオンに戦争を宣言しました。 当時は、ナポレオンが率いるフランス帝国の覇権に挑戦するために、「 対仏大同盟」と呼ばれるヨーロッパ諸国の対フランス同盟が築かれていました。 そして1814年3月、イギリス、プロイセン、スウェーデン、オーストリアの連合軍によってパリが陥落すると、ナポレオンは退位させられてエルバ島へ島流しにされてしまいます。 この事件の後、ナポレオンの2番目の妻マリー・ルイーズは、息子を連れてオーストリアの父のもとへ戻り、その後生涯に渡ってナポレオンと会うことはありませんでした。 オーストリアの将軍伯爵フォン・ナイペルクとの新たな生活 エルバ島へ追放されてから10ヶ月後の1815年2月、ナポレオンはフランスへ戻って復権しますが、再び対仏大同盟が組まれ、復権から3ヶ月後にワーテルローの戦いが勃発。 1815年6月にナポレオンは同盟の前に敗北を喫し、南大西洋のセントヘレナ島へ島流しにされました。 この知らせを聞いたマリア・ルイーザは、自らも新しい人生を始めるため、1816年頃からオーストリアの将軍で伯爵だった フォン・ナイペルクとの関係を始め、1817年5月には娘アルベルティーナを秘密裏に出産。 1819年には二番目の子供をまた秘密裏に出産します。 そして、1821年5月5日にナポレオンがセント・ヘレナで亡くなったことを知ったマリア・ルイーザは、翌年の1822年9月にナイペルク伯爵と正式に結婚し、二人は4人の子供を授かり、この結婚生活はナイペルク伯が亡くなる1829年2月まで続きました。 それから月日が経った1934年2月、マリア・ルイーザは シャルル・ルネ・ド・ボンベルという男性と結婚し、1847年12月7日にその生涯を閉じています。 合わせて読みたい世界雑学記事• ナポレオンの妻と女達|ジョゼフィーヌと二人のマリアの生涯の話のまとめ フランスの歴史上に突如として現れた軍事的天才で英雄のナポレオン・ボナパルトが、生涯の中で愛した二人の妻と一人の愛人について見てきました。 これら三人の女性達は、ナポレオンについて理解する上では無視できない存在だと言えるでしょう。

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ナポレオンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

ナポレオン コンプレックス

慢性的な胃痛を抱えていた ナポレオンは慢性的な胃痛に悩まされていたと言われています。 セントヘレナ島で死亡した後ナポレオンの解剖が行われましたが、そこからは胃に腫瘍と癌があったことがわかっています。 実際はナポレオンの志望理由ははっきりとはしておらず、中にはヒ素による暗殺だったのではないかとも言われていますが、暗殺説を否定することもできません。 そして慢性的な胃痛に悩んでいたナポレオンは常に上着の隙間から手を入れて胃を押さえていたと言われています。 それがナポレオンが常に右手をポケットに入れていた理由の1つだと考えられています。 皮膚に湿疹があった 他にもナポレオンが右手を隠す理由があったと考えられています。 それはナポレオンが皮膚病患っていたため、お腹に湿疹ができてしまい、それを掻いているうちに右手をポケットに入れる癖ができてしまった、という説です。 確かに人前でお腹を掻くわけにもいきませんから、どうしてもお腹が痒くなってしまったらポケットに手を入れて掻くかもしれませんね。 ナポレオンが右手をポケットに入れていたのは既に癖になっていたものであり、本来はお腹を掻くという理由があったのかもしれません。 坂本龍馬にも似た癖があった!? 坂本龍馬は大河ドラマでも話題となりましたね。 日本全国あちこちに彼の銅像があります。 そしてそのような銅像には、坂本龍馬が懐に右手を入れているものが多いですよね。 有名な坂本龍馬の写真でも右手を隠す状態になって写っています。 これには様々な理由があると言われていますが、懐にピストルを入れていたから、という説が有力です。 しかしそこにも様々な理由が考えられており、1つはナポレオンの真似をしているのではないか、という説もあります。 確かにナポレオンもポケットに右手を入れ、右手を隠すような姿勢をとっていました。 もしかしたら坂本龍馬もそれを意識していたのかもしれませんね。 まとめ いかがでしょうか。 ナポレオンが右手を隠す理由は様々な説がありますが、いずれにせよそこにはナポレオンの秘密がありそうです。 今となってはナポレオンがなぜ右手をポケットに入れていたのかという事は明らかにされる事はありませんが、歴史的な英雄の謎としてこれからも語り継がれていくことでしょう。

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