ひむか の 風 に さそ われ て ブログ。 西行法師の生涯

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ミャンマーでのボランティアは日本語を教える活動だったそうです。 一年に一人が3か月お寺で教えるんだそうです。 教えた経験もなく、外国語も話せないので、日本語で日本語を教えるのは並みの苦労ではなかったそうです。 アニメを使って日本語をと考えられて、鉄腕アトム、ドラえもん、サザエさんを持って行ったと話されました。 ドラえもんは笑ってくれるとか。 でもサザエさんは少し難しくて、鉄腕アトムは理解できなかったとか。 日本では有名な宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』も理解してもらえなかったそうです。 私たちは普通に日本語を話していますが、ひらがな、片仮名、漢字を使って話したり書いたりできるのは本当に素晴らしいと。 ひらがなや片仮名は英語などのアルファベット同じようだけど、漢字は読み方がいくつもあるし、ものの数え方など、1本・・・6本(ろっぽん) あるいは1匹・2匹・3匹(3びき)・・・・6匹(ろっぴき)など変化があり、教えるのも、覚えるのは難しい・・など具体的なたとえを交えてわかりやすくお話しされた。 特に面白かったのは、お母さんたちのおしゃべりが子供たちの日本語教育に欠かせないんだ見たいなことを話されたこと。 それまでは女は無駄話ばっかりと思われていたのかな? 現在のミャンマーを知るうえでとても大事なことを話してくださった。 〆は校歌と応援曲の合唱です。 歌詞をしみじみと感じて歌いました。 本当にいい歌ですね。 校歌 一 鳴海が丘に濤寄せて 文化の華の咲くところ 緑の松に影映えて 誉はしるく世にかおる 象る姿 真善美 これぞ我等の理想なる 二 天籟妙に清き園 高き啓示に目覚めつつ 自由の空に翼張り 自信の駒に鞭あげて 北斗を指して一筋に 栄ある使命果たさなん 三 無限の岸に我立ちて 移り行く世を思う時 思想の潮は荒るるとも 躍進の意気胸に燃え 暗の醜雲打ち払い 真如の眼開かなん 四 尾鈴の山の黎明に 清雪の色鮮やかに 濁世の迷 覚まさんと 競い立ちたる若人の 正気溢るる古城の地 見よ 渾身の血は躍る 二次会も例年どおりにありました。 宮崎からいらした、今年のOB祭の実行委員のお一人はカウンターの中でも大活躍。 宮崎は飲み会が仕事の上でもとても大事だからか、実に素晴らしい心配りでしたよ! この席では、宮崎の歴史を勉強しているという人がいました。 宮崎県出身とわかると、神武天皇は、美々津から船出するまでどこに居て、どこを通って、美々津に行ったのだろうと聞かれるそうです。 言われてみると、???? だいたい神武天皇はどこに住んでいたのでしょうか?宮崎県北部の高千穂かあるいは鹿児島県との県境の高千穂の峰なのでしょうか?日向の美々津から船出するのですから、高千穂峡のある県北かなと思ってみたり・・・ ラグビーの話も、野球の話も盛り上がりました。 日向言葉が混じるのが何とも言えませんね。 来年も名古屋支部同窓会をよろしくお願いします。 めろんさんからの写真は大きなサイズでたくさん送られてきました。 感謝です。 帰郷しても用事が多かったりで中々観光はできませんから嬉しい便りです。 気になっていた、邪馬台国だったらいいなぁと思い続けている西都原古墳群。 写真は有名な鬼の窟です。 鬼の窟古墳(206号墳)(おにのいわやこふん) 西都原古墳群内で唯一、埋葬施設に横穴式石室を採用している古墳である。 鬼が一夜で造りあげたとする伝説が残ることが名の由来となっている。 石室入り口付近に生えていた楠により石室崩壊の危機にあったため、解体修復作業が行われ、その際同時に発掘調査が実施された。 石室内の水を排出するための暗渠の存在や土塁が完全に古墳を一周していたこと、追葬が行われていたことなどが明らかとなった。 古墳の周囲に土塁を巡らしているのは中華人民共和国・朝鮮半島ではよく見られるが、国内ではが類似するのみで、関係が注目される。 『ウィキペディア(Wikipedia)』より これは171号墳 171号墳は女狭穂塚の陪塚と言われ西都原古墳群で唯一の方墳です。 一辺25m高さ4.5mで二段築成されています。 墳頂平坦部は円筒埴輪列が取り囲みその内部に家形埴輪や盾形埴輪が列をなして立てられていました。 しかし内部に人を葬った跡は見られません。 第一次調査大正元年12月から翌年1月・平成10年から平成12年祭発掘調査整備されました。 墳丘の表面は川原石(葺石)で覆われています。 他にも男狭穂塚 おさほづか ・女狭穂塚 めさほづか があり、男狭穂塚は日本最大の帆立貝式古墳です。 ニニギノミコトの御陵と伝えられています。 男狭穂塚は5世紀初頭に建造された西都原古墳群中最大の古墳です。 女狭穂塚は九州では珍しい畿内式前方後円墳、九州最大の前方後円墳です。 コノハナサクヤヒメの御陵と伝えられています。 くわしくはからどうぞ! この西都原古墳群は、春は菜の花が咲き乱れ、今から季節は一面のコスモス畑が広がる。 それにつけても青い空によく似合う緑の古墳群! 昨日 ど真ん中祭りの鳴海会場から帰って 帰りは一時間に一本しかないバスで・・・それも10分以上遅れてた 、あーぁ 暑かったなぁと思っている頃にメールが届いた。 めろんさんから どーこだ! という写メールでした。 それはこの写真。 わかりますか? 高校の同窓の人ならわかるかもですね。 石河内を見下ろす展望台から見た、武者小路実篤がと作った理想郷、 日向新しき村です。 日向新しき村のことを武者小路実篤は『土地』に書いています。 後ろの山が霞んでいい感じです。 当時の村長だったかな。 101歳?まで生きた津江市作氏は村葬になりました。 当時は小・中学校の間に講堂がありそこでの葬儀だったと思います。 学校に行く時に横を通った記憶がありますから。 津江市作氏の思い出を彫刻家の田中等氏がに書いています。 こんなこともあったかもしれませんね。 土葬だった昔は、新しく墓穴を掘ったら、遺骨が出たという話はよくありました。 取りとめが無くなってきましたが、土葬だったころは、埋葬した後に棺桶が腐って地面が落ち込むのですぐに墓石を建てることはなく、木でつくった祠のようなものを作って置いてあった。 中には金銀の色紙などきれいだった。 今では火葬になったので、墓石も一家で一個になって骨を納めるようになったようだ。 先年亡くなった父親は、墓石もなくお寺に収められている。 今は直接お寺で供養するようになって来ているらしく、父親と同じ時期に亡くなった、従兄もお寺で眠っている。 笑 めろんさん、ふるさと情報ありがとうございます。 これからもよろしくお願いします。 PS 日向人さんはまだ行ったことがないそうですが、現国のsasayama先生がいっつも言ってたね。 あー たまらんあなぁ と!その石碑をメロンさんが送ってくれました。 訪問くださったたくさんの人、有難うございます。 今朝の朝日新聞に、武者小路実篤が大正時代につくった理想郷、新しき村が特集されていた。 今も続いているんです。 「新しき村」の名に聞き覚えのある人は、驚かれるかもしれません。 それは、「仲良き事は美しき哉」の言葉で有名な武者小路実篤が、大正時代に始めた農村共同体。 仕事はみんなで分担。 余暇はそれぞれ趣味を楽しむ理想郷をめざして90年。 高齢化は進むものの、村には静かな時間が流れ続けているんです。 実篤は、戦争を避けて最初にに日向新しき村をつくった理想郷。 この時の苦難は『土地』に詳しく書いてある。 時の村長、津江一作との関係、いきさつなども合わせて、興味深いことが書いてある。 のちに埼玉の毛呂山町につくった新しき村に行ってしまったが、どちらの新しき村も今も続いている。 よだきぼママが石河内 いしがわち に新しき村を訪ねたのは、子供が小さい頃だった。 まだ 実篤の先の夫人房子さんが、まだ存命中だったが、心の字に掘った池に水はなかった。 青年団が訪ねても会ってもらえる人そうでない人があったらしい。 この頃はすでに体調が悪かったのか・・・。 木城の中心からは、いくつもの山を越えて行かなければならない。 最後の山を降りる坂の途中に 山と山とが賛嘆しあうように 星と星とが賛嘆しあうように 人間と人間とが賛嘆しあいたい の石碑が建っている。 高校の現国の担任は、よく通る声で歌っては、たまらんなぁ・・といつも感激していた。 この通りに実現出来たら本当にに素晴らしい。 理想郷そのものだったろう。 今も住み続けているのは、松田省吾さんとヤイ子さん。 高齢になった房子さんと再婚した杉山さんの面倒をみるために、76年に日向に移り住んだ。 町の高城に住む吉田医院の元院長は、二人の最後を看取った。 吉田先生が書かれた本や、阿万鯱人著『一人でもやっぱり村である』に詳しいが、今、手元にないのが悔やまれる。 アルコールは飲まないが、焼酎の研究をしている人なのか面白いので リンクしてみた。 この酒屋はよく知っている。 先代にあたる?おばあちゃんに、雨が降り出すと、バスで帰りたくて10円、(子供だったから5円だったかも)貸してと頼んだ。 貸してくれるんだが、気難しおばあちゃんだった記憶もある。 3キロも雨の中を歩くより、やっぱ バスのほうがいいよね。 それは置いといて、好まれる焼酎の変化に驚いた。 子供のころは、寄り合いでも葬式でも何でも、高鍋のの橘に決まっていた。 時には隣の川南の 都の泉 だったかな。 黒木本店のたちばなが飲まれなくなっているというの驚いたし、は今年3月に廃業というのにも時代の変化を感じた。 そして Index から へ。 絶版焼酎を集めたり。 焼酎を飲まなくても楽しめそうだ。 これはこれは うちの亭主も喜びそうな掲示板だな。 なんだろう・・・長浜城からは今月の案内は届いているし・・・古代遊学会にしては厚みが違うし、と思ってみると、ふるさとの社会教育家のからです。 中身は待っていた「 高城の合戦を語り合う会」の資料と他にも興味深い資料です。 このときの様子は日日新日記のです。 感謝です。 落ちなかった高城ということは知っていても最初に嬉しかったブログは リンクしてある お寺さんぽ Ver 3 とそれに続く だったのです。 自分の故郷のこと知らないなあと思いながら、よくも調べて書いてくださったと思ったものでした。 このブログに書いた の資料を一部をふるさとからもらいました。 今回の資料にもあるかもしれません。 興味が深まります。 天正13 1585 年に、作られた十一面観音像も残っていて、町の文化財になっているとか・・・じっくり読みたいです。 こころない人はどこにでもいると分かっていても腹立たしいことはある。 (宮崎日日新聞web版)から 2007年6月17日 木城町のシンボルである城山公園のメロディー時計台が、ペンキでいたずら書きされるなどの被害に遭っていたことが16日までに分かった。 公園を管理している町企画課職員は「町の顔でもある施設にひどいことをしたものだ。 本当に残念」と落胆している。 町企画課によると、14午前10時ごろ、公園管理に訪れた際に発見。 時計台の床や階段にベージュや黄色の水性ペンキで「海がみたい」「鬼」など意味不明の落書きがされていたほか、明かり取り用窓のアクリルガラスも数枚割られていた。 駐車場とトイレも同様の手口でいたずらされていた。 今後、塗装業者などに依頼し、修復作業に当たるという。 【写真】ペンキで落書きされた城山公園のメロディー時計台 名古屋市に住んで30年以上になるが、自分を育んでくれたふるさとはいつまでたっても気にかかる。 でもあり、桜祭り・遠足その他思い出深い場所でもある。 そんな大事なところにひどいことをするもんだ。 愛知県在住のお城が大好きなちえぞーさんのブログはから。 宮崎の城跡が紹介してあります。 今日の花はルリマツリです。 白花はハンギングになっています。 蕾は出てきましたが咲くのはもう少しかかりそうです。 そのうちまた。 それとニワハナビ、ほんとの線香花火みたいに可愛い花です。 植えてあるのではなくて雑草ですが、愛らしい花に誰も抜けません。 オシロイバナも咲き始めました。 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006.

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最寄りの駅まで車で30分。 近くのバス停まで徒歩20分。 こんなとある大田舎に住んでいた者の上京物語。 田舎の農協に10年勤め退職。 その後1年半フリーターをしていた時に、東京で働いていた2つ下の後輩に誘 さそ われ、 30歳で都内の運送会社に出稼ぎに来たのがそもそもの始まりでした。 都会の道は知らない、4t車も運転したことが無いのに勢いで来ちゃったけど…本当に大丈夫か? 新幹線に乗り上野駅で待合せをし、後輩とその時の親方が迎えに来てくれそのまま「もつ焼き大統領」で顔合わせを兼 か ね一杯ごちそうしてくれた。 緊張感でいっぱいの中、盃 さかずき を重ねるにつれ心も安らいでいった。 三浦洋一風な親方がとっても人が良さそう、そして何より酒も好きみたいだなって(笑) これならなんとかやって行けそうと思った。 ところがその夜、あんなに呑 の んだはずの酒が効いてない? また俺、酒強くなった?と思ったが違った… 床について窓から見える沢山のトラックを見ていたら、 不安な気持ちがこんにちは! 寝れなかった最初の夜は。 そう 今でも忘れない東京初夜。 やっぱり来なきゃ良かったと思った夜。 でも気づくと朝だった(笑) そんな思いもしましたがどうして行こうと思ったか? 都会は遊びに行くところとずーっと思っていた筈なのに、ど、どうして? 理由は いっぱいお金が欲しかったから。 農協勤務当時は手取りで1?万くらい貰ってただろうか? 田舎暮らしなら生活に困る金額ではないが、もっと使いたかったのでアルバイトもしてなんとか20万位の収入はあったと思う。 5月の初め頃に、後輩から電話が来た。 「東京でトラック乗らない?」 「田舎の3~4倍は貰えるし、寮もあるから」 の言葉に気持ちは大きく揺れた。 そして 翌日には行くよ!と返事をした。 この瞬間、僕の親不孝第2章の幕が開けた瞬間だった(笑) 長男坊ではあったが、家業の大工も継がずましてや上京だなんて(笑) でも下2人いるから家はなんとかなるかなって(笑) はじめの3日間は社員ベテラン選手の方が助手席に同乗し道案内や積み降ろしのイロハを教わり、 4日目からひとりでの乗務。 地図を片手に〇〇交差点右折や信号何本目左折… 頑張って道覚えたな。 信号待ちでは一目散に地図を見て現在地の確認に懸命 けんめい だった。 道、間違ってないよなって。 運転してみて思ったのは都会の人は道を譲ってくれるんだって。 (田舎だと交通量が少ないから、俺が通ったあとで行け!みたいな風潮がある) 都会の人って本当は優しいんだ!と感じた瞬間でした。 仕事自体は12個のパレット 4t車の場合 を積んで降ろすだけ。 一部を除き重い荷物の積みが入ったパレットは無いし、道路が渋滞しても遅延する時は無線で連絡すればいい。 高速道路を主体とした配送ルートだったので覚え易かった。 お給料は10日に一度。 田舎のおおよそ1ヶ月分が10日で本当に貰えたし。 東京っていいとこ!なんでもっと早く来なかった俺? 何度思った事でしょう。 (その当時は方言バリバリでしたのでもっと言葉は少なめです) でも多く貰った分、使うお金も多かったな(汗) 同郷 どうきょう の仕事仲間20名くらいで一緒に寮 りょう 生活だったので、飲む打つ買うも時には皆で一緒に。 仲間と どこに行っても方言全開で、女の子のお店では頑張って方言混じりの丁寧語を話してました。 この時もう少し意識して話していたら、入社当時に困らなかったのになーと思った事のひとつ。 入社後の受電で感じた大きな事。 会話が出来ない。。。 言葉が出てこない。。。 大げさに言うと外国に来た感じ。 次号に続く。 2020年• 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 2007年• 人気の職種•

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タマムシ(ヤマトタマムシ) │ レヂヲのいきものぬりえずかんキッズ

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ここ「白峯神宮」は一般観光客が多く集まる観光地ではありません。 同志社大学がある烏丸今出川交差点から西に600m程の堀川今出川にある神社ですが、なぜ「白峯神社」ではなく「白峯神宮」なのか。 「神宮」の社号を有する神社は伊勢神宮 正式には「神宮」 を含め、全国で20数社を数えるのみです。 なぜこの神社は「神宮」の社号を持っているか。 それは祭神に、恐ろしい怨霊となった と信じられていた 崇徳天皇 すとくてんのう を祀っているからです。 「白峯」とは崇徳天皇が保元の乱に敗れ、流刑となり生涯京に戻ることなく歿した讃岐の国 現香川県坂出市 の地名です。 白峰神宮 由緒 幕末、風雲急を告げる中、121代孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた第75代崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。 明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、宮地を和歌・蹴鞠の公卿宗家「飛鳥井家」の邸宅地跡に求められ、慶応4年(明治元年)9月6日、社殿を現在地に新造。 奉迎鎮座されました。 続いて明治6年に第47代淳仁天皇の御神霊を淡路島南端の御陵からお移して、御併祀になりました。 当初は神祇官員が日々ご奉仕しましたが、明治の新制度により官幣中社としての待遇をうけ、昭和十五年には官幣大社に御昇格・「 白峯神宮 」となりました。 また、当神宮には「まり」の守護神として「精大明神」が祀られています。 「精大明神」は蹴鞠・和歌の宗家である公卿・飛鳥井家が代々守護神として邸内にお祀りしてきたもので、当神宮がその祭祀を受け継いでおります。 そのために、今では「まりの神様」として崇敬され、日本サッカー協会をはじめ各種スポーツにおいて、使用された公式球が奉納されています。 御神徳を仰ぎ、野球・サッカーを始めとする球技や新体操、また日々の習い事に至るまでの目的の上達を願う参拝者が多く訪れます。 けまりは、ボールを落とさない事・落ちない事から、勉学の神 白峯天神様のご利益が学力を落とさない・試験に落ちないなどと縁起が良いとされています。 春秋の修学旅行シーズンには、新人戦や大会に向け御祭神の御神徳を頂こうと学生達の参拝が多く、目的の上達を願い全国唯一の「闘魂守」を授かって、日々の練習の成果を発揮して頂いています。 また、蹴鞠保存会100周年記念に建立されました「蹴鞠碑」前での記念撮影や、全国唯一の「闘魂守」を授与しています。 このほか、崇徳天皇に仕え、武道の神として、源氏の頭領源為義・鎮西八郎為朝公を祀る「伴緒社」、縁結び、水の神「潜龍社」また、魔除・厄除の神と御利益が有る「柊大明神」を祀る、柊護符を節分の時季に限り戴ける。 境内各所に祀られています。 白峯神宮HPより 鞠庭 これは日本最恐の怨霊と言われる崇徳天皇の別の姿、優れた歌人として残した百人一首「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」の碑です。 「懸想文(けそうぶみ)売り」が登場する須賀神社の節分祭 節分の日は、須賀神社でももちろん豆まきが行われます。 しかし参拝者のお目当てはそれだけではありません。 ここの節分会の見ものは、「懸想文売り」がこの時だけ姿を現すことです。 懸想文売りは烏帽子(えぼし)をかぶって水干(すいかん:昔の衣装)を身にまとい、覆面で顔を隠し目元だけを出しているという、なんとも怪しげな格好。 彼らは文(ふみ)をつけた梅の枝を右手に持ち、左手には懸想文を持って、境内を歩きます。 この文は縁談や商売繁盛の願いを叶えてくれるお守りで、人に知られないように鏡台やタンスの引き出しの中に入れると着物が増え、容姿が美しくなり、良縁にも恵まるという御利益があると言われています。 「懸想文」のはじまり 懸想文とは、公家など限られた人しか文字が書けなかった時代に自分の恋心を代わりに書いてもらっていた文、つまりラブレターの代筆文をいいます。 懸想文の風習は平安時代から始まり、江戸時代になると盛んに行われ、いつしかラブレターの代筆業を行う「懸想文売り」が登場したといわれています。 懸想文売りがなぜ覆面で顔を隠しているのかというと、実はこの商売をしていたのが、貴族だったからです。 町の人々に代筆業のアルバイトをしていることがばれないように顔を隠していたのだとか。 この風習は明治になると一旦廃れてしまいましたが、第二次世界大戦後、夫婦神がまつられている須賀神社で節分祭の2日間だけ、再び懸想文売りが現れるようになりました。 この2日間は、懸想文を求め大勢の女性が神社を訪れます。 すぐ近くの聖護院門跡でも節分会が行われていました。 この通りには八つ橋の老舗「聖護院八ッ橋」さんと「本家西尾八ッ橋」さんがありますが、「本家西尾八ッ橋」さんでは例年節分にお茶とぜんざいを無料接待しています。 「ぜんざい」か「きな粉餅」を選べますが、「ぜんざい」をいただきました。 ごちそうさまです。 「本家西尾八ッ橋」のマスコットキャラクター「あんなま忍者八ッ蔵 やつぞう 」君 皆様、遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。 本年も当ブログをよろしくお願いいたします。 10月15日に行われる神幸祭には剣鉾巡行と神輿渡御が行われ、粟田祭の剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれているそうです。 鍛冶神社 粟田口 あわたぐち の刀工、三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光と、作金者(かなだくみ)の祖である天目一筒神を祀る鍛冶の神様です。 日向大神宮参道 この参道は蹴上インクラインの横にあります。 ここが伊勢神宮を参拝できる「伊勢遥拝所」です。 硬貨限定? のおさい銭箱 「日向大神宮」は京都最古の神社の一つで、5世紀末・顕宗天皇の時代に、筑紫の日向の高千穂の峰の神蹟を移したのが興りとされています。 日向大神宮の名の由来は遠く宮崎・日向の国から神様を迎えたことにあるようです。 この神社は規模は小さいですが、伊勢神宮とおなじく、外宮と内宮をもっています。 まずは外宮から参拝します。 内宮です。 「若水」とは元旦の早朝汲み上げられたご神水で、正月三が日参拝者に授与されます。 内宮の横になんと「天の岩戸」があります。 戸隠 とがくし 神社 祭神はもちろん、天の岩戸をこじ開けた天手力男命 あめのたぢからおのみこと 日向大神宮は地下鉄「蹴上」駅に近く、せっかくなので「ねじりまんぽ」も撮影しました。 「ねじりまんぽ」は南禅寺に抜ける歩行者用トンネルですが、内面の強度を高めるためレンガをねじり、渦をまくような造りになっています。 「まんぽ」とは鉱山の坑道などトンネル構造を指す古い言葉で,「まんぷ」「まぶ」とも呼ばれ,「間歩」などの漢字が充てられるそうです。 八坂神社「をけら詣り」 2017年12月31日、新年を翌日に控えた京都の神社や街角を巡ってみました。 京都名物のひとつ、ラーメン店「第一旭」の早朝行列。 午前7時開店で、この時午前7時4分。 京阪伏見稲荷駅 ホームに不思議な機械を発見 なんと外国人向け、外貨両替機。 流石は五穀豊穰の神様を祀る「伏見稲荷」、しめ飾りに稲をあしらっています。 先斗町に移動しました。 先斗町歌舞練場 久しぶりに見る「キセキレイ」 酔っ払いの仕業かな 北野天満宮 錦市場 「三木鶏卵」・・・すぐ近くに軒を並べる「田中鶏卵」と並ぶ、だし巻き卵の名店。 このぶら下がっているのは、京野菜「堀川ごぼう」で、女性の腕ほどある巨大ごぼうです。 八坂神社 昔、堺町松原下ル 現在の下京区 に、ある夫婦が住んでいました。 ところが夫が浮気をし、嫉妬深い妻は怒り狂い、ついには呪いの願掛けに走りました。 丑の刻参り(丑三参り〈うしみつまいり〉とも呼ばれる)です。 顔に朱をさし、身体に丹(赤色の絵の具)を塗り、頭には鉄輪(三本の足を持つ五徳)をかぶり、その三本の足には蝋燭、口に松明をくわえ、丑の刻に向かう先は貴船神社…… 呪いの正装? はこんな感じのようです。 Google画像検索からのイラストです 堺町松原下ルあたりから貴船神社へは片道15km往復30kmの道のりです。 この一本歯の下駄では歩行が困難でしょうから、下駄は貴船神社に着いてから履いたものと思われます。 五徳 ごとく 呪詛の満願は七日であったが、その六日目に女はついに力尽きたのか、自宅近くの井戸のそばで息絶えていた。 哀れに思った者がかぶっていた鉄輪を塚と見立てて葬り、やがてその井戸は「鉄輪井戸」と呼ばれるようになりました。 そして一つの伝説が生まれました。 この「鉄輪井戸」の水を飲ませると、どんな縁でも切れるという、その噂は広く知られるようになり、多くの人が水を求めてこの地を訪れたそうです。 有名な鉄輪井戸ですが、簡単には見つかりません。 『鐵輪跡』と刻まれた碑だけが頼りです。 そして井戸は民家の敷地内にある、個人の表札が掲げられた格子戸をくぐり、更に路地を奥へ約10メートル入った場所にあります。 突き当たりの右側に「鉄輪の井」があります。 井戸は既に金網に覆われ、もはや縁切りの水は汲めませんが、その井戸の上には鉄輪の由来書が置かれ、更に水に関する注意書きが置かれてあります。 ということは、今でも縁切りのためにわざわざ足を運ぶ人間が存在するということです。 江戸時代になって、縁切りの鉄輪井戸ではよろしくないなあということで、その隣に稲荷明神が祀られるようになり、その御利益は「縁結び」。 強力な縁切りの効果は、逆に強力な縁結びに通じるという発想ですね。 ですが、その稲荷神社も江戸末期には焼け落ち、町内の総意のもとで昭和に入ってようやく再建され、夫婦和合・福徳円満の神として祀られ、その名を命婦(みょうぶ)稲荷神社といいます。 2016年11月3日、北野天満宮で開かれた「曲水の宴」を拝観させていただきました。 「曲水の宴」は毎年4月第2日曜日に上賀茂神社で、4月29日と11月3日に城南宮で開催されていますが、北野天満宮での「曲水の宴」は初めてとのことで、北野天満宮HPでこの催しを見つけ、確認したところまだ席が残っていたため、即座に申し込みました。 曲水の宴とは、和歌の詠者が庭園に流れる小川のへりに座り、川に流した盃(さかづき)が手元に着くまでに和歌を詠む歌会。 道真も宇多天皇が主催する宴に何度も招かれ、多くの歌を残したと伝えられています。 当日券は終了との案内がでていました。 ここで受付を済ますと、案内パンフレットと入場券を渡されます。 お餅も授与されました。 夏に「御手洗祭 みたらしまつり」が開かれた「御手洗川」を渡り、「曲水の宴」が開かれる、「別離の庭」に進みます。 京都雅楽隊の皆様です。 怪しげな表情がいいですね。 かわいらしい女の子達の役割は何でしょうね。 詠み手男女二人とも顔が強張り気味です。 こちらは凛としていますね。 今にも吹き出しそうなこの表情・・何が可笑しかったのでしょう。 白拍子の登場です。 【白拍子】しらびょうし 本来、「歌につけて打つ拍子のこと」、あるいは「管弦の伴奏なしで歌うこと」などを意味したとされるが、転じてその歌舞を行う人自身を指すようになったと考えられる。 その芸能の形態は『平家物語』によれば、今様や朗詠を歌った後に、鼓などを伴奏に舞ったとされる。 」 出番のようです。 この杯を乗せる水鳥の模型を「羽觴 うしょう 」というそうですが、彼女達の役割はこの羽觴が小川のどこかで滞ってしまった時に、持っている竹竿で川下に進めることでした。

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