さいとう たつ おき。 斎藤義龍(高政)の生涯と斎藤道三(利政)と長良川の戦いに至る経緯

斎藤義龍(高政)の生涯と斎藤道三(利政)と長良川の戦いに至る経緯

さいとう たつ おき

「この本は「勉強」の本じゃないよ。 「教養」の本なんだ。 教養っていうのは、勉強で得た知識をいかす力のこと。 「猿も木から落ちる」ということわざを知っていることは、「知識」だよね。 でも、ただ知っているだけでは宝のもちぐされ。 たとえば、とても足がはやくていつもかけっこでは1位のお友だちがいたとする。 その子が運動会で転んでしまった時、「失敗することはだれにでもあるよ。 〝猿も木から落ちる〟というし、気にすることないよ」ってはげますことができるんだ。 そうしたら、そのことわざはキミの「教養」になる。 教養があると、キミのいうことに説得力が出て、人生が豊かに、深くなっていくんだ。 この本でやってみてほしいことがある。 まず興味があるページを1ページ読む、次に大人にクイズを出す。 クイズのないページだったら、「へぇ!」と思ったことをクイズにしてみよう。 そして、1分くらいで手短に解説するんだ。 人に話せるくらいに理解できたらすごい! もうその知識は完全にキミのものだよ。 ひとつひとつの知識を点で覚えることも大切だけど、「つながり」がわかると、点の知識が線になって、強い知識になるよ。 この本は1週間1テーマになっているから、月曜から日曜まで毎日読むと、知識がかたまりになって頭に入ってくる。 そしてその知識を自分の行動や考えに生かそう。 教養によって、より深い考察、賢明な行動ができるようになるはず。 そこで、ネットのコトバンクで調べてみました。 コトバンクにはいくつかの辞書の説明がのっていますが、そのひとつが以下のとおり。 「学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。 また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。 」さらに、 「社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。 」と書いてあり、使い方としては、 「高い教養のある人」「教養が深い」「教養を積む」「一般教養」といった例がのっていました。 (コトバンク デジタル大辞泉より) なるほど、「勉強」は、テストでいい点をとったり入試に合格することが目的になりがちですが、「教養」の場合は、生きることすべてに関わってきます。 「教養が深い」とは、知識が豊富なだけでなく知識と知識がつながって考える力が深く、行動全般、生き方そのものに賢さが感じられる人のこと。 また、「雑学」が断片的な知識の量を表すのに対して、「教養」では、知識をどう使いこなすか、自分の考えや行動にいかに生かせるかまでが関係してきます。 「知性のある人」という表現とも似ていますね。 もちろん、学校や塾で学んだことから疑問や関心が生まれて自分で調べたり考えたりすることでも、「教養」は身につくでしょう。 でもテストの点数を上げることや受験テクニックの習得に重点が置かれてしまうと、なかなか「教養」の方向には行きにくい。 その結果が、高学歴なのに教養のないエリートの誕生です。 そのためか、今年から小学校でスタートする新学習指導要領でも、「どのように学ぶか」ということに焦点が当てられていて、その中の「深い学び」の項には、こう書いてあります。 出典は 各教科等で、その教科等なりの「見方・考え方」を学ぶだけでなく、様々な教科等で学んだ見方・考え方を相互に関連付け、自分なりに問題を見いだし解答を導きだせるような学びになっているかという視点。 公教育もようやく、「教養」の方向に舵を取り始めているようです。 1年366日で366ページ、7ジャンル52テーマをクリアしようというスタイルになっています。 7ジャンルとは「言葉」「文学」「世界」「歴史」「文化」「芸術」「自然と科学」の7つで、各ジャンルから週ごとに小学生が関心を持ちそうな面白いテーマが設定されています。 1日1ページですから、当然のことながらお勉強方式で取り組むわけではありません。 帯に「毎日2分で、一生ものの知力を養う」と書いてあるとおり、ほんの少しの時間を使うだけ。 各ページには、まず、面白い言葉や覚えておきたい言葉(知識)がのっていて、それに関連する3択クイズがあったり、「それって何?」として言葉の説明がのっていたりします。 音読を提案しているページもあります。 その内容は、小学校で覚えるべきとされている範囲に限りません。 「早口言葉」や「回文」、「なげきの壁」に「ネルソン・マンデラ」、さらには「アルキメデス」「パブロフの犬」「相対性理論」「黒澤明」「ジョン・レノン」まで登場します。 大人でも、全部知っているとは言えないでしょう。 ですから、お子さまだけでなく、ママ・パパ自身も本書を通読して、自分がどれくらい知っているかチェックしてみると面白いと思います。 お子さまのほうは、クイズを解いたり音読したり、説明を読んだりしながら、へえ~面白い、こんな人がいたんだ、こんな最新情報があるんだ、もっと知りたい…というふうに興味が膨らんでいくことでしょう。 さすが齋藤先生です。 子どもたちが興味を持ちやすいテーマを選び、それを「教養」の方向につなげる心憎い構成になっています。 できれば、「まえがき」にあるように、お子さまにクイズを出してもらってください。 そうすることで、お子さまの知識はしっかりと脳に定着し、クイズを出し合うコミュニケーションの中で、新たな疑問や発想が生まれ、自分で調べてみようというふうにつながっていくでしょう。 もちろん全ジャンルに均等に関心を抱くことはないし、一人ひとり関心の方向が違って当然なのですが、小学校の中・高学年というのは、人生の中でもっとも学ぶ能力が高まる時期です。 この時期に、テストでいい点をとるだけの知識ではなく、心を豊かにする「教養」を育む知識を取り入れることは、とてもとても貴重な経験です。 1日1ページ、毎日読むことで、知性の筋力を鍛えます。 言葉、文学、世界、歴史、文化、芸術、自然と科学…小学生のうちに知っておきたい7ジャンルから、「言葉遊び」「日本文学神7」「世界のすごい画家」など52の週テーマを厳選。 1週間1テーマで点の知識が線になり、強い知識を目指します。 新学習指導要領で強化傾向にある日本の古典や伝統、ブラックホールやダークマターなど最新科学の知見、20世紀重大事件など世界情勢にもふれてグローバル視野を育てるなど、幅広い知性をはぐくみます。 さらに興味を広げる「おまけ知識」付き! 小学生へのプレゼントとしても最適です。 大人も楽しめる内容なので、親子でクイズを出し合って、楽しみながら読みすすめてください。 東京大学法学部卒業後、同大学大学院教育学研究科博士課程を経て、明治大学文学部教授。 専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。 主な著書・監修書に『声に出して読みたい日本語』(草思社)、『強くしなやかなこころを育てる!こども孫子の兵法』(日本図書センター)、『国語の力がグングン伸びる 1分間速音読ドリル』(致知出版社)、『「言葉にできる人」の話し方』(小学館新書)ほか多数。

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斎藤龍興 (斎藤竜興)~美濃・斎藤家を継ぐもその運命は?

さいとう たつ おき

生涯 [ ] 大永7年(1527年)7月8日、の長男(庶子)として生まれる。 母は側室の。 幼名は豊太丸、元服後は利尚、高政と名を変えている(『高木貞一氏所蔵文書』) が、本記事では義龍で統一する。 23年()2月22日から3月10日の間に、道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏のを継いで主となったとされる。 この隠居は父・道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。 なお、天文17年()相続説や、道三の隠居(義龍に稲葉山城を譲り、自身は鷺山城に移動)は『』で述べられているが、『信長公記』や『江美濃記』などの信頼性の高い史料に記述が無く、道三は隠居していないという説もある。 その後、道三は義龍を「 耄者 ( ほれもの、 (愚か者の意味)」と断じ、「利口者」のやらを溺愛するようになる。 一方の義龍も、父の政策と立ち居振る舞いに対して不満と危機感を募らせていく。 ついには道三が義龍を廃嫡して、正室のの腹である孫四郎を嫡子にしようとし、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせた ことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。 元年()、義龍は叔父とされると共謀して孫四郎・喜平次らをおびき出してに殺害させたため、道三はに逃走した。 弘治2年()、義龍はにて道三と対峙、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした()。 また、など道三に味方した勢力も別動隊を用いた迅速な用兵でほぼ同時期に攻め滅ぼしている。 からが道三を救援に来ていたが間に合わなかった。 義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した。 なお、この時に義龍の末弟・が尾張の織田家に亡命し、より偏諱を与えられ長龍と改名している。 尾張織田家との戦闘が続く中、義龍は京都の将軍より「」を称することを許され、美濃守護代家斎藤氏より改名、永禄元年()に治部大輔に任官し、永禄2年()にはし、足利義輝に謁見する。 義龍は足利幕府に列せられ戦国大名としての大義名分を得た。 さらに南近江のと同盟を結び、北のとも戦う。 しかし尾張国の織田信長の侵攻がより激しくなるなどの不利な条件もあり、勢力拡大は果たせなかった。 3年()、伊勢太神宮供米に対する過所(通行許可証)を下々役人中にあてて印判状形式で与えている(「神宮文庫所蔵文書」)。 この印判状も戦国大名が多く発給した文書形式であり、義龍がこれを採用したことは注目される。 さらに、義龍になって国内の武士にあてた知行宛行状が数多く発給されるようになる。 その所領がすべて貫高に結ばれる例もみられるようになる(「斎藤文書」)。 この貫高制は戦国大名の知行制の特質をなすもので、この貫高制によって荘園制に終止符をうつことができ、新しい知行制・軍役体系が次第に構築されていたことが推測される。 後に剃髪して玄龍と号している。 永禄4年(1561年)、(左京兆)に任じられるが、同年の5月11日に病死した(『永禄沙汰』『厳助往年記』)。 享年35。 辞世は「三十余年、守護天入、刹那一句、仏祖不伝 」。 後を子の龍興が継いだ。 人物・逸話 [ ] この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年1月)• 実父は道三ではなくであるとの説がある。 母・深芳野は道三の側室となったときにはすでに頼芸の子を懐妊していたという。 ただし、信憑性に乏しく、当時でも義龍の父親は道三だと認めている第三者の手紙(六角義賢が永禄3年(1560年)、家臣に宛てた書状『六角承禎条書』による)がある。 義龍は父殺しの汚名を避けるためか、の一門であるを称して、一色左京大夫と名乗った。 また主家の土岐氏も成頼が一色氏出身でその三代孫の頼栄が一色氏を名乗っている。 自己の正当性を主張するためとも考えられる。 義龍の母・深芳野の母方の祖父が尾張知多郡守護の(『美濃国諸家系譜』)、あるいは深芳野の父がであるとも言われる。 義龍方についた土岐氏旧臣である桑原・安藤・日根野・竹腰らは、それぞれ一色家家臣ゆかりの延永・伊賀・氏家・成吉に改名したという説もあるが、斎藤家家臣の一色家家臣団名への改姓時期は義龍没後で龍興の治世である永禄4年(1561年)である。 道三の実子ではないという噂を逆手に取り、父殺しの汚名を避ける大義名分を得て、一色を名乗ることにより美濃国人1万7千5百を自らの指揮下に結集させる事に成功したとされる。 道三は信長に美濃国を譲る遺言書のようなものを書いており 、義龍は最後まで道三から認められなかった。 永禄2年(1559年)に織田信長が僅かな供を連れて上洛した際には、道中に火縄銃で装備した手勢を派遣して、暗殺を謀っている。 結局は失敗するものの、これは記録に残る日本初のである。 身長六尺五寸(約197cm)の大男であったとされる。 にかかっており、それがもとで早死したといわれている。 しかし『大かうさまぐんきのうち』を見るとハンセン病ではなく、奇病で妻と息子とともに同時に死去したとされる。 義龍は道三討伐後に「范可(はんか)」と名乗ったという。 「范可」とは中国・の時代に止むを得ない事情により父親を殺した人物であり、義龍は自分の境遇と重ねこの名前を使うようになったとされる。 ただし、「范可」にまつわる故事の実在は確認されていない。 また、義龍が「范可」を名乗るのは、実際には道三を殺す以前からである。 『美江寺文書』によれば弘治元年(1555年)12月、「范可」名で同寺に禁制を出している。 これにより、義龍は道三のをしてから自分の行ないを悔やみ、罪障消滅のために「范可」と名乗ったとする太田牛一の説明は誤りであって、道三と戦う決意をした時には「范可」を名乗っていたことが証明されている。 は、「養父にあたる道三の首を斬ることが、実父の仇を討つことになり、実父に対して孝行だ、と理解した結果であったと思われる」としている。 また桑田は義龍の心境を、「父親と戦わなければならないはめになったので、どうせ、おれは范可なのだと、居直った様子が感じとれる」とも述べている。 は、道三から義龍への継承、道三の戦死までの経緯に関して、従来の説を批判している。 道三の美濃国内における発給文書の少なさを指摘して、義龍の家督継承は国内政治を省みない道三の施策を批判した重臣によって行われたであり、翌年の長良川の戦いは追放された道三が家督奪還を目指して兵を挙げたものであるとする見解を述べている。 菩提寺 [ ] 生前に、のをと制定している。 この寺には国のに指定されている斎藤義龍肖像画が所蔵されている。 この肖像画は、その子の龍興の寄進によるもので、肥満で下ぶくれの魁偉な容姿をしており、父の道三とはあまり似ていない。 系譜 [ ]• 母:深芳野• 妻:(近江局)• (正室)• 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 『岐阜市史』• , p. 勝俣鎮夫 「美濃斎藤氏の盛衰」 『岐阜県史通史編 原始・古代・中世』、1980年。 , p. 184. 33-64)• 『江濃記』『大阪城天守閣所蔵文書』『妙覚寺所蔵文書』• 『美濃国諸家系譜』• , p. 183. , p. 144. 156. , p. 145. , p. 151. 参考文献 [ ]• 『斉藤道三』 新人物往来社、1973年。 「美濃斎藤氏の盛衰」 『岐阜県史通史編 原始・古代・中世』、1980年。 勝俣鎮夫 『戦国時代論』 岩波書店、1996年。 関連項目 [ ]• 関連作品 [ ] テレビドラマ• (1973年、NET(現テレビ朝日)、演:)• (1973年、NHK大河ドラマ、演:)• (1989年、TBS大型時代劇スペシャル、演:)• (1992年、NHK大河ドラマ、演:)• (1994年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:)• (2005年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:)• ドラマスペシャル (2012年3月17日 テレビ朝日 演:)• (2020年、NHK大河ドラマ、演:).

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風雲児織田信長はプレーボーイで側室も美女揃いだった!ホント?

さいとう たつ おき

斎藤義龍 母は側室で 深芳野 みよしの といいます。 深芳野は、父・道三 利政 の主君だった 土岐頼芸のお気に入りの妾であった女性です。 土岐頼芸から斎藤道三 利政 に下賜され、道三の側室になりました。 これにより、実父・土岐頼芸の仇である斎藤道三と対立したとも云われていますが…、実父・土岐頼芸説は、江戸時代の 創作の可能性が高そうです。 また、斎藤義龍 高政 幼名は豊太丸、元服後に名乗った名前は利尚、高政など複数伝わっています。 正室は近江の方、浅井久政の養女で浅井亮政の娘とする説が有力だそうです。 しかし斎藤義龍 高政 の前半生は、あまり分かっておらず、家督を継いだ辺りから足跡を辿ることができます。 まず、義龍 高政 が家督を継ぐまでの経緯を書きます。 主君の土岐頼芸は家督相続を巡り、兄の土岐頼武(とき よりたけ)と争っていて、道三 利政 は頼芸の勝利に大きく貢献することになります。 ですが、道三は美濃の乗っ取りという野望を持っていました。 土岐頼芸は一度は、美濃の守護大名になるものの、後に道三 利政 によって尾張に追放され、その後は守護大名に返り咲くことはありませんでした。 土岐頼芸を没落させた道三 利政 は、 下剋上により美濃の実権を握ります。 そして天文23年(1554年)、義龍 高政 が22歳の時、道三 利政 から、家督を譲られ、義龍 高政 は稲葉山城主になったと云われています。 道三 利政 は、主君であった土岐頼芸を追い落してのし上がった人物ですので、人望がなく美濃の統治に苦労したため義龍 高政 と交代したとも、重臣に強制的に交代させられたとも云われています。 いずれにしても、その後、義龍 高政 と道三 利政 の仲は冷え切っていくことになります。 また道三 利政 は、織田信長との会見で信長の非凡さを見抜き、いづれ斎藤家が織田家の家臣になるのではと心配し、義龍 高政 に厳しくしたため、父子の確執を助長したとする見方もあるようです。 斎藤 孫四郎と斎藤 喜平次を亡き者に やがて道三 利政 は、義龍 高政 のことを「おいぼれ」と評価するようになります。 義龍 高政 の弟の 斎藤孫四郎(さいとう まごしろう)、 斎藤喜平次(さいとう きへいじ)を溺愛し、義龍 高政 の 廃嫡を考えるようになったそうです。 斎藤 孫四郎、斎藤 喜平次の生母は定かではありませんが、一説には正室の子供であるとされ、正室腹を理由に弟を跡継ぎにしようとしたとも云われています。 そして、義龍 高政 と道三 利政 は最悪の展開になります。 斎藤道三 弘治元年(1555年)の冬に義龍 高政 は、重病を装い、もう長くないからと弟の孫四郎、喜平次を呼びます。 義龍 高政 は、長井道利(ながい みちとし)と手を組み、道利は次の間という家臣の控えの部屋で、刀を置きます。 長井 道利は、斎藤家の重臣で、斎藤道三 利政)の庶子や弟という説もある人物です。 道利に倣い、孫四郎、喜平次も刀を置き、酒を振る舞われて、酔っぱらったところで、日根野 弘就(ひねの ひろなり)によって、斬られてしまいます。 切れ味の良い名刀「手棒兼常」 てぼうかねつね が、使われたと伝わります。 父・道三 利政 の寵愛を受けて、孫四郎、喜平次は奢っていたと伝わっており、滅ぼされた一因と考えられています。 また、義龍 高政 が廃嫡を恐れたためとも云われてます。 そして、義龍 高政 の命令で家臣が、孫四郎、喜平次を滅ぼしたことを道三 利政 に伝えると、驚いて身の危険を感じます。 道三 利政 は直ぐ兵を集めると、城下町を焼き払い、長良川を超え大桑城(おおがじょう)に逃れます。 長良川の戦い そして雪解けを待ち、 長良川の戦い(ながらがわのたたかい)という、義龍 高政 と道三 利政 の戦いが始まります。 長良川 斎藤家の家臣の多くは義龍 高政 を支持したと云い、義龍軍17500余名に対し、道三 利政 はわずか2700余名であったそうです。 道三 利政 の美濃の国盗りの経緯や、道三 利政 のワンマン体制に反発し、土岐氏の多くの旧家臣は義龍 高政 側にまわったと云います。 義龍 高政 軍は長良川南岸に、道三 利政 軍は長良川北岸に移動して激突し、長良川の戦いが始まります。 道三 利政 は、知略に長けた人物、美濃のマムシです。 始めは、義龍 高政 軍は押され、先手・竹腰道鎮を討ち取られます。 その後、義龍 高政 軍の長屋甚右衛門と道三 利政 軍の柴田角内との一騎討ちも道三側が勝利します。 ですが、全軍の激突が始まると、多勢に無勢で道三 利政 は押されます。 ついに道三 利政 軍は崩れて、長井道勝(ながい みちかつ )が道三 利政 を生け捕りにし、義龍 高政 の元へ連れていこうともみ合っていたところに、小牧源太が道三を討ち取りました。 また、道三の婿・織田信長は、道三を救うため尾張から出陣していました。 ですが、主戦場に到着する前に道三 利政 の訃報を聞き引き返します。 道三 利政 を討ち取り、勢いに乗った義龍 高政 軍は、織田軍に攻めよせて「大良河原の戦い」が起きます。 木曽川沿いで起きた退却戦、殿は織田信長自身が務めるという異例の出来事でした。 義龍 高政 軍と前線で戦わなければならず、命を落としかねない危険な役目です。 信長は「殿は俺がやる」と言うと、自身の乗った舟一艘だけ残し、鉄砲で威嚇しながら義龍 高政 軍の追撃を振り切りました。 また、長良川の戦いで道三に組したため、明智家の居城・明智城は3700の義龍 高政 軍に攻められ、二日後に落城。 の叔父の光安は、弟・光久と共に自害して果てたと云います。 明智光秀は、光安に明智家再興を託され、落ち延びた伝わります。 長良川の戦いから生まれた「道化者」 先に述べたように、義龍 高政 の実の父は土岐頼芸ではないかとも云われていますが、その話に因んだ話が残されています。 弘治元年(1555年)に義龍 高政 が二人の弟を滅ぼした後、家臣達に土岐頼芸は父であると主張し、「美濃を道三 利政 から取り戻す」という大義名分を掲げたと云います。 多くの土岐家の旧家臣は義龍 高政 を支援したそうですが、義龍 高政 にも道三 利政 にも恩義のある家臣は困ったそうです。 どちらに見方するか悩んだ家臣の一人に、当時37歳であった 道化六郎左衛門という侍がいました。 その時、義龍 高政 が「私に忠誠を誓うなら、私と同じように髪の毛を全て剃れ」と言ったそうです。 斎藤家の家中で争うので、敵味方が一目で分かるようにしたいという意図があったと伝わります。 道化六郎左衛門は悩んだ末、左半分の髪の毛を全て剃って、義龍 高政 に忠誠を誓います。 しかし、右半分は剃らずに道三 利政 に従うという苦渋の決断をします。 『武家事紀』(ぶけじき)という江戸時代に山鹿素行(やまが そこう)によって書かれた歴史書によれば、「この道化の髪型こそ 道化者(どうけもの)の語源である」と云います。 道化六郎左衛門は真剣に考えた結果ですが、滑稽な姿として表れ、「道化者」という言葉の由来になったそうです。 結局、道化六郎左衛門は道三に見方し、軍奉行を務め道三 利政 の後を追うように戦の中で亡くなったそうです。 斎藤義龍 高政 による織田信長の狙撃 道三 利政 は長良川の戦いの直前に、 娘婿である 織田信長に美濃を譲ると遺言を残したと云われており、書状が残されています。 偽造の可能性もあるようですが、道三 利政 と信長は認め合う仲であったと伝わります。 斎藤道三 利政 、義龍 高政 の城・稲葉山城 岐阜城 そして道三 利政 を滅ぼした義龍 高政 は、信長は対立することになります。 『信長公記』によると、永禄2 年(1559年)、信長が80人程の家臣を引き連れ、上洛した時のことです。 この時の上洛は、天下取りではなく旅のようなものでしたが、尾張から京へ旅することは、危険な行為でもありました。 京に滞在中の信長を、義龍 高政 の手勢が、火縄銃で狙撃し、密かに亡き者にしようとしました。 しかし、信長の家臣に見抜かれます。 義龍 高政 の信長狙撃計画は失敗しましたが、記録に残る「日本初の狙撃」と云われています。 道三 利政 と信長が信頼関係を築いた過程や遺言の話はこちらの記事に書いてあります。 一色氏は清和源氏(せいわげんじ)嫡流で、足利氏の一門でもあり 名門の家です。 義龍 高政 は室町幕府第13代・足利義輝(あしかが よしてる)から、一色氏を称する許可をもらい一色左京大夫と名乗り、永禄2年(1559年)には 足利幕府相伴衆という室町幕府の役職も授かったそうです。 突然「一色」の名前がでてきたようですが、この一色氏は、斎藤家と縁のある家ではないかとも云われています。 一説には義龍 高政 の母・ 深芳野の祖父か父が一色氏だとも伝わります。 また義龍 高政 の実父は、道三 利政 ではないとする説もあるため、道三 利政 の子でない説を利用したとも云われています。 父 道三 を滅ぼした汚名を避けるため、斎藤氏から一色氏に改名したとのだとか。 また、道三 利政 に奪い取られるまで美濃は土岐氏が治めていた地であり、「道三 利政 が尾張に追放した 土岐頼芸こそが義龍 高政 の父」となれば、義龍 高政 が美濃を治める正当性ができます。 その上、土岐頼芸の祖父・土岐成頼(とき しげより)の父は、 一色氏の出身です。 そのことからも義龍 高政 が一色に改名すれば、義龍 高政 が美濃の国主である正当性を示せるとも云われています。 ただ…、当時の人の書状から、義龍 高政 の実父は、道三 利政 であると当時の人は思っていたことが読み取れるそうで、真実は何か不明です。 また義龍 高政 が滅ぼした弟・喜平次は、道三から一色右兵衛大輔という名前を授かったそうです。 名門の一色氏の名前を弟が授かったことで、対立を深めたとも云われています。 頼芸の妾でありながら、道三 利政 の側室になった義龍 高政 の生母の話です。 長良川の戦いの後、義龍 高政 は六角義賢と同盟を結ぶ一方、織田信長、浅井久政と戦っていたため、勢力は拡大できずにいたそうです。 そして永禄4年(1561年)には、左京大夫(左京兆)に任じられた後、享年35歳の若さで急に亡くなります。 原因は持病だと云われていますが、一説にはハンセン病だといいます。 菌が感染し起こる感染症とのことです。 豊臣秀吉の家臣であった大谷吉継がハンセン病を患っていたと伝わっています。 その後は、わずか14歳の息子・ さいとう たつおき が家督を継ぎますが、大名としての斎藤家 一色家 は滅ぶことになります。 また龍興の母は、近江の方だと云われており、義龍 高政 の正室です。 斎藤家も土岐家も、家族や一族で争うという戦国時代とはいえ凄いですね。 道三の下剋上の過程についてです。

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