あつ森青い花咲かせ方。 [B!] 開けても暮れても隣国や宗教の悪口ばかりに花咲かせる御前こそ、まともな人間と言えるだろうか!?

花の交配表一覧[裏技・攻略情報]

あつ森青い花咲かせ方

俳句集 尾崎放哉著 荻原井泉水輯 序 荻原井泉水 其人の風格、其人の境地から産れる芸術として俳句は随一なものだと思ふ。 俳句はあたまだけでは出来ない、才だけでは出来ない、上手さがあるだけ、巧みさがあるだけの句は一時の喝釆は博し得ようとも、やがて厭かれてしまふ。 作者の全人全心がにじみ出てゐるやうな句、若くは作者の「わたくし」がすつかり消えてゐるやうな句(此両極は一つである)にして、初めて俳句としての力が出る、小さい形に籠められた大きな味が出るのである。 芭蕉の境地、一茶の風格に就ては今更云ふまでもない。 然し、それから後、俳句といふものが一概に趣味的な停徊的なものになつて、作者の人間、其気稟といふものゝ出てゐるやうな作は殆ど無かつた。 所謂「俳趣味」といふ既成の見方からすれば、俳句らしくなくとも、其作者のもつ自然の真純さが出てゐれば、其こそ本当の俳句だ、と私は思ふ。 而して、其様な本当の俳句を故尾崎放哉君に見出したのである。 入れ物はない両手でうける 其受ける物が多すぎて両手からこぼれ落ちさうな感じがする、かうした気持は折につけて私達の生活の中からも顔を出す事もある。 その自分ながらのありがたさを捉へて言葉に生かしたものとしても好いが、放哉君の生活を知つてゐる私には、彼が物を蓄ふべき器すらも持たぬ無一物の生活をしてゐて、其ゆゑに限りなく恵まれてゐる気持、全心の感謝を以て受取る気持がうれしいのである。 こんな好い月を一人で見て寝る 彼は勿論、「一人」ぎりで或寺の堂守をしてゐたのだが、「こんな好い月」とまで自然にほれ/゛\と是程に融込んでゆく気持は、一寸得難い所である。 而して一人でたんのうした上は、結局又一人で「寝る」より外はない、人間らしい淋しさも読む者をしんみりさせる。 翌は元日が来る仏とわたくし 今年の総勘定日たる大みそかだといふて世間の人は忙しがりつゝ新年の支度をしてゐるが、自分の所は掛乞ひさへも来ない、仏と二人きりの生活の安らかさ、然し又、その淋しさ、之が本当の人間の気持である。 「ともかくもあなたまかせの年の暮」と澄ましてゐた一茶よりも、此の放哉君の方に一段の真実がありはしないか。 肉が痩せて来る太い骨である 形容枯槁し尽して、其底から全霊全真なるものが出て来る。 此句は彼が病気になつてから、自分の骨の太さに自分で驚いた気持として、一個の人間の突きつめた心が丸ぼりに投出されてゐる。 放哉君の句には、技巧もなく、所謂、俳趣味もない。 彼とて、句作にたづさはつてから二十余年、技巧も知つてをれば趣味も知つてゐる、其を捨てゝ捨てきつて、斯うした句境にはいつて来た。 丁度、彼が法学士として、或保険会社の支配人としての社会的の地位を捨てゝしまつて、無一物の自然生活にはいつたのと同じ気持なのである。 放哉君が毎月何百円かの給料を投棄て、妻君をも振棄てゝしまつて、自分から「乞食」と称する事になるやうな、すばらしい生活革命を実行した其動機は、爰でいふまい。 彼はすつぱだかになると共に、京都の一燈園に飛込んで来て、托鉢奉仕の行願をはじめた。 天香氏にも信じられてゐたらしい。 一燈園には物質的の経営に当る宣光社といふ財団がある。 天香氏は彼が法学士であり理財の経験もあることだからと思つたのであらう、宣光社の会計を主管してくれと云はれた時、彼はソロバンをはじく事をする位ならば会社で給料を貰つてゐる、御免蒙りますと云つたさうである。 一燈園を飛出して、或寺に住込んだ。 たゞ働いて食はして貰へればいゝ、一燈園風の合掌三昧なのである。 板じきに夕餉の両膝をそろへる けれども、彼が性来の一徹な気質は他と妥協する事が出来ないので、到る処で容れられずに、其から其へと流転してあるいた。 漬物桶に塩ふれと母は産んだか そんな述懐も本当だつた違ひない。 彼は亡き母の追憶だけを別にして故郷が大きらひ、故郷の人も彼を変人扱ひにして、行衛不明の侭に、お互に音信もしないでゐたと見える。 学校時代の友人にも、会社時代の友人にも、彼はすつかり離れてしまつた。 彼が音信するのは俳句の友人だけになつた。 而して彼は起きてから睡るまで、仏に仕へる外は俳句に没頭してゐた。 勿論、名を求めず、利を求めず、彼は生さへも求めなかつた。 飯をたくことが面倒なので、焼米をこしらへて置いて、水を飲んで、いつ死んでもいゝといふ気持でゐた。 大空のました帽子かぶらす といふ彼の句もあるが、青空の中にぐつと頭を突込んだやうな心で、彼の生活はすつかり大自然と同化してゐた。 さうした境地から、彼の俳句がぐん/\と産れ出て来た。 其生活が純粋になつて初めて佳い句が出来る筈だといふ私達の考は、此放哉君を得て立派に立証されたのである。 俳句集 大 空 尾崎放哉著 須磨寺にて 大正十三年六月より十四年三月まで、兵庫須磨寺内大師堂の堂守として住み、五月若狭国小浜常高寺に移り、七月、京都に来る。 あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める 一日物云はず蝶の影さす 友を送りて雨風に追はれてもどる 雨の日は御灯ともし一人居る なぎさふりかへる我が足跡も無く 軽いたもとが嬉しい池のさざなみ 静もれる森の中をののける此の一葉 井戸の暗さにわが顔を見出す 雨の傘たてかけておみくじをひく 沈黙の池に亀一つ浮き上る 鐘ついて去る鐘の余韻の中 炎天の底の蟻等ばかりの世となり 山の夕陽の墓地の空海へかたぶく 柘溜が口あけたたはけた恋だ 赤いたすきをかけて台所がせまい 仏飯ほの白く蚊がなき寄るばかり たつた一人になりきつて夕空 墓原路とてもなく夕の漁村に下りる 高波打ちかへす砂浜に一人を投げ出す 雨に降りつめられて暮るる外なし御堂 昼寝起きればつかれた物のかげばかり げつそり痩せて竹の葉をはらってゐる 御祭の夜明の提灯へたへたとたたまれる 月の出おそくなり松の木楠の木 何も忘れた気で夏帽をかぶって ねむの花の昼すぎの釣鐘重たし 氷店がひよいと出来て白波 両手に清水をさげてくらい路を通る 日まはり大きくまはりここは満洲 父子で住んで言葉少なく朝顔が咲いて 砂山赤い旗たてて海へ見せる 声かけて行く人に迎火の顔をあげる 蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る ほのかなる草花の匂を嗅ぎ出さうとする 潮満ちきつてなくはひぐらし わかれを云ひて幌おろす白いゆびさき 茄子もいできてぎしぎし洗ふ 空に白い陽を置き火葬場の太い煙突 むつつり木槿が咲く夕べ他人の家にもどる 裏木戸出入す朝顔実となる 朝顔の白が咲きつづくわりなし いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘 陽がふる松葉の中で大きな竹かごおろす 蛙の子がふえたこと地べたのぬくとさ 何かしら児等は山から木の実見つけてくる 乞食の児が銀杏の実を袋からなんぼでも出す 船乗りと山の温泉に来て雨をきいてる もやの中水音逢ひに行くなり あらしの闇を見つめるわが眼が灯もる 海のあけくれのなんにもない部屋 銅銭ばかりかぞへて夕べ事足りて居る 古き家のひと間灯されて客となり居る 夕べひよいと出た一本足の雀よ たばこが消えて居る淋しさをなげすてる をだやかに流るる水の橋長々と渡る 空暗く垂れ大きな蟻が畳をはってる 蚊帳の釣手を高くして僧と二人寝る 蟻を殺す殺すつぎから出てくる 雨の幾日がつづき雀と見てゐる 雑巾しぼるペンだこが白たたけた手だ 友の夏帽が新らしい海に行かうか 氷がとける音がして病人と居る すでにあかつき仏前に米こぼれあり 写真うつしたきりで夕風にわかれてしまった 小さい時の自分が居った写真を突き出される 血がにじむ手で泳ぎ出た草原 昼の蚊たたいて古新聞よんで 人をそしる心をすて豆の皮むく はかなさは燈明の油が煮える 刈田で鳥の顔をまぢかに見た 落葉木をふりおとして青空をはく からかさ干して落葉ふらして居る 傘さしかけて心寄り添へる 赤とんぼ夥しさの首塚ありけり 血汐湧き出で雑念なし 念彼観音力風音のまま夜となる 障子しめきって淋しさをみたす 屋根の落葉をはきおろす事を考へてゐる 水草ともしくなるままの小波よせる 庭石一つすゑられて夕暮が来る わらぢはきしめ一日の旅の川音はなれず 寒さころがる落葉が水ぎはでとまった 木槿が咲いて小学を読む自分であつた 墓石洗ひあげて扇子つかってゐる 藁屋根草はえれば花さく 木魚ほんほんたたかれまるう暮れて居る 今朝の夢を忘れて草むしりをして居た 児に草履をはかせ秋空に放つ ぶつりと鼻緒が切れた闇の中なる 鳩がなくま昼の屋根が重たい 土運ぶ黙々とひかげをつくる 風船玉がをどるかげがをどる急いで通る 財布はたいてしまひつめたい鼻だ マツチの棒で耳かいて暮れてる わが足の格好の古足袋ぬぎすてる 生徒等が紀念碑を取り巻いてしまった陽の中 栗が落ちる音を児と聞いて居る夜 夕べ落葉たいて居る赤い舌出す 落葉燃え居る音のみ残して去る 自らをののしり尽きずあふむけに寝る 落葉へばりつく朝の草履干しおく 何か求むる心海へ放つ 波音正しく明けて居るなり めつきり朝がつめたいお堂の戸をあける 青空ちらと見せ暮るるか ばたばた暮れきる客がいんだ座ぶとん 大空のました帽子かぶらず どつかの池が氷つて居さうな朝で居る 猿を鎖につないで冬となる茶店 児に木箱つくつてやる眼の前 ふくふく陽の中たまるのこくづ 落葉たく煙の中の顔である 晩の煙を出して居る古い窓だ 仏体にほられて石ありけり 足音一つ来る小供の足音 足袋ぬいで石ころを捨てる 何かつかまへた顔で児が籔から出て来た 一人のたもとがマツチを持つて居た 昼だけある茶屋で客がうたつてる 大根洗ひの手をかりに来られる 上天気の顔一つ置いてお堂 馬の大きな足が折りたたまれた 打ちそこねた釘が首を曲げた とまつた汽車の雨の窓なり 鳥がだまつてとんで行った 粉炭もたいなくほこほこおこして 一人つめたくいつ迄薮蚊出る事か 昼ふかぶか木魚ふいてやるはげてゐる 妹と夫婦めく秋草 鉛筆とがらして小さい生徒 お寺の秋は大松のふたまた 小さい火鉢でこの冬を越さうとする 心をまとめる鉛筆とがらす 松かさつぶてとしてかろし 朝々を掃く庭石のありどころ お堂浅くて落葉ふりこむさへ をん鶏気負ひしが風にわかれたり 草枯れ枯れて兵営 仏にひまをもらつて洗濯してゐる 大根が太つて来た朝ばん仏のお守する ただ風ばかり吹く日の雑念 かぎ穴暮れて居るがちがちあはす 二人よつて狐がばかす話をしてる うそをついたやうな昼の月がある 酔のさめかけの星が出てゐる 考へ事して橋渡りきる 松原児等を帰らせて暮れ居る おほらかに鶏なきて海空から晴れる 中庭の落葉となり部屋部屋のスリツパ 白い帯をまいてたまさかの客にあふ 山に家をくつつけて菊咲かせてる しも肥わが肩の骨にかつぐ 板じきに夕餉の両ひざをそろへる わがからだ焚火にうらおもてあぶる 傘干して傘のかげある一日 こんなよい月を一人で見て寝る とつぷり暮れて居る袴をはづす 夜中菊をぬすまれた土の穴ほつかりとある 便所の落書が秋となり居る 竹の葉さやさや人恋しくて居る めしたべにおりるわが足音 小さい家をたてて居る風の中 囮のかごさげてだまつて山にはいる 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る 火ばしがそろはぬ儘の一冬なりけり 朝の白波高し漁師家に居る 草履が片つ方つくられたばこにする むつきを干して小さい二階をもつ 島の女のはだしにはだしでよりそふ わが顔ぶらさげてあやまりにゆく 葬式の幕をはづす四五人残つて居る 秋風のお堂で顔が一つ 菊の乱れは月が出てゐる夜中 今日も生きて虫なきしみる倉の白壁 黒眼鏡かけた女が石に休んで居るばかり 釘に濡手拭かけて凍てる日である つめたい風の耳二つかたくついてる お堂しめて居る雀がたんともどつて来る たんぼ風まともにうけとぼけた顔だ 蟻が出ぬやうになつた蟻の穴 庭掃いて行く庭の隅なるけいとう 降る雨庭に流をつくり佗び居る のら犬の脊の毛の秋風に立つさへ 雑草花つける強い夕風 あひる放たるる水底見ゆる 草のびのびししはぶきして窓ある わが家のうしろで鍬ふるふあるじである しぐれますと尼僧にあいさつされて居る 人殺しありし夜の水の流るるさま 水たまりが光るひよろりと夕風 針に糸を通しあへず青空を見る 糸瓜が笑ったやうな円右が死んだか きたない下駄はいて白粉ぬることを知つてる 軍馬たくさんつながれ裸の木ばかり 片目の人に見つめられて居た すでにすつ裸の柿の木に物干す 冬帽かぶつてだまりこくつて居る 紅葉あかるく手紙よむによし 襟巻長くたれ橋にかかるすで凍てたり 公園冬の小徑いづこへともなくある 写真とつて歩く少し風ある風景 児をおぶつてお嫁さんの顔見に出る 大地の苔の人間が帽子をかぶる 葱がよく出来てとつぷり暮れた家ある 病人よく寝て居る柱時計を巻く お盆にのせて椎の実出されふるさと 姉妹椎の実たべて東京の雑誌よんでる かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である 眼鼻くすぼらしてゐた風呂があつうなる 赤ン坊のなきごゑがする小さい庭を掃いてる 大松暮れてくるはだしを洗ふ頃となる 雀のあたたかさを握るはなしてやる 洒もうる煙草もうる店となじみになつた 灰の中から針一つ拾ひ出し話す人もなく 帆柱がならんでみんなとまる船ばかり 曇り日の落葉掃ききれぬ一人である たくさんの児等を叱つて大根漬けて居る 門をしめる大きな音さしてお寺が寝る うで卵子くるりとむいて児に持たせる 傘にばりばり雨音さして逢ひに来た あるものみな着てしまひ風邪ひいてゐる かまきりばたりと落ちて斧を忘れず 事実といふ事話しあつてる柿がころがつでゐる 黒い帯しつかりしめて寒い夜居る 師走の夜の釣鐘ならす身となりて 師走の夜のつめたい寝床が一つあるきり けもの等が鳴く師走の動物園のま下を通る 雪を漕いで来た姿で朝の町に入る 大雪となる兎の赤い眼玉である 女と淋しい顔して温泉の村のお正月 破れた靴がばくばく口あけて今日も晴れる 榾火に見渡さるる調度である 小鳥がふみ落す葉を池に浮べて秋も深い 焚えさしに雪少し降り明け居る 寒鮒をこごえた手で数へてくれた 落葉掃けばころころ木の実 柿の木を売つた銭を陽なたで勘定してる 反古を読み読み消し壷張りあげた 犬をかかへたわが肌には毛が無い 鞠がはずんで見えなくなつて暮れてしまつた 舟の帆が動いて居る身のまはりの草をむしる かたい梨子をかぢつて議論してゐる 聞こえぬ耳をくつつけて年とつてる たくさんある児がめいめいの本をよんでる 借家いつか出来て住む夫婦者の顔 草刈りに出る裏木戸あいたままある 曲つた宿の下駄はいて秋の河原は石ばかり 病人らしう見て過ぐ秋草 吸取紙が字を吸ひとらぬやうになつた 漬物桶に塩ふれと母は産んだか こんな処に卵子を産んでぬくとく拾ふ 吹けばころがる卵子からの卵子 渓深く入り来てあかるし 笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかつた 池を干す水たまりとなれる寒月 雪解の一軒の家のまはり 蜜柑を焼いて喰ふ小供と二人で居る がたぴし戸をあけておそい星空に出る 鉢の椿の蕾がかたくて白うなつて 馬が一疋走つて行つた日暮れる 池の氷の厚さを児等は知つてる 片つ方の耳にないしよ話しに来る 葬式のきものぬぐばたばたと日がくれる 汀にたまる霰見て温泉の村に入る 低い戸口をくぐつて出る残雪が堅い 波立つ船に船をよせようとする 両手をいれものにして木の実をもらふ すたすた行く旅人らしく晩の店をしまふ 夜中の襖遠くしめられたる 女に捨てられたうす雪の夜の街燈 なんにもたべるものがない冬の茶店の客となる 波へ乳の辺まではいつて女よ 山かげ残雪の家鶏もゐる 濠瑞犬つれて行く雪空となる 落葉拾うて棄てて別れたきり 行きては帰る病後の道に咲くもの 雪が消えこむ川波音もなく暮れる 雪の戸ひそひそ叩いて這入つてしまつた こんな大きな石塔の下で死んでゐる 雪空火を焚きあげる雪散らす さはればすぐあく落葉の戸にて 紺の香きつく着て冬空の下働く あけた事がない扉の前で冬陽にあたつてゐる 水車まはつて居る山路にかかる 椿にしざる陽の窓から白い顔出す 湖の家並ぶ寒の小魚とるいとなみ うす化粧して凍てた道をいそぐ 牛小屋の氷柱が太うなつてゆくこと きたない下駄ぬいで法話の灯に遠く座る 雪解の山浅く枯枝あつめる 大きな木ばかりのお寺の朝夕である 島の残雪に果物船をよせる 動物園の雪の門があけてある 岩にはり付けた鰯がかはいて居る 冬川にごみを流してもどる かきがねしつかりかけて霜夜だ 臼ひく女が自分にうたをきかせて居る 今逢ふて来た顔で炭火をおこす 夜明けの大浪の晴れがまへである 藤棚枯れて居る下の椅子によつて話す 曇り日の儘に暮れ雀等も暮れる 堅い大地となり這ふ虫もなし 墓原雪晴れふむものとてなく ゆるい鼻緒の下駄で雪道あるきつづける ふところの焼芋のあたたかさである 霜がびつしり下りて居る朝犬を叱る 鳩に豆やる児が鳩にうづめらる 霰ふりやむ大地のでこぼこ ひげがのびた顔を火鉢の上にのつける 高波曳網のつな張り切る ぽっかり鉢植の枯木がぬけた 宵祭の提灯ともしてだあれも居らぬ ハンケチがまだ落ちて居る戻り道であつた にくい顔思ひ出し石ころをける たまたま蟻を見付け冬の庭を歩いて居る 天辺落とす一と葉にあたまを打たれた 底がぬけた杓で水を呑まうとした 池が氷つてしまったお寺の境内 粉雪散らし来る大根洗ふ顔を上げず 雪空にじむ火事の火の遠く恋しく 雀がさわぐお堂で朝の粥腹をへらして居る 爪切るはさみさへ借りねばならぬ なんにもない机の引き出しをあけて見る 犬よちぎれる程尾をふつてくれる 残雪の番ひのにはとりが居るばかり 寒に入る地蔵鼻かけ給ふ 松の葉をぬいて歯をせせる朝の道である 先生の家の古ぼけた門である 色鉛筆の青い色をひつそりけづつて居る 月の出の船は皆砂浜にある 節分の豆をだまつてたべて居る 刈田のなかで仲がよい二人の顔 雪空一羽の鳥となりて暮れる 鶴鳴く霜夜の障子ま白くて寝る 花が咲いた顔のお湯からあがつてくる 歯をむき出した鯛を威張つて売る 人を待つ小さな座敷で海が見える 児をつれて小さい橋ある梅林 入営を送つてて来た旗をかついでゐる ほつかり池ある夕べの小波 コスモスヘなんぼでも高うなる小さい家で 夕べの鐘つき切つたぞみの虫 夕飯たべて猶陽をめぐまれてゐる 道いつぱいになって来る牛と出逢った 小浜にて 背を汽車通る草ひく顔をあげず 今日来たばかりで草ひいて居る道をとはれる あたまをそつて帰る青梅たくさん落ちてる 剃つたあたまが夜更けた枕で覚めて居る 一人分の米白々と洗ひあげたる 時計が動いて居る寺の荒れてゐる 乞食に話しかける我となつて草もゆ 血豆をつぶさう松の葉がある 考へ事をしてゐる田にしが歩いて居る 風が落ちたままの駅であるたんぼの中 雪の戸をあけてしめた女の顔 するどい風の中で別れようとする どんどん泣いてしまつた児の顔 新緑の山となり山の道となり 赤ン坊動いて居る一と間切りの住居 田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまつた どろばう猫の眼と睨みあつてる自分であつた 留守番をして地震にふられて居る 臍に湯をかけて一人夜中の温泉である 病人らしう見て居る庭の雑草 浪音淋しく三昧やめさせて居る 豆を水にふくらませて置く春ひと夜 かぎりなく蟻が出て来る穴の音なく 遠くへ返事して朝の味噌をすつて居る 手作りの吹竹で火が起きて来る 戻りは傘をかついて帰る橋であつた 笑ふ時の前歯がはえて来たは 眼の前筍が出てゐる下駄をなほして居る 百姓らしい顔が庫裡の戸をあけた 釘箱の釘がみんな曲つて居る かたい机でうたた寝して居つた お寺の灯遠くて淋しがられる 豆を煮つめる自分の一日だつた 二階から下りて来てひるめしにする 海がよく凪いで居る村の呉服屋 蜘蛛がすうと下りて来た朝を眼の前にす 銅像に悪口ついて行つてしまつた 雨のあくる日の柔らかな草をひいて居る きちんと座つて居る朝の竹四五本ある とかげの美しい色がある廃庭 蛙たくさん鳴かせ灯を消して寝る 寺に来て居て青葉の大降りとなる 芹の水濁らすもの居て澄み来る 池の朝がはじまる水すましである 土塀に突つかい棒をしてオルガンひいてゐる学校 うつろの心に眼が二つあいてゐる 花火があがる音のたび聞いてゐる 母の無い児の父であつたよ 小さい橋に来て荒れる海が見える 淋しいからだから爪がのび出す 屋根草風ある田舎に来てゐる ころりと横になる今日が終つて居る 一本のからかさを貸してしまつた 雨のわが家に妻は居りけり 海がまつ青な昼の床屋にはいる 瓜うりありくヨボの大きな瓜である 久しぶりのわが顔がうつる池に来てゐる となりへだんご持つて行く籔の中 籔の中わたしだちの道の筍 何やら鍋に煮えて居る僧をたづねる 蚤とぶ朝のよんでしまつた新聞 小芋ころころはかりをよくしてくれる 朝早い道のいぬころ 京都にて 山寺灯されて見て通る 昼寝の足のうらが見えてゐる訪ふ 宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる 蜘蛛がとんぼをとつた軒の下で住んでる 筍ふみ折つて返事してゐる 逢ひに来たその顔が風呂を焚いてゐた 旧暦の節句の鯉がをどつて居る 小豆島にて 大正十四年八月、香川県小豆郡小豆島土庄町西光寺奥の院南郷庵に入り、十五年四月、そこに没するまで。 眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る 夜明けが早い浜で顔を合す ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる いつしかついて来た犬と浜辺に居る 町の盆燈ろうたくさん見て船に乗る 島の小娘にお給仕されてゐる 山の和尚の酒の友とし丸い月ある さはにある髪をすき居る月夜 漬物石になりすまし墓のかけである すばらしい乳房だ蚊が居る あらしが一本の柳に夜明けの橋 あらしの中のばんめしにする母と子 あらしのあとの馬鹿がさかなうりに来る 足のうら洗へば白くなる 石山虫なく陽かげり 蛍光らない堅くなつてゐる 大松一本雀に与へ庵ある 海が少し見える小さい窓一つもつ わが顔があった小さい鏡買うてもどる ここから浪音きこえぬほどの海の青さの わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなつて居る すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた 四五人静かにはたらき塩浜くれる 夜更けの麦粉が畳にこぼれた 松かさも火にして豆が煮えた 井戸のほとりがぬれて居る夕風 なん本もマツチの棒を消し海風に話す 山に登れば淋しい村がみんな見える 雨の椿に下駄辷らしてたづねて来た 髪の美しさもてあまして居る 叱ればすぐ泣く児だと云つて泣かせて居る 花がいろいろ咲いてみんな売られる 掃く程もない朝朝の松の葉ばかり 秋風の石が子を産む話 投げ出されたやうな西瓜が太つて行く 壁の新聞の女はいつも泣いて居る 海風に筒抜けられて居るいつも一人 盆休み雨となつた島の小さい家家 風邪を引いてお経あげずに居ればしんかん 風音ばかりのなかの水汲む 鼠にジヤガ芋をたベられて寝て居た 盆燈籠の下ひと夜を過ごし古郷立つ 少し病む児に金魚買うてやる 風吹く家のまはり花無し 青田道もどる窓から見られる 山は海の夕陽をうけてかくすところ無し 家が建てこんで来た町の物売の声 水を呑んでは小便しに出る雑草 船の中の御馳走の置きどころが無い 花火があがる空の方が町だよ 一疋の蚤をさがして居る夜中 木槿の花がおしまひになつて風吹く 追つかけて追ひ付いた風の中 ぴつたりしめた穴だらけの障子である あけがたとろりした時の夢であつたよ おそい月が町からしめ出されてゐる 障子張りかへて居る小さいナイフ一挺 思ひがけもないとこに出た道の秋草 わが肩につかまつて居る人に眼がない 蓮の葉押しわけて出て咲いた花の朝だ 切られる花を病人見てゐる 乞食日の丸の旗の風ろしきもつ 天気つづきのお祭がすんだ島の大松 卵子袂に一つづつ買うてもどる お祭り赤ン坊寝てゐる その手がいつ迄太皷たたいて居るのか 陽が出る前の濡れた鳥とんでる 夕立からりと晴れて大きな鯖をもらった 蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽 木槿一日うなづいて居て暮れた お遍路木槿の花をほめる杖つく 葬式のもどりを少し濡れて来た 道を教へてくれる煙管から煙が出てゐる 病人花活ける程になりし 朝靄豚が出て来る人が出て来る 迷つて来たまんまの犬で居る 山の芋掘りに行くスツトコ被り 人間並の風邪の熱出して居ることよ さつさと大根の種子まいて行つてしまった 夕靄たまらせて塩浜人居る 己に秋の山山となり机に迫り来 蛙釣る児を見て居るお女郎だ 久し振りの雨の雨だれの音 都のはやりうたうたつて島のあめ売り 厚い藁屋根の下のボンボン時計 三味線が上手な島の夜のとしより 障子あけて置く海も暮れきる 山に大きな牛追ひあげる朝靄 畑のなかの近道戻つて来よる 畳を歩く雀の足音を知つて居る あすのお天気をしやべる雀等と掃いてゐる あらしがすつかり青空にしてしまつた 窓には朝風の鉢花 淋しきままに熱さめて居り 火の無い火鉢が見えて居る寝床だ 風にふかれ信心申して居る 小さい家で母と子とゐる 淋しい寝る本がない 竹籔に夕陽吹きつけて居る 月夜風ある一人咳して お粥煮えてくる音の鍋ふた 一つ二つ螢見てたづぬる家 早さとぶ小鳥見て山路行く 雀等いちどきにいんでしまった 草花たくさん咲いて児が留守番してゐる 爪切つたゆびが十本ある 来る船来る船に一つの島 漬物石がころがつて居た家を借りることにする 鳳仙花の実をはねさせて見ても淋しい 夜の木の肌に手を添へて待つ 秋日さす石の上に背の児を下ろす 浮草風に小さい花咲かせ 障子の穴から覗いて見ても留守である 朝がきれいで鈴を振るお遍路さん 入れものが無い両手で受ける 朝月嵐となる 秋山広い道に出る 口あけぬ蜆死んでゐる 咳をしても一人 汽車が走る山火事 静かに撥が置かれた畳 菊枯れ尽したる海少し見ゆ 流れに沿うて歩いてとまる 海苔そだの風雪となる舟に人居る とんぼの尾をつまみそこねた 麦がすつかり蒔かれた庵のぐるり 墓地からもどつて来ても一人 恋心四十にして穂芒 なんと丸い月が出たよ窓 ゆうべ底がぬけた柄杓で朝 風凪いでより落つる松の葉 雪の頭巾の眼を知つてる 自分が通つただけの冬ざれの石橋 籔のなかの紅葉見てたづねる 大根抜きに行く畑山にある 麦まいてしまひ風吹く日ばかり 今朝の霜濃し先生として行く となりにも雨の葱畑 くるりと剃ってしまつた寒ン空 夜なべが始まる河音 よい処へ乞食が来た 雨萩に降りて流れ 寒なぎの帆を下ろし帆柱 庵の障子あけて小ざかな買つてる 師走の木魚たたいて居る 松かさそつくり火になった 風吹きくたびれて居る青草 嵐が落ちた夜の白湯を呑んでゐる 鉄砲光つて居る深雪 霜濃し水汲んでは入つてしまった 一人でそば刈つてしまった 冬川せつせと洗濯している 昔は海であつたと榾をくベる 寒ン空シヤツポがほしいな 蜜柑たべてよい火にあたつて居る とつぷり暮れて足を洗つて居る 昼の鶏なく漁師の家ばかり 海凪げる日の大河を入れる 働きに行く人ばかりの電車 雪の宿屋の金屏風だ わが家の冬木二三本 家のぐるり落葉にして顔出してゐる 墓原花無きこのごろ 山火事の北国の大空 月夜の葦が折れとる 墓のうらに廻る あすは元日が来る仏とわたし 掛取も来てくれぬ大晦日も独り 雪積もる夜のランプ 雨の舟岸により来る 山奥の木挽と其の男の子 夕空見てから夜食の箸とる ひそかに波よせ明けてゐる 冬木の窓があちこちあいてる 窓あけた笑ひ顔だ 夜釣から明けてもどつた小さい舟だ 児を連れて城跡に来た 風吹く道のめくら 旅人夫婦で相談してゐる ぬくい屋根で仕事してゐる 絵の書きたい児が遊びに来て居る 山風山を下りるとす 裸木春の雨雲行くや おそくなつて月夜となつた庵 松の根方が凍ててつはぶき 舟をからつぽにして上つてしまった 小さい島に住み島の雪 名残の夕陽ある淋しさ山よ 故郷の冬空にもどつて来た 一日雪ふるとなりをもつ みんなが夜の雪をふんでいんだ 山吹の花咲き尋ねて居る 春が来たと大きな新聞広告 雨の中泥手を洗ふ 枯枝ほきほき折るによし 静かなる一つのうきが引かれる 山畑麦が青くなる一本松 窓まで這つて来た顔出して青草 渚白い足出し 久し振りの太陽の下で働く 貧乏して植木鉢並べて居る 霜とけ鳥光る 久しぶりに片目が蜜柑うりに来た 障子に近く蘆枯るる風音 八ツ手の月夜もある恋猫 仕事探して歩く町中歩く人ばかり あついめしがたけた野茶屋 どつさり春の終りの雪ふり 森に近づき雪のある森 肉がやせて来る太い骨である 一つの湯呑を置いてむせてゐる やせたからだを窓に置き船の汽笛 婆さんが寒夜の針箱おいて去んでる すつかり病人になつて柳の糸が吹かれる 春の山のうしろから煙が出だした 其以前の作 大正五年より十三年まで、各年とも其前に註す。 十一、十二年は朝鮮及び滿洲にあり。 十二年秋、戦を擲ち、無一物となりて一燈園に投ず。 大正五年 ひねもす曇り浪音の力かな 護岸荒るる波に乏しくなりし花 海が明け居り窓一つ開かれたり 手紙つきし頃ならん宿の灯の見ゆ 水の音が濃くなり行けば赤い灯が 児等と行く足もと浪がころがれり 馬の鈴しやんしやんと急がるる町の灯 あかつきの木木をぬらして過ぎし雨 灯をともし来る女の瞳 大正六年 海は黒く眠りをり宿につきたり 花屋のはさみの音朝寝してをる 窓あけて居る朝の女にしじみ売 つと叫びつつ駈け去りし人の真夜中 雪晴れしみち停車場に着く車 しつとり濡れし橋を行く雨の明るさ つめたく咲き出でし花のその影 休め田に星うつる夜の暖かさ 駈けざまにこけし児が泣かで又駈ける とはに隔つ棺の釘を打ち終へたり 焼き場の煙突の大いさをあふぐ 若葉の匂の中焼場につきたり 御仏の黄な花に薫りもなくて 今日一日の終りの鐘をききつつあるく 青服の人等帰る日が落ちた町 軍艦のどれもより朝の喇叭が鳴れり 大正七年 霜ふる音の家が鳴る夜ぞ 妻が留守の障子ぽつとり暮れたり 雪は晴れたる小供等の声に日が当る 眼をやめば片眼淋しく手紙書き居る 赤い房さげて重い車を引く馬よ 元日暮れたりあかりしづかに灯して 日が少し長くなり夕煙あかるく 線路工夫にのみ明けし朝の堅い土 小供等さけび居り夕日に押合へる家 冷やかな灯ありけり朝の竹籔 流るる水にそれぞれの灯をもちて船船 肴屋が肴読みあぐる陽だまり 芽ぐめるもの見てありく土の匂 わが肌をもむあんま何を思ひつつ チヤブ台に置かるる縁日の赤い花 山深々と来て親しくはなす ぢつと子の手を握る大きなわが手 落つる日の方へ空ひとはけにはかれたり 仏の花に折れば咲きつづくけしの花 松はあくまで光りて砂にならぶ墓 嵐の夜あけ朝顔一つ咲き居たり 大風の空の中にて鳴る鐘 マツチつかぬ夕風の涼しさに話す 日まはりこちら向く夕べの机となれり 妻を叱りてぞ暑き陽に出で行く 寺の屋根見つつ木の葉ふる山を下り行く 口笛吹かるる朝の森の青さは 大正八年 葬列足早な足に暮色まつはり 亀を放ちやる昼深き水 大正十二年 土くれのやうに雀居り青草もなし 途に児等は泣くどの家にも灯火 松の実ほつほつたべる燈下の児無き夫婦ぞ 風の中走り来て手の中のあつい銭 四ツ手網おろされ夕の野面ひつそり 稲がかけてある野面に人をさがせども 何もかも死に尽したる野面にて我が足音 氷穿ちては釣の糸深々と下ろす 氷れる路に頭を下げて引かるる馬よ 田ずそ親しく雪解水流れそめたり 海苔をあぶりては東京遠く来た顔ばかり 長雨あまる小窓で杏落つるばかり 昼火事の煙遠くへ冬木つらなる 焼跡はるかなる橋を淋しく見通し 春日の中に泥厚く塗りて家つくる いたくも狂へる馬ぞ一面の大霜 かぎりなく煙吐き散らし風やまぬ煙突 母の日ぬくとくさやゑんどう出そめて 夏帽新しく睡蓮に昼の風あり 草に入る陽がよろしく満洲に住む気になる 朝からヨボが喧嘩して楽隊通る 犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼 わが腕からとつた黄色い水がフラスコで鳴る ここに死にかけた病人が居り演習の銃音をきく 小供等たくさん連れて海渡る女よ 遠く船見付けたる甲板の昼を人無く 一燈園にて 山水ちろろ茶碗真白く洗ひ去る ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人人 落葉掃き居る人の後ろの往来を知らず 牛の眼なつかしく堤の夕の行きずり 流るる風に押され行き海に出る 船は皆出てしまひ雪の山山なり 砂浜ヒヨツコリと人らしいもの出て来る つくづく淋しい我が影よ動かして見る 昼めし云ひに来て竹籔にわれを見透かす ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる 皆働きに出てしまひ障子あけた儘の家 静かなるかげを動かし客に茶をつぐ 花あわただしさの古き橋かかれり 夕日の中へ力いつぱい馬を追ひかける 落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事 月夜戻り来て長い手紙を書き出す 入庵雑記 島に来るまで この度、仏恩によりまして、此庵の留守番に座らせてもらふ事になりました。 庵は南郷庵と申します、も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。 西光寺は小豆島八十八ケ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奥の院となつて居りますから番外であります。 己に奥の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。 庵は六畳の間にお大師様をまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです、其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくつ付いて小さい土間に竈があるわけであります。 唯これだけでありますが、一人の生活としては勿体ないと思ふ程であります。 庵は、西南に向つて開いて居ります、庭先きに、二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松が一本、之が常に此の庵を保護してゐるかのやうに、日夜松籟潮音を絶やさぬのであります。 此の大松の北よりに一基の石碑が建つて居ります、之には、奉供養大師堂之塔と彫んでありまして、其横には発願主円心禅門と記してあります。 此の大松と、此の碑とは、朝夕八畳に座つて居る私の眼から離れた事がありません、此の発願主円心禅門といふ文字を見る度に私は感慨無量ならざるを得ん次第であります。 此の庵も大分とそこら中が古くなつて居るやうですが、私より以前、果して幾人、幾十人の人々が、此の庵で、安心して雨露を凌ぎ且はゆつくりと寝させてもらつた事であらう、それは一に此の円心禅門といふ人の発願による結果でなくてなんであらう、全く難有い事である。 円心禅門といふ人は果してどんな人であつたであらうかと、それからそれと思ひに耽るわけであります。 東南はみな塞つて居りまして、たつた一つ、半間四方の小さい窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります。 此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになつて行きまして、其の間に三四の村の人家がたつて居ますが、大体に於て塩浜と、野菜畑とであります。 其間に一条の路があり、其道を一丁計り行くと小高い堤になり、それから先きが海になつて居るのであります。 茲は瀬戸内海であり、殊にズツと入海になつて居りますので、海は丁度渠の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私にはそれで充分であります。 此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しには入つて参ります。 それ丈に冬は中々に寒いといふ事であります。 さて、入庵雑記と表題を置きましたけれども、入庵を機会として、私の是迄の思ひ出話も少々聞いて頂きたいと思つて居るのであります。 私の流転放浪の生活が始まりましてから、早いもので已に三年となります。 此間には全く云ふに云はれぬ色色な事がありました、此頃の夜長に一人寝てゐてつくづく考へて見ると、全く別世界にゐるやうな感が致します。 然るに只今はどうでせう、私の多年の希望であつた処の独居生活、そして比較的無言の生活を、いと安らかな心持で営ませていたゞいて居るのであります。 私にとりましては極楽であります。 処が、之が皆わが井師の賜であるのだから、私には全く感謝の言葉が無いのであります。 井師の恩に思ひ到る時に私は、きつと、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五を朗読して居るでありませう、何故なれば、どう云ふものか、私は井師の恩を思ふ時、必普門品を思ひ、そして此の経文を読まざるを得ぬやうになるのであります。 理窟ではありません。 観音経は実に絶唱す可き雄大なる一大詩篇であると思ひ信じて居ります、井師もきつと共鳴して下さる事と信じて居ります。 猶、此機会に於て是非とも申させていただかねばならぬ事は西光寺住職杉本宥玄氏についてゞあります、已に此庵が西光寺の奥の院である事は前に申しました通り、私が此島に来まして同人井上一二氏を御尋ね申した時、色々な事情から大方、此島を去つて行く話になつて居りましたのです、其時此庵を開いて私を入れて下すつたのが杉本師であります。 杉本師は数年前井師が島の札所をお廻りになつた時に、井上氏と共に御同行なされた方でありまして、誠に温厚親切其のものゝ如き方であります、師とお話して居ますと自ら春風蕩漾たるものがあります。 句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。 そこの椎茸飯といふのが名物で、お釜で焚いたまんまを一人に一ツ宛持つて来ましたが中々おいしかつた、さうした御飯をたべたり御菓子をたべたりなんかして、会費は五十銭位だつたと記憶して居ます。 いつでも二十人近く集りましたが、師匠格としてきまつて、虚子、鳴雪、碧梧桐の三氏が見えたものです、虚子氏が役者見たいに洋服姿で自転車をとばして来たり、碧梧桐氏の四角などこかの神主さん見たいな顔や、鳴雪氏のあの有名な腹燗なんかの事を思ひ出しますのですよ。 其当時の根津権現さんの境内はそれは静かなものでした。 椎の木を四五尺に切つて其を組合せて地上にたてゝ、それに椎茸が生えて居るのを眺めたりなどして苦吟したものでした、日曜日なんかには、目白の啼き合せ会なんか此境内でやつたのですから、それは閑静なものでしたよ。 処で私は三年の後、一高を去ると共に、此会にも関係がなくなりました、そして井師は文科に、私は法科にといふわけで、一時、井師との間は打ち切られて、白雲去つて悠々といふ形でありました、処が此縁が決して切れては居りませんでした。 火山の脈のやうに烈々として其の噴出する場所と時期とを求めて居たものと見えます、世の中の事は人智をもつてしては到底わかりつこありませんね。 其後、私は已に社会に出て所謂腰弁生活をやつて居たわけであります、そして茲に機縁を見出したものか層雲第一号から再び句作しはじめたものであります、それからこつちは所謂絶ゆるが如く絶えざるが如く、綿々縷々として経過して居りまする内に、三年前の私の放浪生活が突如として始まりまして以来は、以前の明治卅五六年時代の交渉以上の関係となつて来た訳なのであります。 そこで、私が此島に参りまする直前、京都の井師の新居に同居して居りました事を少し話させていたゞきませう。 井師の此度の今熊野の新居は清洒たるものではありますが、それは実に狭い。 井師一人丈ですらどうかと思ふ位な処へ、此の飄々たる放哉が転がり込んだわけです。 而も蚊がたくさん居る時分なのだから御察し下さい、一人釣りの蚊帳の中に、井師の布団を半分占領して毎晩二人で寝たわけです。 其の狭い事狭い事、此の同居生活の間に私は全く井師に感服してしまったのです。 鋒鋩は已に明治卅五六年頃から有つたのではあるが、全く呉下の旧阿蒙に非ず、それは其後の鎌倉の修業もありませうし、母、妻、子に先立たれた苦しい経験もありませう、又、其後の精神修養の結果もありませうが、兎も角偉大なものです、包擁力が出来て来たのであります。 井師は私に決してミユツセンと云つた事がありません、一度も意見がましい言葉を聞いた事が無いのであります、それで居て、自分で自然とさうせざるを得ぬやうな気持になつて来るのであります、之が大慈悲でなくてなんでありませう。 井師の新居に同居してゐた間は僅の事でしたけれ共、其私に与へた印象は深甚なものでありました。 井師と二人で田舎路を歩いて居た時、ふとよく晴れた空を流れてゐる一片の白雲を見上げて「秋になつたねえ」といふたつた一言に直に私が共鳴するのです。 或る夕べ、路傍の行きずりの小さい、多分子供の、葬式に出逢つて極めて自然に、ソツと夏帽をとつて頭を下げて行く井師にすぐと私は共鳴するのです。 二人で歩いて居て、井師も亦、妻も児も無い人なんだなと思つてつくづく見ると、其の着物の着方が如何にも下手くそなのです、而も前下りかなんかで、それを誰も手をかけてなほしてくれる人も今は無いのだ、何時でも着物の着方の下手くそなので叱られて居た私は、直に又共鳴せざるを得ぬのです。 下駄の先鼻緒に力を入れて突つかけて歩くもの故、よく下駄の先きをまだ新らしいうちに壊してしまつたり、先鼻緒を切つたりした自分を思ひ出すと、井師が又其の通り、又共鳴せざるを得ませぬ。 其外、床の間の上に乗せてあつた白袴……恐らくは学生時代のであつてほしかつたが……一高の寮歌集等々、一事、一物、すべて共鳴するものばかり。 僅かの間の同居生活でしたけれども、私にとつては実に異常なもので有つたのであります。 井師は今、東京に帰つて居らるゝ日どりになつて居る、なんとなく淋しい、京都に居ると思へば、さうでもないのだが、東京だと思ふと、遠方だなと云ふ気持がして来るのです。 私は茲で又、観音経を読まなければならぬ。 扨、私は此辺で一寸南郷庵に帰らせていたゞいて、庵の風物其他につき、夜長のひとくさりを聞いていたゞきたいと思ふのであります。 我昔所造諸悪業。 皆由無始貪瞋癡。 従身口意之所生。 一切我今皆懴悔。 海 庵に帰れば松籟颯々、雑草離々、至つてがらんとしたものであります。 芭蕉が弟子の句空に送りました句に、「秋の色糠味噌壺も無かりけり」とあります。 これは徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を払ひ捨てゝ、糂汰瓶ひとつも持つまじく、と云ふ処から出て居るのださうでありますが、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。 縁を人に絶つて身を方外に遊ぶ、などゝ気取つて居るわけでは毛頭ありませんし、また、その柄でも勿論ないのでありますから、時々、ふつたとした調子で、自分はたつた一人なのかな、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。 八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其の前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、お天気のよい日でも、雨がしと/\と降る日でも、風がざわ/\吹く日でも、一日中、朝から黙つて一人で座って居ります。 座つて居る左手に、之も拝借もの…と云ふよりも、此庵に私がはいりました時残つて居つた、たつた一つの什器であつた処の小さな丸い火鉢が置いてあるのです。 此の火鉢は殆んど素焼ではないかと思はれる程の瀬戸の黒い火鉢なのですが、其の火鉢のぐるりが、凡そこれ以上に毀すことは不可能であらうと思はれる程疵だらけにしてあります。 之は必、前住の人が煙草好きであって、鉄の煙管かなんかでノベツにコツンコツン毀して居た結果にちがひないと思ふのです、誠に御丹念な次第であります。 此の外には道具と申してもなんにも無いのでありますから誠にがらんとし過ぎたことであります。 此の南よりの一本の柱と申すのが、甚形勝の地位に在るので、遥に北の空を塞ぐ連山を一眸のうちに入れると共に、前申した一本の大松と、奉供養大師堂之塔の碑とが、いつも眼の前を離れぬのであります。 居ながらにして首を少し前にのばせば、そこは広々と低みのなだれになつて一面の芋畑、そして遠く、土庄町の一部と、西の空の開いて居るのが見えるのであります。 東は例のこの庵唯一の小さい低い窓でありまして、其の窓を通して渠の如き海が見え、海の向ふには、島のなかの低い山が連つて居ります。 西はすぐ山ですから、窓によつて月を賞するの便があるのみで、別に大した風情は有りませんのです。 お天気のよい日には毎朝、此の東の空に並んで居る連山のなかから、太陽がグン/\登って来ます。 太陽の登るのは早いものですね、山の上に出たなと思つたら、もう、グツグツグツと昇つてしまひます。 その早いこと、それを一人座ってだまつて静に見て居る気持ツたら全くありません。 私は性来、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、波音を聞いて居ると、大低な脳の中のイザコザは消えて無くなつてしまふのです。 一体私は、ごく小さな時からよく山にも海にも好きで遊んだものですが、だんだんと歳をとつて来るに従つて、山はどうも怖い……と申すのも可笑しな話ですが、……親しめないのですな。 殊に深山幽谷と云つたやうな処に這入つて行くと、なんとはなしに、身体中が引き締められるやうな怖い気持がし出したのです、丁度、怖い父親の前に座らされて居ると云つたやうな気持です。 処が、海は全くさうでは無いのであります、どんな悪い事を私がしても、海は常にだまつて、ニコ/\として包擁してくれるやうに思はれるのであります。 全然正反対であります。 ですから私は、これ迄随分旅を致しましたうちで、荒れた航海にも度々出逢つて居りますが、どんなに海が荒れても、私はいつも平気なのであります、それは自分でも可笑しいやうです。 よし、船が今微塵にくだけてしまつても、自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云ふ満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます、丁度、慈愛の深い母親といつしよに居る時のやうな心持になつて居るのであります。 私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。 つまり私は、人の慈愛…と云ふものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。 処がです、此の、個人主義の、この戦闘的の世の中に於て、どこに人の慈愛が求められませうか、中々それは出来にくい事であります。 そこで、勢之を自然に求める事になつて来ます。 私は現在に於ても、仮令、それが理窟にあつて居ようが居まいが、又は、正しい事であらうがあるまいが、そんな事は別で、父の尊厳を思ひ出す事は有りませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起すものであります。 善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成仏を…その大願をたてられた仏の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。 そして、それを海がまた持つて居るやうに私には考へられるのであります。 猶茲に、海に附言しまして是非共ひとこと聞いて置いていたゞきたい事があるのであります。 私が、流転放浪の三ケ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云ふ理由は、一に前述の通りでありますが、猶一つ、海の近い処にある空が、……殊更その朝と夕とに於て…そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々様々に変形し、変色して見せてくれると云ふ事であります、勿論、其の変形、変色の底に流れて居る光りといふものを見逃がす事も出来ません。 之は誰しも承知して居る事でありますが、海の近くで無いとこいつが絶対に見られないことであります。 私は、海の慈愛と同時に此の雲と云ふ、曖昧模糊たるものに憧憬れて、三年の間、瓢々乎として歩いて居たといふわけであります。 それが、この度、仏恩によりまして、此庵に落ち付かせていたゞく事になりまして以来、朝に、夕べに、海あり、雲あり、而も一本の柱あり、と申す訳で、況んや時正に仲秋、海につけ、雲につけ、月あり、虫あり、是れ年内の人間好時節といふ次第なのであります。 念仏 六畳の座敷は、八畳よりも七八寸位、高みに出来て居りまして、茲にお大師さまがおまつりしてあるのです。 此の六畳が大変に汚なくなつて居ましたので、信者の内の一人がつい先達て畳代へをしたばかりのとこなのださうでした、六畳の仏間は奇麗になつて居ります。 此の島の人…と申しても、重に近所の年とつたお婆さん連中なのですが、お大師さまの日だとか、お地蔵さまの日だとか、或は又、別になんでも無い日にでも、五六人で鉦をもつて来て、この六畳の仏間にみんなが座つて、お念仏なり、御詠歌なりを申しあげる習慣になつて居ります。 それはお念仏を申すとか、御詠歌を申す、とか島の人は云ふのです.それで、只単に「申しに来ました」とか、「申さうぢやありませんか」と云ふ風に普通話して居ります。 八九分通り迄は皆お婆さん許り……それも、七十、八十、稀には九十一といふお婆さんがありましたが、又、中には、若い連中もあるのであります。 そこで可笑しい事には、この御念仏なり、御詠歌なりを申しますのに、旧ぶしと新ぶしとがあるのであります。 「旧ぶし」と云ふのは、ウンと年とつたお婆さん連中が申す調子であります、「新ぶし」は中年増と云つたやうな処から、十六や十七位な別嬪さんが交つて申すふしであります。 そのふし廻しを聞いて居りますと、旧ぶしは平々凡々、水の流るゝが如く、新ぶしの方は、丁度唱歌でもきいて居るやうで、抑揚あり、頓座あり、中々に面白いものであります。 ですから、其の持つて居る道具にしても、旧ぶしの方は伏鉦を叩くきりですが、新ぶしの方は、鉦は勿論ありますし、それに長さ三尺位な鈴を持ちます。 その鈴の棒の処々には、洋銀か、ニツケルかのカネの輪の飾りが填めこんでありまして、ピカ/\く光つて居る、棒の上からは赤い房がさがつて居る。 中々美しいものでありますが、それを右の手に持つてリンリン振りながら、左手では鉦をたゝく、中々面白くもあり、五人も十人も調子が揃つて奇れいなものであります。 処がです、此の両派が甚合はない、云はゞ常に相嫉視して居るのであります、何しろ、一方は年よりばかり、一方は若い連中、と云ふのでありますから、色々な点から考へて見て、是非もない次第であるかも知れませぬ。 一体、関東の方では、お大師さまの事をあまりやかましく云はないやうですが、関西となると、それはお大師さまの勢力といふものは素破らしいものであります。 私が須磨寺に居りました時、あすこのお大師さまは大したものでありまして、殊に盆のお大師さまの日と来ると、境内に見世物小屋が出来る、物売り店が並ぶ、それはえらい騒ぎ、何しろ二十日の晩は夜通しで、神戸大阪辺から五万十万と云ふ人が間断なくおまゐりに来るのですから全くのお祭であります、……丁度、東京の池上のお会式……あれと同じ事であります。 その時のことでしたが、ある信者の団体は一寸した舞台を拵へまして、御詠歌踊と云ふのをやりました、囃しにはさき程申し上げました美しい鈴と、それに小さい拍子木がはいります、其の又拍子木が非常によく鳴るのです、舞台では十三から十五六迄位の美しい娘さんが、手拭と扇子とをもつて、御詠歌に合して踊るのであります。 此島には未だ、この拍子木も、踊もはいつて来て居らぬやうでありますが、何れは遠からずしてやつて来る事でせう。 然し、島の人々の信心深い事は誠に驚き入るのでありまして、内地ではとても見る事が出来ますまい。 祖先に対する厚い尊敬心と、仏に対する深い信仰心には敬服する次第であります。 慥か、お盆の頃の事でしたが、庭の前の道を、「此のお花は盆のお墓にあげようと思つて此春から丹念に作つて居りましたが……」など云ひ交しながら通つて行く島人の声をきいて居まして、しんみりとさせられた事でした。 鉦たたき 私がこの島に来たのは未だ八月の半ば頃でありましたので、例の井師の句のなかにある「氷水でお別れ」をして京都を十時半の夜行でズーとやつて来たのです。 ですから非常に暑くて、浴衣一枚すらも身体につけて居られない位でした、島は到る処これ蝉声嘒々。 しかし季節といふものは争はれないもので、それからだんだんと虫は啼き出す、月の色は冴えて来る、朝晩の風は白くなつて来ると云ふわけで、庵も追々と、正に秋の南郷庵らしくなつて参りましたのです。 一体、庵のぐるりの庭で、草花とでも云へるものは、それは無暗と生えて居る実生の鶏頭、美しい葉鶏頭が二本、未だ咲きませぬが、之も十数株の菊、それと、白の一重の木槿が二本……裏と表とに一本宛あります、二本共高さ三四尺位で、各々十数個の花をつけて居ります、そして、朝風に開き、夕靄に蕾んで、長い間私をなぐさめてくれて居ります。 まあこれ位なものでありませう。 あとは全部雑草、殊に西側山よりの方は、名も知れぬ色々の草が一面に山へかけて生ひ繁つて居ります。 然し、よく注意して見ると、これ等雑草の中にもホチホチ小さな空色の花が無数に咲いて居ります、島の人は之を、かまぐさ、とか、とりぐさ、とか呼んで店ります。 丁度小鳥の頭のやうな恰好をして居るからださうです、紺碧の空色の小さい花びらをたった二まい宛開いたまんま、数知れず、黙りこくつて咲いて居ます。 かう云ふ有様ですから、追々と涼しくなつて来るといつしよに、所謂、虫声喞々。 あたりがごく静かですから昼間でも啼いて居ます、雨のしとしと降る日でも啼いて居ります。 ですから夜分になつて一層あたりがしんかんとして来ると、それは賑かな事であります。 私は朝早く起きることが好きでありました、五時には毎朝起きて居りますし、どうかすると、四時頃、まだ暗いうちから起き出して来て、例の一本の柱に上によりかゝつて、朝がだんだんと明けて来るのを喜んで見て居るのであります。 さう云つた風ですから、夜寝るのは自然早いのです。 暮れて来ると直ぐに蚊帳を吊つて床の中には入つてしまひます、殆んど今迄ランプをつけた事が無い、これは一つは、私の大敵である蚊群を恐れる事にもよるのですけれども、まづ、暗くなれば、蚊帳のなかにはいつて居るのが原則であります、そして布団の上で、ボンヤリして居たり、腹をへらしたりして居ります。 ですから自然、夜は虫鳴く声のなかに浸り込んで聞くともなしに聞いて居るときが多いのであります。 その中に一人で横になつて居るのでありますから、まるで、野原の草のなかにでも寝てゐるやうな気持がするのであります、斯様にして一人安らかな眠のなかに、いつとは無しに落ち込んで行くのであります。 鉦叩きと云ふ虫の名は古くから知つて居ますが、其姿は実の処私は未だ見た事がないのです、どの位の大きさで、どんな色合をして、どんな恰好をして居るのか、チツトも知りもしない癖で居て、其のなく声を知つてるだけで、心を牽かれるのであります。 此の鉦叩きといふ虫のことについては、かつて、小泉八雲氏が、なんかに書いて居られたやうに思ふのですが、只今、チツトも記憶して居りません。 只、同氏が、大変この虫の啼く声を賞揚して居られたと云ふ事は決して間違ひありません。 それは他の虫等のやうに、其声には、色もなければ、艶もない、勿論、力も無いのです、それで居てこの虫がなきますと、他のたくさんの虫の声々と少しも混雑することなしに、只、カーン、カーン、カーン………如何にも淋しい、如何にも力の無い声で、それで居て、それを聞く人の胸には何ものか非常にこたへるあるものを持つて居るのです。 瞑目してヂツと聞いて居りますと、この、カーン、カーン、カーンと云ふ声は、どうしても此の地上のものとは思はれません。 どう考へて見ても、この声は、地の底、四五尺の処から響いて来るやうにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしてゐるやうに思はれるのであります。 これは決して虫では無い、虫の声では無い、……、坊主、しかし、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まつ黒い衣をきて、たつた一人、静かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の声なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出来ないやうに運命づけられた小坊主が、たつた一人、静かに、……鉦を叩いて居る、一年のうちで只此の秋の季節だけを、仏から許された法悦として、誰に聞かせるのでもなく、自分が聞いて居るわけでも無く、只、カーン、カーン、カーン、……死んで居るのか、生きて居るのか、それすらもよく解らない……只而し、秋の空のやうに青く澄み切つた小さな眼を持つて居る小坊主……私には、どう考へなほして見ても、かうとしか思はれないのであります。 其の私の好きな、虫のなかで一番好きな鉦叩きが、この庵の、この雑草のなかに居たのであります。 私は最初その声を聞きつけた時に、ハツと思ひました、あゝ、居てくれたか、居てくれたのか……それもこの頃では秋益々闌けて、朝晩の風は冷え性の私に寒いくらゐ、時折、夜中の枕に聞こえて来るその声も、これ恐らくは夢でありませう。 石 土庄の町から一里ばかり西に離れた海辺に、千軒といふ村があります、島の人はこれを「センゲ」と呼んで居ります。 この千軒と申す処が大変によい石が出る処ださうでして、誰もが最初に見せられた時に驚嘆の声を発するあの大阪城の石垣の、あの素破らしい大きな石、あれは皆この島から、千軒の海から運んで行つたものなのださうです。 今でも絵はがきで見ますと、其の当時持つて行かれないで、海岸に投げ出された儘で残つて居るたくさんの大石が磊々として並んで居るのであります。 石、殆んど石から出来上つて居るこの島、大変素性のよい石に富んで居るこの島、……こんな事が私には妙に、たまらなく嬉しいのであります。 亭々たる大樹が密生して居るがために黒いまでに茂つて見える山の姿と、又自ら別様の心持が見られるのであります。 否寧ろ私は其の赤裸々の、素ツ裸の開けツ拡げた山の岩石の姿を愛する者であります。 私は先年、暫く朝鮮に住んで居たことがありますが、あすこの山はどれもこれも禿げて居る山が多いのでああります、而も岩山であります。 之を殖林の上から、又治水の上から見ますのは自ら別問題でありますが、赤裸々の、一糸かくす処のない岩石の山は、見た眼に痛快なものであります。 山高くして月小なり、猛虎一声山月高し、など申しますが、猛虎を放つて咆吼せしむるには岩石突兀たる山に限るやうであります。 話が又少々脱線しかけたやうでありますが、私は、必ずしも、その、石の径、石の奇、或は又、石の妙に対してのみ嬉しがるのではありません、否、それ処ではない、私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。 たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行って黙って居る石ツころ、なんて可愛い者ではありませんか。 なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。 つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか、いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかたがないでせうよ。 そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない、反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。 石は生きて居る。 どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。 石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。 よく、草や木のだまつて居る静けさを申す人がありますが、私には首肯出来ないのであります。 何となれば、草や木は、物をしやべりますもの。 風が吹いて来れば、雨が降つて来れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。 処が、石に至ってはどうでせう、雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。 私は屡々、真面目な人々から、山の中に在る石が児を産む、小さい石ツころを産む話を聞きました。 又、久しく見ないで居た石を偶然見付けると、キツト太つて大きくなつて居るといふ話を聞きました。 之等の一見、つまらなく見える話を、鉱物学だとか、地文学だとか云ふ見地から、総て解決し、説明し得たりと思つて居ると大変な間違ひであります。 石工の人々にためしに聞いて御覽なさい。 必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります……と。 どんな石でも、木と同じやうに木目と云つたやうなものがあります、その道の方では、これをくろたまと云つて居ります。 ですから、木と同様、年々に太つて大きくなつて行くものと見えますな……とか、石も、山の中だとか、草ツ原で呑気に遊んで居るときはよいのですが、一度吾々の手にかゝつて加工されると、それつ切りで死んでしまふのであります、例へば石塔でもです、一度字を彫り込んだ奴を、今一度他に流用して役に立てゝやらうと思って、三寸から四寸位も削りとつて見るのですが、中はもうボロボロで、どうにも手がつけられません、つまり、死んでしまつて居るのですな、決局、漬物の押し石位なものでせうよ、それにしても、少々軽くなつて居るかも知れませんな…とか、かう云ったやうな話は、ザラに聞く事が出来るのであります。 石よ、石よ、どんな小さな石ツころでも生きてピンピンして居る、その石に富んで居る此島は、私の感興を惹くに足るものでなくてはならない筈であります。 庵は町の一番とつぱしの、一寸小高い処に立つて居りまして、海からやつて来る風にモロに吹きつけられた、只一本の大松のみをたよりにして居るのであります、庵の前の細い一本の道は、西南の方へ爪先き上りに登つて行きまして、私を山に導きます、そして、そこにある寂然たる墓地に案内してくれるのであります。 此辺はもう大分高みでありまして、そこには、島人の石塔が、白々と無数に林立してをります。 そして、どれも、これも、皆勿体ない程立派な石塔であります、申す迄も無く、島から出る好い石が、皆これ等の石塔に作られるのです、そして、雨に、風に、月に、いつも黙々として立ち並んでをります、墓地は、秋の虫達にとつては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆んど死に絶えたのか、美しい其声もきく事が出来ません、只々、いつ迄もしんかんとして居る墓原。 これ等無数に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立つて居るのであります、地の底も死、地の上も死……。 風 市中甚遠からねば、杖頭に銭をかけて物を買ふ足の労を要せず、而も、市中又甚近からねば、窓底に枕を支へて夢を求むる耳静なり、それ、巣居して風を知り、穴居して雨を知る…… かう書き出しますると、まるで、鶉衣にある文句のやうで、すつかり浮世離れをして居る人間のやうに思はれるのですが、其の実はこれ、俗中の俗、窃に死ぬ迄の大俗を自分だけでは覚悟して居るのであります。 が然し、庵の場所は全く申し分なしで、只今申上た通り、市中を去る事余り遠くもなく、さりとて又近過ぎもせず、勿論、巣居であり、穴居でありますが、俗物にとつては甚以て都合の宜しい位置に建つて居るのであります。 巣と申せば鳥に非ずとも必ず風を聯想しますし、穴と申せば虫に非ずとも必ず雨を思ひ起します、入庵以来日未だ浅い故に、島の人々との間の交渉が、自らすくなからざるを得ないから、自然、毎日朝から庵のなかにたつた一人切りで座つて居る日が多いのであります。 独居、無言、門外不出……他との交渉が少いだけそれだけに、庵そのものと私との間には、日一日と親交の度を加へて参ります。 一本の柱に打ち込んである釘、一介の畳の上に落ちて居る塵と雖、私の眼から逃れ去ることは出来ませんのです。 今暫くしますれば、庵と私と云ふものとが、ピタリと一つになり切つてしまふ時が必ず参ることゝ信じて居ります。 只今は正に晩秋の庵……誠によい時節であります、毎朝五時頃、まだウス暗いうちから一人で起き出して来て…庵にはたつた一つ電燈がついて居まして、之が毎朝六時頃迄は灯つて居ります……東側の小さい窓と、西側の障子五枚とをカラリとあけてしまつて、仏間と、八畳と、台所とを掃き出します、そしてお光りをあげて西側の小さい例の庭の大松の下を掃くのです。 これが私のお天気の日に於ける毎日のきまつた仕事であります、全く此頃お天気の日の庵の朝、晩秋の夜明の気持は何とも譬へやうがありません。 若しそれ、これが風の吹く日であり、雨の降る日でありますと、又一種別様な面白味があるのであります。 島は一体風の大変よく吹く処で、殊に庵は海に近く少し小高い処に立つて居るものですから、其の風のアテ方は中々ひどいのです。 此辺は余り西風は吹きませんので、大抵は海から吹きつける東南の風が多いのであります。 今日は風だな、と思はれる日は大凡わかります、それは夜明けの空の雲の色が平生と異ふのであります、一寸見ると晴れさうで居て、其の雲の赤い色が只の真ツ赤な色ではないのです、之は海岸のお方は誰でも御承知の事と思ひます、実になんとも形容出来ない程美しいことは美くしいのだけれども、その真ツ赤の色の中に、破壊とか、危惧とか云つた心持の光りをタツプリと含んで、如何にも静かに、又如何にも奇麗に、黎明の空を染めて居るのであります。 こんな雲が朝流れて居る時は必ず風、…間も無くそろそろ吹き始めて来ます、庵の屋根の上には例の大松がかぶさつて居るのですから、之がまつ先きに風と共鳴を始めるのです、悲鳴するが如く痛罵するが如く、又怒号するが如く、其の騒ぎは並大抵の音ぢやありません。 庵の東側には、例の小さな窓一つ開いて居る切りなのですから、だんだん風がひどくなつて来ると、その小さい窓の障子と雨戸とを閉め切つてしまひます、それでおしまひ。 外に閉める処が無いのです。 ですから、部屋のなかはウス暗くなつて、只西側の明りをたよりに座つて居るより外致し方がありません。 こんな日にはお遍路さんも中々参りません、墓へ行く道を通る人も勿論ありません。 風はえらいもので、どこからどう探して吹き込んで来るものか、天井から、壁のすき間から、ヒユーヒユーと吹き込んで参ります。 庵は余り新しくない建て物でありますから、ギシギシ、ミシミシ、どこかしこが鳴り出します、大松独り威勢よく風と戦つて居ります。 夜分なんか寝て居りますと、すき間から吹き込んだ風が天井にぶつかつて其の儘押し上げるものと見えまして、寝て居る身体が寝床ごといつしよにスーと上に浮きあがづて行くやうな気持がする事は度々のことであります、風の威力は実にえらいものであります。 私の学生時代の友人にK……今は東京で弁護士をやつて居ります……と云ふ男がありましたが、此の男、生れつき風を怖がること夥しい、本郷のある下宿屋に二人で居ました時なんかでも、夜中に少々風が吹き出して来て、ミシ/\そこらで音がし始めると、とても一人でじつとして自分の部屋に居る事が出来ないのです。 それで必ず煙草をもつて私の部屋にやつて来るのです、そして、くだらぬ話をしたり、お茶を呑んだり煙草を吸つたりしてゴマ化して置くのですね。 私も最初のうちは気が付きませんでしたが、とう/\終ひに露見したと云ふわけです、あんなに風の音を怖がる男は、メツタに私は知りません、それは見て居ると滑稽な程なのです。 処が、此の男に兜を脱がなければならないことが、こんどは私に始つたのです。 それは……誠に之も馬鹿げたお話なのですけれ共……私は由来、高い処にあがるのが怖いのです、それも、山とか岳とかに登るのではないので、例へば、断崖絶壁の上に立つとか、素敵に高いビルデングの頂上の欄干もなにもないその一角に立つて垂直に下を見おろすとか、さう云ふ場合には私はとても堪へられぬのです、そんな処に長く立つて居ようものなら、身体全体が真ツ逆様に下に吸ひ込まれさうな気持になるのです、イヤ、事実私は吸ひ込まれて落ちるに違ひありません、と申すのは、さう云ふ高い処から吸ひ込まれて落込む夢を度々見るのですから。 処が此Kです、あの少しの風音すらも怖がるKが、右申上げたやうな場合は平気の平左衛門なのです、例へば浅草の十二階……只今はありませんが……なんかに二人であがる時、いつでも此の意気地無し奴がと云ふやうな顔付をして私を苦しめるのです。 丁度、蛇を怖がる人と、毛虫を怖がる人とが全然別の人であるやうなものなんでせう。 浅草といへば、明治三十年頃ですが、向島で、ある興業師が、小さい風船にお客を乗せて、それを下からスル/\とあげて、高い空からあたりを見物させる事をやつたことがあります。 処がどうです、此のKなる者は、その最初の搭乗者で、そして大に痛快がつて居るといふ有様なのです……いや、例により、とんだ脱線であります。 扨、風の庵の次は雨の庵となるわけですが、全体、此島は雨の少い土地らしいのです、ですから時々雨になると大変にシンミリした気持になつて、座つて居ることが出来ます。 しかし、庵の雨は大抵の場合に於て風を伴ひますので、雨を味ふ日などは、ごくごく今迄は珍らしいのでした。 そんな日はお客さんも無し、お遍路さんも来ず、一日中昼間は手紙を書くとか、写経をするとか、読経をするとかして暮します、雨が夜に入りますと、益々しつとりした気分になつて参ります。 灯 庵のなかにともつて居る夜の明りと申せば、仏さまのお光りと電燈一つだけであります……之もつい先日迄はランプであつたのですが、お地蔵さまの日から電燈をつけていたゞくことになりました。 一に西光寺さんの御親切の賜であります、入庵以来幾月もたゝないのですが、どの位西光寺さんの御親切、母の如き御慈悲に浴しました事か解りません、具体的には少々楽屋落ちになりますから、これは避けさせていたゞきます……それだけの明りがある丈であります、扨、庵の外の灯ですが、之が又数へる程しか見えないのであります。 北の方五六町距つた処の小さい丘の上にカナ仏さまがあります……矢張りお大師さまで……其上に一つの小さい電燈がともつて居ります。 それから西の方は遥か十町ばかり離れて町家の灯が低く一つ見えます、東側には海を越えた島の山の中腹に、ポツチリ一つ見えます、多分お寺かお堂らしいですが、以上申上た三つの灯を、而もどれも遥かの先に見得る丈であります、しぜん、庵のぐるりはいつも真ツ暗と申してさし支へありますまい。 イヤ、お墓を残して居りました。 庵の上の山に在る墓地に、ともすると時々ボンヤリと一つ二つ灯が見えることがあります。 之は、新仏のお墓とか、又は年回などの時に折々灯される灯火なのです。 「明滅たり」とは、正にこの墓地の晩に時々見られる灯火のことだらうと思はれる程ボンヤリとして山の上に灯つて居ります。 私は、こんな淋しい処に一人で住んで居りながら、之で大の淋しがりやなんです、それで夜淋しくなつて来ると、雨が降つて居なければ、障子をあけて外に出て、このたつた三つしかない灯を、遥の遠方に、而も離れ離れに眺めて一人で嬉しがつて居るのであります。 墓地に灯が見える時は猶一層にぎやかなのですけれ共さうさうは贅沢も云へない事です。 庵の後架は東側の庭にありますので、用を足すときは必ず庵の外に出なければなりません。 例の、昼間海を眺めるにしましても、夜お月さまを見るにも、そしてこの灯火を見るにも、私が度々庵の外に出ますのですから、大変便利であります。 何が幸になるものか解りませんね、後架が外にあることがこれ等の結果を産み出すとは。 灯と申せば、私が京都の一燈園に居りました時分、灯火に対して抱いた深酷な感じを忘れる事が出来ません、此の機会に於て少し又脱線さしていたゞきませう。 一寸その前に一燈園なるものゝ様子を申上げませう。 園は、京都の洛東鹿ケ谷にあります、紅葉の名所で有名な永観堂から七八丁も離れて居りませうか、山の中腹にポツンと一軒立つて居ります、それは実に見すぼらしい家で、井師は已に御承知であります、いつぞや北朗さんとお二人で (一文字抜け)にお尋ねにあづかつた事がありますから……それでも園のなかには入りますと、道場もあれば、二階の座敷もある、と云つたやうなわけ。 庭に一本の大きな柿の木があります、用水は山水、之が竹の樋を伝つて来るのですから、よく毀れては閉口したものでした。 在園者はいつでも平均男女合して三十人から四十人は居りませうか、勿論その内容は、毎日、去る者あり、来るものありといふのでした、在園者は実によく変ります。 私は一昨年の秋、而もこの十一月の二十三日新嘗祭の日を卜して園にとび込みました。 私は満洲に居りました時、二回も左側湿性肋膜炎をやりました、何しろ零度以下四十度なんと云ふ事もあるのですから、私のやうな寒がりにはたまりません、其時治療してもらつた満鉄病院々長A氏から……猶これ以上無理をして仕事をすると…と大に驚かされたのが此生活には入ります最近動機の有力なる一つとなつて居るのであります。 満洲からの帰途、長崎に立ち寄りました、あそこは随分大きなお寺がたくさん有る処でありまして、耶教撲滅の意味で威嚇的に大きくたてられたお寺ばかりです、何しろ長崎の町は周囲の山の上からお寺で取りかこまれて居ると見ても決して差支へありません.そこで色々と探して見ましたが、扨、是非入れて下さいと申す恰好なお寺と云ふものがありませんでした、そこで機縁が一燈園と出来上つたと云ふわけであります。 長崎から全く無一文、裸一貫となつて園にとび込みました時の勇気と云ふものは、それは今思ひ出して見ても素破らしいものでありました。 何しろ、此の病躯をこれからさきウンと労働でたゝいて見よう、それでくたばる位なら早くくたばつてしまへ、せめて幾分でも懴悔の生活をなし、少しの社会奉仕の仕事でも出来て死なれたならば有り難い事だと思はなければならぬ、と云ふ決心でとび込んだのですから素破らしいわけです。 殊に京都の酷寒の時期をわざ/\選んで入園しましたのも、全く如上の意味から出て居ることでした。 京都の冬は中々底冷えがします。 中々東京のカラツ風のやうなものぢやありません、そして鹿ケ谷と京都の町中とは、いつでも、その温度が五度位違ふのですからひどかつたです。 一体、園には、春から夏にかけては入園者が大変多いのですが、秋からかけて酷寒となるとウンと減つてしまひます、いろんなことが有るものですよ。 扨、それから大に働きましたよ、何しろ死ねば死ねの決心ですから、怖い事はなんにもありません、園は樹下石上と心得よと云ふのがモツトーでありますから、園では朝から一飯もたべません、朝五時に起きて掃除がすむと、道場で約一時間ほどの読経をやります、禅が根底になつて居るやうでして、重に禅宗のお経をみんなで読みます。 但、由来何宗と云ふことは無いので、園の者はお光り、お光り、お光りを見る、と申して居る位ですから、耶教でもなんでもかまひませぬ、以前、耶教徒の在園者が多かつたときは、讃美歌なり、御祈りなり、朝晩、みんなでやつたものださうです、それも、オルガンを入れてブーカ/゛\やり、一方では又、仏党の人々が木魚をポク/\叩いて読経したのだと申しますから、随分、変珍奇であつたであらうと思はれます。 現在では皆読経に一致して居ります、読経がすむと六時から六時半になります、それから皆てく/\各自その日の托鉢先き(働き先き)に出かけて行くのです。 先方に参りまして、まづ朝飯をいたゞく、それから一日仕事をして、夕飯をいたゞいて帰園します。 帰園してから又一時間程読経、それから寝ることになります。 何しろこ一日中くたびれ果てゝ居ることゝて読経がすむと、手紙書く用事もなにもあつたもんぢやない、煎餅のやうな布団にくるまつて其儘寝てしまふのです。 園にはどんな寒中でも火鉢一つあつた事なし、夜寝るのにも只障子をしめるだけで雨戸は無いのですから、それはスツパリしたものです。 扨、私が灯火に対して忘れる事の出来ない思ひ出と申しますのは、この、朝早くまだ暗いうちから起き出して来て、遥か山の下の方に、まだ寝込んで居る京都の町々の灯、昨夜の奮闘に疲れ果てゝ今暫くしたら一度に消えてしまはうと用意して居る、数千万の白たゝけた京都の町々の灯を眺めて立つて居る時と、夜分まつ暗に暮れてしまつてから、其日の仕事にへト/\に疲労し切つた足を引きづつて、ポツリ/\暗の中の山路を園に戻つて来る時、処々に見える小さい民家の淋しさうな灯火の外に、自分の背後に、遥か下の方に、ダイヤかプラチナの如く輝いて居る歓楽の都……京都の町々のイルミネーシヨンを始め、其他数万の灯火の生き/\した、誇りがましい輝かさを眺めて立つて居た時の事なのです。 此時の私の心持なのであります。 此時の私の感じは、淋しいでもなし、悲しいでもなし、愉快でもなし、嬉しいでもなし、泣きたいでもなし、笑ひたいでもなし、なんと形容したら十分に其の感じが云ひ現はされるのであらうか、只今でも解りかねる次第であります。 只、ボーツとして居るのですな。 無心状態とでも申しませうか、喜怒哀楽を超越した感じ、さう云つた風なものでありました。 而もそれが、いつ迄たつても少しも忘れられませんのです、灯火の魅力とでも申しませうか、灯火に引き付けられて居る状態ですな。 灯火といふものは色々な点から吾人の胸底をシヨツクするものであると云ふ事をつく/゛\感じた次第であります。 此時の感じをうまく表現して見たいと思つたのですが、これ以上到底なんとも申し上げやうの無いのが遺憾至極であります。 この位で御察し下さいませ。 次に、この毎日の仕事……園では托鉢と申して居ります……之が実に雑多のものでありまして、一寸私が今思ひ出して見た丈けでも、曰く、お留守番、衛生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大学の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作争議、病院の研究材料(之はモルモットの代りになるのです)等々、何しろ商売往来に名前の出てないものが沢山あるのですから数へ切れません、これ等一つ一つの托鉢先の感想を書いても面白い材料はいくらでもありませう。 さて、私がこれ等の托鉢を毎日/\やつて居ります間に、大に私のためになることを一つ覚えたのであります。 それはかう云ふ事です、百万長者の家庭には入つて見ても、カラ/\の貧乏人の家庭には入つて行って見ましても、何かしら、其家のなかに、なんか頭をなやます問題が生じて居る、早い話が、お金に不自由が無い家とすれば、病人が有るとか、相続人が無いとか、かう云つた風なことなのです、ですから万事思ふまゝになつて、不満足な点は少しも無いと云ふやうな家庭は、どこを探して見ても、それこそ少しも無いと云ふ事でありました。 仏力は広大であります、到る処に公平なる判断を下して居られるのであります。 それと今一つ私の感じたことは、筋肉の力の不足と云ふことです。 これは私が在園中の正直な体験なのですが、幸か不幸か、死ぬなら死んでしまへとほうり出した肉体は、其後今日迄別段異状無くやつて来たのでしたが、只、人間も四十歳位になりますと、いくら気の方は慥であつても、筋肉・体力の方が承知を致しません、無理は出来ない、力は無くなつて居る、園の托鉢はなんと申しましても力を要する仕事が一番多いのでありますから、最初のうちは、ナニ若い者に負けるものかと云ふ元気でやつて居つたものゝ、到底長続きがしないのです。 ですから、一燈園には入るお方は、まづ、二十歳から三十二三歳迄位の青年がよろしいやうです、又実際に於て四十なんて云ふ人は園にはそんなに居りはしません、居つても続きません。 私は入園した当時に、如何にも若い、中には十七八歳位な人の居るのに驚いたのです、こんな若い年をして、何処に人生に対し、又は宗教に対して疑念なんかを抱くことが出来るであらう?…而しまあ、以前申した年頃の人々には、よい修業場と思はれます、年輩者には駄目です。 天香さんと云ふ人は慥にえらい人に違ひない、あの園が、二十年の歴史を持つて居ると云ふ点だけ考へて見ても解る事です、そして、智能の尤すぐれた人であります。 茲に一つの挿話を書いて置きませう、或日、天香さんと話して居たとき、なんの話からでしたか、アンタは俳句を作られるさうですな、と云ふ事なので、えゝさうです。 どうです。 一日に百句位作れますか? さすがの天香さんも、俳句については矢張り門外の人であつたのであります、園で俳句をやつて居る人々もあるやうでしたが、大抵、ホトトギス派のやうに見受けました。 いや、非常な大脱線で、且、大分ゴタ/\して来ましたから、此の入庵雑記もひとまづ此辺で打ち切らしていたゞかうと思ひます。 筆を擱くにあたりまして、今更ながら井師の大慈悲心に想到して何とも申すべき言葉が御座いません、次に西光寺住職、杉本師に対しまして、之又御礼の言葉も無い次第であります。 杉本師は、同人としては玄々子と称して居られますが、師は前一寸申上げた通り、相対座して御話して居ると、全く春風に頬を撫でられて居るやうな心持になるのであります、此の偉大な人格の所有主たる杉本師の庇護の下に、南郷庵に居らせていたゞいて居ると申しますことは、私としまして全く感謝せざるを得ない事であります。 同人、井上一二氏に対する御礼の言葉は余りに親しき友人の間として、此際、遠慮して置きます。 扨、改めてお三方に深い感謝の意を表しまして、此稿を終らせていたゞきます。 南無阿弥陀仏。 扨、問題ハ益々、紛糾シテ、ドウトモ出来ナクナリ、茲ニ或ル有力者ガアラハレテ、日下、鋭意、解決中ナノデス、近イ内ニハキマルラシイ、只、私ハ、当分其ノ有力者ノ親類ノ表記ノ宅ニ御厄介ニナツテヰマス、問題片付ケバ、帰寺シテ、大師堂カ或ハ奥ノ院ノ番人トナル筈ダサウデス、一時ハ全部二十何人ヲ、解雇スルト迄ナツテ居タノデスガ、目下、ゴタ/\シテヰマス。 ウルサイ事デスネ、ドウシテ、カウ、私ハ行ク処落チ付ケナイ事件ガ生ジテ来ルノデセウカ?ナサケナクナリママス。 一燈園モ、ダメデス、古イ人々ハ大抵出テシマツタサウデス(中略)私ハ矢張リ、オ寺カラオ寺ト落チ付キ処ヲ求メテ、漂浪シテ歩ク事デセウ、矢張オ寺ガヨイト思ヒマス。 コンナ事デ、二三ケ月前カラ、俳句モ作ル気ニナラズ、何モシタクアリマセン、オ許シ下サイ、此ノ時期ヲ経過シタラ大ニ勉強シマス。 此ノ家ニ居ル間ノ、オ小遣ノ件、出来レバ五円ヨリ十円送ツテ下サレバ有難イ事デス、オ風呂ニ行ク金モナイノデ困ツテ居マス、事情ヲブチアケテ、御願ヒシテ、一日モ早ク待ツテ居マス。 イヤナ手紙、内容故、読ミ返シモセズニ出シマス。 二 (四月二十九日、京都洛東、一燈園より) 荻原様 二十九日 放哉生 拝啓、本日、層雲着、御礼申上候、京都は毎日/\雨にて寒いのに閉口致居り申候。 天香氏、未だ四国より帰らず、帰れば、一寸、ヤヽコシイと思居候、神戸より通信未だなし、ダマサレタノカナ? 水だきのゴチ走の御礼。 帰ツテ、園のマツ黒イ麦めしニ、コーコデ、オ茶カケテ、かきこむ位ノ昨今ニ有之候。 アンタノ家ヲ京都ニたてる件如何、是非御実行ヲ乞フ、勿論小生、留守番、掃除番、台所番として。 御一考ヲ乞フ。 今日ハ、御礼申し上げたくて。 三 (五月十二日、一燈園より) (葉書) 啓 おハガキ、拝受、近々御帰洛の由、其後例の、仲裁人から又ハガキが来て、自分から通知する迄は、小生が直接オ寺に帰られては困る故、今少し、待つてくれと申して来ました、小生は大和尚の方の味方と見られて(法学士の参謀として……全く、いゝ迷惑なこつてすね……私が今少し、野心があれば、大に面白い芝居が打てる処ですがね)、三住職から、大に睨まれてるのださうだから、小生が、仲人ヌキでズツトお寺に帰ると、具合がわるいさうです、全く、イヤになつてしまふ。 【一】 四 (五月十二日、一燈園より) (葉書) 処で、表記のオ寺、若狭国小浜町浅間常高寺(禅寺ださうです)に人がいるさう故、兎に角当分、ソコに居る考で、一両日中に出発します。 御手紙下さい……少し落ち付いて俳句が生れて来る気持を養ひたい、今の気持ではどうにもならん、(中略)アナタには大抵、コンドはお眼にかゝれないで、表記のオ寺に行つてしまふ事と思ひます……手紙を下さい、サヨナラ。 【二】 五 (若狭小浜、常高寺より) 井さま 十七日 放生 啓 京都ニ御出ノ事ト思ヒマス、旅ノ御疲労ハ出マセンカ。 今日ハ、余リ可笑シイカラ、オ寺ノ様子ヲ、一寸書イテ見マセウ、此ノ寺ノ和尚サンハ、例ノ天下道場、伊深デ修業シタ人、機鋒中々鋭イガ只、覇気余リアリト云フ訳カ、少々、ヤリスギタンデスネ、ソレカラ、坊サントイフ者ハ、通ジテ実ニ細カイ、「モツタイナイ」ヲ通リコシテ、「リンシヨク」ト云フ方ニ、ナリカケノモノデスネ。 茲モ御多分ニ洩レズ、米カラ、炭カラ、味噌カラ、ソノ使ヒ方至レリ尽セリ、シカモ例ノ百丈和尚ノ「一日為サヾレバ一日喰ハズ」ヲ毎日、二三遍位宛、聞カサレルノダカラ実ニ耳ガ痛クナル。 朝ハ、四時起ト、五時起トノ時ガアリマス、四時ハ中々コタヘル、ソレデ、台所一切、オ使カラ、庭ノ草トリ、全部ヤルノデスガ、少シ、火鉢ノソバニ坐ハツテルト、気持ハ悪イラシイ、シカシ、サウ/\モ出来ンカラ、気持悪イノハ知ツテ居ルケレ共、火鉢ノソバニ坐ツテ居テ、時々皮肉ヲ云ツテヤリマス、禅宗ダケニ、話トナルト、中々面白イ処ガアリマス、今年五十八才ノ和尚ナレ共、足ガ痛クテ先ヅチンバ也、座敷中ヲ杖ヲツイテ歩キマス、チンバデモ、一人前ノ仕事ヲ、コチ/\ヤリマス、全ク、ヨク身体ガ動クニ、感心シテ居マス、アレデ、足ガ完全ダツタラドノ位、身体ヲ動カスノカト思フ。 コノ寺ハ、板ノ間ガ非常ニ広イノデ、四ツン這ニナツテ、フクノデ、大体ガツカリシテシマヒマスヨ…… 扨、以上ノ事ハ、何デモナイ事也、茲ニ困ツタ事ハ、一寸以前ニ申上ゲタ事ガアルト思フガ、余リ、ヤリスギタノト、横暴ナノトデ、末寺(十ケ所バカリアリマス、此オ寺ハ中本山)ノ和尚連中全部カラ、反対サレテ、末寺ヲ離レルト云フ事ヲ申出シ、ソレカラシテ、寺ノ什器ガ無クナツテシマツテルトカ、ソノ他、金銭上、イロンナ関係デ、本山(妙心寺)ニ申出シ、遂ニ和尚ハ、本春、住職ノ名義ヲトラレテシマツテ、末寺ノ某寺ノ和尚ガ、兼務住職トナリマシタ。 デスカラ、此ノ和尚ハ、今ハ、居候ノ様ナモノ、末寺ノ連中デハ、早クオ寺ヲ出テシマツテクレト待ツテ居ル、処ガ和尚ハ、例ノガマンデ(二ケ年スレバ、住職ニ復スル明文ガアルトノ事デス)コノ寺ヲ出ナイト、ガンバツテ居ルト云フ処……小生、コンナ事ハ少シモ知ラズニ来タ、妙ナコツテスネ……デスカラ、末寺ノ某僧ナドハ『アナタハ、エライ処ニ来マシタ、トテモ、アノ坊サンデハツトマラン、早ク京都ニ帰ンナサツタ方ガヨイ』トカ、『オ米ハマダアリマスカ』トカ、キク人モアルト云フ有様……オ察シ下サイ。 ソレモ未ダヨシトシテ、困ツタ事ハ、和尚ニ収入ガ少シモ、ナクナツタ事也、イロ/\研究シテ見ルト日常ノ小遣、買物ニ対スル代金全部ヲ、先月モ先々月モ、一文モ払ツテ居ナイ、ソノ為ゾロ/\催促ニ来ル……小生ガ、コレヲ、コトワリヲシテ退去セシメル役……此ノ間ノ支払ノトキハ、妙策一番、玄関ノ戸ニ「支払ハ二十日ニシテ下サイ」ト、大キク張リ出シタモンデス、(カウナツテ来ルト、寧ロ面白イ)扨コノ二十日ニ払ヘルヤラ払へヌヤラ、今ノ処、雲煙漠々タリ。 多分、払へヌ方デセウ、其ノ時和尚、如何ナル妙案ヲ出スカ、今カラ、タノシミデ見テ居マス………ト云フノハ、ヨク/\困ツテ、此ノ間、和尚ノ命ヲ奉ジテ、「軸」ヲ百本バカリ(ツマラヌモノバカリ)小生、某所ニ、カツイデ行キマシタ……イヤ、ソノ重タイ事/\……処ガ、ドウモ、之ガ、オ金ニナラン、或ハ又、和尚ガ、タテマシタ新家ヲ、担保ニシテ、オ金ヲカリルベク、役所ニ登記ノ事デ、小生ガ、数回行ツタガ、檀家、本山ノ承諾ナキ故トテ、之モペケ……ギリ/\ニナツテ来テ居マス、ソレニ、他ニ大口ノ借金ガアツテ、此ノ利子ヲ、サイソクニ来テルノモ有ル、トテモ、面白イ……。 ソコデ、毎日ノタベ物ヲ、御ラン下サイ、米ハ、壺ニマダ半分程アリマス、味噌モ、桶ニ半分程アル、炭ハ俵ニ三分一程アル、………コレ丈ナリ……何ニモ買ハン(買ヘナイノダカラ)。 アンマリ毎日、筍(カタクナツテ居マス、時ハヅレダカラ)ヲ喰フノデ、腹ノ中ニ、「籔」ガ出来ヤシナイカト、心配シマス、呵々、ソレト、大豆ヲ毎日/\煮テ喰フノデ、鳩ポツポノ様ダ、時々和命ニ「和尚サン、コノ豆ハ鳩ガ好キデスネ」ト、皮肉ヲ云ツテミルト、「サウヂヤ/\鳩ノ好物ヂヤ」ト、スマシテヰル。 何シロ、エライ面白イ様ナ、ナサケナイ様ナ事ヂヤト思ヒマス。 今度ノ私ノ俳句ニ「筍」ノ句ガ大分アリマスガ、ソノ「筍」ハ、右ノ事情ノ「筍」故オ察シ下サイ、竪クテ、味モナンニモナイ…… 扨、以上、コレ等ノ、オサマリガ、ドウケリガツクノカ、オ米モ大分、無クナツテ来タカラ、近イウチニ又『局面』ガ一転回スル事ト思ヒマス……其時又、御報シマス。 〇小サイ庵デヨイ。 七 (八月十三日、小豆島、渕崎村、井上一二氏方より) 啓、一二氏健在に有之侯、一二氏よりの電報及手紙御覧下されし事と存申侯、扨、色々の御事情の為御厚意ありながら一寸早い事には行かぬわけに有之候、その為、出発前御相談申上候通り、台湾行ときめ申候、最近出航十八日故、ソレニテ、所謂台湾落ときめ申侯、旅費三十五円、後援会基金(一二氏に大いにひやかされ候)中よリ御郵送御願申上候、ソレ迄、一二氏宅にゴロ/\して居るつもりなれ共、其間に一二氏の好意にてどつかよい処をあたつて見てやるとの御親切に有之候、但、かゝる事は急いではダメの事故、兎に角台湾行ときめ申候、サレド右の御願、北朗氏とも御相談下され、御郵送御たのみ申上候、一二氏宅にて作句して遊ばしていたゞいて居る間が極楽と存じ申候。 ソレデハ御大切に、マタ、イツあへるやら、御達者を念じ申候、猶御願。 台湾行とイツシヨに、セツタ(船に乗るに便利故)と、アンタの、フダンの浴衣一枚御送り下され度候(ムギワラ帽はコチラで買ひます)れうちやんによろしく御礼申上候。 此手紙一二氏へ御覧を願ひし上差出し申候 敬具。 荻原様 榻下 十三日 尾崎生 展墓の約はたします。 (下略) 九 (九月二日、南郷庵より) 井 様 二日 放生 啓、今日ハ二日、和倉カラノハガキイタヾキマシタ故、日程ノ予定通リ茲一両日中ニハ御入洛ノ事ト思ヒマス」扨テ、色々変ツタ事ヲ申シ上ゲテ、又、放哉がダマサレタカナナド、狐ニツマヽレタ様ナ処ガアリハシナイカト思フカラ、其後ノ情報ヲ一寸申上マス」西光寺サンハ、前便申上タ通リ「アナタノスキナ時迄、御出下サイ、失礼ダガ、金銭上ノ少々ノ御助力ナラバ、御心配ナク申シテ下サイ、毎月、オ留守番(庵ノ)代トシテ差上ル事ハ、私ノ心持トシテ全ク自然的ニウレシイノデスカラ、遠慮シテ下サルナ(中略)大体、以上ノ如ク実ニナントモ、感泣ノ外ナシ……只、井上氏ハ「二タ月ヤ三月寝テ遊ンデ居タ処デ、自分ノ家カラ、米デモ、ナンデモ持ツテ来ルカラ、平気ニ静養ナサイ……何レ、オ盆ガスンデユツクリシテカラ、用件ヲカネ、一度入洛シテ、先生ニアツテ、名案ヲ出シテモラハウカ、又ハ島ニ一度来テモラツテ、西光寺サント私ト三人デ相談シタラ、名案ガ出ルカモシレン、マア、ソレ迄ハ、ユツクリ寝テ、静養シテ居タラヨイデセウ」……大略サウ云ツタ様ナ処……実ハ小生此ノ三年間、流転ノ旅ニスツカリツカレマシタ、ソレデ、安定ノ地ヲエタイ……(台湾ニ行ク考モ、モトハ茲カラ出タノデスガ)身心共ニ疲労シタノデス……処ガ、ハカラズ当地デ、妙ナ因縁カラ、ジツトシテ、安定シテ死ナレサウナ処ヲ得、大イニ喜ンダ次第デアリマス……『之デモウ外ニ動カナイデモ死ナレル』私ノ句ノ中ニモアリマスガ(昨日、東京ニ百句送リマシタ中)只今、私ノ考ノ中ニ残ツテ居ルモノハ只、「死」……之丈デアリマス、積極的ニ死ヲ求メルカ、消極的ニ、ヂツトシテ、安定シテ居テ死ノ到来ヲマツテ居ルカ……外ニハナンニモ無イ……ソレト関聯シテ、コヽ一週間程、私ハ自分ノ生活状態ヲ変更シテ見マシタ……ソレハ「米」ヲ焼イテオク事デス、ソレカラ「豆」ヲイツテ置キマス、ソレト、「塩」「ラツキヨ」「梅干」ノモラツタノガアリマス、ソレト「麦粉」「オ砂糖」……以上ダケシカ私ノ身体ノ中ニハイルモノハ一品モアリマセン、勿論、魚ナンカ少シモタベマセン……「焼米」「焼豆」ハ中々竪クテ、一日ニ少シシカタベラレマセン……ソシテ、番茶ノ煮出シタノト、前ノ井戸水トヲ、ガブ/\呑ム事デス、一日土瓶ニ四ハイ位呑ンデシマヒマス……腹ガヘツテ/\何ノ仕事モ出来マセン、立チ上レバ眼ガクラ/\トマヒマス、ソシテ妙ナ事ニハ、時々頭痛ガシマスネ……ツマリ、私ハ例ノ断食ヘノ中間ノ方法ヲトツテ見タノデス……果シテ、之デヤツテ行キウル自信ガツケバ、井上氏ニモ西光寺サンニモ、何ノ御心配ヲカケナクテモ、此儘、此ノ南郷庵主人トシテ、安定シテ、死ヌ事ガ出来ル……之ガ何ヨリノ希望ナノデス、今日デ、一週問位ニナリマスガ、ナントナク身体ノ調子ガヨクナツテ来テ、之ナラヤツテ行ケルカモ知レマセン、ソシタラ実ニ万歳デス……ソシテ、身体ガ衰弱シテ、自然、死期ヲ早メル事トナレバ、実ニ一挙両得ト云フワケデ、益々万歳デアリマス……(妙ナハナシダケレ共、小便ムヤミニ行クケレ共、大便ハ一向行キマセンネ)……未ダ申シ忘レマシタ、一度腹ガヘツテタマラヌノデ、西光寺サンカラ「ジヤガ芋」ヲモラツテ来テ、「三ツ」煮テ、塩ヲツケテ、一日タベマシタ、大イニ腹具合ガヨイデス、此島ハ「サツマ芋」ノ産地ノ由故、時々「芋」ヤ「大根」ヲ井上氏ヤ西光寺サンカラモラフ位ハ、ナンデモナイ事ト思ヒマス……此生活様式ガ、ホンモノニナツタラ、大イニ喜ンデ下サイ……未ダ一週間デスカラネ、但、ドウシテモ、ヤツテ見ル考、サウナレバ、ドナタニモ心配カケナイデスム……ソシテ、唯一ノ残ツテ居ル希望ノ「死」ヲ、最モ早ク、ソシテ、安住シテ、自然ニ、受入レル事ガ出来ル……ソシテ、只、ソレ迄句作ヲ生命トシマセウ、(ソレ迄トハ勿論、死ヌ迄デスヨ)今日ハ、オ盆ノ仏様ノブドウヲ少シタベマシタ、ウマイデスネ……ドウカ此ノ私ノ生活様式ガ成功スル様、心カラ念ジテ下サイマセ……何シロ、急ニヤラズニボツ/\ヤツテ行ク考デ有リマス……ソレデ、矢張リ、「後援会」ノ方ハ、前便ノ通リニ計画シテ下スツテ、御保管ヲ願ヒマス……ソシテ、井上氏ナリ、西光寺サンナリニ、ヤムナクオ借リシタオ金ノ支払(生活費、タバコ代、シヤツ代ト云ツタ様ナモノ)ニアテヽモラヒタイノデス、此間モ、私、二三人ニ「押シ付ケ」デハ無ク、願ヒ状出シテ見タ処ガ(同人ノ中デ)大分、「脈」モアル様子、ドウカ御願申シマス……但、此ノ私ノ「生活様式」ガ完全ニナレバ、……日ナラズシテ、其必要無キニ至ルヤモ知レマセンシ、又、例ノ「死」ガ到来スレバ、葬式代(国ノ兄姉デモ出シテクレマセウガ)ノ一部ニナツテシマフカモ知レマセン、マア笑談ハヌキニシテ、此上トモニ、御世話様ヲタノミマス、ソレカラ、甚申上兼ネル次第デスガ、例ノ大部分台湾行ノ考デ「浴衣一枚」キタキリ雀デトビ出シタモンデスカラ、時「秋冷」トナルト、シヤツナリ、ヅボンナリ「袷」位ホシイ、羽織ニハ、例ノ、常称院カラモラツタ「道行」ヲ着ル事トシマス、ソレデ、ソンナ物ノ費用トシテ、井上氏宛ニ送ツテイタヾイタ、三十五円ノ旅費ハ(此家ニハイルニツイテ、買ツタ、鍋トカ、ドビントカ、其他共)大部分ハ費消サレル事卜思フノデアリマス』只今ノ処、井上氏ノ処ニアル中カラ十円位、残シテオイテ、其以外ノ金デ「秋冷」ノ用意ヲシテ、扨此ノ九月カラ、新ラシイ「生活様式」ノ実行ニハイル考デ居ルノデス、否已ニ実行シテ居ルノデスガ……目下ハマダ、フラ/\シテ、大抵横臥シテ居ルノデス……其中ニハ必ズヤ元気ガ出テ来ルト思ツテ居リマス…… ホントニ、今ノ簡易生活ガ(只今ノ様ニ、少シ大風ニ吹カレルト、スグ、ブチタホサレサウナ、ヒョロ/\デ無クテ、少シ腹ノ底カラノ元気ガ出テ来テ)……ホンモノニナツタラ、一ケ月ノ食費ハ、ホントニ、オ話シニモナラヌ程ノモノダラウト思ヒマス……ソシテ、悠然トシテタツタ一ツ残ツテ居ル、タノシミノ「死」ヲ、自然的ニ受入レタイト思フノデアリマス……ドウカ、成功スル様ニイノツテ下サイ。 一二 (十月六日、南郷庵より) (前略)小生の「句」多くてお困りでしたらう、おいそがしい中を……アンマリよいのはありませんか、マア、けなされなかつた丈、メツケモノと云ふ処ですネ、一日に必、十句ハ精進して居ります、カナリ近頃は推敲もして見ます、其の内には……近いうちにはホメテもらう時が必来ると信じて勉強して居ます、只、数の多い丈は御許し下さい、私としては、ドンナ、マヅイ句であつても、それがホントに吐いた言葉で、嘘で無いもの、作りもので無い故、捨てゝしまへないので、ソレデ、なんでもかんでも、コミにして、アンタの処に突つ込んで置くのです、丁度、不用だけれども捨てられもせず、人にやられもせず、毀されもせぬ物を、ミンナオ寺にあづけて、安心して居るやうに、呵々、アナタはオ寺なんだから、御めん下さい。 (下略) 井さま 五日 放哉 一三 (十月九日、南郷庵より) (前略)今日はお大師サマの日(旧の二十一日)ですけれ共、サツパリまゐつて来る人も無い……只松風ばかり』 ハガキで……小包の中から何が出るか、。 アテてみよといふ事でしたから、ハテ、オ菓子でも這入つて居るかな、小サイ人形でも出て来るかと思つて居たのです。 今日、昼便で小包着、早速ニコニコしながらアケテ見る。 風呂敷の糸を、タンネンにとつて、二枚フロシキが出来て大変有難い、今迄「芋」かなにか包んで行つたり来たりするのに、井上氏の処から一枚借りて居ましたのです、色々有難う、放哉、俄かに衣裳モチになつてしまつて、之丈着れば、寒い事はありません……中から頗る古風なサルマタが(白い)出て来たのは面白かつた(アレハ中々涼しさうでよいです)ソレカラ、奈良の鹿の皮の財布と同じ色合で、又模様もその様な絹の帯(ヤハラカイ四角な)は、正に乞食放哉の着用す可きモノぢやない、上等すぎますよ……帯と申せば、多分……寝巻の(?)帯迄、すまぬ事です……(皮の手提げ)はコレカラ大いに重宝になる事と思つて居ます、シヤツもヅボン下もあるし、「寒サは何時でもヤツテ来い」と、大いに心丈夫になつて居ます……コレデ何もかも有ります、偏に御礼/\』 其後、庵は益々平穏無事、何しろ門外不出ですから……アンマリ報告する事がバツタリ無くなつたので、ボンヤリして居る形です……その方が結構なのです』(下略) 之から京都はよいですな、秋の京都……諸方を又、ヒマ/\に御散策の事でせう、紅葉は、コレカラですネ……イツゾヤ永観堂の紅葉の下の床几の上で、二三人で「謡」をうたつて、オ酒を呑んで居たのに……京都ダナと云ふ気がした事でしたが……悠然とした気持で此の筆を擱き得る事を更めて感謝いたします。 荻原様 榻下 八日 尾崎生 一四 (十月十一日、南郷庵より) (葉書) 啓、層雲……咋日着、大分厚いものが出来ましたな……ポツ/\読む考で居ります、……例の「絹の角オビ」ネ、うれしがつて、早速着用に及んで居りますよ……腹の処ダケが立派なので、「腹」をたゝいて大いに得意になつて居ます、サヨナラ 一五 (十月十四日、南郷庵より) (葉書) 啓、オ祭……島デハ年中ノ最大行事ラシイ、皆、新ラシイ下駄ト、新ラシイ(シヤツポ)ヲカブツテ、嬉々として歩いて居ます。 昨夜、オ祭ノゴチ走ヲ、西光寺サンハジメ、向フノ家等カラオ酒ヲツケテ、モツテ来テクレル、大イニ面喰ツテ、而し呑ミマシタ、弱クナリマシタヨ、大イニ酔フ……今日ハ又、淵崎のオ祭リ……約束ガシテアルノデ又、御チ走になりに井上氏ノ宅へ行キマス……而シテ、酒呑ンダコトワリを申します……其(呑ンダ)事ヲ、アヤマル意味デ一本。 井師 榻下 十五日 放生 一七 (十月二十五日、南郷庵より) 啓、今「原稿」着……御意思ヲ守ツテ、ナル可ク一日モ早ク返送スル考デ居リマス、……今日「れうチヤン」より、名文達筆の、テガミをもらひ、大にうれしく、但、ウレシク無イ事ハ、(「此間ノ松タケ、オ宅マデ、トヾカナイノデ、ヒキカヘシタトノ事」デ、通知ガアリマシタカラ、今日又中味ヲ、トリカヘテ、駅送リニテ御送リ致シマス、ドウカ、コレヲモツテ、トリニ行ツテ下サイ、御願)……と云ふワケデ実ニ、妙ナ事ニナツタモノデ、……何日、マツテモ来ナイ筈デスヨ、呵々……又、コンド駅送リデスカラ、高松カラ、舟デ、コヽマデ来テ、ドコカニ保管スルカ今ソレヲ、タヅネテヰマス、ソコ迄、此ノ受取書ヲモツテ、出カケルワケデアリマス……アノ松たけ実にエライ松茸ニ有之候、呵々……ヤハリ、乞食放哉ガ、松タケナンカ、喰ベヨウと思ふからコンナにして仏が示シテ下サル事ト思ツテ居マスヨ。 (下略) 荻原 様 侍史 二十五日 放生 一八 (十月二十六日南郷庵より) 啓、此手紙、京都ニ出シマス……病気全快乞御安心……(中略) 次ガ、大変ナ、マツタケ……コン度ノ松タケ位、大変ナモノハ無イ……封入ノモノ(れうちやんノ送リモノ)ヲ出シテ、大イニ考へテ居タ処、ユーベ、夜分ニナツテ、高松桟橋より……ハガキ来ル(小荷物茲ニ在リ、早速、トリニ来レ)ソレカラ、村ノアル人ヲタノンデ、今夜、高松ニ船デ行く、荷船ノ人ニ、其ノハガキヲタノミコンデモラツタワケ、多分、今晩……其ノ松タケがとゞくダラウと云ふ事です、ヤレ/\……松タケ、正ニ半分以上ハ、報酬モノト覚悟致居申候(タノンダ人ニ)呵々。 此間、風邪で、一週間程臥床して、五十句、病床吟を送つて置きました(層雲社へ)来月でも亦、ゆつくり御らんをねがひます。 例の、大さわぎの松たけ、正に落掌、大丈夫、くさつて居ませんでしたから、御安心下さいませ、そして、更めて御礼申します、又、れうちやんの手数にも、御礼申します。 只、コンナ事申し上げんでもよい事だが、書いて見ませう、桟橋の保管料とか、庵迄の運ちんで、皆で、九拾弐銭もつて行きました、之は全く、最後の、一番の、粗忽者の放哉が、時日を、おくらかしたタメに生じた事、自業自得……最後に、私の大なる粗こつ者を発揮したワケです。 呵々 此間の手紙、ナンダカ叱られた様な気がして淋しい……病気で寝てゐるセイもあつたでせうし何もかも、私の、そこつ者に御許し下さい、之からは、大いに、つゝしんで書く事にします、大いに考へます、他人様の事など申しません、自分の事を考へねばなりません。 荻原 様 十一月四日 尾崎生 二〇 (十二月二十三日、南郷庵より) 啓、松ノ実来タデスヨ、五六日も前ニナリマスカ、其ノ時直ニハガキデ礼状ヲ出シマシタヨ、扨ハ私ノハガキノ方ガ行方不明ニナリマシタカナ、カチン/\実ヲコハシテヤツテマスヨ、下手ヲスルト、中ノ実モ何モグチヤ/\ニコハシテシマフノデ、中々呼吸モノナンデスヨ、ソレデハ更メテ御礼 イロ/\ト御話シ承リ、只何事モ申シマセン……只、此頃デハ色々ナ、オバーサン連中ガ来テクレマス、今月ノオ大師サンニハ(旧十一月)皆デ庵ニ来テ、大イニ騒グノダトテ、タノシミニシテ井マス、私ノ事ヲオヂユツサン(御住職ノ意)アンタモ、ウタツテ、オドリナサイヨと申して居ます、大いに恐縮します……四十二才ノ厄年ヲヒカヘテ、コンナ島ニ来テ、放哉ナルモノ、婆サン対手ニ踊ルトハ、蓋シ浮世ハ面白イデスナ、ドウナル物ヤラ、ホントニ来年ノ厄年ハドウナル事ヤラ……イヤ/\「日日是好日」デスカナ 此間墓ノ帰リニ西光寺サンガ見エテ、長イ事二人デ、雑だんシテ井マシタ、障子モ、ミンナ張リカヘル事ニシマシタ、何シロ寒サガコタヘマスノデ……北朗ガ、夫婦住居ノ清洒タル処カラ来テミレバ……ナンデモ、カデモ、汚ク見エルノデスヨ、ソンナモノデハ無イデスカナ、住メバ都デスヨ、掃除ハシマストモ、私ガ左ノ手ノオヤユビヲ痛メテ、一週間程薬ヲツケテ、グル/\巻ニシテ居テ、掃除ガ出来ナンダ時ヲ、北朗ガ来テ見タノデスヨ、私ダトテ、ホコリノ中ハキラヒ也、ホントニオ互ニ年ヲトルト、先ノ事/\ト、サキ/\計リ考へラレテ困リマスナ、若イ時ハカウデモナカッタノダケレ共、此頃又馬鹿ニサキノ事ガ気ニナリマス、困ツテ居リマス。 北朗、今朝、ハガキオコシマシタ、長逗留デスナ、扨ハ、個展ガ成功カナト大イニ喜ンデ居リマス、(終リニ、年ヲコス参円ノ御礼/\/\) 御礼ヤラ何ヤカヤ書キツケマシタ。 匆々 拝 井師 座下 二十三日 放哉生 二伸 吹ク/\寒クヨク吹きます、此西風昼夜ブツ通しで、四日でも五日でも平気で吹きまくります、殊に一昨夜来の大暴風となりしものは、塀ヲタホシ、屋根ヲハギ、庵ノ土塀の壁の「上ぬり」約一間半程、ドツカニ持つて行つてしまひました。 風が「壁」ヲ持つて行くとはハヂメテ也……放哉コンナ処に住むのはハヂメテにて、朝鮮、満州の酷寒ノ地ノ方ガハルカニ暮しよいですな、コンナに風ハフカズ、第一設備がよいから……烈風ナンデスカラ、一日中周囲が怒号してる雑音ばかりです、気狂になりさうですな、島の人が平気(?)デ居ル処を見ると、モトモト島ノ人ハ鈍感か、習慣か(小供ノ時カラノ)と思ひますよ、慥に、鋭い人は、神経衰弱ニナリマスナ、障子丈デネルノデスガ……昼デモ夜デモ、其ノ障子ニ烈風ガ砂利ヲ叩キ付ケマス、其ノバリ/\/\ト云フ音、イヤですな、全く夜昼ノベツ幕なしに、四日でも、五日でも、ゴー/\ヒユー/\やられて、気がムシヤクシヤして来ます、落着かれないんですな、冬中、コレダと云ふのだから、放哉大いに、アキラメテハ居ます……之も『修業』です。 二一 (十二月二十七日、南郷庵より) 井 師 座下 二十七日昼 放 哉 生 今日ハ旧ノ十一月十一日、新ノ十二月二十六日卜云フ日……此ノ日、朝カラ妙二風呂ニハイリ度イ気持ガ出テ来タ、可笑シイ事ダナと思ふ、(或ハ新年ガ近イカラ、旧イ習慣ガ、ソンナ気ヲサセタノカ)正ニ決シテ威張ルワケデモなんデモナイガ、這入リ度イ気持ガ今迄ハ出テ来なんだノデスヨ、……ソレガ、今朝カラノ気持!正ニ四ケ月目ノ入浴也、午後三時頃カラ、ワクと云ふから、アゴヒゲと口ヒゲとヲ、ゴク短カク、ハサミデ刈ツテ、……頭モ大分、後頭部ハノビテ居ル様ダガ……コレハ此儘止して、扨、銭湯に行く、早いから二三人シカ居らぬ……湯銭参銭也、全く、よい気持になつて……四ケ月ブリのよい気持になつて、(エライもんだ、手も足も、白くなりましたよ)帰庵しました、扨、其ノ銭湯で、姿見ニ、私ノカラダヲ久しぶりニウツシテ見テ、実に驚いたの、ナンノつて……マルデ骨と皮也、私ノ「顔」ハ、昔カラ、病気シテ長ク寝テ居テモヤセナイ顔ナンデス、之デハ、十貫目モアルマイ、(十四貫近クアツタノダガ)……痩セタリナ/\、コレデハ到底、コレカラ、肉体労働ハ出来ヌ、只、カウシテ座つて、掃き掃除位サセテモラツテ、早く死ぬこと/\、と思ふと、全く自分乍ラ、アキレ過る程、ヤセタ/\、驚き申候」(下略) 二二 (十二月二十九日、南郷庵より) 啓、茲一両日、無風シカモ時々小雨といふのですから……大ニ落付いてしまつて其の気持のよい事……牢屋から出て来た様な、全くです(風がないと、決して酷寒ではないのですから(中略) 今夜アンタニ訴へて見たいと思つたのは「旅人の悲哀」といふ事であります「ストレンヂヤーの悲哀」……島崎藤村ガ「本」ダツタカ?雑誌ダツタカ、自分ガ(フランス)ニ居タ時の「ストレンヂヤーの悲哀」を書いて居たのをよんで涙無き能はずでアリマシタ、而も、此ノ時の「悲哀」ハ私がコレカラ書く様な、「あくどい」ものでは無かつたと、オボエテ居ります、ソレハ、此島ノ土着ノ住民(何代モ何代モ住ンデル)ニ関してゞあります、之等「土着民」ハ、他国から移住して来て、此島デ生活スル人々を、常ニ「異端者」扱ひにします、そして常ニ「ウノ目タカノ目」で其ノ人々ノ行動ヲ見テ居テ、一寸シタ事があると、直ニ之を同人土着者間にフレ廻りて悪口を申します。 故ニ他国から移住した連中ハ常ニ小サクなつて居なければナリマセン、……自分ノ生レタ(土)……郷里ヲ見捨て、他国で生活スルト云フ事ハ已ニ其ノ間、何等かの悲シイ「歴史」ガ有ルニ相違ありません……此ノアハレナ旅人……ストレンヂヤーを彼等土着民ハ、同情ヲ以テ見ズシテ、カヘツテ機会アレバ、之レヲハネ出し、追ヒ出サントシテ常ニ「異端者」トシテ注意ヲ怠ラナイ……トハ何卜云フケツの穴ノ小サイ……日本人ノ、クセデセウ、特ニ小サイ島ノ住人トシテ、益「穴」モ小サイ……トテモ「度」スべカラズ、コンナ連中ガ、オ大師サン信心モ何モアツタモンデスカ、……全クアキレ返ルトハ此ノ事に候、気ノ毒ナ旅人ニハ、コチラから進んで同情シテ、仲よく暮して行くのが「人間ノ道」ぢやありませんか、ソレが全く正反対……ソシテ其の旅人ノ行動ヲシラベル係リハ、多ク用事ノ無イ(死ヌヨリ外ニハ)婆サン爺サンガ、引ウケル、ソレデ、有ル事無イ事シラベテ来テハ手柄顔に話ス、コレニ若い男女(主ニ女)が声援する。 アンタ方ノ処ニモツテ行クヨリ外ニハ、島デハ誰一人として心カラ此ノ、アハレナ旅人ニ同情シテクレルモノハ無いのだ、……涙なき能はずデス、(西光寺サンノヤウナ人ヲ得テ私ハ、放哉ツク/゛\有りがたい事だと思つてゐますよ)……コンナ土着民連ヲ一度支那カ、満州アタリニ追ヒヤツテ、世界ハヒロイ事、他人には、心から同情セナケレバナラナイ事を骨迄シミコマセル必要ハナイデセウカ。 (下略) 井師 座 下 二十八日夜 放哉 二三 (十五年一月十三日、南郷庵より) 啓、金の催促手紙になつてしまつて、是はアンタのポケツトを煩はし、况やソレが、御母サンの、供養に送られる分をいたゞくとは、どうも、なんとも、恐縮の外ありません、一月三十一日、三週忌の事は、必ず致します、実は北朗氏は、知つて居たか知らぬが、私の亡母と、亡姪二人及び先に白骨になつて来て、ひとばん、とまつて行つた、一燈園時代の友人の、名前と、この四人の名前が、チヤンと、オ大師様の前に、張りつけてあるのでありまして、それで、私が、オ経をよむ度ニハ、即供養の心持にもなつて居る次第です、今後は、アンタのおつ母さんの戒名もいつしよに書かしてもらひまして、コレカラ、年中供養いたしませう、之も妙な御えんと申せばさうも思へる、私は、例の層雲社の句会の時……。 桂子サンが、二階にタクサン菓子を、もつて来られた時、別嬪サンだなあ、と思つた時、その時、アンタが、黒足袋の親ゆびの辺を、糸で盛につゞくつた足袋を、はいて居られたので、コレハと思つた時その時、なんかの用事で、下におりて、おつ母さんにお目にかゝつた事が、ありました切りですがな……。 つく/゛\御礼申します』(中略) アノ家の、アノ谷の、雪景色は、よいでせうなあ……行つて見たいなあ、ホントに行つて、話したい……御礼状 井師 座下 十三日 放哉生 二四 (一月二十八日、南郷庵より) 啓、何かと御いそがしい事でせう、御上京中は、色々用事があるでせうな、島ハ今日、旧の十二月十四日であります、アト半月計りで、大節季を済まして、お正月となるわけであります。 (中略) 此の頃妙ニ、ウナギのかばやきと、マグロのスシを、思ひ出します、不思議です、死ぬ迄に一度たべたいものだと思ひます。 一寸、風が、今、コヤミになつて居ります。 井師 座下 二十七日 放生 二五 (二月八日、南郷庵より) 啓、今日、只今、慥に(薬代)到着しました。 又、なんか書いて下さるのですか、ホントになんといふ御縁だやら……御礼』今朝から風が珍しく落ちて、よい気持で落ち付いて居ります、風が無いと空気もうすらぎますし、例の木を打つたり、砂をとばしたりする雑音が、バタリと無くなるので、それこそ、オコリが落ちた様な気になつて、ポカンとしてゐます。 菜の花が咲いて、お遍路のスヾガちり/\なつて、雲雀が囀る頃はよいでせうな……待遠しい事ですな、島の人にきくと、五月六月はなんとかいふ大暴風が吹く時ださうです、それが暴風としては、冬期よりもひどいさうです、ソレが済むと、……夏のソヨ/\とした海風が岡から吹きこむ、涼しい、よい季節になります、八月からは知つて居るのだから……この五月六月の大暴風といふ奴に、今からオヂケをふるつて居ます。 それにしても実によく吹く処ですな、瀬戸内海の島に、こんな処があることは、ホントに夢にも思はぬ意外な事でした、島の人は、子供の時からの習慣ですね……烈風には、平気なものですな、そして裏のオ婆サンなんか……(コンナにひどい風がよく吹くから、此の島は空気がよいのです)と、心から信じてゐるのだから……益々手がつけられませんのです。 呵々……(中略) 層雲二月号来ました、……ポツ/\読んで居ります、……裏の写真の処にある「わらやふるゆきつもる」には、スツカリ感心させられてしまひました……短詩形なるものが、皆、かう行くと異議無しデスケレ共、中々、それは大問題ですな……此頃、妙な短詩形にはイヤになります……一度読んでみて、ピタリと来ても、二度よみ、三度よんでゐると、始めと異つたダラシの無いものになつてしまふのは、どういふモノでせうか、何等か、そこに恐ろしい「力」といふものゝあるとなしとの相違でせうな……「力量」の相違は、怖いですな……「わらやふるゆきつもる」……読めば読む程しんみりして来る、批評を許しませんね……近頃コレ程、こたへた句はありませんでした、然も此頃、大いに苦吟しましたのですが……どうもホメてもらへさうなものが無いので、ガツカリします、然し大いに苦吟してるのですよ……サヨナラ 御礼の序に、ゴタ/\書きました。 井師 座下 二月八日 放哉 二六 (二月九日、南郷庵より) 啓、旅人サンが、まだ「薬」を(咳の)……送つてくれないものですから……引つゞきこゝのお医者の「オ薬」を呑んでましたら「今日又、別な「請求書」を、よこしまして、至急に払つてもらひたいらしい事を申して来ました、……私は三十日迄に(旧の)払へばよいと思つて居たのですけれ共カウ……「旅の者」には……毫末の信用無く…さいそくされては、どうも、落付いて居れませんので……不足の処を……西光寺サンから御拝借して、只今、全部、オ医者に支払つてしまひました…早く旅人君が、タヾの「薬」送つてくれゝばよいなあと、それのみ、首をのばして待つて居る次第であります。 ……どうも重ね/\で、ナントか、かとか、行違ひになりまして、相済まぬ事ダラケです、御許し下さい……至急に……此前に、モラツタ(請求書)と、今回(本日モラッタ)請求書に(受領判)を押してもらひまして御手許迄差出します……いつなり共、又御序に、不足弐円弐拾五銭、を送つて置いて下さいませんか。 西光寺サンに御かへし致します。 又、ナンカ、あなたが、半折のものでも書いて下さるのですか!実に/\恐縮千万の次第であります、あゝ、此の御恩、常時に、思ひ出す事であります…… 少々「咳」がコヂレましたので、大いに閉口いたしました。 アナタはお達者で何より結構ですね……ドコもお悪い事は無いですな、アンタのお悪かつたと云ふ様な、記憶が一寸ありませんですな、ありがたい事であります。 西光寺サンの(もち搗きで)…(もち)を、大きな本箱にいつぱいと(白砂糖)たくさんもらひました……(餅)も(砂糖)も多過ぎますので……放哉面喰つて、恐縮して居ます、トテモ一人ではタベ切れない……(水餅)にしても長くあるだらうと思つて居ます……西光寺サンは、ドカリ/\と、……(ケチ/\せずに)親切して下さいますので……放哉の様な気持の奴は……大いに感銘する次第であります……之も亦ありがたい事であります……(二枚同封……請求書、受領証……)今日はタラズメの御願やら……何やかや申上けます。 敬白 井師 座下 二月八日 放生 二七 (二月十一日、南郷庵より) 井師 榻下 二月十日 放哉生 啓、今日は、旧二月二十八日……アト二日でお正月元日、今日、西光寺サンが久し振りで来られて、二人で、お大師サンの花を全部「松」に取代へました、(お地蔵サンも同様) 一寸お正月らしい、今迄、話して帰られた処です。 (中略) 昨日、旅人君から(薬)を送つて来くれました、……愈々、コレカラは、たゞの「薬」がいたゞけるワケになりました……旅人君とは、一度、其のオ宅に泊つて、大いに発展して、放談万丈の交渉が、タツタ、一日一夜あつた切りなんですけれ共……大変な親切にしてくれました、……今回も、先生の新薬の注射薬を是非ヤレ(咳がとまる)と云ふて……オコル様にすゝめて来ます…実にありがたい事だ……大いに注射する考であります、ホントにありがたい事だ、南無阿弥陀仏。 元日に、一二君の処へ、大いに、放哉、心からの敬意を表して(庭先迄ナリ共)行く気であつた処が……今日、西光寺サント色々はなして居て……放哉、頭はははげて居るし……黒の法衣を着てゐるのだから……ソンナものが元日の朝早くから、フラフラとびこんでは……呵々、二日にしたらどうです?……で異議なし、徹(ママ)回……呵々……イヤ、色々の事がありますよ。 此頃、「句作」の「熱」と申しますか、「気分」と云ふか? 馬鹿に旺盛になりまして……寝る時も頭を錬りつゝ寝入る、朝オキルと、床の中で、ねて居る間又考へて居る……処が、不思議な事は夜寝入る時に、一寸よいな……と思ふ句が、一句二句浮ぶことがありますが……それを、朝は皆忘れてゐます、……ソレ切りです。 (下略) 二八 (二月十八日、南郷庵より) 啓、旅人君、ハガキをよこして曰く「君の病名の事は井師に丈け白状せり」ト……呵々……何も、コチラから広告して歩く必要も無いのだから、ワカル迄、当分、ダマツテ居てくれ、又心配サレルからと申し、旅人も、大賛成なりしが、ソレが、忽ちにして(みなとの会のトキ?)…「白状セリ」は、心細い男だな、呵々……アゝ……事実は事実でありまして……例の左ロクまく全部ユ着が……モトで、此の「島」の人外境の烈風、寒風にヤラレたんですな……マア、済んだ事は仕方がありません、此の咳薬で「咳」がとまつたら、「薬」は何にも用ひぬ考です……そして、ヤスイものでも、自分が、はらのへツタ時うまいと思ふモノを喰へば、ソレが、滋養分と思つてますから……其の余は……例の心的修養と……静座……俳句三昧とで……完全に信じて居ます……「咳」だけで(昼は出マセンが、夜、ネルと出ルノデコイツに参つて居るのですよ)……未だ「血」も出さず、他に異状ありません……旅人君が……注射ヲセヌトなぐるぞ(同氏考案の、ヨク咳ヲトメル薬の由也)と申来り、なぐられては大変故、今日、第一回を自分でヤル考ナレ共、此の不器用者の放哉……「注射」のヤリ方に大困りですよ、呵々……但、旅人君に感謝してます。 (中略) 一人ダト実に絶対安静ナンカ、心的修養!ニタヨルほかありません……大いに「読経」もします考……読経してるときは、全く(放哉)ハどつかに、とんで行つてしまつて無いのです「読経」ヤメルと……又、立もどつて居ります、イヤ、其の早い事/\、呵々 之丈、御報告……非常に衰弱して、慥に、死期は早めたでせう、ケレ共、近々、元気ニナツテ行く心持ですから……大丈夫、メツタに死にはしません……死ぬ気がしたら御報告申します。 呵々…… 此間「暦」を買つて来ました、(旧暦が入用故)……シカシ(放哉死ぬ日)とは、どこにも書いてありません、呵々……旅人君の白状ニヨリ……之丈、事実を報告します…… 井上氏……西光寺サン……マダ御承知アリマセン(医師ニモサウ話してあります)……決して御心配下さいますな……サヨナラ 寒風が冷タイ、困ル/\ 今少シデ、「暖」ニナルト辛抱シテマスヨ 井師 座下 二月十七日 放生 二九 (二月二十日、南郷庵より) 啓、今日は七日正月だと云ふので、アチコチで、三味線ひいたり、唄つたりして、酒を呑んでます、島の人々、イツ迄唄つてイツ迄酒を呑んだら満足するのか?不思議な事ですな、然し不相変の寒い烈風中ですよ、潮が強いのか、潮風が強いのか、この辺一帯には、(梅の木)も(桃の木)も一本も無いさうです、寒い「殺風景」な処ですな……梅の木、梅の花の咲かぬ処、桃の花の咲かぬ処、なんと云ふ淋しい春でせうか?只遠く離れた、山の奥の方から(梅の木)や(桃)を売りに出て来るさうです……実に、ナサケナイ土地ですな、第一、(オ米)といふものが出来ぬので、(サツマ芋)が出来る土地柄なんだから実にあきれますな……(梅の木)が一本も無いからと云つて(鴬)も居らぬと云ふ理屈はあるまいな、などゝ、一人で考へて見たりしますよ。 此ノ「庵」ヲ出ル位なら、全く、死んだ方が(目下の放哉としては尤も適切に)よいのです、一人でいろんな事ヲ考へてます、御許し下さいませ。 ……何等一ツノ「執着」をも持つて無い放哉故……全く、今の「死」は「大往生」であり、「極楽」であります。 読メバ、どつかに居なくなるし……ヤメルト……チヤンと、もどつて来て座つてます……困つた放哉坊主だよ…… どつか、行つてしまつた切りで、永久に、もどつて来るなよ。 咄 咄』 井師 座下 十九日 放生 三〇 (三月一日日、南郷庵より) 啓、「三月分」封入の御来書、御礼/\。 風が、追々に、衰へ来り、大に喜んで居ります。 セキハ、服薬のためにトマツテ居ます、それで、旅人君の、注射、已に、五回やりましたよ……十回迄ヤレバ「服薬セズ」共、「咳」が出ないといふ約束で……それがタツタ一ツのうれしさで、ヤツテますよ、「咳」がとまりサヘすれば……絶対に(服薬)セヌ考ですから……どんなに呑気でせう、、晴々するでせう! 後援会の事ヤラ、コン度のオヘンロ時期の収入の事ヤラ、ソレニヨリ、その後の方策にツイテの事ヤラ……只、放哉……仏に感謝する外、言葉をもちません、ナント云ふ、幸福な男だらう!……と思ひました。 私の句、イロ/\なほしていたゞいてありがたし/\……全く、モウ(句作三昧)より外、只今は、毎日、何も致しませんのですよ。 (ヒガンの中日に候)サヨナラ 井師 座下 三月二十一日 放哉生 二伸 お遍路、マダ、中々寒くて出かけません……殊に今頃のは、伯耆、因幡、但馬、備前者で……(ローソク)なんか、タテヌと云ふ話です……エライ事があるものですな、呵々……扨、腰ヌケタリと雖、放哉、机ノ前ニ座ル……ウラの婆さんなるもの、大ニ奮発して(ローソク)代をあげる事に約束ズミ故……大した事ハアルマイが、相応にはあがる見込也……何しろ放哉、元気甚だ盛故、万事、乞御安心(只コノ庵デ是非共、死ナセテモラヒマス……無理ヲシテモ、呵々)。 東京ハ之カラ(桜)ですな。 …… 昨日一二君の処から、彼岸中日のゴ馳走もらふ……大部分、婆サン氏ヘヤツタが、大分のどを越したモノもあります……全く此の咽喉は奇跡也/\(只一時的の現象でない様にと念じてゐます……いつときは、水もは入りカネて、サスガの放哉……ボンヤリ致し候よ、呵々)ウガイ、ヌリ薬、大いにヤツテ居ますよ…… 〇此間(のどの食欲)と云ふ、面白い、経験を得ましたが……又、何れかいて見ますよ、のどにアレ程の食欲がアルものとは今迄知りませんでしたな、御礼状がこんなに長くなりました。 井師 座下 三月二十二日昼 放哉生 三六 (三月二十六日、南郷庵より) (葉書) 啓、廿五日出(京都)、おはがき拝見……よくワカリました、解りました、勝手なこと計り申し御許し下さいまし。 丁寧に、口金をアケテ、其儘スグ、すへる様に迄して置いて下すつて(タバコ)ありがたし/\、竹のパイプが、は入つて居ました、以前ハ、無かつたものだが……不相変紫の煙はよい、ウマイな、どうして日本に、コンナ、タバコの葉が、出来ないでせうかな?……島ノ烈風猶止まず、コイツ一番困りものに候 匆々 放哉へ送る 井泉水 常高寺へ 「近況を報ずるの文」拝見した。 どうも其様子では「三合」どころではないらしい、大に同情ををしまないが、筍はどこも同じだ、私の寺でも、いま裏の籔の筍をさかんにたべてゐる、これはやはり筍として味ふべき物ではない、真竹の子なのだから「筍といふ概念」をたべてゐるやうなものだ。 ともかく、腹をこはさぬやうにすべし。 だますのもむづかしいだらうが、気持好くだまされるといふ事は実にむづかしいものだ。 かなり修行を要する事だ。 然し、そろ/\其堂に入つて来たやうだね、喜ぶべし/\。 三四日前、常照院を一寸訪問した、これは私として用事もあつたのだが、和尚は好く来てくれたなどゝ云つて、一人で火をおこして茶を入れてくれたりして、かなり長く話した。 その時、君の話が、勿論まつさきに出たんだが、和尚は君の為めに、ころもを仕立てて送つたと云ふではないか、而して君がどこかに落付くといふ意志があるならば、最初の約束通り、寺をさがして上げようといふのだ。 山科あたりに、さうした寺がなくはないのださうだ、和尚の言葉に依ると、二人以上は喰へないが、最少限度(いや最大限度か)二人までならばどうにか喰へるから、尾崎君も細君を呼びよせて落付く事を考へてはどうかといふのだ、尤もさうした処では、村の者の為めに手紙の代書や貸借上のぢだんに口をきく位の事はしてやらねばならぬさうだが、其代り大根やきうり位はずいぶん持つて来てくれるさうだ。 これは耳よりの話ではないかと思ふ。 須磨や小浜もよからうが、いつも寺の暗闘の犠牲になつてゐたり、米粒の底を視(ママ)いて案じてゐたり、ひとの借金の云ひ訳ばかりしてゐても初まるまい。 常照院の和尚にとつくりと頼んで見てはどうだらうか。 そこで奥さんは御達者ですか。 奥さんを筑紫の国へ流謫して何年になりますかね。 もう赦免にして、呼びかへしても好い時分じやありませんかね。 而して山科あたりの、やはらかい竹の子籔のありさうな所の寺を一つさがして貰つて、根をはやす工夫をするさ。 尤も常照院の和尚も云つてゐたが、お経は読まずともいゝが、毎朝かゝさず、村中にきこえるやうに木魚をたゝく事は怠つてはならぬとの事だ、それに門のすみに「法学士尾崎秀雄法律事務所」といふ看板でも掲げて、大根三本で抵当権設置の相談にでも応じてやれば、たしかに食ふには困るまいと思ふ。 さう/\、それから肝心の事を書き忘れた。 常照院の和尚が云ふてゐた事だが、お寺を世話するからには、酒はぜつたいに禁じて貰はねばならぬとの事だ。 あの和尚も、君の酒には大分、こりたと見え。 つまり去年の四条で飲んだかへりの事から、一切がぐれはじめたのだからね。 あの時は和尚も、あまりに一てつすぎると、私まで腹だゝしく思つた程だつたが、あの和尚も、根には人の好い所があるやうだ。 ともかく、一つ、みつしり考へて其上の返事に依つて、和尚にたのみ込む事は私が引受けてあげてもいゝ。 二伸、北朗から手紙が行つたか。 例の三合徳利は、三合以上は飲まぬといふ約束が守れるのをしかと見とゞけてから作る由なり。 (六月十九日) 南郷庵へ 正月もまぢかになつた。 其後おん平安無事なることゝ思ふが、北朗が去つてから大風の吹いた跡のやうに、一層さびしくなつた事は御察しする。 北朗とは、其からまだ逢はないが、兄の事に就て大分話があるやうな事を云ふて来てゐる。 其にしても、南郷庵の歳晩歳旦はさぞ長閑な事であらう。 門松を立てるに及ばず、支払をする要はなし、春着も作らず、餅もつかず、それでも間違なく、春にはなるのだから、有難いものではないか。 年立つや新年ふくべ米五舛 といふ芭蕉庵の春も思はせるが、どうだ、米五舛はあるか如何。 先達而、一二が来ての話に、米がなくなりはしないか、と使をもつて聞かした所、いつもまだあるまだある、と云つて、一向にへらないらしいのが却て心配だと云ふてゐた。 着る物は足りてゐる事と思ふがどうだ。 北朗の通信に、やはらかものを着流し、とある。 之も芭蕉庵を思はせるが、此冬は暖いので、仕合せな事だ。 私は島の冬を知らないけれども内海の中ではあり、京都辺と比べれば着物一枚は違ふことであらう。 凪いだ日などは、塩田がホカ/\と日光を吸ふて、陽炎が立ちさうに、海はベツタリと空を映して、四国の五剣山が夢のやうに霞んでゐるさまさへ、眼に見える気がする。 もう二三ケ月すればお遍路季節になる。 御ろうそくも忙がしからうが、御さいせんもはいる事だらう。 私が歩るいた時は南郷庵辺が丁度雨になつて先を急いだ事だつたが、其次の甘露庵では藤の花がきれいに咲いてこぼれてゐた印象は今でもはつきりとしてゐる。 夫から、之は一寸、思付いたのだが、お遍路サンの為めに手紙や納札の代筆でもしてやつたらば、功徳にもならうと思ふ。 私もお遍路をしてゐる時、ハガキを頼まれた事があつた。 お遍路は文字の書けないやうな人が多いからきつと喜ぶだらう。 「てがみかいてあげます」といふ紙札でも貼つたらばね……。 そこに、窓から首の見える放哉を描き、雀を二三羽配すると、之はたしかに俳画にもなる。 別便で一つ送つた物がある。 朝鮮の友人から貰つた松の実のおすそ分けだ。 一体、仙人が食ひはじめた物かも知れぬが、不老長寿の薬だとか聞く。 せい/゛ \健康を祈る。 彼のノドが腫れて食事が通らないという事を知つたのは、三月の十日頃だつた。 旅人からの消息で、喉頭結核の疑もあるといふ事と、果して、さうとしたらば回春の見込はあるまいといふ事だつた 然し、旅人とて自分で診察したのではなし、ただ放哉からの書簡で知るのみだから(放哉は薬をもらふ都合から旅人にだけは病気の容態をくはしく知らしてゐたのである)断定的に云へる事でなし、さうでなくてくれゝば好いと念じながら、然し、事実さうとしたらば人事の尽し得られるだけにしてやりたいと北朗とも相談し、島の中では医薬の点も遺憾の事が少くあるまいから、京都に呼んで治療をすゝめる事、(之は放哉自身が断つて来た)後援会の有志にも限りがある事だから、他に方策を講ずる事なども打合せつゝあつたのだった。 其中、放哉自身から、又ノドが通るやうになった、奇蹟々々などゝいふて来るので、少しく安心してゐた所だつたのである。 私は仕事の手放しえられぬ時だつたが、そんな事を云ふてゐる場合ではないので、すぐ出立する用意をした。 北朗も一緒に行くといひ出した。 立つ前に一二から放哉の病状に就て委しい手紙が来てゐた。 島の医者の診断に寄ると、彼は以前から結核に冒されてゐたのだが、其はさして進んではゐなかつた。 風邪をひいて、非常にセキをした為めに、喉頭に患部をうつして喉頭結核になつた。 それから最近には腸も犯された、それが致命的になつたらしいといふのである。 あの首筋の短い、頭のハゲた、糖尿体質らしい放哉が結核で倒れようとは意外だつた。 去年の秋、北朗が彼を訪ふた時も、彼はセキ通しにセイてゐたし、ひどく痩せてゐたといふ話だつたが、私達は、それは単なる風邪と営(ママ)養不良の為めだらう位に考へてゐた。 彼のセキは余程、彼を苦しめたらしい、彼は死ぬのはかまはぬが、セキの苦しみだけは免れたいと云ふので、旅人は何か注射の薬を送つてやり、彼は自分で其を試みてゐたが、其だけでは救ひえなかつた程、彼の病根は深くくひ込んでゐたのであつた。 彼は死に面しての恐怖や不安を感じてゐなかつた。 彼には一人の係累もなく、又、我を執すべき仕事もなく、真に無一物の境涯にある放哉であつて、天空のやうにカラリとした気持にすわつてゐたからである。 小豆島に渡つてからの彼は、物質といふべきものゝ何一つも持たなかつた。 着る物などは私達から送つた。 食べる物は一二から送つて貰ふやうに私は頼んだ。 住すべき庵は玄々子の恵む所である。 彼の日常に入用な雑品は後援会から送つたのもあるし、同人諸君のうちから個人的にずいぶん送られてゐたらしい。 彼は、自分の欲しい物があると、遠慮なく夫々に所望をする、而して恵まれてゐた自分を自分で喜んでゐたのである。 島の庵居生活は、不自由いへば実に不自由であつたらうが、彼はそこに悠々自適して、入庵以来、我が死所を得たりといふ気持でゐたらしい事は、彼の文章にも書簡にも見える。 彼は、物質的には実に貧しく、淋しく死んだやうだが、精神的にはすつかり満足しきつてゐた事が、彼を悼む心の中にも、せめてもの慰めと思ふ所である。 一二、玄々子とも相談をした上、南郷庵の後丘に埋葬することゝした。 急を聞いて駈つけたといふ放哉の妹サンも見えてをり、葬式にかゝる時、彼の国から姉サンと、従弟といふ人も見えた。 かうした肉親のある事をも、彼は死ぬまで自身で口外しなかつたのだが、葬式に際して困るとも思つたので、私が他から聞き出して知らしたのであつた。 彼は、親戚といふものに或る反感をもつてゐるらしく見えるまでに、最後まで「絶対に一人」を通しきつたのである。 彼と私と知り合つたのは一高に居た頃である、其事を彼は「入庵雑記」の初めに書いてゐたが、一高俳句会の席上で顔を合はすといふだけで、格別ふかい交際をした訳ではなかつた。 当時、夏目漱石の「我輩は猫である」が評判になつてゐたが、一高の校友会雑誌に「我輩はランタンである」といふ文章を書いたものがある、ランタンとは消燈後寄宿舎の廊下に吊してある油燈で、其油燈自身の見る所として、消灯後の寄宿舎の百鬼夜行する様を描いたのである。 それは実に明暢自由なる達文であつて、誰が書いたのだと喧しかつたが、其の筆者は彼、放哉だつたのである。 大学時代には彼はさして勉強もせず、又、俳句もさして熱心でなかつたらしい。 鎌倉の円覚寺へ行つて参禅をしたのは其頃だつたらう。 卒業後、赤門出の法学士として東洋生命保険会社に入り、累進して契約課長の椅子を占めてゐた。 俳句も気が向けば作るといふ風で、決して上手ではなかつた。 渋谷に家があつた頃、同人達が時々遊びに行つても、句の話などよりも、まあ一杯飲めといふ風で、彼はいつも長火鉢の前にトグロを巻いて、杯を手から離した事はなかつたといふ。 彼の妻君が非常なハデ好きで、家では朝から風呂を立て、女中が二人もゐたといふ話である。 彼はたゞ自分の「馬鹿正直」の為めだといつてゐる。 彼が、俳句に復活し、又、彼の俳句が光つて来たのは、それからの事である。 十三年の春私が京都に来て、久しぶりで彼に逢つたのは、知恩院内の常照院であつた。 其寺へ、彼は一燈園から托鉢に来たのが縁故となつて、常住の寺男に住み込んでゐた。 私が尋ねて行つた時、彼は一燈園(の)制服のやうな紺の筒紬を着て、漬物桶を洗つてゐたが、前から和尚に其日は暇を貰ふ事を話してあつたらしく、手拭で身体をはたいて、其手拭を又腰にさして、私と一緒に連立つた。 何しろ久濶を叙する意味で、其夕、四条大橋の袂の或家で一緒に飯をたベた。 彼は一燈園に入て以来、禁酒をしてゐたのださうだが、今夜は特別だからと云つて、禁を破つて大に飲んだ事だつた。 其翌日、私から再び常照院を訪れると、和尚の話に「尾崎サンはもう出て貰ふ事にしました」との事、聞けば前夜、院に戻つてからもメートルをあげすぎて、すつかり和尚の感情を害してしまつたらしいのである。 彼の流転生活はそれからはじまる。 彼は常照院を追はれて、須磨寺に行き、須磨寺を出されて(之は酒の上ではなく寺内の葛藤のまきぞへを食ふたといふ訳)、小浜の常高寺に赴き、小浜では和尚の借金の弁疏係をしてゐたがお寺其物が経済的に破綻したので、彼も居たゝまれずに京都に戻つて来た。 私の京都の寓居に暫くゴロ/\してゐたのは其頃である。 彼はやはり寺の下男がいゝ、とて、三哲の龍岸寺といふ寺へ行つたが、そこの和尚とは性格的に全く合はないので、又飛出して来た。 さうした流転生活の初まりは、四条で酒を飲んだ事(私が、まあ今夜はよからうと飲ましたといつていゝかもしれない)に因を発するとすると、私も大に責任を感じなければならぬ訳である。 然し、「まあ、台湾落までせずとも好からう、内地だとて四国辺はかなり暖かからうから……」と私が考へたのが小豆島で、そこには遍路のまゐる沢山の寺や庵があるので、その堂守として住込むべき所がありさうに思つたからである。 果して、西光寺の南郷庵がたま/\明いたとて遂にそこが彼の最後までの巣になつたのだつたが、小豆島の冬は想像と違つて寒く、殊に今年は何十年ぶりといふ珍らしい強風の日が続いたさうで、其風で彼はノドをいため、其が彼の死をはやめたものとすると、こゝでも、小豆島行をすゝめた私は、何といつていゝか解らぬ、ふしぎな因縁の悲しさを感ぜざるを得ないのであるが、島へ行つてからの彼自身は、すつかり落付いて、「若し再び此島を追はるゝならば、むしろ海に投じて死する考……」などゝいふて来てゐたのである。 京都を立つて行く時一晩、私の所で大に飲んだ上に今後の禁酒を誓はして、彼が餞別に句を書いてくれといふまゝ、彼の扇に「翌からは禁酒の酒がこぼれる」と私は書いて、「翌からは/\」といふて飲むのぢやないぞ、といふて笑つたが、果して其の通り、酒はやめられず、而して飲めば、例の全放哉を発揮して眼中に人間がなくなるから、しぜん、あたりが困るのである。 その迷惑を私は一二からも聞いて、島にゐる気ならば神妙にしてくれねば困る、さもなくば台湾へ行くか、と少し強い調子で云ふてやつた返事が、上の「むしろ海に投じて死する考……」といふ言葉だつた。 けれども、斯うも短い命と知つたならば、飲みたい酒を浴びる程飲ましてやりたかつた、としみ/゛\くやまれもするのである。 彼は、そこで「俳句三昧」に入つてゐたといつても好い。 彼ほど真剣に句作したものはなく、彼ほど其生命を俳句にやきつけたものはない。 彼が此地上に於ける紀念として此「放哉句集、大空」の一巻を私が作つた事は、彼に対する最後の悲しい友情である。 父は法律家なりといふ。 第一高等学校を経、東京帝国大学を卒へ、明治四十一年、法学士たり。 東洋生命保険会社に入り、本社、朝鮮大阪両支店に歴任し、本社に戻りて契約課長の椅子を占む。 後、朝鮮火災保険会社創立に際し、支配人として功を成す所あり。 大正十二年、翻然として自ら無一物となつて京都一燈園に来り、托鉢の生活に入る。 それより、京都常照院、兵庫須磨寺、小浜常高寺等に寺男として住込み、十四年夏、讚岐小豆島南郷庵に移るや、ひそかに死処を得たりとして門外に出でず。 十五年四月七日、夕、島の漁師夫妻の手に抱かれて瞑目す南郷庵裏手の墓地に葬る。 行年四十二。 戒名、「大空放哉居士」此書名「大空」は之に因る。

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[B!] 開けても暮れても隣国や宗教の悪口ばかりに花咲かせる御前こそ、まともな人間と言えるだろうか!?

あつ森青い花咲かせ方

私は三十年ほど前に、日本人は 如何 ( いか )にして渡って来たかという題目について所感を発表したことがあるが、それからこの 方 ( かた )、船と航海の問題が常に念頭から離れなかった。 その中の一つで是非ともここに述べておきたいのは、日本と沖縄とを連ねる交通路のことである。 今では沖縄へ行くのには 概 ( おおむ )ね西海岸の航路を取っているが、古くは東海岸を主としていたのではないかということを説いてみたいのである。 日本の南北の交通は、 後 ( のち )に使わなくなった東海岸を余計に使っていたのではないか。 古い航海には東海岸の方が便利であった。 遠浅 ( とおあさ )の砂浜が多く、短距離を航海しながら船を陸に上げて宿をとり、話がつけば 暫 ( しば )らくの間、あがった 処 ( ところ )に滞在することもできた。 むかしは一年に一回航海すればよかったので、年内に再びやってこようなどということは考えなかったのである。 日本では 首里 ( しゅり )と 那覇 ( なは )を中心点と見ることに決めてしまったので、東海岸の文化や言葉は後になって変化したのだと考えている。 けれども私は最初からの違いが証明できると思う。 北からずっと一遍に南の方まで航行して、 信覚 ( しんかく )と書いた 石垣 ( いしがき )まで行ったのである。 信覚にあたる地名は 八重山 ( やえやま )にしかないのだから、 彼処 ( かしこ )と早くから往来していたと見なければならない。 それがやや 突飛 ( とっぴ )な考えであるためか、人が信じないけれども、砂浜をねらって、風が強く吹けば、そこに幾日でも 碇泊 ( ていはく )するというようにして行けば行けるのである。 沖縄本島より 宮古島 ( みやこじま )、宮古島から 多良間島 ( たらまじま )を通って八重山群島の方へ行ったと考えても、少しも 差支 ( さしつか )えない。 私が東海岸と言い出したのは、別に明白な 証拠 ( しょうこ )とてないが、 沖永良部島 ( おきのえらぶじま )や、 与論島 ( よろんとう )の沿海なども、東西二つの道があったことを島の人は記憶している。 だんだん西の方の海岸を使用するようになり、同じ 国頭 ( くにがみ )へ行くのでも、西側を通って船が行くようになったのは後世のことである。 日本人が主たる交通者であった時代、那覇の港が開けるまでの間は、東海岸地帯は日本と共通するものが多かったと想像できる。 言葉なども多分現在よりも日本に近かったのだろうと思う。 首里・那覇地方は一時盛んに外国人を受け入れて、十カ国ぐらいの人間がいたというから、東側とは大分事情が違うのであった。 本島の 知念 ( ちねん )・ 玉城 ( たまぐすく )から南下して那覇の港へ回航するのは非常に時間がかかる。 その労苦を思えば宮古島の北岸へ行くのは容易であった。 那覇を開いたのは 久米島 ( くめじま )の方を通ってくる北の航路が開始されてからであるが、それは 隋 ( ずい )時代の事とされている。 この北の道はかなり骨の折れる航路で、 船足 ( ふなあし )も早くなければならず、途中で船を修繕する所が必要であった。 余程 ( よほど )しっかりした自信、力のある 乗手 ( のりて )であるうえに、風と 潮 ( しお )とをよく知っている者でなくてはならなかった。 沖縄本島は飛行機から見ればもちろんだけれども、そうでなくても丘の上にあがると東西両面の海が見える処がある。 其処 ( そこ )を船をかついで東側から西側へ越えれば容易に交通ができると考えるかもしれないが、しかし人の系統が違うとそう簡単には行かない。 私が一番最初それを感じたのは、NHKの矢成君たちが国頭の 安田 ( あだ )、 安波 ( あは )の会話を録音してきたのを聞いたときである。 最初は日本本土の人が移住して来たのではないかと思ったほど、こちらの言葉とよく似ていた。 しかし 直 ( す )ぐにそれが間違いであり、もともと内地の言葉とそう変っていなかったのだということに勘づいた。 東海岸と西海岸とはいくらも 距 ( へだた )っていないけれども、文化発達の経路が違うために言葉や住民の構成などが異なっているのである。 勝連 ( かつれん )文化と私は 仮 ( かり )に呼んでいるのだが、その勝連文化と首里・那覇を中心とした文化、すなわち 浦添 ( うらそえ )文化とでも言うべきものとの間には、系統上の相異があったのではなかろうか。 今日では勝連の文化というものが少しも残されていない。 馬琴 ( ばきん )の『 弓張月 ( ゆみはりづき )』にまで書かれている 勝連按司 ( かつれんあじ )の 阿麻和利 ( あまわり )は、沖縄の歴史の上で、すっかり悪者にされてしまっているが、これは 伊波普猷 ( いはふゆう )君などが早くから注意したように、勝敗 処 ( ところ )をかえれば忠臣とも逆臣ともなった戦国の世の習いであった。 『おもろ 草紙 ( そうし )』を見てもわかるように、勝連が当時の文化の中心であったことは 大和 ( やまと )の鎌倉のごとしと歌われていた通りであった。 往時わが国では如何なる船を使って南北の間を航海したのであろうか。 専門の造船業者のなかった時代を考えると、船材の得られる場所をみつけて、そこで船を造って用いたに違いない。 たとえば 安芸 ( あき )の国、それに 周防 ( すおう )など、今でも船材を多く出しているし、中世においては建築木材を出しており、奈良の大きな寺院の建立などには常に用材を供給していた。 日本人の渡来を問題にするとき、東海岸の航路を取り上げざるを得ない。 どの辺にはじめて上陸したかについては、いろいろな説が成り立ち得るが、 日向 ( ひゅうが )の 高千穂 ( たかちほ )に天から 降 ( お )りたということを承認すれば問題にならぬけれども、それがあり得べからざることとすれば、やはり日向などで船を仕立てて北上したことが想像される。 神武天皇の御東征にしても、潮の激しく、風の強い関門海峡を通らずに、じかに東海岸からずっと瀬戸内海に入ってしまわれたのだから、東西二つの交通路を並べていうと、東の方が一時代古いということは言えそうである。 しかしこれはむつかしい問題で、我々一代の間に解決できるものとは思っていない。 このいくつかの文章の大部分は、この問題を常に念頭に置いて書いた。 まだ断定を下すには自分の予備知識が不足しているので 躊躇 ( ちゅうちょ )したけれども、この考えの適用できると信じた場合はいつもそれを条件の一つとしてかぞえてきた。 日本人の人種起源論は、土地土地に残っている昔の 痕跡 ( こんせき )を、考えのうちに入れて見て行かねばならない。 今度集めた論文の中には空想を遥かに遠く、青森県の北端まで持っていったものもある。 今までの日本人論をみると、太平洋の交通を考慮に入れることが少し不十分であった。 つまり伊勢とか、もう少し東に寄って 駿河 ( するが )とか 遠江 ( とおとうみ )とかいうくらいまでのところが、区切りになっているような気がして、あのへんの歴史が等閑に附されているようである。 房州の半島でも、それから伊豆の半島でも、みんな長い間かかって回って来たのではないかと考えている。 私は一生かかっても、とうとうその結論を出すことができなかったけれども、どこで日本人は成長してきたかということを、もう一段と具体的に決めなければならない。 おそらくは九州の南部でということは真実であるかもしれないが、そこまで来る道筋がよくわからない。 たとえそれがわかっても、それからこっちがまたわからない。 土佐 ( とさ )が第一、ひろい面積にわたって陥没している。 土佐という国は、以前は今とは 随分 ( ずいぶん )違っていたらしい。 瀬戸内海を利用する時代はおくれて始まった。 瀬戸内海を使って初めて、関門の潮流の激しい水道を出たり入ったりするようになったのである。 『 六国史 ( りっこくし )』などを注意して読んでみると関門を通りぬける技術というものが発達したあとがわかるような気がする。 はじめはなかなか簡単に行けなかったのを、船の形を大きくするとか、強くするとか、技術が進むにつれて、だんだんこの関門が通れるようになった。 しかし船についても、理解できないことがらが多々ある。 第一、和船の細い 櫓 ( ろ )など、どういうわけであのようなものができたであろうか。 私は 利根川 ( とねがわ )のへりに成長したから、あの細い櫓はよく知っているが、あれは日本の特徴と思う。 櫓は砂浜のあるところの海岸という条件が手伝っているのではなかろうか。 沖縄と本土を結ぶ西海岸には、帆を使うところは非常にたくさんあるし、 棹 ( さお )を使うところもあるかもしれないけれども、櫓の交通を発達させるような条件を 具 ( そな )えた土地は少ないようである。 日本では政府が直接航海に手をつけなかった時代がながい。 おそらく遣唐使を 止 ( や )めたくらいの時代が、航海事業の衰微の極であったろう。 それからこの方の記録だけによって海上の交通史を説くのは間違いのもとであろう。 今度の九学会連合の年会において私は大要次のような話をした。 この新らしい協同体に参加してから、我々の積み重ねて行く愉快な体験は無数であるが、そういう中でも日本の民俗学会として、殊に喜ばねばならぬものが三つある。 その一つは九つの団体がそれぞれの軌道を回転して、もとより同じ円周の一部を分担するものでないために、或る時は遠く懸け離れ、また或る時はすぐ眼の前に接近して来て、 交叉 ( こうさ )しまた衝突しそうな場合さえ折々はある。 今までは無意識にそれを避けようとし、わざと問題の間地を残しておこうとするような心づかいもあったが、今度はちがった角度からの批判を 危 ( あや )ぶまないのみならず、次第に隣の学問の能力を理解し、折々はその 長処 ( ちょうしょ )を借りて、こちらの弱点を反省してみることができるようになった。 国の一隅において成長した民俗学のごとき学問においては、 是 ( これ )は決して小さくない恩恵であった。 第二にうれしいことは、このそれぞれに異なる態度方法、それぞれの閲歴を持ち寄った九つの学会が、今や 我邦 ( わがくに )の空前の事相に当面して、何らの話し合いを経ることもなく、自然に一致して日本の民族の生存を、協同研究の対象としていることである。 他日我々の能力が 充 ( み )ち溢れるならば、無論次々に研究の領域を、海から外へ拡張して行くことであろうが、少なくとも是までのように、よその国の学問の現状を熟知し、それを同胞の間に伝えることをもって、学者の本務の極限とするような、あわれな俗解は是で終止符を打たれるであろう。 幸いにこの予言が当るならば、今日の会合も永く回顧に値すると思う。 第三に是ほど多くの学会が力を合わせ、心を一つにして日本を研究せられること、すでに年久しいにもかかわらず、まだ 何処 ( どこ )やらに未開の野、ちっとも答えられない問題が有りそうなこと、是がまた感謝すべき好刺戟であると思う。 年を取りすぎた自分のような者にとってこそ、是は心残りの、また 相 ( あい )すまぬことでもあるが、本日会合の諸君の大多数のためには、是くらい 張合 ( はりあ )いのある現実はちょっと類が無いであろう。 めいめいの行く先に広々とした未知の世界が有ることを知って、それでは 止 ( や )めようという人などは、この中には 一人 ( ひとり )もおられまいと思うが、あわれや私などの物を学ぶ頃には、もう一通りの真理はすでに古人が明らかにしてくれているように思って、そこまでたどりつくことを 先途 ( せんど )とするような者ばかりが多かったのである。 幸いにしてこの半世紀以来、問題とか疑問とかいう言葉が、文化諸学の間にも流行して来たが、それも多くは今これから答えようとする者の用語であって、我々の切望しているような、確実なる無知無学の相続には帰着しなかったのみか、一方には根本理念などと称して、是だけはまず論争批判の外に置いて、その残りで仕事をしようとするがごとき学風が、何か新らしいもののような顔をして、こちらへも手を伸ばしかかっている。 そういう証明を要しない原理、固定不動の前提が多かったばかりに、我々は苦しみ、また学問は遅々として進まなかったのである。 僅 ( わず )かな言葉の響きや方式の新らしさに 絆 ( ほだ )されて、今頃ふたたび以前と同様な拘束の世界に戻って行こうとする者はよもやもう有るまい。 今まで久しい間気がつかず、従ってまた何らの解答も得られずにあった問題は無数であろうが、そういう中でも四面海をもって囲まれて、隣と引離された生存をつづけていた島国としては、この海上生活に対する無知はむしろ異常である。 いよいよそのような気楽なことを、言ってはおられない時代が到来して、自然科学の方面ではまず一段の活気が感じられ、その研究の成果には、或る程度の期待が 繋 ( つな )げられるようになったが、是と 雁行 ( がんこう )しまた互いに利用し得べき文化史の方面では、まだ疑問の形すらも 具 ( そな )わっていない。 たとえば日本人は、最初どの方面からどこへ渡って来たか。 何百という数の大小遠近の島々のうち、どれへ始めて上陸し、次々にどの方角へ移り拡がって行ったものか、それは全然わからぬ。 わかるはずがないというだけの答すらも、どうやらまだ出来あがってはいないのである。 しかもこの問題が何とでもきまってからでないと、説くことのできない幾つかの推論が、すでに日本ではほぼ承認せられかかっている。 それをあぶながり、または 難癖 ( なんくせ )をつけるような、老成人風の批判ならば、まだ幾らでも出てくることと思うが、私だけは国の学問の前途のために、そういう消極主義に 与 ( く )みしたくない。 むしろその反対に、次々と新らしい仮定説を提出させて、比較対照によって互いの弱点に心づかしめ、且つは素朴に過ぎたる追随を 戒 ( いまし )める必要があると思って、今日はその一つの見本のような話をする。 二十年も前に、私は一時熱心に風の名の集録を心がけたことがある。 農民も決して風に無関心ではないが、その呼称の多くは海の生活からの感化を受けている。 海ではそれぞれの風の性質が、風の名となっているのだが、内陸では 専 ( もっぱ )ら方角を問題にするが故に、それを地方的に意味を限定して使い、従って 到 ( いた )る 処 ( ところ )少しずつ内容の差が生じている。 たとえばヤマセは山の方から吹いてくる風である。 それ故に 江差松前 ( えさしまつまえ )では今もって東北風がヤマゼであり、瀬戸内海の北岸では、四国の方からくる南風をそういう処もある。 『万葉集』の末二巻の中には、アユノカゼに東風の二字を 宛 ( あ )てたものが有名であるので、多くの国語辞典にはこの語を東風と註し、それを他の方角の風とするものを方言と 見下 ( みくだ )すらしいが、この漢字の使用こそは、 越中 ( えっちゅう )文人の居住地が、ちょうど西隅に偏していたことを意味するもので、現に今日でも富山県の海岸では、方角によって 能登 ( のと )アイと、宮崎アイとの二つのアイの風がある。 宮崎はすなわち東端 越後境 ( えちござかい )の 海角 ( かいかく )であって、是から吹きつける風のみが 大伴家持 ( おおとものやかもち )らの 袂 ( たもと )を 翻 ( ひるが )えし、能登から吹くアイは山に 遮 ( さえぎ )られて、この 辺 ( あた )りでは心づかれなかったので、まだこの頃までは漢字の利用が、その場かぎりの思いつきだったことが是でよく 判 ( わか )る。 アユは後世のアイノカゼも同様に、海岸に向かってまともに吹いてくる風、すなわち数々の渡海の船を安らかに港入りさせ、またはくさぐさの珍らかなる物を、 渚 ( なぎさ )に向かって吹き寄せる風のことであった。 今日は 半 ( なか )ば死語に属し、 辛 ( かろ )うじて 字引 ( じびき )と地方語の中に存留するのみであるが、果実のよく熟して 樹 ( き )から 堕 ( お )ちるのをアエルといい、またはアユ・アユル・アエモノ等の語の古くからあるように、人を 悦 ( よろこ )ばせ、おのずから人の望みに応ずるというような楽しい状態を表示するために、 夙 ( はや )く生まれていた単語ではなかったろうか。 饗宴 ( きょうえん )もしくは食物の供与を、アヘと 謂 ( い )っていたのも別の語ではないのかもしれぬ。 子音の変化または脱落は、永い歳月の間には、有っても不思議はなく、ましてや 汀線 ( ていせん )の角度のちがい、風が内陸へ入って行く 路筋 ( みちすじ )によって、それぞれに異なる語原があったかのごとく、考えてみる必要などはないのである。 日本海の側では、東は 津軽 ( つがる )の岬端から、西は島根県の一部にまで、同じ風の名が今もほぼ一続きに行われ、言葉がきれいなために時々は歌謡の中に入って、海からやや入り込んだ土地にまで伝わりまた記憶せられている。 たとえば越前の 武生 ( たけふ )などには、今でも汽車が通るたびに、必ず 憶 ( おも )い出す中世の遊女の歌がある。 アイが吹かぬか荷が 無 ( の )うて 来 ( こ )ぬか たゞしやにがたの 河止 ( かわど )めか 是などは新潟の次の 湊 ( みなと )、 酒田 ( さかた )とか 新湊 ( しんみなと )とか、 能登 ( のと )の 小木 ( おぎ )・ 宇出津 ( うしつ )とかの歌であろう。 入船に 都合 ( つごう )の 好 ( よ )い風をアイの風というようになって、幾らかは最初の意味がかわったかもしれぬが、とにかく海辺に住む者にとって、心のときめく風であったことは同じで、ただその強吹きの結果だけが、常に少しばかり気づかわしかったのかと思う。 ところが日本海の船運が進展して、海峡から東の大洋へ出て行くようになると、風の名の用法がやや変化してきた。 全国の呼び方を集めてみると、 宮古 ( みやこ )・ 八戸 ( はちのへ )あたりの僅かな太平洋側の沿海だけに、陸から海に向けて吹く風を、アイと 謂 ( い )っている地帯があるように思う。 是などは明らかに水上生活者の運搬であり、浜に住む者の古くから使っていた言葉ではないのであった。 同じ一つのアユまたはアイという風の名でも、永い歳月に 亙 ( わた )った経済事情の変化によって、眼に見えぬ重点の推移があった。 海が島国の文化に貢献した一つの古い力は、形あるものの側では、今私などの 寄物 ( よりもの )と名づけている継続した自然現象が、全く忘却せられてしまわぬまでも、少なくとも次第に軽く 視 ( み )られがちになってきたことは 已 ( や )むを得ない。 現代の社会研究としては、それも当然のことと言ってよいであろうが、いわゆる史前学の範囲においては、是は 寔 ( まこと )に忍び難い不利である。 かつて文献記録の到り及ばざる世において、是ほど痛切にこの方面の経験を、積み重ねている民族は 尠 ( すく )なく、それを今の世まで持ち伝えてきたのも、日本人のように久しい者は 稀 ( まれ )であろうから、こういう知識だけは、恐らくは外国学者の足跡に、ついて行くことができまいと思う。 津とか問屋とかの制度の完備するまでは、時を定めずに入ってくる船なども、一種の寄物であった。 今でも 尻屋 ( しりや )あたりの荒浜をあるいてみると、大小さまざまの難破船の破片が、 昆布 ( こんぶ )やあらめとともに、到る処の 水際 ( みずぎわ )に積み上げられて、次々と村へ運びこまれている。 暗夜に火を焚いて海を行く船を迷わしめたというなどは、遠い昔の物語に過ぎぬだろうが、とにかく海から寄り来るものはその種類を問わず、本来はすべて 浦人 ( うらびと )の所得だったのが、 後 ( のち )に少しずつ法令をもってこれを制限したのである。 寄鯨 ( よりくじら )の取締りなどは、そういう中でも殊に新らしく、それよりも 遥 ( はる )か以前から、都会における鯨肉の消費は始まって、是がまず捕獲の技術を発達せしめている。 漁が一つの生業として成立した順序は、日本のような国ならば、簡単に社会科でも教えることができる。 最初は魚の方から群をなして押寄せてきて、ほしいと思う者には誰にでも取られてくれた。 国の 端々 ( はしばし )には今でもそういう場所がまだ少しは残っている。 それを僅かな人の手で、及ぶ限り多くすくい 揚 ( あ )げ、 上手 ( じょうず )に分配しようとしたのが漁業の始まりだが、農とちがってその歴史はごく新らしく、結局は魚を遠くの沖の方へ追い払い、是からの海辺の生活を、際限もなく変化させようとしているのである。 南の海上のザンの 魚 ( いお )( 儒艮 ( じゅごん ))の物語と対立して、東日本の 荒磯 ( あらいそ )にはアシカ・アザラシ・ミチの 寝流 ( ねなが )れなどの話がもとは多かった。 文字の教育が都府とその周辺に偏在した結果、是らはすべて永遠に、記録の外に 佚散 ( いっさん )しようとしている。 これを保留し且つ前代の考察に取り入れてゆく労苦は、今も若干の痕跡を伝えている網や 釣縄 ( つりなわ )の比ではない。 そのために人はしばしば現代の空気の中に、遠い 寂寞 ( せきばく )の世を推理しようとするのである。 寄木 ( よりき )・流木の言い伝えなどは、これに 比 ( くら )べると 遭遇 ( そうぐう )がやや多く、また若干の文献にも恵まれているが、なお我々は国内の山野が、かつて巨大の樹木をもって 蔽 ( おお )われ、それが次々と自然の力によって、流れて海に出ていた時代を、想像してみることができなくなっている。 以前は水上から供給するものが、今よりも遥かに豊かだったと思われる。 多くの沖の小島では、各自昔からの神山を 抱 ( かか )えながら、それには慎しんで 斧鉞 ( ふえつ )を入れず、家を建てるにも 竈 ( かまど )の火を燃すにも、専ら大小の寄木を当てにしていた時代が久しく続いた。 是にも年々の季節兆候があり、占有の方式があり、また信仰祈願があったことは、田野の生産とほぼ一様であって、ただ幾分か幸運の差等が大きかった。 唐木と呼ばるる珍奇なる南方の木材が寄ってきた場合には、これを家々の私用に供せず、必ず官府に届けよという法令が、 奄美大島 ( あまみおおしま )の北部などには、旧藩時代の頃に出ている。 特にいずれの海岸にそういう実例が多かったか、今もまだ調べてみようとした人は無いが、恐らくは原地の実情もすでに変って、一般にもう 稀有 ( けう )の事になっているのであろう。 最近に 与論島 ( よろんとう )出身の某氏に 逢 ( あ )ったときに、試みにあの島の寄物の印象を尋ねてみたが、この人の記憶に残っているのは、一度難破船の 積荷 ( つみに )の、 木臘 ( もくろう )か [#「木臘か」はママ]何かの箱詰が寄ってきたのと、島では 浪 ( なみ )の花と称する 軽石 ( かるいし )の大量が、東の 渚 ( なぎさ )におびただしく打ち寄せたのと、ただ二つの事を挙げ得るのみであった。 しかも嵐の次の日の早朝に、一度は海端に出て見ずにはおられぬという気持だけは、どこの島にもまだ一様に残っている。 是は無意識の伝承というべきものであろう。 海からくさぐさの好ましいものを、日本人に寄与した風の名を、アユと呼んでいた理由はこうして説明し得られるが、是が日本海の沿岸だけに 弘 ( ひろ )く伝わって、東や南に面した海辺には知られていないのは、やはり海運史の問題であろう。 寄物 ( よりもの )は個々の地域地形に 伴 ( とも )なう現象だから、どこでも一様にこの風の名を、知って用いていたとは限らない。 これが今日のごとく適用するようになったのは、風をたよりの人たちの、往来の力と思われる。 外でも同じ言葉をおおよそ同じ意味に、使う者が多いと知ることが、言わば標準語の底力であって、古いとか正しいとかいうのは問題でない。 この意味においてはアイの風は方言でなく、方言は他にもあるのかもしれぬが、今はまだ発見せられていないのである。 或いは地名などの中に 埋 ( う )もれて今も伝わっているのかもしれぬ。 一つの例として心づくのは、尾張のアユチガタ、後には郡となりまた県の名にもなったが、古くは年魚市(アユチ)とも字には書いて、越中と同じにアユと発音していた。 場所は熱田の神宮の東に続く 平沙 ( へいさ )の地であった。 ちょうど伊勢の海の湾口をほぼまともに向いて、 潮 ( しお )の流れと主風の方向とに、今昔の変化は無いかどうか、まだ自分には確かめられぬが、ともかくも 爰 ( ここ )に 蓬莱 ( ほうらい )の仙郷を夢想し、 徐福 ( じょふく )・ 楊貴妃 ( ようきひ )を招き迎えようとした程度に、大洋との交通の考えられやすい土地であった。 或いは尋常の貝石玉藻の類、または流木や魚の群以外に、時あって遠い 常世国 ( とこよのくに )を 偲 ( しの )ばしめるような、珍らかなる寄物を吹き寄せて、土地の人の心を豊かにした故に、こういう 潟 ( かた )の名を世に残したのではないか。 アユチのチは東風をコチというチも同じに、やはりめでたき物をもたらす風を、もとはここでもアユチと 謂 ( い )っていたのではないかと思う。 国の大昔の歴史と関係する古い幾つかの宮社が、いずれも海の 滸 ( ほと )りに近く立っているということを、ややおろそかに考える風が久しく続いたが、日本が島国であり、海を渡ってきた民族である限り、是はいつかは補強せらるべき弱点であって、それにはまず隠れたる海上の道というものの、次々と発見せられる日を期待しなければならない。 それが 待遠 ( まちどお )に 堪 ( た )えぬとすれば、やはりこういう多少のゆかりある雑談を試みて、ちょっとでも今日の希望を 濃 ( こま )やかならしめるのが、よいかと思う。 途方もなく古い話だが、私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、 三河 ( みかわ )の 伊良湖崎 ( いらござき )の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。 この村はその後ほどなく、陸軍の大砲実験場に取り上げられて、東の外海の海岸に移されてしまったが、もとは伊勢湾の入口に面して、神宮との因縁も深く、昔なつかしい形勝の地であった。 村の中央には 明神 ( みょうじん )さまの 御社 ( おやしろ )と清い泉とがあって村の人の 渇仰 ( かつごう )を集め、それに養われたと言われる無筆の歌人、漁夫 磯丸 ( いそまる )の旧宅と石の 祠 ( ほこら )とは、ちょうど私の本を読む窓と 相対 ( あいたい )していた。 毎朝早天の日課には、村を南へ出て僅かな砂丘を横ぎり、岬のとっさきの小山という魚附林を一周してくることにしていたが、そこにはさまざまの寄物の、立ち止まってじっと見ずにはおられぬものが多かった。 船具や船の破片にはたまたま文字の 痕 ( あと )があって、遠い海上の悲しみを伝うるものがあり、一方にはまた名も知らぬ色々の貝類をゆり上げて、「その玉もてこ」と詠じた昔の歌の 風情 ( ふぜい )を、想い起さしむる場合もあった。 今でも明らかに記憶するのは、この小山の 裾 ( すそ )を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四、五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、 椰子 ( やし )の 実 ( み )の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。 一度は割れて真白な果肉の 露 ( あら )われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に 泛 ( うか )んだものかは今でも 判 ( わか )らぬが、ともかくも遥かな 波路 ( なみじ )を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。 この話を東京に 還 ( かえ )ってきて、島崎 藤村 ( とうそん )君にしたことが私にはよい記念である。 今でも多くの若い人たちに 愛誦 ( あいしょう )せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを 貰 ( もら )いましたよと、自分でも言われたことがある。 そを取りて胸に 当 ( あ )つれば 新 ( あら )たなり流離の 愁 ( うれ )ひ という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば 云々 ( うんぬん )の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、 寂 ( さび )しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、 些々 ( ささ )たる私の見聞もまた 不朽 ( ふきゅう )のものになった。 伊勢が 常世 ( とこよ )の波の 重波 ( しきなみ )寄する国であったことは、すでに最古の記録にも掲げられているが、それを実証し得た幾つかの事実のなかに、椰子の実もまた一つとして 算 ( かぞ )えられたことを、説き得る者はまだ無かったのである。 土地にはもちろん是を知っている人が、昔も今も多かったにちがいないが、それを一国文化の問題とするには綜合を要し、または或る一人のすぐれた詩人を要したのである。 椰子の実の流れ着くという浜辺は多かったはずであるが、是が島崎氏のいうような 遊子 ( ゆうし )によって、取り上げられる場合が少なかったかと思われる。 昔はこの物を 酒杯 ( しゅはい )に造って、 珍重 ( ちんちょう )する風習があり、それも大陸から伝わってきたように、多くの物知りには考えられていた。 『 倭名鈔 ( わみょうしょう )』の 海髑子 ( かいとくし )の条などは、明らかに書巻の知識であって、もし酒中に毒あるときは、 自 ( おのずか )ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういう 樹 ( き )の果実なりとも知らず、何か海中の産物のごとくにも想像せられていたようであるが、なお 夜之 ( やし )という単語だけは、すでに和名として帰化している。 京人の知識は昔も今のごとく、むしろ文字を 媒 ( なかだち )として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を 看過 ( みすご )して、ただいたずらに遠来の記録の、必ずしも正確豊富でないものを捜索していたことは、 独 ( ひと )り椰子の実だけの経験ではなかった。 この頃やっとその習癖に気がついたと、言いたいところだが、それもまだ少し怪しい。 日本の海端に、ココ椰子の実が流れ着くということは、決して千年ばかりの新らしい歴史ではなかったはずであるが、書物で海外の知識を学び取ろうとした者は、かえって永い間それを知らずにいた。 そうして一方には現実にその経験をもった人々には、今までそれを 談 ( かた )り合い、また考えてみるような機会が、極端に少なかったのである。 或いはそのために私などの場合のように、一つ二つの見聞ばかりがあまりにも騒ぎ立てられて、結局は綜合の利益が収められずにいたのであろう。 魚の尾や小鳥の足にも番号をはめて、放してみるような世の中になったのだから、今に僅かな比較と推理とによって、何かが教えられる時がくることと思っている。 かつて九州の南部の 田舎 ( いなか )を、あるいてみた時にも私は気がついた。 それから注意して友だちにも尋ねてみたが、あの方面には椰子の実で作った酒器を持ち伝えている家々は少ない数ではない。 支那 ( シナ )の旧書に見えるような、 盃 ( さかずき )の話はあまり聴かないが、大抵は例の 焼酎 ( しょうちゅう )入れ、または小さな 酒徳利 ( さかどっくり )の携帯用のもの、時としては 腰下 ( こしさ )げの 煙草 ( たばこ )入れなどもあって、必ずしも 十襲 ( じっしゅう )珍蔵というほどではなくとも、物が 堅固 ( けんご )なだけに重代の品が多く、従ってどうして手に入れたか、どこの海岸へ漂着したものかを、今となっては尋ね知ることが 難 ( かた )い。 ただ或る程度までは現在の分布によって、比較的どの方面にその事例が多かったかを、推測することが許されるまでであろう。 今日 謂 ( い )うところの西南諸島には、算えては見ないが少なくとも話は多く、且つやや普通化平凡化している。 沖縄の本島などでは、土地でも手に入る場合があろうのに、更に商品として 八重山 ( やえやま )方面から、いわゆる 椰子小 ( やしぐわ )の輸送せられたものが、幾らも店先で売られていたという話も聴いた。 しかも自分の知る限りでは、 先島 ( さきしま )諸島にもココ椰子の結実する土地はないのだから、いわば漂着の数が北の隣より多かったということなのである。 距離の大小は漂着とは交渉がないともいえるが、やはり最初の陸地を乗り越えて、もっと遠くへ行こうとはしないだけに、原地に近いほど多かったということになるので、その反面に本州は更に少なく、従って是を珍重しまた問題とする人情も、一段と濃厚であったと言えるのであろう。 ともかくもこの植物が東方列島の風土にふさわず、一度も芽を吹き親木を成長せしめ得なかったということが、 埋 ( う )もれたる海上の道を探るうえに、 好箇 ( こうこ )の 手掛 ( てがか )りを供与する。 古記に 檳榔 ( びんろう )の字をもって誤記せられたコバという暖地植物などは、古くは瀬戸内海の各地にあったと伝え、今も現に紀州の一端とか、朝鮮東南岸の島々にまで生育する例が多く、かつて私は是を鳥類の運搬に托せんとしたこともあったが、今はほぼその誤りに心づいている。 広い意味では是も天然の分布であろうが、かつて海上を漂到した無数の種子の中から、たまたま環境に適した僅かな個体だけが、芽を吹き大木となった例はガジマル、またアコウという樹などにもあり、または 埋立新田 ( うめたてしんでん )の潮除堤の上にたちまち繁茂してゆくトキハという一種の大きな 萱 ( かや )なども、その名称から考えてみて、やはり遥かなる海の 彼方 ( かなた )から、新たに渡って来た種なることがわかる。 すなわち 独 ( ひと )りこの一種の椰子の実だけが、久しきを 経 ( へ )てついに移住に成功し得なかったのである。 等しく漂着という中にも、色々の運命のあったことがまず考えられる。 たとえば椰子の実の一例についてみても、 夙 ( はや )く南海の外の荒浜から、中華の文化地帯にもたらされた、やや不精確なる 口碑 ( こうひ )がまず伝わって、ヤシという言葉がさき廻りをして、待ち受けていたなどは奇遇であった。 北太平洋の多くの 珊瑚礁 ( さんごしょう )に、この植物が分布したのは人の力ではなく、したがってまた新たに始まったものでもないとすれば、つまりは 我邦 ( わがくに )の荒浜の事実が近世になるまで伝わらなかったのである。 親しくこれを 看 ( み )た者も注意せず、或いは名を付してやがて忘れてしまうような各地の出来事を、それと最も縁の薄い人の手に 成 ( な )った文献によって、統一しようとしていたのは文化の病だった。 第二、第三の方法は必ず試みられなければならない。 椰子の実の日本語は、いつの昔からともなくヤシホまたはヤシゥであった。 是 ( これ )が器物として利用せられたのも年久しい事であろうのに、あんな古い記録の次々と 承 ( う )け 継 ( つ )がれていたばかりに、近世になるまで依然として一種の珍奇であった。 手近 ( てぢか )な例として挙げられるのは、江戸叢書の中にも採録せられた『 嘉陵紀行 ( かりょうきこう )』、是は村尾嘉陵という江戸の小吏が、勤務の 暇 ( いとま )あるごとに 郊外 ( こうがい )の各処に日返りの旅行をした日記を集めたもので、時は文化から文政に 掛 ( か )けての、十数年のことだったかと記憶する。 或る日 新井 ( あらい )の 薬師 ( やくし )から 江古田 ( えこだ )の村あたりをあるいて、路傍の休み茶屋の豆腐屋を兼ねた店先に腰を掛けると、その家の老婆が 頻 ( しき )りに嘉陵が携えていたヤシホの盃に目を 留 ( と )め、その名を尋ね知っていよいよ珍らしがり、やがて出て行って一合ばかりの酒を求め 来 ( きた )り、どうか一つめしあがったあとで、私にもその盃でいただかせて下さい、といったという話が、至って 素朴 ( そぼく )に記述してあった。 僅 ( わず )か百年と少し前までは、こういった快活な女性が、まだあの 辺 ( あた )りにもいたということもなつかしいが、同時にまたこの一種のエキゾチシズムが無限に持続して、ついに我々の学問に 繋 ( つな )がるのも愉快だと思う。 ただしこの樹実の漂着地が、いずれの海岸であったかは問いも答えもしておらぬが、恐らくは江戸の周辺などには、 稀 ( まれ )にも無いことであった故に、 是 ( これ )ほどにも珍重せられたので、やはり 暗々裡 ( あんあんり )に古書の外国記事が、自他の上に働いていたのかもしれない。 村尾老人の故郷は、たしか 周防 ( すおう )の 岩国 ( いわくに )であった。 瀬戸内海でも多分めったに無いことだったろうが、外海の沿岸でならば、漂着は必ずしもそう 稀有 ( けう )なことでなく、或る日のアユの風が時あってこれを吹き寄せた例は、日本海の側にもあって、それが 好事者 ( こうずしゃ )の手を渡りあるいたことも、近代は次第に多くなったかと思う。 たとえば 曲亭馬琴 ( きょくていばきん )の『 烹雑 ( にまぜ )の 記 ( き )』という随筆に、 佐渡 ( さど )ヶ 島 ( しま )の記事がやや詳しく載せられ、浜に流れ寄るくさぐさの異郷の産物の中に、 椰子藻珠 ( やしもだま )などが有ることを 誌 ( しる )している。 そのモダマというのは正しい名かどうか知らぬが、 伊良湖 ( いらご )で椰子とともに私が拾った中にも、藤の実の形をして 莢 ( さや )が二尺もあり、 堅 ( かた )く 扁 ( ひら )たい 濃茶色 ( こいちゃいろ )の豆をもったものを、土地でもモダマと呼んでいたから同じもので、産地季節が同じかったために、偶然に長い海上の旅を共にすることがあったのであろう。 小野氏の『 本草啓蒙 ( ほんぞうけいもう )』に 依 ( よ )ると、佐渡の他にも 但馬 ( たじま )・ 若狭 ( わかさ )、奥州にも四国にも椰子の実の漂流してきた前例がすでに有った。 古書の記録の発見だけでなく、是からも皆で気をつけていたら、その事実はだんだんに積み重ねられるだろうが、それには何よりも地点を明らかにする必要があると思う。 何処 ( どこ )の海辺へでも勝手放題に、上陸するものではないということを認めるのは、決して椰子の実一つのためではなく、また地理の学者だけの任務とは限らないであろう。 多数の漂着物は永い年代に 亙 ( わた )って、誰ひとり 省 ( かえり )みる者もなく、空しく 磯山 ( いそやま )の 陰 ( かげ )に 朽 ( く )ち去った。 たまたまそれを取り上げて 愛玩 ( あいがん )し加工し、また授受するような時世になっても、その説話は必ずしも 弘 ( ひろ )く伝わらず、もしくは誤解と誇張とを伴って世に残った。 是からの学問はそれも整理しなければならない。 加賀の手取川などは、同じく日本海に注ぐ著名な流れであるが、このあたりのアユの風は、椰子の実は吹き寄せなかったものとみえて、飛んでもない 噂話 ( うわさばなし )が記憶せられていた。 この川は 水筋 ( みずすじ )がすぐに通り且つ早瀬であるために、出水があっても岸を 溢 ( あふ )れて、村里を害することが 元 ( もと )は 稀 ( まれ )であった。 或る年意外の高水が 支 ( ささ )えて、いつまでも田畠を浸し 劫 ( おびや )かすので気をつけて見ると、川の中流に黒い 円 ( まる )みのある大岩のごときものが横たわって、流れを 堰 ( せ )き止めていて、そのために水が引かぬのであった。 是をどうするがよいかと 評定 ( ひょうじょう )まちまちの 折柄 ( おりから )、今度は川上の方から牛に似て更に大きなまた一個の怪物が、流れについて下ってきて、前からあった岩のような黒いものにひしと取り付き、皮を喰い破って強く吸う。 そうすると中から真白な、どろどろとしたものが多量に出てきて、それが第二の怪物に吸い取られるに従って、だんだんと小さくなり、今まで 堰 ( せ )かれていた川の水も低くなった。 是こそ 白山 ( はくさん )の山奥に産する、ヤシホという樹の実であった云々という話が、『三州奇談』と題したあの地方の記録に載せられ、それもこの頃は活版になって 流布 ( るふ )している。 うそをつくつもりで言い出した話でない 証拠 ( しょうこ )には、椰子の果実の中が白く、皮を破って吸い出したという点だけを保存している。 それを霊山の神異に托したのは信仰かもしれぬが、少なくとも話者は同時代人の全部とともに、この樹実の産地に関する空想の自由を持っていたのである。 もちろん程度のちがいはあろうが、今でもこの自由をふりまわしている人が少なくはないような気がする。 たとえば言語に若干の一致があるとか、習俗がやや 似通 ( にかよ )うということなどは、是だけ年久しい隣住居で、また折々の交通を考えると、無かったらむしろ不思議と言ってよい。 いつかは必ず日本の最初の住民の、本家なりまた同族なりが、この中から見つかってくるものと当てにしていてもよいようだが、そうは行かないわけはまだ一つ、今自分たちが思っているような場合、すなわち以前の 従兄弟 ( いとこ )たちが衰弱し散乱して、周囲のより強い部族に吸収せられて、言語や系統の意識を失ってしまっている場合があるからである。 海を生活の場面とする大小の種族には、この実例は決して珍らしくない。 ましてこの一つの天然の条件が完備した島群において、さしたる外部の 擾乱 ( じょうらん )もなく、数千年の生存を続けていたとすれば、いつかは現在のような浅ましい一億 共喰 ( ともぐ )いの状態に、陥って行くのも逃れがたい命数だったかもしれず、そうなるまいとすれば、今少しく知り且つ考えなければならない。 どこか大陸の片隅に、この日本の紳士のような一団の人物が 割拠 ( かっきょ )して、『万葉集』に近い日本語でも話しつつ、久しぶりの再会を待っているかのごとく夢みることは、私などから見れば、まあ白山山中の大きな椰子の実のようなものである。 人と椰子の実とを一つに見ようとすることはもとより不倫な話に相違ないが、島の人生の最初を考えてみれば、是もまた漂着以外の機会は有り得なかった。 鼠 ( ねずみ )や渡り鳥や魚の 群 ( むれ )などは、地図を見たこともなく、地理の教育はまったく受けないにもかかわらず、結果だけから見れば、たしかに移住をしている。 人もそれと同様に、やはり自分の羽で飛び、自分の 鰭 ( ひれ )または 脚 ( あし )で水を 掻 ( か )いて、行きたい方角に進み、こいつは行けないと思えば、ともかくも引き返しまたは転回しようとする。 是こそは計画であり希望であって、単なる盲動ではなかったと言えるかも知れぬが、その程度の心構えならば、ココ椰子が潮に落ちる場合ならずとも、花の粉の蝶蝉の翼に乗って空を行くなども、またその例に 算 ( かぞ )えなければなるまい。 ただし花粉や椰子の実の間にはまだ認められないが、少し大きな生物の群には、それぞれのモーゼがいたようである。 彼らの感覚は鋭く、判断は早く、またそれを決行する勇気をも 具 ( そな )えていた故に、是と行動を共にしておれば、百ある危険を二十三十に減少することはできたろうが、行く手に不可知がなお横たわるかぎり、万全とは言うことはできなかった。 古来大陸の 堅 ( かた )い土の上において幾度か行われた民族の遷移でも、さては近い頃の多くの軍事行動でも、勝って 歓 ( よろこ )ぶ者の声のみが高く響き、いわゆる万骨の枯るるものが物言わなかったのである。 まして海上の危険はさらに痛烈で、一人の 落伍者 ( らくごしゃ ) 逃竄者 ( とうざんしゃ )をも許さなかったことは、今さら改めてこれを体験してみるにも及ばなかったのであるが、そういう中にすらもなおこの日本の島々のごとく、最初僅かな人の数をもって、この静かなる緑の島を独占し、無論幾多の 辛苦 ( しんく )経営の後とはいいながら、ついには山々の一滴の水、または海の底の一片の 藻 ( も )の葉まで、ことごとく子孫の用に供せしめ得たということは、誠にたぐいもない人類成功の例であった。 後代にこれを 顧 ( かえり )みて神々の隠れたる意図、神のよざしと解しなかったら、むしろ不自然であったろう。 たとえ数々の物語は事実のままでなかろうとも、感謝のあまりにはかくも解し、またさながらにこれを信ずることもできたのであった。 イスラエルの神などは始めに存し、この土この民を選んで結び合わせたのであったが、国が荒れ人がすでに散乱したので、勢い解釈を改めなければすまなかった。 我々の国土はやや荒れたりといえども、幸いにして今も血を 承 ( う )けた者が住んでいる。 すなわち再び国の成立について、まともに考えてみるべき時期ではないかと思う。 後期仏教の 西方浄土 ( さいほうじょうど )とは対立して、対岸大陸には 夙 ( はや )くから、東方を 憧憬 ( しょうけい )する民間信仰が普及していた。 いわゆる 扶桑 ( ふそう )伝説はすなわち 是 ( これ )で、多分は太陽の海を離るる光景の美しさ 貴 ( とう )とさから、導かれたもののごとく私たちは推測している。 秦 ( しん )の 徐福 ( じょふく )が童男女三百人をつれて、仙薬を求めて東方の島に渡ったということは世に知られ、 我邦 ( わがくに )でも 熊野 ( くまの )の 新宮 ( しんぐう )がその居住地であったとか、あるいは 八丈島 ( はちじょうじま )の人の始めが彼らではなかったろうかとか、いう類の雑説が色々と発生しているけれども、それはいずれもあちらの記録を読んでから後に、考え出したことだからちっとも 当 ( あ )てにならない。 ともかくも本国においては永遠に 行方 ( ゆくえ )知れずであり、この遠征によって 彼我 ( ひが )の交通が、開けたことにはなっていないのである。 欧陽修 ( おうようしゅう )の日本刀の歌は、日本にも 夙 ( はや )く伝わっていて、 徐福 往 ( ゆ )くとき書 未 ( いま )だ 燬 ( や )けず 逸史 ( いっし )百篇今なほ存す 云々 という句などは、私たちもまだ記憶するが、こちらの歴史に 引比 ( ひきくら )べてみると、 王仁 ( わに )の『 千字文 ( せんじもん )』などよりは 是 ( これ )はまたずっと前のことで、明かに詩人の空想であったことがすぐに 判 ( わか )る。 太平の天子が人の世の歓楽に飽き満ちて、そろそろと不老不死の術を恋い 焦 ( こが )れ、ついに 道士 ( どうし )の言に 欺 ( あざむ )かれて無益の探求を 企 ( くわだ )つるに至ったなどは、いわば 支那 ( シナ )古代の小説の一つの型であって、たまたまその中の特に美しく、かつ奇抜にして人心に投じたものが、永く記伝せられて世に残ったにすぎぬことは、今日はもう疑う人もあるまい。 ただそういうさまざまの趣向の取り合わせの中において、今の言葉でいうならば自然主義、すなわち時代の人々が楽しみ聴いて、さも有りなんと思い、またまったく無かったこととも言われぬと、心に 刻 ( きざ )みつけていたものを拾い上げてみるならば、或いはそういう中から逆に、人類の現実の移動を支配した、古代の社会力とも名づくべきものが、少しずつは 窺 ( うかが )われてくるのではないかと思うのみである。 たとえば東方の、 旭日 ( あさひ )の昇ってくる方角に、目に見えぬ 蓬莱 ( ほうらい )または 常世 ( とこよ )という仙郷の有ると思う考えかたは、この 大和島根 ( やまとしまね )を始めとして、遠くは西南の列島から、少なくとも台湾の 蕃族 ( ばんぞく )の一部までに、今日もなお分布している。 槎 ( いかだ )に乗って東の海に遊ばんとか、または東海を踏んで死すあらんのみとか、なかば無意識にもこれを口にする人が多かったのは、必ずしも東だけに海をもった大陸の、経験とも言われぬように思う。 いわゆる徐福伝説の 伝播 ( でんぱ )と成長とには、少なくとも底に目に見えぬ力があって、 暗々裡 ( あんあんり )に日本諸島の開発に、寄与していたことは考えられる。 それからなお一つ、是まで注意した人はないようだけれども、徐福が数百人の男女の未婚者を引き連れて、船出をしたということには意味があったと思う。 もしも仙薬を採って直ぐに 還 ( かえ )ってくる航海だったら、そんな 手足纏 ( てあしまと )いを同船する必要は少しもなく、同時に他意あることを疑われもしたであろう。 それを堂々とあの大一行をもって出征したというのは、是も後世の開発団のように、行ってその土地に根を張ろうという本式の移民事業か、少なくともそういうふれこみをもって、親々を承知させたものと、世間では解していたのであろう。 三千年に一度 実 ( み )を結ぶ 桃 ( もも )という話もある。 仙薬は決して夢の山のダイヤモンドのように、 熊手 ( くまで )で 掻 ( か )き集めて背負ってこられるものでなく、やはり育てて収穫して調製し加工して、 後 ( あと )から後からと献上してくるものと予定せられ、昔の人は気が永いからそれを際限もなく待っていたのかと思う。 地理の知識の少しでも確実でなかった時代には、人の移動には大か小か、必ず漂着の分子を 伴 ( とも )のうていたことは、陸上の道とても変りはないが、そういう中でも海には予想せられる危険が色々とあった。 岸に立ちもしくは 些 ( すこ )しばかり沖に出て、ただちに望み得る隣の島でもないかぎり、人が目標も無しに渡航を計画したということは、有り得ない話である。 日本人の起原を説いてみようとせられる学者がたが、今日まだ些しでもこの点を考えようとせられぬのは、第一に私には不審である。 昔は島ごとに人が自然に発生し、もしくは製作せられたということも、たやすく承認したのだから問題はない。 次には神の 啓示 ( けいじ )をもって、我々の経験よりもさらに遥かに有力なるものと信じて、これに基づいて遠い以前の記録なき社会を解釈し、始祖は空を 踏 ( ふ )み海波を飛び越えて、あるいは高山の 嶺 ( みね )に 降 ( お )り 来 ( きた )ったとしても、それには時代としての十分な理由があるのだから、些しでも不審な点はない。 ところが一方に現代のいわゆる常識に 依 ( よ )って、そんな事が有るものかと否認しつつ、そんならどうして人が住み始めたのかを、 合点 ( がてん )が行くように説明してみようとしなかったのは、何だかお互いの怠慢であったようで気が 咎 ( とが )める。 その罪滅ぼしの意味もあって、きょうは一つの推定説を出してみる。 次のより確かなる一説の出現を待つばかりである。 同じく漂流漂着という中でも、結果のあったものと 空 ( むな )しいものとがあって、 勿論 ( もちろん )上古には第二の方が、悲しいほども多かったにちがいない。 活 ( い )きて自分たちは 爰 ( ここ )にいると、故郷に知らせることができなかった人々も、 程 ( ほど )なく死に絶えたことであろう。 海の冒険には妻娘を伴なって行かぬのが常だからである。 そうなると結局は 一旦 ( いったん )家に 還 ( かえ )ってきて、いろいろ 支度 ( したく )を 整 ( ととの )え居住の企画を立てて、再び渡って行くことになるので、是は或る程度の地理知識を 具 ( そな )え、明らかな目標を見定めての航海だから、漂流でないことは言うまでもなく、いずれ危険も 艱難 ( かんなん )も伴なわずにはすまなかったろうが、ともかくも距離はそう遠くもなく、且つ現在までの生活境遇と比較して、顕著なる改良が期待せられる場合には、 稀 ( まれ )には昔の人たちでも、こういう移住を決行することがあったろうと思う。 秦の徐福の童男童女などは、どこまでも 譚奇 ( たんき )の物語としか私には思われぬが、こうした空想のベースとなったものは、必ずしも 蓬莱扶桑 ( ほうらいふそう )の神仙信仰だけでなく、別に海にいたつく貧苦の民の、年久しい言い伝えの 沈澱 ( ちんでん )したものがあったために、とくに一般の印象を強め、記憶を容易にしたものかとも推測せられる。 そこで最初にまず考えてみなければならぬのは、舟というものの機能の幾つかの段階であるが、 是 ( これ )はすでに松本 信広 ( のぶひろ )氏らが、最も慎重なる比較調査を進めておられるのだから、諸君は安んじてその結果を待たれてよい。 ただきわめて少数のそれを待ち切れぬ者のために、大づかみな 見越 ( みこ )しを試みるならば、舟はもと内地の小さな 止水 ( しすい )の上で、発明せられたものであったとしても、是が大陸の沿海地方にまで、移し用いられるようになるのは容易でありまた自然である。 ただあの 茫洋 ( ぼうよう )たる 青海原 ( あおうなばら )に突き進み、ことに一点の目標もない水平線を越えて行こうとするには、ちょうど最近代の航空も同じように長期の経験と準備と、また失敗とを重ねずばならなかったのは当然であろう。 帆 ( ほ )というものの考案も、早く始まっていたことは疑われないが、その構造と操作の方法が、完備したのは近世のことであった。 四面海に囲まれた日本のような国ですらも、まだ 老翁 ( ろうおう )の記憶の 境 ( さかい )まで、その利用は単純を極めており、前代文献の書き伝えたかぎりでは、舟はただ 磯 ( いそ )づたいに 漕 ( こ )ぎめぐり、たまたま二つの 海角 ( かいかく )の間を直航するときだけは、マギルと称して帆を用いたが、是は 素 ( もと )よりその日の風次第であった。 大洋の知識の少しずつ拡大してきたのは、今も続いている 釣舟 ( つりぶね )が主たる機会だったかと思う。 『万葉集』の 浦島子 ( うらしまのこ )の歌にも有るように、 海境 ( うなさか )を過ぎて漕ぎ行くという作業が普通であって、是には帆を用意せぬ小舟も多かったから、次第に大胆に遠く出る者があったとはいうものの、いつでも 地方 ( じかた )にアテすなわち目標を見定めていて、よほど確かな船頭をもたぬかぎり、山ナシという水域までは出ないようにしていた。 しかも各人の努力勇気の加わるにつれて、次第に隣の陸地の存在を知る場合が多くなり、 稀 ( まれ )には少時間の 空漠 ( くうばく )を耐え忍んで、目に見えぬ島々を心ざした者が、意外な幸運を見つけて帰ってきてその体験を 談 ( かた )るというようなことが、年とともにだんだんと積み重ねられたことも考えられる。 弘 ( ひろ )い意味においては是も発見であり、地理学の 芽生 ( めば )えであった。 私たちの仲間でないと、まだ今日容易に認められまいと思うことは、学問の中心は必ずしも 京華文雅 ( けいかぶんが )の 士 ( し )の、間にのみは存在しなかったということである。 極端な例を一つ挙げるならば、 海部 ( あまべ )は日本人よりは多分遅く渡来して、ひどい片隅の文字なき生活を続けていた人たちだけれども、海の知識においては誰よりも 豊 ( ゆたか )なるものを持ち、しかも文字が無いばかりに、是をまだ一般には伝えていない。 糸満 ( いとまん )人が九州の 荒磯 ( あらいそ )に出没し始めると、今まで記述せられなかった色々の多彩の魚が市場に現われて、内外の魚学者を 喫驚 ( びっくり )させたという話も聴いている。 糸満はもとより海部ではなく、世の常の沖縄人の一群であろうが、既に部曲を分かち伝承の方式を異にすると、近づいて是に海上の道を学ぼうとする者がないのである。 独 ( ひと )り糸満の海底生物学のみと言わず、かつては沖縄文化の中枢とも認められたトキ取り・エカ取りの知識なども、人こそ知らね年久しい自然観察と、その丹念な綜合とが基礎となって、農耕 漁撈 ( ぎょろう )の生産面は言うに及ばず、神祭や生死の儀式にも一貫して、力強い指導原理を打ち立てていたらしく、単なる方術の類でなかったことは、 僅 ( わず )かに残った遺跡からも 窺 ( うかが )われるのだが、惜しいかな文字の記伝に 乏 ( とぼ )しく、外部に立つ者にはもう利用することができない。 海を 環 ( めぐ )っている潮流のこまごまとした 枝分 ( えだわか )れ、常吹く風の季節ごとの移動など、やがては綿密な学者の調査が、一々の地区について説明してくれる日がくるのだろうけれども、今は何分にもまだその便宜がなく、たとえば支那南海を黒潮に乗ってという類の大胆な一説が、誰にも笑われずに 闊歩 ( かっぽ )する時代なのだから、当分はやはり従来の切れ切れの経験の跡を 繋 ( つな )いで行くのほかはないのである。 勿論 ( もちろん )私は 椰子 ( やし )の 実 ( み )の漂着地の一つをもって、原始日本人の上陸点と見ようとするのではない。 しかし少なくとも日本の海岸線の数千里の延長の中で、とくに 殊邦 ( ことくに )の物の流れ寄りやすい区域が限られ、したがって久しく世に知られずに過ぎたという点は参考になり、同時にまた簡単なる学校地図によって、ここが近いからこの辺から渡って来たろうなどと、まるで 飛石伝 ( とびいしづた )いのような 早合点 ( はやがてん )をする人を、笑ってもよいことになるのである。 八重 ( やえ )の 汐路 ( しおじ )という言葉は、歌や物語にこそしばしば用いられるが、それが 如何 ( いか )なる力をもつかを考えてみた人は、名もなき海上の 猛者 ( もさ )ばかりであった。 大きな海流の常の方向だけは、文書の学問として 夙 ( はや )く我々も学ぶことを得たけれども、それが時あって 著 ( いちじる )しく流路を変え、または屈折し分岐して到る処に影響する実状に至っては、今は必ずしもまだ常識とまではなっていない。 近年着々と進んでいる海底の調査によって、新たに心づかれた法則も多いごとく、空中と陸地とのさまざまの交渉にも、海国人ならば知らずにはすまされぬことが、まだ無限に残っている。 ことに日本の周辺地域のような、小さな区画の中に現出する色々の変化、風が季節により、 潮 ( しお )が刻限に 伴 ( とも )のうて、おおよそどの程度に船の歩みを助け妨げ、または強制しているかということは、永い歳月に 亙 ( わた )ってただ生死を 是 ( これ )に托している人たちだけが、命をかけて体験しているに過ぎなかった。 勿論これが身の運の 岐 ( わか )れ 路 ( みち )であった故に、教えるにも覚えるにも全力を傾け 尽 ( つく )し、その 執心 ( しゅうしん )は或いは世の常の学問授受を超越したであろうが、あわれや陸上の人々は、おおむねこれを 顧 ( かえり )みなかった。 国の 端々 ( はしばし )の海上知識は、多くは記憶しやすいコトワザの形になって、今もその土地には散乱しているのだが、それを 蒐集 ( しゅうしゅう )してみようとする人は 稀 ( まれ )にもなく、そのうちに世は動力利用の時代になってきて、多数の 桑名屋徳蔵 ( くわなやとくぞう )は 老 ( お )い去って 後 ( あと )を 嗣 ( つ )ぐ者なく、 湊々 ( みなとみなと )の 日和山 ( ひよりやま )は、大抵はもう遊園地に化してしまった。 新古二通りの地理学の 空隙 ( くうげき )にはまりこんで、我らの海上の道は一旦はさらに跡づけ難くなったのである。 もしも漂着をもって最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はそう遠方でなかったことが 先 ( ま )ずわかる。 人は際限もなく椰子の実のように、海上にただようては居られないのみならず、幸いに命 活 ( い )きて、この島住むに 足 ( た )るという印象を得たとすれば、一度は引き返して必要なる物種をととのえ、ことに妻娘を 伴 ( とも )のうて、永続の計を立てねばならぬ。 そういう企画の可能なる場合は限られており、したがってまたその条件の 具 ( そな )わった 海辺 ( うみべ )を、見つけることもさまで困難ではない。 動力航行の時代に生まれた者が、最も見落しやすい一事は、昔の船人の心長さ、種 播 ( ま )く農夫の秋の 稔 ( みの )りを待つよりもなお久しく、年に一度の往復を普通としていたことである。 是が習性となったと見るのは気の毒だが、近世の鳥島漂流談などにも、三組の難船者が協力して島を脱出するのに、その中の 最故参 ( さいこさん )は二十年以上も忍耐して、機会を待っていたという例がある。 僅 ( わず )かな食物を見つける以外に、何一つ身を労することもなく、ただ一心に風と 潮合 ( しおあ )いとの便宜を観察して、時節の到来を 狙 ( ねら )っていたという 根気 ( こんき )のよさは、おそらくは東洋の 魯敏孫 ( ロビンソン )の特性であって、距離がもっと近く船の修理に堪えるものがもしあったら、無論それよりももっと早く、故郷の浜に 還 ( かえ )ることも不可能ではなかったろう。 そこでいよいよ私の問題の中心、どうしてそのような危険と不安との多かった一つの島に、もう一度辛苦して家族朋友を誘うてまで、渡ってくることになったのかということになるのだが、私は 是 ( これ )を最も簡単に、ただ 宝貝 ( たからがい )の魅力のためと、一言で解説し得るように思っている。 秦 ( しん )の 始皇 ( しこう )の世に、銅を通貨に 鋳 ( い )るようになったまでは、中国の至宝は宝貝であり、その中でも二種のシプレア・モネタと称する 黄 ( き )に光る 子安貝 ( こやすがい )は、一切の利慾願望の中心であった。 今でもこの貝の産地は限られているが、極東の方面に至っては、我々の同胞種族が居住する群島周辺の 珊瑚礁上 ( さんごしょうじょう )より外には、近いあたりには、これを産する処は知られていない。 ことに大陸の沿海のごときは、北は朝鮮の半島から 馬来 ( マライ )・ 印度 ( インド )の 果 ( はて )まで、 稀 ( まれ )にもこの貝の 捕 ( と )れるという例を聴かず、永い年代に 亙 ( わた )ってすべてこれを遠方の島に求めていた。 単なる暖流の影響という以上に、浅い岩瀬でないと生息しなかったためかと思われる。 今でも南海の産という言葉を、心軽く使っている人も有るようだが、古くは 嶺南 ( れいなん )の陸路は通じなかったのみでなく、海まで 降 ( お )りて行けば必ず手に入ると、いうものでは決してなかったのである。 金銀宝石と光輝を競うことが、かの心理の根源ではあったろうけれども、同時にまた是を手に入れる機会の乏しさが、今日の眼からは考えられぬほどの、異常なる貴重視を 促 ( うなが )したのかと思われる。 中国古代史学の展開につれて、この点は今後ますます確実になって行くことが期待し得られる。 殷 ( いん )の王朝が、 中原 ( ちゅうげん )に進出した背後の勢力は東方にあった。 いわゆる 東夷 ( とうい )の海の営みの中で、今でもすでにほぼ明かになっているのは、宝貝の供給であった。 それが 遥 ( はる )かなる西方の指導に呼応したか、はたまた独立して一つの流行の 端緒 ( たんしょ )を作ったかは、まだはっきりとは決し難いにしても、ともかくも或る代の大きな偶然によって、 窄 ( せま )い入口の開いたことだけは、まず疑いがない。 ただそれが東南の或る一つの島群、最も大陸に近い、ことに風候の最も便宜ある、 八重 ( やえ )の 汐路 ( しおじ )の一筋であったことは、 支那 ( シナ )の 文籍 ( ぶんせき )の問題でないだけに心を 留 ( と )める者が少なく、こちらはまた南海は 何処 ( どこ )の 渚 ( なぎさ )にも、あの美しい宝貝がころころと 転 ( ころ )がっているもののように、思っている人だらけなのだから、ついぞ話題には上らなかったのである。 実際の分布は黒潮の及ぶところ、太平洋岸は 茨城 ( いばらき ) [#ルビの「いばらき」は底本では「いばらぎ」]・福島の境まで、日本海側は富山県を限りと言われているが、それも種類が少なく美しいものはなく、ことにうつせ貝のあざれて浜に寄るものばかりで、 活 ( い )きて海中にいるのを手に入れることは容易でない。 私は三十二年前の沖縄旅行に、故 尚順 ( しょうじゅん )男爵の目ざましい 大蒐集 ( だいしゅうしゅう )を見せてもらって、この近海が宝貝のあらゆる種類の産地であることを知り、始めてこの問題の大きさに心づき、近頃はまた 国頭郡 ( くにがみぐん )北端の村々におけるこの貝類の食用と捕獲法、それから今までまったく知らずにいたこの種の貝の生態とを、同地出身の崎浜信行君から教えられたほかに、さらに十何年か前に、西南諸島を巡歴してきた大森 義憲 ( よしのり )氏の旅行記によって、とくに 宮古島 ( みやこじま )が注意すべき一つの中心地なることを感じ始めたのである。 いわゆる 琉球 ( りゅうきゅう )三十六島の中でも、 宮古 ( みやこ )は異常に歴史の進化の歩みが 激 ( はげ )しく、しかも天災地変の圧迫が強烈であって、人は悩み且つしばしば 入替 ( いれかわ )り、したがって言語文物の錯雑が著しいことは、 夙 ( はや )く私も気がついて、『島の人生』の中にも一端を説いてみたことがあったが、この島の周辺に広い地域にわたった 干瀬 ( ひせ )があって、そこが貝類の最も豊富なる産地であり、今も近隣の島々に供給していることは、今度大森君の紀行によって始めて学び知った。 この島の記録は無論中世以後に偏しているが、遠い昔の言い伝えには、 幽 ( かす )かながら幾つかの奇抜なものが残っており、ことにアヤゴという多くの語りものが、女性の 伝誦 ( でんしょう )に保存せられていて、今もまだ採訪を可能にしている。 一つ一つの内容は如何にも 茫漠 ( ぼうばく )としてはいるが、これを排列し綜合するとともに、近く現実に記憶せられる戦前戦後における島人らの海上の活躍を思い合わせ、さらに将来明かになってくる潮流と季節風との法則に照らし見ることができたならば、やや大胆に過ぎたる今の私の仮定、すなわち始めて大陸から人の漂着したのは、この島ではなかったろうかという一説なども、少なくとも一応の検討に値いするものだというまでは認められ、さらに進んでは是よりも一層有力なる一地点を、 捜 ( さが )し出す 端緒 ( たんしょ )となるのかも知れない。 たとえばこの島には、近世に入ってからまで、唐人漂着の事実が折々あった。 それが大きな船の多人数でなく、また 暫 ( しば )らく島人の中に住んでいて、やがて 還 ( かえ )って 往 ( い )ったという話も一、二ではなかったように思う。 島の住民みずからが漁に 出 ( い )で、または公務のために海を渡っていて、漂流して久しい後に戻って来たという話は、 八重山 ( やえやま )の方にもよく聴くことで、 殆 ( ほとん )と常の生活の一部と言ってもよかったのだが、そういう中でもこの島の事件はやや規模が大きく、また効果が著しかった。 近くは明治初年の台湾問題なども、原因は宮古人の 殺戮 ( さつりく )に始まり、古くはまた大陸に記録を 止 ( とど )めた最初の交通は、宮古の船であったと藤田 劒峯 ( けんぽう )氏は述べておられる。 亜細亜 ( アジア )東南の諸国との貿易には、明らかに歴代宝案時代というべきものがあった。 そこから 蘇木 ( そぼく )・ 胡椒 ( こしょう )の類を 購 ( あがな )い取って、これを 中朝 ( ちゅうちょう )に貢献したという代償物は、いわゆる 海肥 ( かいひ ) [#「海肥」はママ]すなわち宝貝以外にはあったとも思われぬから、それを運んだのもまたこの島の船であったろう。 ともかくもこの南方の島々と、大陸との間の往来には、文字の記録よりも 遥 ( はる )かに古い 痕跡 ( こんせき )があり、 是 ( これ )に参加した者に宮古の船があり、また宝貝があったというまでは、ほぼ知られている。 今でも宮古島周辺の貝類採取地として年々多数の 小舟 ( さばに )の集まっていたのは、北には沖縄本島への航路に接して、 八重干瀬 ( やえびし )という広大な 岩礁 ( がんしょう )地域があり、他の側面では属島 伊良部島 ( いらぶしま )の 佐良浜 ( さらはま )の 磯 ( いそ )まわりが著名であった。 近世幾度かの大きな災害にあって、すでに信仰伝承の大部分を失っているようだが、この近くにはヌーシ山、または 乗瀬御岳 ( のーせうたき )と称する霊地があって、海上守護の女神を 祀 ( まつ )っている。 神がこの世に在りし日の名は玉めがといい、老いたる夫婦の中の 一人子 ( ひとりご )であった。 或る日水を汲みに出たままで姿を隠し、 後 ( のち )にただ一度親に現われて、この森の神になっていることを告げ、村人海上の難を救うべしと約束した。 そうして 唐神 ( とうがみ )という神を、相殿として共に祭られている。 その祭の名はカムシュウリ、「神主下り」という漢字を当てた文書もあるが、本来はこの季節の名でもあった。 或いはカムズといい、字には「神魂」と書く例もあって、遠い 出雲国 ( いずものくに )の同名の旧社を聯想せしめるが、ともかくも、この祭のカムズが下りると雨が降り、カムズがあがると西風が吹き始めて晴天がつづき、支那に渡っていた船が 還 ( かえ )ってくるといい、または難船をした者が遥かにこの御岳に 祈請 ( きしょう )して、 恙 ( つつが )なく島に戻った話もある。 祭の奉仕者はすべて婦人であり、いずれも関係のある家から出ることになっていた。 カムシュバギという一種の 蔓 ( つる )ある植物をもって頭に 纏 ( まと )い、御岳の中にあるカムシュ屋に入って、祝女のつかさは神と話をする。 その四日の間は男子はこれを見ることを戒められていたという。 或いは 媽祖 ( まそ )の信仰が後に入ってきて、影響を与えているかとも想像せられぬことはないが、ともかくも一年一度の祭の日を境に、 定 ( き )まった方角の風が吹き出すということは、この島限りでの経験であり、それが海上の旅に利用せられるのは、新たに採用した慣行とは言うことができない。 一国共通の学問にこそはまだ認められていないが、船を生活の場とした島人たちのためには、この局面に限られた海上の道は、ちょうど奥山の猪鹿の道路も同じに、 夙 ( はや )く 土地人 ( とちびと )の精確なる知識にはなっていたのである。 千に一つと言ってよい幸福に恵まれて、無人の孤島に流れ着き、そこに食物を求めようとして 測 ( はか )らずも 稀 ( まれ )なる世の宝が、さざれ小石のごとく散乱しているのを見つけたというなどは、一つの大きな民族の起原として、あまりにもたよりない夢か伝奇のようであろうが、正直なところきょうという日まで、 是 ( これ )よりももっと有り得べき解説を、まだ私などは聴いていないのである。 海のほとりに住んでおれば、稀には晴れた日に折々は思いを白雲の 彼方 ( かなた )に 馳 ( は )せ 眉引 ( まゆひ )く姿を望むことはあろうとも、何の望みがあって波を越え水平線を越えて、そこへ渡って行こうという気になろうか。 仮に測らざる理由によって、一度はその岸に 触 ( ふ )れたことがあったにしても、再び家族をつれ、物種 器什 ( きじゅう )を船に積んで、来て住もうという決心をするだけの引力は何に見出し得たろうか。 それよりも 占 ( うらな )いや夢の告げ、鳥や獣の導きによって、未来の安住の地を見立てたと伝える方が、まだよっぽど考えやすい。 察するところ以前も今のごとく、人が多くて生まれ故郷に住み 剰 ( あま )り、ないしは一方に強い圧迫があって、じっと落ちついてはいられぬ場合が多く、移動はすなわち人間の常の性となったごとく考えている人たちが、やや気軽に色々の動機を承認したのでもあろうが、互いに事態の想像しやすい陸続きの土地ですらも、 元 ( もと )は各自の 疆域 ( きょういき )を守って、そう 無造作 ( むぞうさ )には出て行かなかった。 まして海上の不知不案内を 犯 ( おか )して、危険と闘うような必要などは有り得ないはずであった。 高千穂 ( たかちほ ) 触峯 ( くしぶるみね )の旧伝を否定して、人類遷移の法則を合理化しようとすれば、どうしてもこうした中世式な考えかたを見習わなければならない。 お 蔭 ( かげ )で日本の国の始めは、存外に新らしいものになってしまった。 島国成立の年久しいということは、いわば我々の 艱苦 ( かんく )の永く続いたことを意味し、必ずしもそれを誇りとして立証すべきものでもあるまいが、仮に私などの推定せんとするごとく、いわゆる 東夷 ( とうい )の活躍が次第に影響を 中原 ( ちゅうげん )の文化に及ぼし、宝貝の重視熱望がほぼ頂点に達せんとした時代が、ちょうど極東列島のいずれかの一つに、始祖日本人の小さな 群 ( むれ )が足を印した頃らしいときまると、それから後の約二千年、すなわち安全なる年代記に 繋 ( つな )がるまでの大きな空間は、まずそっくりとこの九学会の領分に入ってきて、外ではただ研究の成果を期待することになるであろう。 みなさんの責任は無上に重くはなるが、この想像はかなり 爽快 ( そうかい )なものだと思う。 私は年をとり気力がすでに衰えて、そう多量の仕事を分担することが許されぬが、 稲作 ( いなさく )の問題だけは、是からもなお 些 ( すこ )しずつ考えて行き、必要とならば 横合 ( よこあ )いから口を 挟 ( はさ )んでみようとしている。 現在の通説かと思われるのは、ちょうど 縄文 ( じょうもん )期と 弥生 ( やよい )式期の 境目 ( さかいめ )の頃に、この国へは 籾種 ( もみだね )が入ってきて、それから今のような米作国に、追々と進展したということらしいが、それがまず自分には承服しがたい。 あらゆる 穀作 ( こくさく )にも通じて言えることだが、稲にはことに年久しい観察に養われた、 口伝 ( くでん )とも加減とも名づくべき技芸が備わっていた。 籾種ばかりを 只 ( ただ )ひょいと手渡しされたところで第一に食べてみることすらできない。 単に栽培者が 自 ( みずか )ら携えてきたという以上に、父祖伝来の経験が集積調和して、これを教訓の形をもって引き継がれなかったら、この 作物 ( さくもつ )の次々の改良はさておき、外部の色々の 障碍 ( しょうがい )にすらも、対抗することができなかったろう。 すなわち最初から、少なくとも或る程度の技術とともに、或いはそれ以外に米というものの重要性の認識とともに、自ら種実を携えて、渡って来たのが日本人であったと、考えずにはおられぬ理由である。 米を数ある食料の一つに、近世始めて追加した国々の習慣と比較して、古来の稲作国の特徴というべきものは幾つもある。 米を主食という言葉は 軽々 ( かるがる )しく用いられているけれども、今も全国を通じて米食率はおそらくは三分の二以内、 僅 ( わず )か半世紀以前までは、それが五十%を少し越える程度であり、しかもその中には都市と工場地、貴族富民その他の非農民階級の、米しか食わぬ者の多数を包含していた。 主として貧窮のため、 年貢 ( ねんぐ )の 苛斂 ( かれん )だったためと、解せられたのにも根拠はあるが、今一つの理由は、是が本来は 晴 ( は )れの日の食物であったことで、年に幾度の節日祭日、もしくは親の日・ 身祝 ( みいわ )い日だけに、飽くまでそれを飲み食いして、身も心も新たにしようという趣旨が、古くからついて廻っていたことは、決して水田に乏しい地方だけに限らなかったのである。 かつて肉類のみによって生を営んだ時代が、我々の中にもあったということは信じにくい。 稲以外の作物や採取物の、 飢 ( うえ )を 医 ( い )するに足るものは以前も多く、その中には或いは起原の稲よりも古いものが、あるかも知れぬと思うにもかかわらず、注意せずにはおられない一つの特徴は、右に申すごとく特別にこれを重視し、あらゆる民間の信仰行事から、 歳時暦法 ( さいじれきほう )の末に至るまで、 専 ( もっぱ )ら稲の栽培収穫を目標として行われてきたことであった。 米の信仰的用途ともいうべきものが、もし日本一国だけの現象であるならば、なお自由なる種々の解釈を成り立たせるであろうが、是にはまた二、三の重要なる点において、四隣の幾つかの稲作国と共通のものが、指示し得られるようになって来たのである。 昨年創始せられた 新嘗 ( にいなめ )研究会の成績が 切 ( せつ )に期待せられるとともに、一方にはまた稲の品種の精密なる比較検討によって、追々にその伝来の 路筋 ( みちすじ )を明かにし、 延 ( ひ )いては是を携えて東海の島々に進出した一つの民族の、故郷はどこであったかが 判 ( わか )ってくる望みも、まるまる無いとまでは言われぬのである。 人が大陸から稲の種を携えて、この列島に渡って来たのも、たった一度の偶然ではなかったのかもしれぬが、結果は一つに 帰 ( き )するようだから、私は考えやすい方を考えてみる。 沖縄諸島の有識者たちは、かつての金沢博士のイニシ北方説に心服して、どうしても北から南の方へ渡って行ったものと考えようとするが、それを何のために 何人 ( なんびと )が計画したかと尋ねてみると、神の指定とでも答えるよりほかはないようである。 結局は私の 謂 ( い )う海上の道、 潮 ( しお )がどのように 岐 ( わか )れ走り、風がどの方角へ強く吹くかを、もっと確実に突き 留 ( と )めてからでないと断定し難いが、稲を最初からの大切な携帯品と見る限りにおいては、南から北へ、小さな低い 平 ( ひら )たい島から、大きな高い島の方へ進み近よったという方が少しは考えやすい。 ともかくも四百近くもある日本の島々が、一度に人を住ませたとは誰も思っておらず、そのうちの特に大きな大切な島へというのも、地図ができてから後の話である。 宝貝の需要がさまで痛切ならず、人がそのために身命を 賭 ( と )し、 怒濤 ( どとう )を乗り切るまでの大きな 刺戟 ( しげき )がなくなったのは、 徐福 ( じょふく )のローマンスよりもさらに前のことであろう。 人がその島をわが島と呼んで、安んじて住むようになれば、やがては生産の地が足りなくなって、行きやすい隣の島を物色することは、是は水平線外の冒険とは話がちがう。 一番大きな 促迫 ( そくはく )は、稲を作る適地の欠乏であったかと思う。 漁獲は必ずしも定住を必要としなかったからである。 珊瑚礁 ( さんごしょう )の隆起でできたような平島では、稲を生育せしめるような浅水の地はそう多くはなかった。 南方の諸島では、通例小さな水面をコモリと呼んでいる。 旧日本の方にもコモリヌという語があり、現在もなお二、三の土地に、方言として残っている。 南島のコモリには入江の奥などにあって、海の水の通うものが多いが、是も少しの土功を加えて外側を 断 ( た )ち切り、降雨を待って水を入れ替えて、小規模なる 浦田 ( うらた ) 湊田 ( みなとだ )を設けることは、こちらでも例の多いことである。 ただしこういうのは多くは 灌漑 ( かんがい )の設備がなく、したがって 旱 ( ひでり )の年にはかえってまず苦しまなければならぬので、むしろ低湿な沼地を選び、よそでは 旱魃 ( かんばつ )で困るような年を、待っているような傾きが生じた。 ところが南方の暖地帯では、降雨がほとんと唯一の灌漑法であって、たまたま雨量の乏しい年に 遭 ( あ )うと苦労をし、百方を講じて蒸発と吸収とを防止する。 日本の稲作作業の中において、 畦塗 ( あぜぬ )り 底堅 ( そこがた )めに格別の注意を払うのは、事によると以前もっと南方の低地にあって、降雨をただ一つの力にしていた余習かも知れない。 そう思ってみると 雨乞 ( あまごい )の行事なども、日本ではあまりにも重要視せられている。 日本の 稲作 ( いなさく ) 灌漑 ( かんがい )様式は、その発達の跡に 鑑 ( かんが )みて、明らかに四段階に分かれており、しかも現在なおこの四つの型が 併 ( なら )び存している。 簡単にこれを解説すれば(一)は 地方 ( じかた )の書に天水場とあるもの、即ち小さな低い島々などの、雨より以外に水を与える方法の無い、いわば天然の力に任せるものである。 (二)にはいわゆる 清水掛 ( しみずがか )り、すなわち 筑波嶺 ( つくばね )の 雫 ( しずく )の 田居 ( たい )などと称して、山から 絞 ( しぼ )り出す僅かな流れを利用するもので、源頭の小山田というものから始まって、ごく僅かな傾斜をもって広々と 裾 ( すそ )を引くもの、古い土着の 名残 ( なごり )を 留 ( とど )めた昔なつかしい好風景の地であるが、過度の拡張によって次第にその水の不足を感じやすく、ことに 林相 ( りんそう )の 零落 ( れいらく )が目に立つようになると、 雨乞 ( あまごい )の 鉦太鼓 ( かねたいこ )が一段と耳に響く土地柄でもあった。 日本は旧国だけに、こうした田面がもとは到る処に多かったのであるが、久しい年代を重ねて、それが追々と(三)の 池掛 ( いけがか )りというものになった。 『日本紀』の 崇神 ( すじん )・ 垂仁 ( すいにん )の御朝の記事などに、 韓人 ( かんじん )に命じて 某々 ( ぼうぼう )の池を築かしめられたことが見える。 是を稲作の振興期のように解した人もあるか知らぬが、実は今までの用水が不足した際に、その分配を 調摂 ( ちょうせつ )し、且つ能うべくは新たな田を、開き添えようとしたものであって、その点にかけては(四)の 堰掛 ( いがか )りと同じに、すでに一種の外資借入れのようなものであった。 堰掛りにも大小幾つもの等差がある。 近年の新田開発に伴なう大規模な資本事業のほかに、僅かな隣人たちの協力に成ったのもあるが、是とても 堰 ( せ )き 止 ( と )めて引いてくるほどの流れが無ければ、小さな島々の住民にはまず 企 ( くわだ )てられないことであった。 以上四つの水利事業は、誰が最も利得するかは場合次第だとしても、技術上にはともかくも次々の進歩であった。 したがって稲の栽培の新たなる機会を求めて、次の島に移って行こうとする者が、山が 秀 ( ひい )で清水のさらに豊かなる大きな島を目ざすのは自然だが、すでに第二第三の灌漑方式の可能なることを知っておりながら、わざわざ(一)の道しかない小島へ渡って、農を営もうと企てることは有り得ないであろう。 最初に彼らはたった一度だけ、至って制限の多い、雨ばかりを頼らなければならぬ土地において、僅かな稲作を続けなければならなかったが、それは予期せざる遭遇であり、また偶然の大きな発見があったためと解せられる。 いよいよ海辺の民の常道に復して、半農半漁の生計を持続し、また発展させるようになると、むしろ中間の小さな平島はさしおいて、次々と水豊かに草木の濃く繁った、地形の雄大なる陸地に、将来の 足掛 ( あしがか )りを、求めようとしたであろうし、 栽 ( う )えて 稔 ( みの )りを待つほどの忍耐をもって、 気永 ( きなが )に風と 潮行 ( しおゆ )きとを観測してゆくとすれば、今度は海の上の失敗もよほど少なくすることができたことと思う。 以前は南方の島々には、焼いて掘り 窪 ( くぼ )めて舟にするような大木が多く、それを何隻か結び連ねて、 泛 ( うか )びやすくまた 覆 ( くつがえ )り難くする技術も、 夙 ( はや )く進んでいたかと思う。 日数のかかるということを問題とせずに、次々と 日和 ( ひより )を見定めてドアヒ(渡合)を乗り切れば、いつの日にかは北方の大きな島々にも渡りつくことができたものと見られる。 かつて私は西南の島々に、幾つかの 古見 ( こみ )または 久米 ( くめ )と呼ばれる地域があり、いずれも稲作の古く行われた 痕跡 ( こんせき )らしいと説いておいたことがある。 大八島 ( おおやしま )の旧国の中にも、数多くの久米または 久見 ( くみ )の地があり、その中の二、三は内陸の山間であるが、他の多くは海から近づき得る低地であって、今も稲田がよく 稔 ( みの )る古い土着の地であった。 舟で浦づたいにそういう地形を求めてあるく 習 ( なら )わしが、久しく続いていたのではないかどうか。 少なくとも一度は考えてみる価値がある。 今までの文化 伝播 ( でんぱ )論者の中には、大きな島の一端に届いた外来事物は、たちまちにして全土の隅々にも及ぶもののごとく、当然の連帯責任を押しつける人が 稀 ( まれ )にはあった。 汽車や電信電話の行き渡った今日でも、そういう効果は簡単に期せられない。 まして山には 峠路 ( とうげみち )、川には渡し場が全く無かったような遠い昔に、そういう交通の期せられたはずがない。 四面を海で囲まれた国の人としては、今はまたあまりにも海の路を無視し過ぎる。 やや 奇矯 ( ききょう )に失した私の民族起原論が、ほとんど 完膚 ( かんぷ )なく撃破せられるような日がくるならば、それこそは我々の学問の新らしい展開である。 むしろそういう日の一日も早く、到来せんことを私は待ち 焦 ( こが )れている。 [#改ページ] ふたたび南島研究の機運の 萌 ( きざ )しを見る 悦 ( よろこ )びのあまりに、一つの新らしい問題を提出しようという気になった。 それは耳から口へ、口からまた耳へという経路を通って、久しく保存せられてきた昔話や伝説の類を整理して、島と島との古くからの関係を考えてみようとする学問は民族学の領分であるか。 ただしはまた一国民俗学等の別な名称をもって、その 圏外 ( けんがい )に置くべきものであるか。 少なくとも民族学協会の諸君は、どちらを正しいとせられるであろうか。 是 ( これ )からの判断を明かにしてもらうために、まず少しばかり実地の例を並べて置くことにする。 この決定が両者いずれに帰着するにしても、我々島に住む者の満足には変りはない。 ただどっちつかずにして置かれるのが困るだけである。 古い文献は絶無に近く、遺物は 片端 ( かたはし )から腐り砕け、しかも人間が休みもなく動きまわっていた洋上の生活に、将来の民族学がもし手を伸べるとすると、最初に行き当る資料は必然に 口碑 ( こうひ )でなければならぬのだが、是は外からくる者には労苦の 業 ( わざ )であって、たった一つの島にも年数がかかり、今の速力では恐らくは間に合わない。 これに対して一方のいわゆるフォクロアは、言葉や感覚の 障碍 ( しょうがい )がないために、たしかに成績は挙げやすかったけれども、そのかわりには活動の領域が限られ、外へは出て行かぬのを作法のごとく、今までは考えられていた。 島の文化の変転が根こそげであって、古い生活の 痕跡 ( こんせき )の踏み消されやすいことを経験した者には、今はもう定義や沿革を論ずべき場合ではない。 双方どちらでも便宜の多い側から出て行って、結局我々が知らずにしまうことを、ちっとでも少なくすればよいのではあるまいか。 二つの学問の 境目 ( さかいめ )は、特に日本では紛れやすい理由があった。 それを自分などもかなり気にかけているが、或いはこれもまた両者がともに大いに成育して、やがては一つの名をもって、何の誤解もなく呼び得る時代が、到来するであろう前兆かもしれない。 少なくとも太平洋上の諸島には、この未来の 融合 ( ゆうごう )に向かって、期待を 繋 ( つな )げずに居られぬものが多く、さらに今回の南島研究復興に至っては、新たなる一つの機縁ではないかとさえ想像せられる。 何か少しのはかない思いつきでも、提出せずに居られぬのもそのためである。 別世界訪問、もしくは 仙郷淹留譚 ( せんきょうえんりゅうだん )などと呼ばるる民間説話に、島は島だけの特殊な型が有るということは、すでに注意した人もあろうし、また想像もできることである。 沖縄を中心とした南の群島と、旧日本の島々との間に、それがどの程度一致し、また特にどういう点がはっきりと異なっているか。 次にはその異同が、果して現在の学問をもって説明し得るものであるか。 もしくは 是 ( これ )からなお大いに考えてみなければならぬものであるか否か。 こういうことを主題として、今自分の心づいていることをざっと述べておきたい。 民間説話の採集は、今から十数年前、 些 ( すこ )しく 緒 ( ちょ )についたかと思った際に、ちょうど我々の国では最悪の 障碍 ( しょうがい )に 逢着 ( ほうちゃく )した。 沖縄本島でも、昔話の豊富であった時代が、確かにあるという痕跡のみは明かになって、まだ記録の 整 ( ととの )わぬうちに、 好 ( よ )い伝承者が急にいなくなった。 ただ幸いなことには 故 ( こ )岩倉市郎君の努力によって、彼の故郷の 喜界島 ( きかいじま )と 沖永良部島 ( おきのえらぶじま )との昔話集が世に残り、 奄美大島 ( あまみおおしま )の村々の昔話も、一部分だけは保存することができて、以南の島々に向かっての有効な飛石の役を 果 ( はた )している。 一方には日本各地の 蒐集 ( しゅうしゅう )も同じ人たちの協同の結果として或る程度の比較を可能ならしめた。 もちろん 是 ( これ )からのちの資料の累積は多くを望み難いであろうが、今ある採訪記録の整頓だけからでも、なお前代の学徒のような空漠たる仮定説を闘わさずにすむことになったのは、学問のために感謝してよいことだと思う。 南の島々の過去文化は是を根拠として、どこまで尋ね近よることができるであろうか。 少なくとも我々はこれを試みる義務を負うている。 今までの比較研究が、まず二つの島群の一致と類似に、心を引かれたのは自然であった。 実際に個々の昔話を聴いていると、大抵は半分を聴いて残りの部分が言い当てられ、両処偶然に同じものが、それぞれに生まれて出たとは思われぬ話ばかり多い。 例を挙げないと説明もしにくいが、一般に借りた教わった覚えてきたと、いうふうな推測だけで島の人たちは満足していた。 しかも比較の区域がだんだんに伸びて行くにつれて、第一にはそういう運搬の機会がいよいよ想像しにくくなり、第二には説話の年齢、或る一つの形態の持続する期間が、意外に長かったことが注意せられ、さらに第三には 僅 ( わず )かばかりの相異点が、これを存立せしめた社会相の理解に、非常に重要なものだったことが心づかれるのである。 自分の説いてみたいのは、主としてこの最後の一点にあるのだが、三者は関聯する故に、やはり簡略に説話の輪廓を叙述する必要がある。 日本では浦島太郎というのが、この 種 ( しゅ )仙郷説話の通り名のようになっているが、是は或る一地に保存せられていた歌物語で、筋も単純にすぎ結果も淋しく、時の経過の速さという一点を除けば、昔話としての 倶通性 ( ぐつうせい )をもっていない。 国内各地の幾つかの類例には同じ名をもって呼ばれているものがあるが、話の構成はかなりちがっている。 或いは「竜宮入り」という総称を用いてはどうかと思ったこともあった。 是も 俵藤太 ( たわらとうだ )の竜宮入りというような、伝説に近い物語に始まった言葉だが、少なくとも現在の多くの説話では、人が往来したという海底の仙郷は竜宮と呼ばれている。 この名称の民間に普及し、したがって誰もがこれに 由 ( よ )って、或る種の昔話を記憶するようになった始めは、文献の側から明らかにし得る道がある。 起原は多分仏法の経文にあり、読経師の口を 経 ( へ )て、次第に通俗化してきたものと私などは思っている。 今でも気がつくのは、日本の昔話の竜宮には竜はいない。 そうしてしばしば 乙姫様 ( おとひめさま )という美しい一人娘がいる。 是から考えられるのは、新たに国外から運び入れたのは、主として語音の珍らしいその仙郷の名だけであって、説話の内容は是がために大きな変化を受けていなかったということで、このただ一つの側面からでも、島ごとの昔話の発生の時の、古さ新らしさが測定し得られると思う。 然 ( しか )らばその竜宮という新語の採択以前、どういう名をもって海中の世界を呼んでいたろうか。 この問題に答えるのはそう困難でない。 雄略 ( ゆうりゃく )天皇紀の二十二年に、 浦島子 ( うらしまのこ )の記事が出ているのは一つの不審だが、ともかくも 是 ( これ )が最古の文献であって、ここには 蓬莱山 ( ほうらいさん )という漢字を使い、その古訓はトコヨノクニであった。 『 釈日本紀 ( しゃくにほんぎ )』の述義に引用した三つの書、『 丹後国風土記 ( たんごのくにふどき )』には蓬山とあり、また海中博大之島とあり、『 本朝神仙伝 ( ほんちょうしんせんでん )』には蓬莱とあり、ただ『 天書 ( てんしょ )』の第八というものに、海竜宮とあるばかりであった。 蓬莱が竜宮以上の外来語なることは疑いを 容 ( い )れぬが、古訓のトコヨノクニにも文化の香があって、なお最初からの民間の通語とは考えられぬのである。 ところが『万葉集』巻九の有名な 長歌 ( ちょうか )を見ると、是にも 反歌 ( はんか )に「とこ 世 ( よ )べに住むべきものを云々」の一首があり、また是と前後して生まれたかと思う風土記の物語の中にも「 子 ( こ )らに恋ひ 朝戸 ( あさど )を開き 我 ( わ )が 居 ( お )ればとこ世の浜の 浪 ( なみ )の音きこゆ」という、あの感動すべき歌が残っている。 少なくとも当時の教養ある士女の間に、説話がこういう名をもって伝承せられていたことは確かである。 そうかと思うと他の一方に、万葉長歌の叙述として「わたつみの神の宮」または「わたつみの神のをとめ」という言葉が用いられ、是は 何人 ( なんびと )もただちに思い起すであろうごとく、紀記両書の [#「紀記両書の」はママ]神代巻に、いわゆる 山幸海幸 ( やまさちうみさち )の物語として、久しく語り継がれてきた海の国の名であった。 それを耳にすれば 合点 ( がてん )せぬ者は無かったかもしれぬが、歌や文章以外の交通には、何かもう少し覚えやすく、口でしばしば言いやすい言葉が、一度は出来ていてやがて消え忘れられたのではなかったろうか。 どうして竜宮という言葉がこのように 弘 ( ひろ )く行き渡ったものか。 是は 見掛 ( みか )けによらぬ重要な問題であって、記録にまったく 省 ( かえり )みられなかった常民の精神史が、この方面からも少しずつ、 判 ( わか )ってくるような気がする。 自分などの経験はまだ至って浅いけれども、なお南島研究の今後に向かって、大きな期待を 繋 ( つな )ぐべき理由だけは見つけている。 それをこの一文において、出来るだけ簡単に説いておきたいのである。 宝海峡以南の島々においては、我々のいわゆる竜宮を、一般にニルヤ、またはそれと近い語をもって呼んでいた。 例えば喜界島ではネインヤ、文字では根屋とも書き、それは竜宮のことだと、知っている者も少しはあった。 沖永良部島では、ニラの島というのがそれであり、ニラの神またはニラの大主という名も昔話に出てくる。 奄美大島でも竜宮と訳して話す人もあるが、普通には根屋、もしくはネリヤの名をもって同じ昔話を説いている。 徳之島 ( とくのしま )・ 与論 ( よろん )その他の実例はまだ採録せられず、沖縄本島でも昔話としてこの語を用いたものはまだ現われぬが、そのかわりには後者には五百年来の神歌の記録がある。 おもろ・おもりは歌謡であり、 善 ( よ )く知る者同志の感情の共鳴であって、是からニルヤの解説を導くことは 難 ( かた )いけれども、少なくとも或る時代に、この名が信仰界の重要な題目であったことは察せられるのみならず、是と関係のある 幾何 ( いくばく )かの事実が、そのために記憶せられ、また伝説として言い継がれてもいた。 そういう中には説話との 境目 ( さかいめ )が明らかでなく、さながら真実として主張せられるものが多いので、そのためにかえって将来の比較研究には十分に利用し得られるのである。 一つの場合を 挙 ( あ )げるならば、 袋中上人 ( たいちゅうしょうにん )の『 琉球神道記 ( りゅうきゅうしんとうき )』に、姿を隠して 後 ( のち )三十二年目に、海から戻ってきた若い妻の話を載せている。 あまりに若く見えるので、その夫までが初めは信じなかったが、自分はただ二、三日、野原で遊んでいたばかり、年を取るわけがないと言って、色々と 閨中 ( けいちゅう )のみそかごとまでを語り出したので、もう疑うことができなくなったとある。 よほど有名な古い話だったと見えて、 那覇 ( なは )の港に接した 若狭町 ( わかさまち )の、若狭殿というのがその家であった。 袋中みずからもその六代目の子孫を訪ねてみたということを記しているが、それがまたすでに三百五十年の昔である。 そうしてニルヤの消息は、この伝説の中にはもう残っていない。 ところが同じ書には今一つ、 失 ( う )せて七年後に 還 ( かえ )って来たという、棚晴船頭(タナハルシンドウ)の妻の話を掲げ、是は本人がなお生存し、自分も現実に 逢 ( あ )って見たが、年は六十ばかりだったと 誌 ( しる )している。 還って来た時には 綾錦 ( あやにしき )の衣を着て、その上を海の 藻 ( も )が 覆 ( おお )うていた。 脱がせて常の 麻衣 ( あさごろも )に着かえさせると、たちまちにして前の 衣裳 ( いしょう )が見えなくなったとある。 同じ話はまた『遺老説伝』の中にもあるが是は別伝であって、明らかに袋中の『神道記』に 依 ( よ )ったものではない。 曰 ( いわ )く「 棚原 ( たなばる )の祝女 稲福婆 ( いなふくばば )、失せて三年の後に海に 漂 ( ただよ )ひ帰る。 頭 禿 ( は )げ髪無く、 貝螺 ( ばいら )体に附き 其 ( その )気 未 ( いま )だ 絶 ( た )えず、前年たまたま海底に遊び竜宮に進み、食を 賜 ( たま )はるに塩螺類を 以 ( もっ )てすと、言ひ 畢 ( おわ )つて 吐 ( は )くもの色 黄 ( き )なり。 是に於て人始めて 儀来婆 ( ぎらいばば )と称す。 子孫竜宮の事を問へども婆 諱 ( い )みて話さず」とある。 この儀来婆の儀来はギライカナイ、すなわち『おもろ 草紙 ( そうし )』のニライカナイの 転訛 ( てんか )であった。 それが日本人の 謂 ( い )う竜宮のことだということは、『遺老説伝』の筆者は 勿論 ( もちろん )、それより百数十年前の袋中上人にもわかっていたのだが、その知識はついに民間には普及しなかったのである。 南の島々の語音は 転訛 ( てんか )の歩みが、こちらよりもさらに速かったように思われる。 「おもろ」は幸いにして古い形を固守していてくれたが、その中にさえも 稀 ( まれ )にはミルヤカナヤがある。 離島の中でも、久米島の神歌にはヂルヤカナヤ、もしくはヂロヤカナヤがあり、 伊平屋島 ( いへやじま )にはナルクミテルクミがあり、奄美大島の春祭に迎え送らるるナルコ神テルコ神なども、まだ確証はないが、同じ系統の語かと想像せられる。 「儀来河内」というような無意味な漢字に接したのは新らしいだろうが、袋中の『神道記』にもその 端緒 ( たんしょ )は見え、それがまた『 椿説弓張月 ( ちんせつゆみはりづき )』を透して、 夙 ( はや )く私たちの間にも知られていた。 神歌が古来の神がかりの方式を 遵奉 ( じゅんぽう )して、厳格なる 対句 ( ついく ) 駢頭 ( へいとう )の表現を守っていなかったら、今頃は或いはニルヤと儀来とは、全く別の世界というような解説が生まれていたかもしれない。 これほどにも近世以来のニルヤの観念は激変し、もしくは 衰頽 ( すいたい )していたのであった。 是を少なくとも公私二面、ほぼ同一の信仰に 活 ( い )きていた時代の姿にまで復原して見ないかぎりは広い比較はできない。 それにはやはり遠い小さい島々の記録以外の資料に対して、今まで以上の注意を払う必要が有るわけである。 言語の研究はたしかに一つの手がかりであるけれども、今日はすでに心の裏づけが 稀薄 ( きはく )になっていて、是ばかりではどんなちがった仮定説でも成り立ち得る。 たとえばニライカナイという言葉と、ニルヤカナヤという言葉とは、二つともかなり数多く「おもろ」の中に現われて、どちらが前の形かということを決するには骨が折れる。 だいたいに沖縄本島を中心にして、北にはニルヤが多く、南にはニラヤが普及しているかと思われ、後者は形容詞 風 ( ふう )に、他の語と組み合わせて使われている。 それを見定めて一つの場所の名にしたのがニルヤであり、すなわち新たに生まれたものと言い得るようであるが、この南の方の資料は、実地に用いられぬ言葉だけに、捜していても中々集まってこない。 遠く離れた太平洋上の島々にまで、もしも比較を 推 ( お )し進めて行こうとすれば、やはり 手近 ( てぢか )の数多い事実に拠って、かつてそのニルヤが 如何 ( いか )なる処だと、考えられていたかを 確 ( たしか )めてかかるほかはない。 これが私たちの、昔話と、それと 繋 ( つな )がりの多い土地ごとの言い伝えとを、今後の南島研究の出発点として、勧説してみたいと思う理由である。 問題の中心はニルヤの起源、どうしてそういう不思議の国が、海の 彼方 ( かなた )にあるものと考え始めたかという点であろうが、それを竜宮と呼びかえて怪しまなかった北隣の島々でも、なお若干の思い当るふしを、持ち伝えてはいなかったかどうか。 是を明らかにしておくことは双方の利益である。 最初に私などの考えずに居られぬことは、民間説話の島々の一致には、時と様式とを 異 ( こと )にした幾つもの原因が有り得る。 それを 荒 ( あら )まし分類してみたうえでないと、是に 由 ( よ )って種族の親近を説くことは危ない。 一つの例を挙げるならば 猿 ( さる )の 生肝 ( いきぎも )、もしくは 海月 ( くらげ )に骨のないわけなどと我々が呼んでいる昔話、是がまたニルヤの出来事として、少なくとも大島・ 喜界 ( きかい )の二島には行われ、それ以南の島々にも、かつて有ったらしい形跡は存する。 根屋 ( ねや )の一人娘の大病に、猿の生肝がよく 利 ( き )くとわかって、猿を 騙 ( だま )してつれて 来 ( こ )ようとして失敗する話で、他の多くの竜宮入り話と比べて、よほど 型変 ( かたがわ )りでありまた新らしい。 『 今昔物語 ( こんじゃくものがたり )』や『 沙石集 ( しゃせきしゅう )』に、半分以上も是と同じ話があるので、そそっかしい者には古い話の保存とも見えるが、彼には仙郷が無くまた使者の失敗と 懲罰 ( ちょうばつ )ということが無く、多分は仏典の中から採択した説話であったのを、後に竜宮入りと結びつけて、一つの新らしい笑話を作り上げたものと思われ、この程度の改作の技能は、 素人 ( しろうと )でも持っていたらしい例は多い。 ことにいわゆる 一尋鰐 ( ひとひろわに )の物語の、古い印象に養われた人々ならば、猿が亀の背に乗って、 得々 ( とくとく )として海の都に行く 絵様 ( えざま )に、どれくらい興じ笑ったかしれぬのである。 ところが誰でも知っているごとく、沖縄諸島には猿という 獣 ( けもの )はいない。 したがって是を単なる昔話の役者として受け入れる以外に、みずからこのような改作をする力も無く、またその資材も持っていなかったろうと思う。 いつ如何なる機会に輸入したかは言えないが、ちょうどニルヤに往来したという色々の昔話が、発達普及の頂点に達した際だけに、この種の笑話化は案外な効果を収めたのではないかと思う。 猿を 欺 ( あざむ )いて海底につれ込もうとした使者の役は、亀という例が最も多く、それが新旧二通りの説話の 交叉点 ( こうさてん )にもなったかとも思われるのだが、南の島々ではその役をカマフタすなわち 海月 ( くらげ )とし、或いはまた猿の自然の敵といわれる犬を使に 遣 ( や )ったという話さえある。 是などもおそらくは島の外で、すでに出来上っていた一つの説話を、新たに移し入れた 証拠 ( しょうこ )であった。 こういうものまでを引きくるめて、ニルヤの本質を考えてみる資料とすることはできぬと思う。 我々のいわゆる竜宮入りの話の中で、人を笑わせるために新たに結構せられたと思われるものは、猿の生肝ただ一つであるが、その他の幾つかの話しかたとても、よく見るとやはり動機の差、したがってまた出来た年代の前後があり、最初からこう色々の種類が、並び存していたのではなかった。 発端と結末との二つの点から比べ合わせて見ればそれがほぼ 判 ( わか )る。 たとえば魚の命を助けて、その御礼に 好 ( よ )い処へ招待せられ、または無類の財宝をもらってくるという動物報恩型、是などは世界的な分布をもち、また古代からよく知られてもいるが、是と極東のニルヤ話とが結びついたのは、必ずしも非常に古いとは言えない。 浦島太郎が子供のなぶる亀を買い取って、放してやった故にその御礼に、海底の宮殿に連れて行かれたということは、少なくとも初期の文献には全然見えない。 そうして一方沖縄の島および 宮古島 ( みやこじま )などに伝わっていた同系の 口碑 ( こうひ )には、単に海辺に出て非常に長い髪の毛を見つけ、その不思議に感動していると、美しい女性が現われて、彼を海の向うの仙郷に誘って行ったということになっており、ただその中の一つだけが、 髢 ( かもじ )を拾って返してやった御礼のように、言い伝えているのである。 『書紀』の海神宮の物語においても、一書にただ一つだけ、 羂 ( わな )にかかっていた 川鴈 ( かわがん )を助けたことが、むしろやや 唐突 ( とうとつ )に語り添えられてあるのを見ると、そういう話しかたも試みられていたことは 判 ( わか )るが、もとは二人の男女の相喜ぶというだけでも、それが 蓬莱 ( ほうらい )へのパスポートとして、十分な時代があったということが推測せられるのである。 人が何万何十万とある中に、そのたった一人が選ばれて、そういう幸福の国へ遊びに行くことができた理由は、説明を求められるのが自然である。 その説明には二つの方向があった。 一つは当人にそれだけのねうちがあったこと、無慾無邪気の善人が選に当り、または親孝行の徳によって、海に迎えられたという話も南の島にあった。 今一つは何らかの功労によるもの、 鯛 ( たい )や海亀に姿をかえて、たまたま岸近く遊びに出ていた竜宮の 乙姫 ( おとひめ )が、凡俗のために苦しめられているのを救って、豊かに賞せられた話は色々とあり、是にも島ごとの発達は著しいが、だいたいにこの方は新らしいものが多いかと思う。 ところがその中でただ一つ、よそではあまり類例を見ないものに、日本と南方の諸島において、非常に 弘 ( ひろ )く多く且つ美しく変化して分布している、 花売竜神 ( はなうりりゅうじん )などと呼ばれる話の型があって、是だけはどうしてこのように興味がもたれ、また是ほどまで複雑に発達したかが二十年来の私たちの宿題であった。 或いは終局にこの一つの特徴から、竜宮すなわちニルヤの起源が明らかになり、同時にまた遠い洋上の幾つかの島々との跡なき水の路が発掘し得られるのではないか。 そういう夢想をさえ我々は抱いているのである。 それでやや具体的に、この型の昔話の輪廓を叙述すると、花売とはいうけれども 門松 ( かどまつ ) 年木 ( としぎ )、または尋常の 薪 ( まき )や 枯枝 ( かれえだ )もあり、或いはぬれた 松明 ( たいまつ )とか、根無し 蔓 ( つる )という植物とか 謂 ( い )っている例も 喜界島 ( きかいじま )にはある。 昔々一人の貧しい愚直な男が、そういう植物を売りに出たが 沢山 ( たくさん )に売れ残り、 是 ( これ )を竜宮の神様にさしあげますと言って、海に投げ込んで 還 ( かえ )ってこようとすると、たちまち竜宮から使が出て、御礼を言いたいからすぐに来てくれと、連れて行かれて大へんな 款待 ( かんたい )を受ける。 そうして世にも珍らしいみやげ物をもらって、すぐに万福長者となってしまうので、是にも浦島同様の時の経過の早さを説くものは有るが、その速力のちがいは軽微であって、格別主人公の迷惑にはならない。 それよりも注意を引くことは、海に投げ入れた植物は売れ残りで、なかには 大晦日 ( おおみそか )の 門飾 ( かどかざ )りもすんだ頃になって、松や 裏白 ( うらじろ )などを山から背負い 下 ( おろ )して、 何処 ( どこ )でも買ってくれる家が無かったという類の 滑稽談 ( こっけいだん )もあり、わざわざ海の神に捧げようとして、運んできたという例は一つも無いにかかわらず、きまって迎えの使者の 口上 ( こうじょう )の中には、ニルヤでは今ちょうど正月の松が無くて、もしくは花なり薪なりが手に入らぬので、 頻 ( しき )りに求めてござるところだった。 それでこの上もない 御悦 ( およろこ )びで、 是非 ( ぜひ )とも案内をしてこいという御使に来ました。 どうかしばらくの間目をつぶっていてくださいなどと、 目無 ( まな )しかたまや亀の背という手続きもなく、いとも無造作に海中の異郷に連れて行くのが普通である。 或いは昔話の興味を高めんがために、次第に附け加えた趣向だったのかもしれぬが、もう眼をあけてもよいと言われてあたりを見廻すと、そこには立派な御屋敷があり、門を入った取りつきの外庭には、さっきほうり込んだ薪なり門松なりが、ずらりときれいに積み並べてあったというのが多い。 話の細部は多くこういう 風 ( ふう )に進化して、どんなのが旧い形ということは勿論きめられないが、少なくとも日本本土の北の端から、南は 奄美 ( あまみ )群島の二、三の村にかけて、こうした俗眼には何の価値もない植物類が、無限に水の都では珍重せられていたという話のみは、借りものでもなくまた 後々 ( のちのち )の附け加えでもなく、 夙 ( つと )にこの方面の島人たちの観念に、根ざしていたものかと思われる。 それが如何なる原因からということは、残念ながら今はまだ考え出せないが、ともかくも将来の弘い比較のためにこういう事実だけは 牢記 ( ろうき )する必要がある。 何か御互いの全く知らぬ歴史が、この 蔭 ( かげ )に潜んでいるにちがいないからである。 海に花または正月の飾り松などを、投げ入れたという形の話しかたは、 絵様 ( えざま )としては美しいだけに、或いはやや 後 ( のち )になっての改良かとも考えられる。 南の島では 黍殻 ( きびがら )を 束 ( つか )ねてこしらえた 松明 ( たいまつ )を、根屋の神にさしあげますと海にほうりこむと、ちょうど 焚 ( た )き 物 ( もの )が不足で困っていたところだったと非常に 悦 ( よろこ )ばれたという話もあるが、是には如何に貧しい者でも野山に入って、自由に持ってこられる 柴 ( しば )や 枯枝 ( かれえだ )が、水の 彼方 ( かなた )の国だけでそれほどにも貴重であったというところに、最初の重点がおかれていたのではなかったろうか。 誇張は昔話の興味の一つであるが、それにしても少しく 報酬 ( ほうしゅう )というものが功労に対して大き過ぎる。 何か後の人の忘れてしまった教訓が、この間にあったようにも想像せられる。 民族学がもしも多くの生活群の比較の上に立つ学問であるならば、単なる保存せられたものの尊重という以上に、出来る限りそれが今ある形にまで到達した道程または順序を尋ね究むべきは当然であろう。 そうしてそれの許される文化段階は、広い太平洋の上でもそう多くはない。 たまたまその境地に置かれた是からの南島研究者たちは、もっと努力しなければならぬということを、じつはこの論文では言ってみようとしているのである。 世界の民間説話の最も有りふれたモチーフ、日本で 二人椋助 ( ににんむくすけ )とか 上 ( うえ )の 爺 ( じい ) 下 ( した )の 爺 ( じい )とか 謂 ( い )っているものは、ここでも 夙 ( はや )くから富兄貧弟の形をもって通用したものが多かった。 そうしてまた九州の島や半島にも、是が海の神に木をまいらせたという話と、結びついた例が幾つかある。 兄が無慈悲で少しも助けてくれないので、山に入って薪を 伐 ( き )り出し、それも売れ残って海に投げこんで 還 ( かえ )ろうとすると、たちまち竜宮へ迎えられて 大相 ( たいそう )な宝物を頂戴する。 それを 羨 ( うらや )む兄が借りてきて利用しようとするが、ことごとく失敗に終るという結末は 花咲爺 ( はなさかじじい )などと共通であった。 今まで心づかずにいたけれども、あの「神代巻」の 海幸山幸 ( うみさちやまさち )の物語なども、やはりこの系統の一つの 挿話 ( そうわ )の、あまりにも有名になったものということができそうである。 もしそうでないならば、あれまで 際立 ( きわだ )った兄弟幸福の差を、描き出すには及ばなかったはずである。 山本有三君の書いたものなどを読むと、他にも同種の話が 何処 ( どこ )かにあったかと思われるが、自分はまだ確かめてみたことがない。 たった一つ喜界島の昔話集に採集せられたものは、是は兄弟でなくて二人の 漁師 ( りょうし )、一人が友だちの 釣縄 ( つりなわ )を借りて流してしまう。 替 ( かわ )りの品を作って返しても、相手は怒って受け取らず、是非とも元の物をと責めはたるので、 已 ( や )むなく舟に乗って同じ場所に来て水中に 潜 ( くぐ )り入ると、いつの間にか根の島に来てしまった。 浜に上って当てもなしに 路 ( みち )をあるいて行くと、或る家の庭の 薄 ( すすき )の 垣 ( かき )に、なくした釣縄が洗って 乾 ( ほ )してある。 早速その家をおとずれてわけをいうと、根屋の神が出てきて、おまえの物ならば返してやるが、まず一とき休んで行けと言って家に呼び上げて色々と 御馳走 ( ごちそう )をしてくれる。 美しい一人娘の姿はここに見えないが、外を見ると赤い白い色々の鳥が高く飛び上って行く。 あれは人間に釣られて行く我らの魚だというような、絵になる一節がこの間に 挿 ( はさ )まっている。 そうした結末はやはり一つの 口伝 ( くでん )「 卯 ( う )の日 子 ( ね )の日は 日半 ( ひなか )どれ」という、天気 占 ( うらな )いのことわざを覚えて 還 ( かえ )り、それを知らずにいた 意地悪 ( いじわる )の友だちは、舟を 覆 ( くつが )えして死ぬということになっている。 是までの変化を見ることは予期の外ながら、ともかくも是を全然別系統の伝承と見ることはできない。 以上幾つかの例でも 判 ( わか )るように、人が海底の異郷に入って行く発端には、有心無心の色々の動機があったけれども、ともかくもそこを訪れるということは特権であり、必ず非凡の幸福をもたらさずには終らなかった、ということがこの説話の、最初からの要件であったように私には考えられる。 そうして人間の想像力が有限であったためか、その結果の幸福というものにも、昔から一定の型が有って、永い間にもさほど種類をふやしてはいない。 是がまた一つの東方の特徴を、見つけ出す手がかりになるのではないかと思う。 日本のいわゆる竜宮入り話に、ほぼ例外なく附随する一 挿話 ( そうわ )がまず注意せられる。 迎えにきた使者は人であれ、亀・ 海月 ( くらげ )であれ、きまってその途中で訪問者の利益になることを教えてくれる。 竜宮に行ったら何か欲しいものはないか。 何でも 遣 ( や )るから所望せよと言われるにちがいない。 その時には他の品に目をかけず、必ず何々というものを下されと言えと教えてその名を記憶させる。 つまりは一種の内通であって、猿の 生肝話 ( いきぎもばなし )の 告 ( つ )げ 口 ( ぐち )などともこの点だけは似ている。 よその民族にも類例は有るか知らぬが、是を話の骨子とし、好奇心の集注点としたものは、私はまだ外国の話では気付いていない。 或いは主人公の無慾無邪気の反映とも、幸運の神秘とも見られようが、こうして教えられる引出物の名称が、十分に奇抜なのである。 是は竜宮でも二つと無い大切なものなのだが、望みとあれば取らせずばなるまい。 気を付けて持って行くようになどと恩に着せまたは 渋々 ( しぶしぶ )と、竜宮の主がくれたというものの中には、珍らしい名の宝物宝器も無論あるが、それよりもずっと多いのは小犬・黒猫・石亀の類、この方は九州一帯に分布する話の中にも出てくるのが普通で、それよりも東へ進むと越後から奥羽の 果 ( はて )まで、見にくい顔で 鼻汁 ( はなじる )を 垂 ( た )らした小さな子供を 貰 ( もら )ってくるというのが多く、それにはどの土地でも皆おかしな名がついていて、しかも家々にとっては大へんな福の神であった。 同じ話は西国の方でも、 肥後 ( ひご )とか 壱岐 ( いき )の島とかに、至って奇抜な同じ例がまだ伝わっていて、ほぼ全国の分布と推定することができ、亀や小犬の類も多くは人語しているから、本来は一つの話から分岐したものと考えられぬことはない。 或いは花を海に投げ入れて大いに 悦 ( よろこ )ばれた男が、迎えの亀のすすめのままに、根屋の神さまのたった一人の娘を、所望したという話さえ喜界島にはあった。 こんな大胆且つ法外な望みでもやっぱり 容 ( い )れられて、その女性を 伴 ( とも )のうて故郷に帰り住み、それから後の生活は、我々の 謂 ( い )う竜宮女房の説話と同じである。 竜宮女房の普通の形は、今日の 嫁入婚 ( よめいりこん )に近く、妻の 親里 ( おやざと )に行き 通 ( かよ )うということはないのだが、この花売竜宮入りだけは 婿入 ( むこいり )に始まっている。 是は説話を運ぶ人々の婚姻慣習の変化に伴のうて、追々と語りかえられる部分だったのかもしれない。 妻が縁組の後に海の故郷に還って住み、次の年は三人の子が尋ねてきて、父を竜宮に誘うて行ったというような話、または海からきた美女と婚姻して、一人の女の子を 儲 ( もう )けた夫婦が、後にその子だけを家に残して、妻の国へ行ってしまったというような話が、久しい間宮古島では信じられていた。 もとよりこの 掟 ( おきて )をもって 推 ( お )すことはできまいが、母無くして生まるる子というものは有り得ない。 現在はどんなにきたならしい子供として語り伝えられておろうとも、竜宮からもらってきた子供、すなわち我々のいわゆる海神少童は、やはり乙姫信仰の所産であって、この二つはもと互いに交渉していたのが、永い歳月を経てだんだんに、記憶の筋をたぐり難くなったものと思う。 諸君の南島研究が新たなる側面から、もう一度このニルヤと婚姻の問題に、近よって行くことを私は望んでいる。 昔話を援用していると長たらしくなっていけないが、終りにもう一つだけ、やや方面のちがったものを挙げておきたい。 むかし旅人が 路 ( みち )に 行暮 ( ゆきく )れて、とある小社の中に仮宿すると、夜深く馬の 鈴 ( すず )の音が聞えてきて社の前に立ち 留 ( どま )り、こよいは何村に産があります。 さあいつものように運を 定 ( き )めに行ってやりましょうと、さそいにきたという話がある。 是も日本全国どこの隅にも行き渡った、最もよく知られた昔話だが、結末が二つに分かれて、一つは生まれた子の運命を予定し、今一つは 軒並 ( のきなら )びに男女の二児が生まれて、男は貧しく女は富み栄える運をもたせたと、言ったような話になっているほかに、その連れ立って行こうという神の名が、こちらでは 道祖神 ( どうそじん )・山の神または 箒 ( ほうき )の神、或いは 地蔵 ( じぞう )が 観音 ( かんのん )を誘いにくるともあって、土地ごとに少しも 定 ( き )まっていない。 これに反して宝海峡以南に分布している説話には、島々の一致があり形もよく整い、是が原形であることは一見してよくわかり、どうしてこのように弘く遠く、北は奥羽の村里にまで行き渡ったろうかということが、また一つの新たな問題ともなるのである。 後日 詳 ( つまびら )かに立証すべきは勿論だが、自分のいま解しているところは簡明である。 深夜に神々の交語を聴いて、人の世の隠れた前定を知るということは、文化の或る階段に [#「文化の或る階段に」はママ]達した社会ならば、幾らも起り得べき空想であって、その 偶合 ( ぐうごう )は怪しむに足らぬ。 もとは南北二つの島群において、各自別々の趣向をつけて語られていた二つの昔話が、たまたまこの前段の類似に引かれて、混同しまた互いに感化を受けやすかったのである。 年は十七、 虻 ( あぶ )に 手斧 ( ちょうな )といったような死の予言の話なども、日本ではやや東部に偏して行われ、一方にはまた宮古島の旧伝の中に、破片となって保存せられている。 これに対して男女二人の福分の厚薄が、生まれる瞬間から既に定まっていることを知って、親が急いで婚約したという方の話は、話が花やかでまた曲折が多いために、一段と大きな影響を、北の隣人に与えたものと思われる。 かつて『 大和物語 ( やまとものがたり )』の 蘆刈話 ( あしかりばなし )の元の形かと考えてみた、 近江 ( おうみ ) 由良 ( ゆら )の 里 ( さと )の 竈神 ( かまどがみ )の 由来譚 ( ゆらいだん )なども、 袋中 ( たいちゅう )の大徳は是を 事新 ( ことあた )らしく書き伝えたけれども、ちゃんとその前から沖縄の島々にも行われていたものが、もっと写実でありまた原産地の 香 ( か )が濃い。 そうして 寄木親 ( よりきのおや )という珍らしい名をもって宮古島に伝わるのみか、北は奄美の二つの島にも採録せられている。 寄木 ( よりき )は流木の浜に漂着したものといい、親はこちらで言うならば長者のことである。 その親が海に働こうとして 暁 ( あかつき )に浜に出たが、まだ夜が明けぬのでしばらく寄木を枕にして 仮睡 ( うたたね )していると、今ほど 何某 ( なにぼう )の家に子が 産 ( うま )れる。 早く 往 ( い )って運をきめてやりましょうと、その寄木を誘いにこられたのが、ニラの神様だったと沖永良部島では謂い、喜界島の昔話では、竜宮の神様と語られている。 寄木はその神様の誘いに答えて、あいにくと今夜はサンカの者に 股 ( また )を貸しているので、一しょに行きたいが立つことができない。 どうか 独 ( ひと )りで行ってきてくださいという。 それがやがて 還 ( かえ )り 路 ( みち )にまた声をかけて、生まれた 児 ( こ )の未来を 斯 ( こ )うきめて来ましたと告げるのはごく自然に聴える。 本州の類話はその神々仏たちの名を、その場限りにさし 替 ( か )えていながら、なお山中の大木の根を枕にしてというものがあり、また 薩摩 ( さつま )の 甑島 ( こしきじま )などでは、山の中に野宿しているのに、山の神がホダ殿ホダ殿お産があるで早く行こうと誘いにくる。 ホダは 伐 ( き )られた木塊の名だが、或いはこの島では流木のことだったかもしれない。 ともかくもこの大木にもサンカの者すなわち人間の運命を指定するだけの能力があるものと、感じていた時代の作品であることが推定せられる。 もう昔話の 穿鑿 ( せんさく )もよいほどに切り上げたいと思うが、ここで私たちの当面する問題は、このニルヤと人界との交通が、昔話を別にしてどの範囲まで、もとはひろがっていたろうかという点である。 最初に思い浮ぶのはニルヤの大主(ウフシュ)、是は幾つかの神歌にも名を唱え、 礼讃 ( らいさん )せられているばかりでなく、沖縄本島の村々ではつい近頃まで、八月の祭の月に出現して、長者の大主と対談することが、定例の村狂言であったそうだが、是はわざおぎであり芸能であるから、かつてその通りの事が現実にあったという証拠にはまだ足りない。 奄美大島のナルコ神テルコ神は、やや不正確な記録を存するのみで、見たという人がいなくなって年久しいが、もとは二月から四月までの間、男子の参加を排除して、女ばかりで 款待 ( かんたい )したというから演技ではない。 後年この祭式が 衰頽 ( すいたい )して、 奇怪 ( きっかい )な姿をした色々の神霊が出現したことが、『南島雑話』のような外来人の書いたものにあるのを見ると、或る者は意識してこれに 扮 ( ふん )し、他の多くの者は是を真実と信じたという、いわば中間の段階が、久しく南方の島々にも続いていたことは疑いがない。 この点が日本上代の 綿津見 ( わたつみ )の 宮 ( みや )の言い伝えと、沖縄方面のニルヤカナヤの観念との、二つを一つに見ることのできない、最も顕著なる差別であろうと思うが、こうなってきた原因も、尋ねてみればやがて 判 ( わか )ることで、多分は信仰変革の時期、ことにその方式態様が、双方比べものにならぬほどちがっていたためで、始めから別だったのでないという証拠は、まだ幾つでも挙げ得られる。 『日本紀』という 公 ( おおやけ )の記録が、 編纂 ( へんさん )せられるよりもずっと以前から、こちらでは海陸二つの世界の交通が、ほぼ完全に閉鎖せられていたのに対して、南の方の島々には、そのような大きな断層が起るほどの力は働かず、次第に遠い 幽 ( かす )かな夢語りと化しつつも、古い記憶は中世の終りに近づくまで、なお半分は信じられていた。 いわゆる竜宮入り民話の単なる一致だけならば、これを 摸倣 ( もほう )とも運搬とも解してしまう者があろうが、ともかくも一方には文字の資料があって、他の一方で既に常民の意識の底に沈潜したものを、ここではしっかりと現世の生活に 繋 ( つな )ぎ付けている。 年経 ( としへ )てめぐり 逢 ( あ )う隣人のなつかしさというものは、学問の上でもなお無限の感激を与えずにはいない。 そういう中でも、ことに我々の心を動かすのは、ニルヤという海の 隠 ( かく )れ 里 ( ざと )の消息が、この方面から次々と伝わってくることである。 夢としか思われなかった海の神の美しい 乙女 ( おとめ )、それを母とする霊なる童児、 如意 ( にょい )の 宝珠 ( ほうじゅ )や 知慧 ( ちえ )の言葉というような数々の贈り物なども、ただ 卒然 ( そつぜん )として人間の空想に生まれたものではなくて、何か基づくところの上代の事実、たとえば神聖なる 誤謬 ( ごびゅう )ともいうべきものが、底に横たわっていたことに心付かしめるのも、この比較のお 蔭 ( かげ )ということができる。 是が 果 ( はた )して我々の島群のみに、許された機会であったかどうか。 或いはまた一定の条件の下に、今は隔離せられている二つ以上の遠い島々の間にも、試みられてよいものではないかどうか。 そういう問題に少しでも私は近よってみたい。 島々の記録記憶を見渡すと、最初ニルヤから渡って来たと伝えられる、至って重要なものが幾つもある。 その一つ一つの記述は長くなるからできないが、現在自分のほぼ立証し得るものは、第一には火である。 もちろんこれを史実と見る者はないであろうが、暁ごとに東の地平線を望んでいた島人等が、かしこには 湧 ( わ )きかえる不断の火があり、テダ(太陽)はその中から新たに生まれ出るもののごとく想像し、また次々の経験によって、いよいよそれを確認するに至ったとしても不思議でない。 テダの語原には 紛々 ( ふんぷん )の諸説があるが、私は照るものの義と解して疑わない。 この一語の成立は島の統一以前、三山 割拠 ( かっきょ )よりもさらに前の頃にあったかと思われ、個々の 邑里 ( ゆうり )の 按司 ( あじ )・ 世 ( よ )の 主 ( ぬし )までを、テダとたたえていた例が「おもろ」の中には見出される。 おそらくは是を火の管理者、もしくは火を与うる者とする思想が 元 ( もと )であり、その権能の起点もまたニルヤであった。 したがって国王をただ一つの大テダと見るようになれば、解釈は当然に改まらざるを得なかったのである。 第二に根源をニルヤに帰するものに稲の種がある。 『 中山世鑑 ( ちゅうざんせかん )』などはいとも簡単に、「阿摩美久天上へ昇り五穀の種子を 乞 ( こ )ひ 降 ( くだ )り」と書き流しているが、是は少なくとも古伝を改めたものであって、由来記その他の後年の記録までが、一致して是と異なる伝えを載せている。 注意すべき一つの特徴は、最初白色の 壺 ( つぼ )に入れられて、 久高 ( くだか )の浜に漂着した五つの種子の中には、稲の種は無かったという点である。 それでアマミキョは天に 祷 ( いの )って、 鷲 ( わし )をニライカナイに遣わして求めさせたら、三百日目に三つの穂を 咬 ( くわ )えて 還 ( かえ )って来た云々と『 御規式之次第 ( おぎしきのしだい )』にはあり、奄美大島の方では 鶴 ( つる )がその稲穂を持って来たことになっていて、伊勢の神宮の周辺にあったという言い伝えともやや接近している。 一方には沖永良部島の 島建国建 ( しまだてくにだて )の物語というもの、是は口碑であって岩倉君によって始めて文字に録せられたが、やはり島の元祖が天の神に教えられて、ニラが島に行って稲種を求めたということになっている。 その時ニラの大主は 是 ( これ )にこたえて、まだ 御初祭 ( おはつまつり )をしていないから 物種 ( ものだね )は出すことができぬと言ったというのは、すこぶる 我邦 ( わがくに )の 新嘗 ( にいなめ )の信仰とよく似ている。 島コーダ国コーダ(島建国建)はそれにも構わず、折角きたのだからただ戻ることはならじと、そっと稲の穂を 摘 ( つ )み切って 袂 ( たもと )に隠し、 遁 ( に )げて帰ろうとしたが、ニラの神に追いかけられて打ち倒されて、ニシントー原アメノカタ原という 処 ( ところ )に、目こぼれ鼻こぼれして死んでいた。 天の神は心配して使を 遣 ( や )り、薬を飲ませて生き返らせ、稲の穂は再びニラの島に持参して元の穂に 接 ( つ )ぎ、初穂の祭がすんで後に、改めて同じ種を 乞 ( こ )い受けて 来 ( こ )させた。 それがこの島に今もあるアサナツヌユニグンダニ(浅夏の稲子種?)という稲の始めだという。 この話の半分似た口碑は、日本の全土に分布し、関西は 専 ( もっぱ )ら麦の種だが、奥羽は一般に稲を 天竺 ( てんじく )または 唐土 ( とうど )から、そっと持ってきた話として伝わっている。 もちろん穀物伝来の経路を暗示するものとは言えないが、古人の考えかたの大体に同じ方向へ傾いていた点に、自分などは特に深い興味を 惹 ( ひ )かれるのである。 以上の二つよりも更に大切なもの、双方の言葉でイノチと呼ばるるものが、かつてはやはりニルヤからもたらされると信じられていたらしい形跡はあるのだが、是を正面から立証することはまだ私にはできない。 昔話の部面では前にも挙げたように、ニラの神さまが 寄木 ( よりき )の神を誘うて、生まれ 児 ( ご )の運と寿命を 定 ( き )めにくるという語りもあれば、或いはまた 海幸山幸 ( うみさちやまさち )と浦島とを 繋 ( つな )ぎ合わせたような沖永良部島の一話にも、人間に命をくれるのも 位 ( くらい )を授けるのも、ともにニラの神様だというようなことを述べている。 かの仙郷で僅か三日と思っていたのが、この世に 還 ( かえ )ってみるとすでに三百年、或いは三年でありまたは三月であったというなども、すべて生命がニルヤでは豊富であり、惜しげもなく用い費やすこと、ちょうど米絹その他の財宝も同じであったという 風 ( ふう )に、類推した空想かと考えられる。 数百年来の沖縄の神歌に、数限りもなく唱えられたニルヤセヂ・カナヤセヂのセヂというもの、是なども主として人間を幸福にする富貴長寿の類であったらしく、それを 祭祀 ( さいし )と祈願との力によって、国王世の主に進献せしめようとするのが、すべての公の行事の最初からの目的であった。 海と天との対立が認められて、いわゆるオボツカクラのセヂというものも、 稀 ( まれ )ならず歌詞の中には入ってきているが、この方は自分の見た限り、ミオヤセすなわち「まゐらせよ」と要望の形を取ったものが少ないように思う。 二つの霊界の対立が最初からでなく、時の順位に間隔があったことは、この比較によってまず明らかになる。 時あって是よりニライを 訪 ( おとず )れたという語が [#「訪れたという語が」はママ]、後世にもくり返されていたごとく、セヂがニルヤの使者によって、人界に 齎 ( もた )らされるという信仰は、なお久しい間続いていた。 すなわち海陸の交通はわが 葦原 ( あしはら )の 中 ( なか )つ 国 ( くに )のように、夙く上代において断絶してはしまわなかったのである。 いささか変った方面から、この推定は確かめてゆく望みがある。 海の 彼方 ( あなた )の隠れ里を故郷として、この人間の世界へ送りつけられたというものの中で、たった一つの迷惑 至極 ( しごく )なものは 鼠 ( ねずみ )であった。 鼠に関しては自分も少し書いてみる用意があり、 伊波普猷 ( いはふゆう )君もすでに論じておられるが、ともかくもこの小さな 悪戯者 ( いたずらもの )の 出自 ( しゅつじ )はニルヤであると、昔の島人らが信じていた証拠は幾つか有る。 久米島 ( くめじま ) 仲里間切 ( なかざとまぎり )二百数十年前の記録に、稲の祭に伴なう村々の 願文 ( がんもん )を載せてあるが、その中には一つならず、鼠を小舟に載せてニルヤの磯に送り返す 序 ( ついで )をもって、特にその 氏素性 ( うじすじょう )を説き立てたものがある。 その要文をここに略記すれば、日の神の 御子 ( みこ )の一人にオトヂキョというのがあった。 はつ子ともよばい子ともいい、またふれ子・あだな子・なしゃぶり子などと、色々の悪名を付けられているが、それが鼠を生みまたはみずから鼠に変身したこともあって、村によって一様ではないが、いずれにしても相手の 身元 ( みもと )を詳しく知っているということが、法術または祭儀の効果を確実にする古来の手段であることを知って、それを適用していることは同じであり、したがってそういう言い伝えの、ここに新たに始まったものでないことだけはわかる。 『 仲里旧記 ( なかざときゅうき )』がただ一つ、偶然にその実例を伝えていたのは大きなしあわせだが、是はただ一つの手がかりに過ぎない。 この珍らかな文献の価値を発揮するためには、なお弘く島々の伝承の中から、幾つもの 旁証 ( ぼうしょう )を見つけ出して、以前は海のあなたのニルヤカナヤとの通信往来が、それほどにも 頻繁 ( ひんぱん )にあるものと信じられていたことを明らかにする必要があろう。 今日の社会状勢は、はたしてそういう希望を可能にするかどうか。 新たに進出せんとする我々の一国民俗学にとっても、是は 寔 ( まこと )に容易ならぬ試練であった。 記録としては久米島にただ一つ、残り伝わっているオトヂキョの神話が、日本の神代史の 蛭子 ( ひるこ )の物語と 似通 ( にかよ )う 節 ( ふし )があることは、伊波君もすでに注意せられている。 南の島々の父神は 日輪 ( にちりん )であるが、その数ある 所生 ( しょせい )の中に、生まれそこないのふさわぬ子があって、 災 ( わざわ )いを人の世に及ぼす故に、小舟に載せて、これを大海に流すという点が、わが神代史の蛭子説話と、偶然の一致ではないように思われる。 その仮定を確かめ得るものは、今後の多くのよその島々との比較であろうが、日本の内部においても、蛭子の旧伝には中世の著しい解釈の発展があって、それは必ずしも首都の神道の、関与しなかったもののように思われる。 誰が最初に言い出したとも知れず、蛭子は後に 恵比寿神 ( えびすがみ )となり、今では田穀の神とさえ 崇 ( あが )められているが、その前は 商賈 ( しょうか )交易の保護者、もう一つ前には漁民の 祭祀 ( さいし )の 当体 ( とうたい )であり、その中間にはたぶん航路神としての信仰を経過している。 古典の註釈家には支持せられなかったようだが、ともかくもかなり縁遠いこの二つの神が、知らぬうちに民間ではちゃんと結合していた。 海上交通の歴史が四分の三以上、文書史料の外にある国がらとしては、流伝の経路もほぼかの方面にあるものと推測してよいのであろう。 『 安居院神道集 ( あごいしんとうしゅう )』の西宮の由来などは、是が唯一の根源とは見られないが、袋中上人もすでにこれを沖縄に伝えており、しかも本文にかなりの異同がある。 蛭子海に棄てられて竜宮に流れ着き、そこに三年の間養われて身骨まったく整い、 鰐 ( わに )に乗って故国に還ってきた。 その時の 引出物 ( ひきでもの )に、漁猟・廻船・ 出納 ( すいとう )・売買の支配を附与せられ、それにより、市町 商 ( あきな )い 所 ( どころ )に市神として 祀 ( まつ )ることになったというのは、もう久しい以前から普及していた俗説であったかと思われる。 いわゆる 大和船頭 ( やまとせんどう )が南方より、これを本州に運び入れたという 証拠 ( しょうこ )は得られまいが、とにかくに一方は竜宮すなわちニルヤとの交通が、なお続いていることを信ずる島々であった。 オトヂキョと蛭子と、この程度の相似があるとしても怪しむに足りない。 ところが他の一方に、さらに強力な現世の強国との交通が繁くなるにつれて、徐々として信仰の態様は変ってきた。 最もはっきりと表層に 顕 ( あらわ )れているのは統一主義、 按司 ( あじ )のまたの 按司 ( あじ )、テダの中の大テダと呼ばるる者が、天に照るテダと 相煥発 ( あいかんぱつ )するという思想で、あらゆる公の祭祀はことごとく、是を中心に組織せられ経営せられ、それと 相容 ( あいい )れない地方の慣行は、少なくとも説明のしにくいものになった。 第二の特徴としては天地陰陽、いわゆる両極思想の承認であって、是は疑いもなく輸入の王道観の根底を 成 ( な )すものだが、それについて行こうとすると、海の世界の所属がまず不明になる。 しかも年久しく島人の心に 染 ( し )みこんだものを、一朝にさし替え置きかえることができないのは、どこの民族もみな同じことだが、ことに 巫言 ( ふげん )をさながらに信じていた国では、まずこの人たちの経験を改めてゆく必要があって、それを 気永 ( きなが )に企てているうちに、近世史の舞台は幾度となく廻転したのである。 島の歴代の記録を翻えして見ると、我々が天神 地祇 ( ちぎ )の名をもって神々を総称するところを、沖縄の方では天神海神と呼んでいる。 或いはまたオボツカクラの君真物(キンマモン)が天神であるに対して、儀来河内すなわちニライカナイの君真物を海神だというのも、しばしば引用せられる箇条であった。 君真物の君は本来は巫女のこと、真物は正式の代表者という意味であったのを、後には神そのものの名と解したのは変化だが、ともかくも海の信仰は独立してなお伝わっていたのである。 この点が大和と沖縄と南北二つの島群の、かなりはっきりとした歴史の差異だったと言えるのかもしれない。 しかし一方には 恵美須 ( えびす )のような新らしい神の 倶通 ( ぐつう )があり、また一方には中央に気づかれずに、遠い昔のままの海の祭をしている例が、こちらでもまだ確かに見出される。 土地ごとの沿革を念頭におかずに、ただ表面に現われたものを代表として、双方の異同を論ずることの危険は、お互いに十分警戒しなければならぬ。 沖縄神道史の特徴として、何よりも目につくのは 新懸 ( あらがか )り、または新神とも荒神ともいう神の出現である。 是は暦法の確立とともに、 朝家 ( ちょうけ )の祭祀が次第に 公事化 ( くじか )して行く中でも、なお予期せられざる神の来臨が、 稀 ( まれ )ならずあったことを意味し、いわば信仰の最も活気ある部分であったように思われる。 そういう神々は後にはどうなってしまったろうかが一つの問題である。 由来記や旧記の録するところに 依 ( よ )れば、村々島々の 御岳拝所 ( うたきはいしょ )には、それぞれの神の 御名 ( おんな )があって、名の意味は少しでもまだ説明せられていない。 その中にはただ古くからそう伝えているというに 止 ( とど )まるもの、ないしは祭を 掌 ( つかさ )どる神人たちの呼び名を呼ぶというだけのものもあろうが、ともかくも近世の神社台帳のごとく、 強 ( し )いて「神代巻」の一つの神に持って行こうとしたものでないだけに、無統一もまた興味ある史料である。 そういう中でも注意せずにおられぬのは、島の西南部の村または離れの神に、大ヂキュウもしくはウフヂキュウという神名が幾つもあって、それが野鼠を管理すという久米島のオトヂキョまたワカヂキョと、類を同じうする海の神ではなかったかということである。 『おもろ草紙』の中にはこの三つの名は見えぬようだが、国のオトヂヤという言葉はあり、またワカイキョがありワライキョというのもあって、そのワライキョは二、三の地の 岳 ( たけ )の神でもあった。 「笑舅」などという無茶な漢字を、旧記には 宛 ( あ )てているが、是は少しでも 当 ( あ )てにはならない。 ウフヂキュウに大神宮の字を用いたなども、 出 ( で )たら 目 ( め )の甚だしきものである。 袋中大徳 ( たいちゅうたいとく )の『神道記』を見ると、ヲウチキウという海神がある。 長は一丈 許 ( ばかり )、きん大なり。 縄を結んで肩に 掛 ( か )く。 初めに 那婆 ( なは )の町に現ず。 後に 泊 ( とまり )また 城間 ( ぐすくま )、また後には 国上 ( くにがみ )、近年は出ずというから、その記念の地を祭場としていたものと思われる。 馬琴の『椿説弓張月』なども、この記事に 拠 ( よ )った想像画を掲げている。 何ともはやお 座 ( ざ )のさめる殺風景ではあるが、単なる一つの風説でなく、また或る一部の幻覚でもなくて、かねてこの種の奇怪な感動を必要とするような伝統があったものと思われる。 奄美大島の方でもワダガナシと呼ばるる海神が、地を 曳 ( ひ )くほどの偉大なフグリをぶら下げて出現することが、『南島雑話補遺』に 誌 ( しる )されている。 是は毎年の二月四日に迎え祭られるナルコ神とは、また別な島の神だと同書にもあるが、とにかくに海を対象とした初期の信仰には何か陰微なる男女関係の、からみついていた痕跡の一つであり、将来の 汎 ( ひろ )い比較のために、わからぬまでもなお注意してみたいものと思う。 ただし当面の問題として、考えてみたいことは別にあるのである。 久米島のオトヂキョ・ワカヂキョは、単に日の神の御子の一人とあるのみだが、その 眷属 ( けんぞく )という小さな害獣は、数が増し害悪が眼にあまると、誓約を立ててニルヤの沖に送り返される。 そういう場合にはオトヂキョも 罵 ( ののし )り 詛 ( のろ )われたけれども、別に 雨乞 ( あまご )いのためには祈りタカべられてもいたのである。 是と新懸りに出現したという海の神のオホヂキウとは、名の対立があって兄弟の順位を示すもののようにも見える。 ワライキョという神の 素性 ( すじょう )のみはまだ判明せぬが、いずれもその分布が小さな島、もしくは海近くの里にあるのを見ると、キョまたはキョ・キウの語尾は、或いは海から渡ってくる者の通称だったのではなかろうか。 沖縄の古代研究において、最も著名になったアマミキョまたはアマミキュなども、そのキョは「子」ではなく「人」の意であると伊波君も断言せられ、また現在の島言葉でも、アマンチュすなわちアマミ人となっている。 村々の秋の 地芝居 ( じしばい )に、年々くり返して演出せられるニライの 大主 ( おおぬし )なども、本来はあの仙郷の主神であるべきにかかわらず、村によってはそのムングン(文言)として、 わんや神んあらん、 仏 ( ほとけ )んあらん ジレー大主、カネー大ヌシ 云々 と 謂 ( い )って、稲の種子を授けることになっていたと、 島袋 ( しまぶくろ )君の『 山原 ( やんばる )の土俗』には報じている。 すなわち是も久米島のオトヂキョと同じに、ニルヤを出発して人の国を訪れくる者が、やはり人の類の特にすぐれた者であったことを意味するのではなかったか。 神と人の 境目 ( さかいめ )が南の島々の信仰ではよほど特殊であり、それが気をつけて見ると本州の北部にも、 幽 ( かす )かながら痕跡を 留 ( とど )めている。 いわゆるニール人の問題は、この意味において我々の新たに 拓 ( ひら )くべき曠野である。 八重山 ( やえやま )・ 石垣島 ( いしがきじま )のニイルピトゥの来訪という事は、今からもう三十何年か前に、『海南小記』において注意せられてから、何度ともなくすでに世上の 話柄 ( わへい )にはなったが、その根源を尋ねてゆく、路の 栞 ( しおり )はまだ得られなかった。 是は新神の出現ではなくて、毎夏日を 定 ( き )めて二人の異人が、家々をおとずれることになっているのだったが、それを人と呼んで少しも怪しまなかった点だけは、あの大ふぐりのウフヂキュウなどともよく似ている。 沖縄本島の方でも、「おもろ」の中に少なくとも一つ、ニラ人という語は用いられているが、是も多分はニライからの使者であろう。 或いはマヤの神という名が同じ意味に、用いられたらしい例が幾つかあり、ナルクミ・テルクミも大島ではナルコ神テルコ神と呼んでいるから、神は人よりも常に 貴 ( とう )といという今日の考えかたとはちがって、人のすぐれて霊あるものをも、カミと名づけてあがめ 尊 ( とうと )む習わしが昔はあり、それが職分となり世襲となれば、すなわち沖縄諸島において多くの神人を神と呼び、さては奥州で 盲 ( めくら )の巫女をオカミといったり、伊豆の島でヤカミシュという神の奉仕者があったりする結果にもなったので、つまりはただ国々の単語の内容の伸び縮みであった。 いわゆるニルヤカナヤの信仰が、その変化の前に栄え、オボツカクラの天中心思想は、おくれて入ってきてそれを 押除 ( おしの )けるに足らなかったことは、この一点からでも推測し得られるかと思う。 海の来訪者のニイル人またはニラ人は、『おもろ草紙』ではまたミルヤニヤとも 謂 ( い )っていたようである。 ミルヤは次にくるナ行 子音 ( しおん )をいたわるための変声であり、ニヤの人の中のややあがめられる者の称呼であった。 村々の文書では普通には「仁屋」と書き、今日はただ君というほどの意味に 濫用 ( らんよう )せられているというが、本来は 新親 ( にいおや )、親のまだ 年若 ( としわか )なものをさしての敬称だったらしい。 その親という語も古くは限定せられて、ただ一つの群の 長上 ( ちょうじょう )だけにつけられた名であったのが、さらに 大親 ( おおおや )という語が必要になり、それにまたクムイなどを添えて、親雲上のような称呼を普及させた。 始めてこのニヤという名の、ミルヤの使者に附与せられた時代が、相応に早かったことは是だけでもわかる。 そのミルヤニヤがしばしばこの世をおとずれ、 世馴 ( よな )れ神とまで 誉 ( ほ )めたたえられていたのであった。 在来の学者がどうして心づかずにいたかと怪しまれるのは、是とアマミヤ・シネリヤとの関係の、限りもなく遠く久しかったことである。 是がもし『琉球神道記』以下に伝うるごとく、天より 降 ( お )り来たった始祖男女の故郷だとすれば、そことニルヤとの 繋 ( つな )がりはどう付くか。 アマミヤ世の世そうセヂといい、または 甘世 ( あまよ )とさえ説明せられた、初期の島人の信仰生活は、多くの神歌の中に 煩 ( わずら )わしきまでに語り伝えられているのに、たった一つの天降神話を信ぜんとしたばかりに、今はそれがことごとく、まだ解釈し難いものになっている。 もとよりその通りの現実があったというのではなく、ただ古人が一様にそう思っていたと主張するだけであろうが、それすらも私には考えられない。 天を根源とすることは言わば理論であって、道路もなく方角も 定 ( さだ )かならず、まぼろしの 拠 ( よ )りどころというものが無い。 高天原 ( たかまがはら )とても同じことだが、是にはまだ 些少 ( さしょう )の地理的観念がある。 オボツカクラの語源は 確 ( たしか )め難いが、それを「天のこと也」と注した解釈にはまったく基礎がない。 自分の仮説を試みにいうと、日本でも古く経験したように、日の神を拝む信仰は、最も容易に天を 尊 ( とうと )ぶ思想に移り得たのだが、それが沖縄ではやや遅く始まったために、まだ完全なる分離を 遂 ( と )げなかったのである。 朝夕に天体の運行を仰いでいた人々には、いわゆるニルヤ 照 ( て )りがあり [#「ニルヤ照りがあり」はママ]カナヤ 望月 ( もちづき )が、 冉々 ( ぜんぜん )として東の水平を離れて行くのを見て、その行く先になお一つのより 貴 ( とうと )い霊地の有ることを認め、人間の至願のそこに徹しそこに知られることを期したのは、或いは天の神格を認めるよりは前であったろう。 オボツはもとニルヤのオブ、すなわちこの霊域の最も 浄 ( きよ )い奥地と感じたからの名だったかもしれぬ。 もしそうだとすれば、是が新たな神観の移行を導くに便だったことは、海をアマといい、天をアメという二つの日本語の互いに 繋 ( つな )がり通うていた実状からも類推し得られる。 ともかくもアマミヤ世の遠い昔から、アマミは一つの海の国の名であった。 本州では是を南の島の名とし、沖縄ではまたこれを隣の島の名としていたことに不思議はなく、そこに住む者そこから来る者をアマミキョと謂ったのも自然である。 それをあながちに天の御子と解しようとしたばかりに、そのアマミヤの元の意味が不明になってしまった。 新らしい学問の働くべき余地は、こういう部面になお残っているようである。 或いはもう心付いた人が有るかも知れない。 沖縄の史学において、初期の王統を天孫氏と称え出したのは、『 中山世鑑 ( ちゅうざんせかん )』または同じ著者の述作が始めであって、それは島津氏の沖縄入りよりは、また四十何年か後のことであった。 この間には 公 ( おおやけ )の信仰にも若干の変化が起こり、一方には前代日本に関する知識が進み、さらにまた目前の政治上の必要もやや感じられたかと思うが、とにかくに天孫氏二十五代、一万七千八百〇二年の [#「一万七千八百〇二年の」はママ]数字を推算したことは、単なる古伝の祖述を超越した勇断であった。 しかるに『世譜』以下の後代の史書は、これを承継せずにはおられなかったのみならず、是がひとたび外に伝わるや、本邦の学者たちまずそれに共鳴し、ついで清朝の 冊封使 ( さくほうし )ら、争うてこれを認め且つ伝えた故に、羽翼すでに成り、ついに動かすべからざる定説となってしまったのである。 有名な 徐葆光 ( じょほこう )の『 中山伝信録 ( ちゅうざんでんしんろく )』が、ちょうど世に公けにせられた頃に、琉球では 雍正 ( ようせい )九年(一七三一)の朝議というものがあって、是が大きな問題となり、その文書は今も伝わっている。 もしこの伝説のごとしとするならば、何故に王家の 国廟 ( こくびょう )には 舜天王 ( しゅんてんのう )の神位を中尊とし、それに先だつ二十五世の天孫氏を 祀 ( まつ )らぬのか、というのが論点であって、少なからず 当路 ( とうろ )を悩ませたらしいが、結局前年の江戸幕府の問合せに対して、 源為朝 ( みなもとのためとも )の子という舜天王が最初の王と答えてあるから、改めるわけには行くまいというような情実論をもって、決定を次代へ送りこみ、一方天孫氏の称号はそれからも引き続き盛んに用いられていた。 今となっては是も信仰の推移を跡づけるために、むしろ幸いな史料であったということが言える。 アマミキュ・シネリキュが男女二人の名であり、この国いまだ人住まざりし時に、初めて天より 降 ( くだ )って三子を生んだということは、袋中の『神道記』がすでにこれを説き、それは『世鑑』よりは五十年ほども先だっている。 「おもろ」の有名な「昔はじまりや」の一篇は、少なくとも是よりも早いことは確かだが、そのかわりには意味が是だけでは十分に汲み取れない。 ただ 僅 ( わず )かに後にできた若干の散文記事によって、多分は同じ事を言おうとしているのだろうと推測するばかりで、すなわち解釈が後に 斯 ( か )くきまったというに過ぎぬのである。 「おもろ」がいわゆる叙事詩でないことは認めなければならぬ。 聴く人も歌い上げる人々も、ともに熟知している事柄について、深い感激と讃歎とを表現しようとした言葉の 端々 ( はしばし )から、自然に底に意識せられていたものを 窺 ( うかが )おうとすれば、何らの特別の 目途 ( もくと )を抱かない場合でも、世情が改まってくれば解釈は片より、時としては真相に遠くなることも有りうる。 古典の註釈を業とする者の、是は一つの 陥 ( おと )し穴であるが、我々だけは用心しまたそれを防ぐ策を講じなければならぬ。 もとは詩歌のように力を入れる言葉は、しばしば 対句 ( ついく )を使うことが、東方文芸の一つの特色であったが、その中でも「おもろ」は最も顕著である。 何か大事だと思うことは必ず二度ずつ、やや言いかたをかえてくり返さぬと気がすまなかったようで、たとえば日輪のごときただ一つしか無いものでも、これをたたえるには 是非 ( ぜひ )二つの名を並べた。 ニルヤ・カナヤが二つの別天地でないことは、南北多くの実例がこれを証明するにもかかわらず、陰陽二極の学説が流行すると、うっかりと是を天神海神の併立と解し、他の島々ではまた山神海神の二柱として、祭の日をさえ 異 ( こと )にした例もある。 こういうのは明らかに「おもろ」の 常 ( つね )の 習 ( なら )いを忘れ且つまた以前の信仰を持ち伝えていなかった証拠である。 その他オボツに対するカクラ、アマミヤに対するシネリヤも、多分はその異称の一つであったろうに、袋中大徳に話をして聴かせた人は、もうちゃんとアマミキョ・シネリキュを [#「アマミキョ・シネリキュを」はママ]男女二人とし、後にはさらに一方を「阿摩美姑」と字に書いて、いわば天孫降臨説の 素地 ( そじ )を準備していたのである。 しかしこうまでして見たところで、今まで 汎 ( ひろ )く行われていたアマミヤ・アマミキュの概念を覆えすには足りなかったのは、つまりは民間信仰の、底になお絶えず流れていた力だと思う。 東恩納 ( ひがしおんな )氏もすでに注意せられたように、『中山世鑑』以下の沖縄の史書には、 折角 ( せっかく )始めて 天降 ( あまくだ )った男女神が、そのまま島人の元祖とはなってしまわず、改めて天に昇って天帝子を 乞 ( こ )い降し、それから 三筋 ( みすじ )の人種が増殖したように書き載せている。 こんな加筆の必要になったのも、アマミが海であり、そこから渡って来た人がアマミキュであったことが、あの頃なお凡俗の間に常識となって知られていたからであり、一方にはまた昔始めの「おもろ」に「アマミヤスヂヤナスナ」という少しく解し難い文句のあるのも、そういう根源を天に帰したい要望が、一部にはすでに 萌 ( きざ )していたためとも見られる。 しかもその要望はいささか無理であった故に、十分には成功せずに終ったのである。 昔話の第一次の用途が、すぐれた高貴なる氏族の根源の、必ず尋常を絶すべきことを信じていた人々が、 悦 ( よろこ )んでともに聴き、且つ末遠く 取伝 ( とりつた )えようとするにあり、それも単なる夢や空想ではなくて、基礎を年久しい一般の常識と自然観とに置いたものであることを考えるならば、この数多くの離れ小島、または 片田舎 ( かたいなか )の伝承の一致は、ちっとも不思議でないばかりか、我々にとっては 譬 ( たと )えようもないなつかしさである。 かつて是くらい広々とした区域にわたって、我国上代の正史に採録せられたものと、ほぼ同質の海上楽土の存在を信ずる者が、互いに相知らずに分散して住んでいたのだった。 『古事記』『日本紀』は大切な文献ではあるが、 辛 ( かろ )うじて保存せられた期間が長く続き、本の名をさえ知っている者がもとは 稀 ( まれ )であった。 もしもあの物語を聴いていたならば、是と半分似た昔話はかえって流布しなかったろうし、少なくとも今見るごとき笑話化は起こらなかったろう。 すなわち我々の神代巻が編纂せられた千二百数十年前よりも更に以前から、この話の種子は、すでに東方の島々に 播 ( ま )かれてあったのだ、ということを私は疑うことができない。 それ故にこの島々の海上楽土観には、まずどれだけの中代の変遷があり、結局どれほどの共通点が、今もまだ探り得られるかを考えてみる必要がある。 最初に問題になるのは、沖縄諸島のニライカナイ、もしくはニルヤカナヤと、本州の記録の 常世郷 ( とこよのくに )と、二つの全く別々のものと思われるまでに、縁遠くなってしまった理由 如何 ( いかん )。 この点は実は 双方 ( そうほう )ともに、従来あまり注意しようとしなかったが、手がかりは幸いにまだ残っている。 そうして互いに有力な暗示を与え合っている。 たとえばニライ・ニルヤという言葉は、神歌 祭文 ( さいもん )の衰微とともに、軽々しく日常の話に交え用いなくなって、追々と姿を隠して行くが、そのかわりになる名詞が、少しずつ後から生まれている。 アマミヤ・アマミヨ・アマミキュなども、ちょうど海神宮の「わだつみの神の宮」のように、古いたたえ 詞 ( ことば )の一つだったらしいのを、新たなる天孫氏伝説に援用したばかりに、その由来がかえって不明になった。 故 伊波普猷 ( いはふゆう )氏の『あまみや考』は努力の著述だが、アマミは 海人部 ( あまべ )なるべしという栗田翁の説を受けて、この種族の北からの移住をほぼ承認しておられる。 その結果として、最初のニルヤは北にあり、中世の終りに近くなって東の方へ変ったという、意外な結論が導かれたけれども、私などはどうもその証拠を見出すことができない。 ニルヤが東方にあることを明示した言葉が、古い文献には見当らぬのは事実だろうが、それはただ新らしい名の入用が前はなかったというまででニルヤはそう簡単に北から東へ、方角を 更 ( か )え得られるような信仰ではなかったかと思う。 ただし東海岸の 邑里 ( ゆうり )の繁栄につれて、いわゆるアガルイの 大主 ( おおぬし )、テダが穴の大主の 礼讃 ( らいさん )が盛んになり、ことに毎朝の観望をもって、太陽の海から昇ってくる地点の推移、それと季節の関係に心づいて、暦法の知識を精確にした人々が、何か新たなる呼び名を設けて、それを唱えようとしたことはあろうが、是は沖縄文化の一躍進期と見るべきもので、早くとも十四世紀以前には 溯 ( さかのぼ )り得ない。 ニルヤの根本の信仰がこの時になって、そのような大きな転換を 遂 ( と )げたということは、私たちには信じられないのである。 この点を確かめて行く方法として、自分の今考えているものが二つあって、二つは 共々 ( ともども )に南北島群の間に比較を試みることが、可能でありまた或いは有効である。 手短 ( てみじ )かに私の心づいたことを述べておくと、その一つはニライまたはニルヤという単語の由来を尋ねることである。 沖縄本島なども多分同じだろうが、ニーラには「非常に遠い」というような語感が有ると、先島方面の人は謂っている。 たとえば掘井の底の水面が、深い処で 幽 ( かす )かに光り、容易につるべの届きそうにもないのを形容して、ニーラサというような表現があるという。 それで私はこの語尾のR 子音 ( しおん )は、もと形容詞化のための 添附 ( てんぷ )であって、一語の要部はニーすなわち「根」にあるのではないかとも想像している。 根という語の用途は、植物のそれには限らず、またそれの第二次の応用とも言えない。 ことに沖縄ではその範囲がこちらよりも 弘 ( ひろ )く、村々の本家に該当するものを根所(ニードゥクル)、その他根神・根人・根家などという言葉が、信仰と結びついただけに、近頃になるまで盛んに行われていた。 「おもろ」にはまた根国・根の島という語がしばしば見え、それは主として本国もしくは故郷の島という意味をもち、本島の一部をもそういった例があり、またもっと小さな一つ一つの島を、根の島と呼んだこともある。 そうしてまだ海上の霊地の名として用いられた明白な証拠を見出し得ないのは、是にはすでに久しくニルヤもしくはアマミヤという別称が具わっていたからかと思う。 とにかくに日本上代史の根国とは、語は同じでも感じはまったく異なっているが、それは展開の経路の分れ分れになったことを意味し、したがってまた比較の特に価値多き部分なることを考えさせる。 根が本源でありまた基底であったことだけは、双方に通じてほぼ誤りがないようである。 夙 ( はや )く『釈日本紀』の私註以前から、我々の根国思想は一辺に偏し、 彼処 ( かしこ )を黄泉国よみの国と同じとする解釈は、最近の復古時代までも続いていた。 果してそんな事で上代の文献が残らず 判 ( わか )るもののごとく思っていたのであろうか。 合点 ( がてん )の行かぬ話であった。 たった一つの著名な例を挙げても、素尊は 妣 ( はは )の国へ行くと称して、父の神の指命によって根国へ渡って行き、そこに年久しく住んでおられ、 大国主神 ( おおくにぬしのかみ )は後にその国を訪れて、結婚しまた宝物を持ってこられた。 是を漢土で黄泉とも呼んでいた 冥界 ( めいかい )のことだと、信じて古人はこの記録を 遺 ( のこ )したと言えるだろうか。 重要な大昔の一つの言葉でも、年を 累 ( かさ )ね世の中が改まれば、その受け取りかたがいつとなく変ってくると、どうして考えてみることができなかったか。 このことは後に蓬莱とも竜宮とも名を 替 ( か )えた、とこよのくにに就いても言い得る。 いわゆる 常世郷 ( とこよのくに )の記事はことに『日本紀』の中に多い。 浦島子の物語は、恐らく神代の海神宮古伝の 残 ( のこ )んの形であろうから、これだけは別にまた考えてみるとして、この他に 田道間守 ( たじまもり )の家の由緒でも 秦河勝 ( はたかわかつ )の 手柄 ( てがら )に帰した虫の神の出処でも、事実の真偽は問題でなく、こういう話を聴く人々の胸に、前代の常世郷と異なるものを描き出させていたことは認めなければならぬ。 少彦名神 ( すくなひこなのかみ )が国土経営の功を終えて、あの世界に 赴 ( おもむ )いて永く 止住 ( しじゅう )なされたことは、「神功紀」の 寿宴 ( じゅえん )の御歌にも見えて、よほど素尊の 根堅洲国 ( ねのかたすくに )と近く、 且 ( か )つは人界との往来も考えられるが、一方にはまた海上の危難を恨み憤って、浪の 秀 ( ほ )を 踏 ( ふ )んで常世郷へ、 往 ( い )ってしまわれたという皇子もあった。 もともと永い年代に 亙 ( わた )って、一貫して動かぬという考えかたではなかったのである。 常世という漢字は不老不死、浦島子の歌などに表われている感じからの選定かと思われて、文芸語としては近世までも人望があったが、以前は口語でもそう 謂 ( い )っていたかどうか疑わしい。 本居 ( もとおり )先生などはそれを問題にしておられる。 元 ( もと )はソコヨリの国で、そのソコは地底には限らず、遠いこの世の果にある国という意味だったかと言われたのは、或いは一方の根の国・底の国を、念頭におかれた説かとも思うが、まだそうはっきりと、常世も根の国も同じとまでは断言しておられない。 沖縄の方では 国頭 ( くにがみ )にもまた先島諸島にも、ニライソコという言葉が残っており、前者に至ってはニライソコモイは鼠のことであった。 現在はいずれも地底のことに解せられているが、それは根国を 黄泉 ( よみ )に同じというのと、 似通 ( にかよ )うた解釈の傾向であった。 つまりは海上の交通は遅かれ早かれ、一旦は断絶せずにはいなかったのである。 ただし沖縄にはまだニルヤの大主の年々の来訪がわざおぎとして形を存し、ニラ人ミルヤニヤの古い記録、アマミキョがのだて始めの城の遺跡も、『おもろ草紙』を通して尋ね求めることができるが、人が 此方 ( こなた )から彼を 訪 ( と )い、また 還 ( かえ )ってきたという実例は、僅かに 棚晴船頭 ( タナハルシンドウ )の妻の話ただ一つであるに反して、宮古島旧史の中には、そういう口碑のやや昔話と近いものが幾つか保存せられ、一方道の島の三つの島などでは、この篇の初頭にも列挙したように、既に完全なる民間の文芸と化して、ニルヤ往来の話が数限りもなく口頭に伝承せられ、しかも旧日本の竜宮説話と、規則正しい 連繋 ( れんけい )を保っていたのである。 少なくとも是は偶然の近似でなく、かつてこの海の 彼方 ( かなた )の楽土に対して、今よりも遥かに豊富な知識、ないしは空想を抱いていた人が、多かっただけは是によって推定し得られる。 ただその信仰の本質が、いかに変化しつつあったかについて、まだ私の説き得ることが甚だ 乏 ( とぼ )しいのを 憾 ( うら )みとするばかりである。 一つの問題として、ニライは此方の根国また常世郷のごとく、かつては死者の行く 処 ( ところ )として望みまた慕われていた時代があったろうかということを考えてみる。 南方では死者の世界を、あの世またはグショ(後生)と呼ぶらしいが、その後生の観念が島ごとにまたは家ごとに、甚だしく区々になっていて、是からの現地調査に、まだ多くの収穫を約束するかと思われる。 死んで儀来河内に行くという沖縄のただ一つの例は、『遺老説伝』でも有名な 善縄大屋子 ( よしなわうふやこ )の話、是は海浜で美女に 遭 ( あ )い、大きな海亀をもらうという発端は昔話に似ているが、家に帰る路すがらその大亀に 頸 ( くび )を 咬 ( か )まれて死に、その 亡骸 ( なきがら )を墓に埋めたのを、三日の後に開いて見ると 棺 ( かん )は 空 ( から )であった。 空中に声があって彼は儀来河内に遊べりと告げたとあって、目的はその 御岳 ( うたき )の霊験を説くにあり、いわば珍奇の例だから伝えたように見えるが、この葬後三日目に棺を開いて見るということは、もとは一般の慣習だったらしい。 沖永良部島では最近まで人が死ぬとその霊は天の庭へ上るという信仰が生きていた。 死人があるとすぐに葬るが、幾日かの後に(多くは三日)、 魂分 ( たまわ )かれまたは 魂離 ( たまばな )れと称して、ユタを招いて 神降 ( かみおろ )しの式を行う。 それは近親の女性の一人を 択 ( えら )んで、死者の霊をそれに 憑 ( よ )らしめ、その女が一定の方式によって、或る期間泉の水を浴びて 精進 ( しょうじん )をすると、死者は始めて天の庭に上ることができると信ぜられていた。 ユタの教儀として改造せられた点もあろうが、是は明らかに 尸者 ( ししゃ )の行事であり、日本にも古く行われたらしい痕跡はある。 良 ( よ )き人の魂のみが天の庭へ上るという信条もあったということで、是もおそらくはまた善縄大屋子の一例と見てよかろう。 果して最初から、特に択ばれた者のみがニルヤに 往 ( い )ったのか、或いは前には誰も彼も、死ねばみな行くと考えられていた時代があるのか。 是がなお未決のままで残るが、その参考になる少しの事実もある。 ちょうどこの 序 ( ついで )に 手短 ( てみじ )かにそれを述べておきたい。 沖縄の方ではまだ聴かぬようだが、奄美の島々にはコウソ祭、またはホウス祭というのが先祖祭のことだった。 今では考祖とも高祖とも書いているが、そんな漢字を人が知ってから、始めて生まれた言葉ではないようである。 島津氏の支配になって後、大島でもまた沖縄でも、一般に七月 盆 ( ぼん )の 魂祭 ( たままつり )の風習を採用させたが、是には一種政治上の動機、すなわち今まであまりにも強烈であった島民の信仰を、やや 牽制 ( けんせい )しようという意図もあって、新たに持ち込んだらしい形跡がある。 そのために村々の先祖祭は複雑なものとなり、今まであった儀式は 聊 ( いささ )か衰えたようだが、まるまる古くからのものを置き替えることはできず、依然として七月の 盆 ( ぼん )のあとに、また八月のコウソ祭があって、この方が多くの行事と結びつき、 踊 ( おどり )その他の色々の催しを 伴 ( とも )のうて、力の入れかたが格別であった。 この新旧の対立には意味があり、コウソという語はその一つの 鍵 ( かぎ )なのだが、考祖・高祖の字解に心服した人々は、これを疑って見ることができなかった。 大島北部のよく開けた地域では、盆に祭を受けにくる 新精霊 ( あらしょうりょう )さえも、アラホウスと呼ぶようになっている。 ところが同じ島でも南に寄った村々、または 加計呂麻 ( かけろま )の島などでは、二つは別のものと考えられていたらしく、その一方だけをコスガナシと呼んでいた。 金久 ( かねひさ )正君の報告に 依 ( よ )れば、コスガナシは海を渡って来られる。 それで身が冷えているだろうといういたわりから、コスガナシだけには 麦藁 ( むぎわら )を 門火 ( かどび )に焚いてお迎えをし、新らしい方の 魂祭 ( たままつり )には火を焚かないということである。 日本の盆行事も、地方ごとの変化が大きく、まだその順序を見定めることはできぬが、魂を送るには今でも海辺に行くものが多いに反して、迎えは墓所からというのが大部分を占め、山から川上からというものはよほど少なく、浜に出て迎える例はいよいよ 稀 ( まれ )になっている。 火を焚く慣行は迎え火送り火・ 火振 ( ひぶり )の 松明 ( たいまつ ) 柱松 ( はしらまつ )など、こちらはほとんと普通になっているのに、島に渡ってから、是が新旧の目標となっているなどは、この祭り月の相違とともに、いよいよ注意すべきことであって、つまりは永い年代の間に、異なる傾向が次々と加増してきたのである。 はたしてその根源には、私の仮想しているように、海のあなたの常世郷、死者の魂の去来する根国というものがあったかどうか。 コスまたはコウソホウスという一つの語は、今はまだ由来不明ながら、この意味において最も重要だと思う。 話がただ長くなるばかりで、確かな結論の出て来ぬのは 寂 ( さび )しいが、ここには新たな問題を後に 留 ( とど )める趣意をもって、なお一、二自分の心づいたことを附記しておこう。 沖縄でもまたやまとの島々でも、古い信仰が力を失い、形ばかり整ったものになって来るのは、まず都府の生活からであった。 国の 端々 ( はしばし )に散らばって住む者は、新らしい統一に 触 ( ふ )れないから、思い切った忘れかたはしない。 何とも思わずに持ち伝えたものはばらばらになりやすいが、それを数多く集めてゆくうちには、他に説明のしようもない一致がある。 是が我々の一国民俗学の、たまさかに効を奏しやすい点であり、また相接する二以上の民族文化の比較が、助けを民間の伝承に求めなければならぬ理由であった。 自分一箇の所感としては、文化が休む 暇 ( いとま )もなく成長しまた推移しつつあるものだということは、よその民族についてはともすれば忘れやすく、また認めにくいもののように思われる。 そういう中でも島の外来の力の影響に弱く、ほとんと根こそげに変ってしまうということさえ有り得る。 それを或る一時点の横断面によって比べたならば、どんなとんでもない推断でも、まずなるほどということになるかもしれない。 早い話が南の島々の 後生観 ( ごしょうかん )などはその一例で、ここには仏法の指導力が存外に弱かったために、新らしい観念は起こらず、古くからあったものは消え放題で、あの世という言葉は有りながら、それはこの世の中にあると、いうような考えかたも行われている。 島ごとにといおうよりもむしろ家ごと人ごとに、死んで行く先を色々に考えている。 ハンサという言葉が以前はあって、それが現世のサンカと対立したらしいが、それも今はもう 幽 ( かす )かな痕跡である。 道の島の二つの昔話集にはダクの国、またはアンダの国というのが後生のことで、多分は浄土教の安楽国を聴き伝えたものだろうが、それもあんまり遠い処でなく、海を越えて行くような話もなく、広い野中に深い穴があり、石の 蓋 ( ふた )をはねのけると太い 芭蕉 ( ばしょう )の綱がさがっていたと、語っている例さえある。 注意してよいと思うことは、是と並んで鬼が島、または鬼が城という世界があって、地獄ではないけれども怖ろしい処だった。 こちらの昔話とちがった点は、鬼は後生の使となって人の魂を取りにくるが、折々 騙 ( だま )されて 空手 ( からて )で帰ることもあり、或いは頼まれて人の生存期間を加減したりする。 震旦 ( しんたん )の小説にはよくある話だが、或いは古い昔にセヂの管理、寿命や運勢を附与する力が、ニルヤにあったという信仰から、筋を引いているものとも考えられぬことはない。 これを要するにニライカナイという言葉が古くなって、めったに神歌祭文の外では聴かれなくなってから、何か我々の心に残るぼんやりとした概念を、表示するような単語の需要が生じ、それが思い思いであった故に、だんだんと分化したらしいのである。 仏法の信者たちとつきあっておれば、幾らでも 選 ( よ )り 取 ( ど )り 見取 ( みど )りだが、小さな島ではこんな資財でも限りがあった。 アマミヤ・アマミキュもその一例かと思うが、是はもう大分早く始まっていた。 沖永良部島のティンヌミヤ(天の庭)、喜界島の雲の世などは、そう 弘 ( ひろ )く行われなかったらしいが、アガレヒラシマまたはアガレヤシマなどは、この二つの島に共通し、そこに美女を求めて 末栄 ( すえさか )える婚姻をした話などが、近世のロマンスを楽しくしている。 アガレは東方、日の昇る処、 平島 ( ひらしま )はすなわち地平の線上に横たわって、しばしば 靄 ( もや )や荒波に 蔽 ( おお )い隠される島であった。 『おもろ草紙』の巻十三にはアガルイの三島、テダが穴の三島という句がある。 或いは本島内の三つの 邑 ( むら )だとの説もあるが、 知念 ( ちねん )・ 玉城 ( たまぐすく )は太陽の穴ではないはずである。 やはり海上 遥 ( はる )かあなたに、そこから日輪の上ってくる三つの島があることを、人が共同に夢みていたのだと思う。 昔はそのオホアガリの島から、赤い髪の色をした男女が、時たま 与那原 ( よなばる )の浜に渡ってくることがあったように、 噂 ( うわさ )をする者が多く、伊波普猷氏なども 幼 ( おさ )ない頃、よくその話を聴いていたそうである。 今ある現実の大東島が発見せられたのは、それよりややおくれた明治十八年以後の事で、そこには人も住まず泉もなく、自然の条件は楽土と言うには遠かったけれども、やはり島の数は三つあり、またほぼ 旭日 ( きょくじつ )の上る方角にあった故に、これを大東島と呼ぶことに 何人 ( なんびと )も 躊躇 ( ちゅうちょ )しなかった。 そうして南の人たちのまぼろしのオホアガリシマは、ちょうどこの頃を限りとして、信仰の世界から消えてしまったのである。 ただし現在の三つの島が、地図の上に確認せられるよりも以前から、是を実存のものと見ようとする機運は動き、竜宮すなわち琉球という説すら、これを信ずる者が少しはあった。 ことに南方の諸島にあっては、それかと思う島の影が遠く 漂渺 ( ひょうびょう )の [#「漂渺の」はママ]間にちらついてもいたのである。 雨 霽 ( は )れ海上の清く澄みたる日に、遥か 辰巳 ( たつみ )の方にその島の形を見ることありと、奄美大島の『旧記』にも 誌 ( しる )されているが、是はどうやら伝聞の誤りがあって、西の沖の 横当島 ( ゆはてじま )と混同しているらしい。 しかし百余年前の文化三年に、 笠利方 ( かさりがた )の名士 当済 ( とうさい )という人が、舟を 艤 ( ぎ )し同志を 伴 ( とも )のうて、 往 ( い )って見てきたのは確かに今日の大東島であった。 逆潮 ( さかしお )に妨げられて上陸はし得なかったが、かえってそのためにアガリヒラ島の解釈は、大きな影響を受けたかと思われる。 しかし考えてみなければならぬことは、南から北へか、北から南へかはまだ決し難いにしても、ともかくも多くの島の島人は移動している。 日本は旧国の 誉 ( ほま )れが高かったけれども、この 葦原 ( あしはら )の 中 ( なか )つ 国 ( くに )への進出は、たった二千六百余年の昔である。 いわゆる常世郷の信仰の始まったのは、そんな新らしいことではないのだから、もしも偶然にこの東方の洋上に、それらしい美しい島があったとしたら、かえって取扱いに困るところだった。 しかもそういった現実のニライカナイを持たぬ、三十度以北に住んで後まで、なお引続いて南方の人たちと同じに、日の出る方を 本 ( もと )つ国、清い霊魂の行き通う国、セヂの豊かに 盈 ( み )ち 溢 ( あふ )れて、惜みなくこれを人間に 頒 ( わか )とうとする国と信じていたとしたら、それこそは我々の先祖の大昔の海の旅を、 跡 ( あと )づけ得られる大切な道しるべであったと言ってよい。 浦島子の物語をただ一つの例外として、『古事記』の常世郷への交通記事は、いずれも太平洋の岩辺と結びついている。 少彦名命 ( すくなひこなのみこと )が 熊野 ( くまの )の 御碕 ( みさき )から、 彼方 ( かなた )へ御渡りなされたというのもなつかしいが、伊勢を 常世 ( とこよ )の 浪 ( なみ )の 敷浪 ( しきなみ ) 寄 ( よ )する国として、御選びになったという古伝などはとくに 殊勝 ( しゅしょう )だと思う。 数知れぬ北太平洋の島々に、はたして幾つまでの種族が東方に浄土を認め、心の 故郷 ( ふるさと )を 日出 ( ひいず )る 方 ( かた )に望む者が、今も 活 ( い )きながらえ、古い信仰の記念を持ち伝え、または栄えて新らしい世に立とうとしているであろうか。 幸いにして諸君の学問が、だんだんにこれを究め 明 ( あき )らめることができるとすれば、他人はいざ知らず、自分は何よりもまず彼らの歩み 来 ( きた )った 途 ( みち )が、どれほどの変化をもって、各自の艱苦を忍び各自の幸運を味わってきたかを尋ねてみたいと思う。 [#改ページ] 歌にしばしば「そのあかつき」と詠ぜられた、未来仏・当来仏の信仰は、日本に渡って来てから後、何かよほど大きな変化を 遂 ( と )げたのではないかということを、私は今考え始めている。 問題はしげくまた末遠く、とてもその一端を究めるだけの、時すらもここには無さそうに思われるが、念ずるということもまた 結縁 ( けちえん )である。 茫洋 ( ぼうよう )たる学問の世界においても、なお我々は待つ者の楽しみを味わうことができるのではあるまいか。 西方の 弥陀 ( みだ )の 浄土 ( じょうど )に押しせばめられて、 弥勒 ( みろく )の天国はだんだんと高く遠のき、そのまぼろしはいよいよ 幽 ( かす )かになって、そこに 往生 ( おうじょう )を期する者も今は至って 稀 ( まれ )であるが、不思議に 斯邦 ( このくに )ではあちらからの消息が絶えず、それも現世の果報に結びついて、墓とも寺とも縁のない一種の東方仏教が、国の 隅々 ( すみずみ )には成長している。 これを 省 ( かえり )みようとした人がなかっただけに、我々にとっては限りもなくなつかしいのである。 前年岩波文庫の『 利根川図志 ( とねがわずし )』を校訂していた際に、始めて心づいて興味を催したのであるが、 常陸 ( ひたち ) 鹿島 ( かしま )あたりの「土俗の習ひに、物の祝などある折、または 祈事 ( いのりごと )をする日など」「 老婆 ( おむな )たち多く集まり、 弥勒謡 ( みろくうた )とて各声をあげて歌うたひ、太鼓を打ち」 踊 ( おど )った。 「手を振りつつ踊るさまいとをかしく、中昔の 風 ( ふう )と見えたり云々」とあって、その唱歌の一章を掲げている。 後にわかったことは、 是 ( これ )はこの本より数十年も前に出版せられた『鹿島志』からの全文転載であって、したがって安政年間までもこの踊が行われていたという証拠にはならぬが、一方には 鶴峯戊申 ( つるみねしげのぶ )の『 海西漫録 ( かいせいまんろく )』に、是より少し前 鹿島宮 ( かしまぐう )に 参詣 ( さんけい )して、老女が 蓆 ( むしろ )の上に 坐 ( ざ )してこの歌をうたうのを聴いたという記事もある。 辞句にはもちろん次々の改廃はあろうが、今でも土地にはまだその記憶が残っているかもしれない。 尋ねてみたいものと思う。 世の中はまんご 末代 ( まつだい ) みろくの船がつゞいたァ ともへには伊勢と 春日 ( かすが ) 中は 鹿島 ( かしま )のおやしろ ありがたや 息栖 ( いきす )おもりは こがね 社壇 ( しゃだん )うてかゞやく うしろにはひよき(清き?)神たち 前は 女瓶男瓶 ( めがめおがめ )ござふね かんどり(香取)は四十おやしろ 音にきくもたふとや 一たびはまゐりまうして 金 ( かね )の 三合 ( さごう )もまかうよ かねさごは及びござらぬ 米 ( よね )の 三合 ( さごう )もまかうよ 何事もかなへたまへ ひだちかしまの神々 まことに老女らしい淡々たるユウモアではあるが、ともかくも盆の 供養 ( くよう )の踊のような、哀調でなかったことはまず注意せられる。 ただし黄金三合という 戯 ( ざ )れの誇張に対して、米の三合を 撒 ( ま )こうというのはただ空想でなく、或いはもとこの踊の 所作 ( しょさ )に 伴 ( とも )のうて、何かそういう行事があったのかと思われるふしがある。 ここと利根川を隔てて、さまで遠くない 印旛沼 ( いんばぬま )周辺の村々には、春秋の祭の日に鹿島歌をうたい、踊ってあるく慣習が近い頃まであったことが、小寺君の『郷土民謡舞踊辞典』に見え、今でも尋ねてみればまだまだ多くの例が集められそうに思われるが、そういう中でも印旛郡 本埜 ( もとの )村 [#「本埜村」は底本では「本野村」] 荒野 ( こうや )、十月十五日の雷公神社の祭日に、その年の新郎新婦が一組、特に盛装して社殿と寺、もとは庄屋の家へも廻って行って、男女それぞれに 相伝 ( そうでん )したささげ歌というのを歌うことになっていた。 ササゲは頭の上に物を 戴 ( いただ )くことをいうらしく、歌の 詞 ( ことば )の中からもほぼその意味が汲み取られる。 僅 ( わず )かばかりの記憶の誤りが有るようだが、まず男の方の辞句には、 まことやら 鹿島 ( かしま )みなとへ 弥勒 ( みろく )かな、よき (ママ) 舳艫 ( ともえ )には 伊勢 ( いせ ) 春日 ( かすが ) 中 ( なか )は鹿島の 大 ( おお )やしろ 世の中はいつも正月 男が水 汲 ( く )む、女がいたゞく 其 ( その )水を 上 ( あ )げ 下 ( おろ )し見申せば 子持金 ( こもちがね )がなゝ (ママ)九つ 二つを宿に置き 候 ( そうろう ) 七つで倉を建て候 ………………… ………………… 天竺 ( てんじく )の雲のあひから 十三 姫 ( ひめ )がなゝ (ママ)米をまく 米まけば 只 ( ただ )もまけかし みろく続けと米をまき云々 というような言葉があり、また一方の 女相伝 ( おんなそうでん )の歌にも、 ………………… 当村のうぶすな 神 ( がみ ) 天にござます神なれば 七難を払ひ申して 村へ米を 下 ( くだ )すべし 当年 何 ( なに )どし、何の 歳 ( とし )にて候 世は 万作年 ( まんさくとし )で候 めでたいな、 五穀 ( ごこく ) 上 ( あが )りて 浮世の人が喜ぶ 行き候や、かへり候や うしろへ 弥勒 ( みろく )がつゞいた などという文句が 列 ( つら )ねられているのを見ると、かつて稲作の豊熟をもって、いわゆる弥勒 出世 ( しゅっせ )の第一の 奇瑞 ( きずい )と解し、米を祭場に 撒 ( ま )きちらすことによって、その絶大の歓喜を表示しようとした時代が、あったということも想像し得られる。 ただし海からやや遠い農村であるだけに、ここではもう 舳艫 ( ともえ )という語が誤って伝わるのみで、みろくの船ということはすでに忘れられているようである。 問題の中心とすべき点は、こういうおそらくは仏教に基礎を持たぬ弥勒の信仰が、いかにして 我邦 ( わがくに )に生まれ且つ成長したかということであろうが、断定は容易に 下 ( くだ )し得ないまでも、是が単なる愚民の 訛謬 ( かびょう )として、不問に附し去るほどの小さな現象ではないということと、一方にはまた 幽 ( かす )かながらも幾つかの手がかりはあり、これに近よって行く方法も決して絶無とは言えないことだけは、今でも一通り述べておく必要を感ずる。 自分は元来問題を永く温め、やたらに 青刈 ( あおが )りをせぬという修養を心がけた者であるが、今や 残 ( のこ )んの日もすでに 乏 ( とぼ )しく、しかも近年の学風は、教理の本源を究むるに 専 ( もっぱ )らなるあまり、往々にして国内千数百年の変遷を挙げて、すべて零落の姿のごとく、見てしまおうとする傾きを示している。 せめては別にこうした考えかたもあるというだけを予報しておかぬと、今ある僅かな民間伝承も消え 埋 ( う )もれ、是を我々の新たなる 覚 ( さと )りに、導いてくる機会は無くなるかもしれない。 すなわち一種の発願のために、このたどたどしい小文を書いてみる気になったのである。 日本では応仁の乱後、世上が極度の窮乏と動揺の底に沈んでいた際に、弥勒の信仰が突如として目さめてきたらしく、弥勒二年という私年号が、 弘 ( ひろ )く東国の各地に使用せられていた 証跡 ( しょうせき )がある。 富士山 北麓 ( ほくろく )の『 甲斐 ( かい )妙法寺記』、 下総 ( しもうさ ) 香取神宮 ( かとりじんぐう )の『 録司代家文書 ( ろくじだいけもんじょ )』、その他飛び飛びに発見せられた数箇所の例は、いずれも 書札 ( しょさつ )作成の日附として記入せられたものであった。 前年改元の都の沙汰が、辺土に伝わって行った状況に照し合わせると、ここに二年とあるが殊に真実性をもつように受け取られる。 すなわち一時は少なくともそういう年号が、新たに制定せられたものと信じて、これを用いた人が多かったのである。 この弥勒二年 丁卯 ( ていう )という年が、 後柏原 ( ごかしわばら )天皇の永正四年、西暦一五〇七年に該当することにはまず疑いがない。 単に 干支 ( かんし )が一致するという以上に、記録の上からも推定し得られ、また土地の人々が誰も彼も、十 干 ( かん )十二 支 ( し )の 年繰 ( としぐ )りを誤るということは有り得ないからである。 しかしそうした偽りの年号が、いかにしてこのように 弘 ( ひろ )く、一般に 遵奉 ( じゅんぽう )せられることになったかというと、ただ乱世の交通不便だけでは説明がつかない。 風説の根元には相応な力があり、しかもこれを遠くに運ぶほどの情報組織のあったことが想像せられる以上に、一方民間にも文字ある階級を引きくるめて、是をさもあるべしと思うような、常識なり信仰 素地 ( そじ )なりがあったものと見なければならぬ。 年号の 更定 ( こうてい )には、国家の 瑞祥 ( ずいしょう )を記念したものもあるがそれは大昔の話、後代は革令革命の理論に基づいて、 定 ( き )まった年次にそれが行われた以外、大抵は何か望ましからぬ異変があった次の年に、改元があるものときまっていた。 朝廷の力が衰微して、それさえも計画し難い期間はつづいたのだが、なお大衆はこれを予想し、荒れ狂う 飢饉 ( ききん ) 疾疫 ( しつえき )のさなかにおいて、そういう 呪法 ( じゅほう )に近い善政を待ち焦れていたのである。 現在もまだ残っている 世直 ( よなお )しという言葉は、或いはこの頃に始まったものかもしれない。 江戸ではたしかに田沼政権の倒壊した際にも、 刺客 ( しかく )の佐野 某 ( ぼう )を世直し大明神と 謂 ( い )って、墓参りが 賑 ( にぎ )わったという話もある。 普通は地震の時の 唱 ( とな )え 言 ( ごと )ぐらいにしか用いなかったが、世の中とは元来農作の豊凶のことであった。 すなわちその世の中を復興する力が、隠れて外にあり、それを信心によって招き寄せ得るということが、悩み苦しむ生活のせめてもの楽しみだったかと思われる。 弥勒という年号などは、京都の教養人にはもとより意外であり、また 滑稽 ( こっけい )でもあったろうけれども、是があるためにこの種の他力信仰の時代色、もしくは中心とも根源とも名づくべきものが、少しずつ 摸索 ( もさく )して行かれるのである。 故 ( こ )橋川正君の日本仏教文化史の研究に、 常陸 ( ひたち ) 鹿島 ( かしま )の弥勒の船の 踊歌 ( おどりうた )を、このいわゆる弥勒二年の私年号と、関係のある現象だろうと説かれたのは、注意すべき一つの見解であった。 後の改作が想像し得られるにかかわらず、今伝わっている 謡 ( うたい )の辞句も、表現がいかにも 素樸 ( そぼく )であって、室町期の気分が感じられるほかに、一方には寛永の頃、諸国に 疫癘 ( えきれい )の 災 ( わざわ )いがあり、鹿島の 神輿 ( みこし )を渡してその 患 ( うれ )いを除かんことを 祷 ( いの )った際に、この 躍 ( おどり )を 踊 ( おど )ったのが始めだという言い伝えもあるというから、少なくとも近年の流行でないだけは 判 ( わか )る。 この私年号の称え始めが、鹿島だという証拠はまだ見当らぬが、常陸一国の文書の中にも二、三の実例はあって、ここが年号使用圏の東の 端 ( はし )であり、そのうえに 伊勢 ( いせ )・ 春日 ( かすが )とも対立するほどの、有力な信仰の中心があったのだから、その想像には若干の根拠なしとしない。 我々の是から資料を 捜 ( さが )し求めて、由来を明らかにしてみたいと思うことの一つは、鹿島の 事触 ( ことふれ )と呼ばれた下級神人の巡歴である。 近頃の記録に出ているのは、すべて 願人坊主 ( がんにんぼうず )に近い 門付 ( かどづ )け 物貰 ( ものもら )いの 徒 ( と )であったが、それでもまだ彼らの唱えあるいた歌詞などの中には、比較に値する僅かずつの特徴が伝わっている。 そうして鹿島の 神威 ( しんい )のまったく及ばぬような遠い地方にも分散して、活計のためにかなり自由な宣伝もしていたらしいが、別に本社の公認を受けて、 御札配 ( おふだくば )り等をした者も少しはあって、両者の 分堺 ( ぶんかい )は必ずしも明白でなかった。 『 常陸国誌 ( ひたちこくし )』の 記 ( しる )すところに依れば、鹿島事触は 夙 ( はや )く現われ、すでに 寛文 ( かんぶん )十年(一六七〇)という年に、寺社奉行は 大宮司 ( だいぐうじ )則教の 申立 ( もうしたて )に基づいて、彼らの業務を 祈祷 ( きとう )と札配りとに限定し、それも本社の 允許 ( いんきょ )を受くることを必要とし、かつ事触の名を改めて、 御師 ( おし )と 謂 ( い )うことにしたとある。 それにもかかわらず元の名はなお久しく行われていたのだから、法規の守られなかったことも察せられる。 伊勢の御師などは最初から、札配りがいわば表の任務で、祈祷はただ取次をするのみだったのに反して、鹿島の御師は事触の名の示すごとく、もとはこの二つのほかに、なお路頭の託宣を公認せられていて、到る処 辻々 ( つじつじ )の群衆に対して、次の年の 吉凶禍福 ( きっきょうかふく )を、神の言葉として触れあるいたようである。 彼らの数がふえ、行動が遠く伸び、本社との 聯絡 ( れんらく )が 疎 ( うと )くなれば、弊害の次第に激化するのも当然であるが、それが官権によって制御せられず、実際にまた 偏鄙 ( へんぴ )の土地であるだけに、悪いたくらみを働かすほどの誘惑もなく、むしろ適度の慰安と激励とを配布しつつ、過ぎていた期間も相応に久しかった。 今ある 一見 ( いっけん )不可解な色々の民間の言い伝えの中には、こういう異常な動揺のために、印象づけられて残ったものがないとは言われず、たとえば弥勒二年というような類のない私年号なども、或いはその一つであったろうとも考えられぬことはない。 ただ是と寛永年間の 鹿島躍 ( かしまおどり )流行との間には、百年以上の経過があり、寛文十年の 事触 ( ことふれ )禁止は、それからまた五十年も後であった。 中間に幾度かの起伏があったことは考えられるが、それにもせよともかくも弥勒出世の信仰は、世直しの思想と結びついて永く続き、さらにその特色に富みたる行事形態を、物みな変り果てたとみられている、昭和戦後の今日まで、保存していたのである。 仮にその背後にさらに悠久の昔の世を、推定し得る望みがまったく無いときまった場合でも、なおこの現象は伝えておく価値がある。 しかも筆者はまだ決してその希望を 棄 ( す )ててはいないのである。 鹿島事触 ( かしまことふれ )の 路頭託宣 ( ろとうたくせん )という言葉は、古人のすでに用いているのを珍らしいと思っただけで、新たに私が作り設けたものではない。 記録文芸に 痕 ( あと )を 留 ( とど )めた事例こそは僅かであろうが、この民族の信仰が是によって生育し、繁延し変化し複雑化したことは、中世以後にあってはむしろ普通だったと言い得る。 近頃の 踊 ( おど )る宗教を見ても察し得られるように、見知らぬ人たちが旅からやって来て、新らしい教えを説こうというのには、踊ることは 近路 ( ちかみち )であり、また有効なる方法でもあった。 声高 ( こわだか )な言語は行く人を立ち止らせるが、趣意を汲み取らぬうちに、さっさと行き過ぎる者を制止することができない。 これに反して 踊 ( おどり )には 切 ( き )りがあり、また際限もなくくり返されて、だんだんと印象を成長させる。 狂言記などの中には、移るという語を盛んに使っているが、単純な人たちはじっと気を取られて見ているうちに、思わず手ぶりを 真似 ( まね )、 間拍子 ( まびょうし )に乗って、しまいには我知らず人数に加わってゆくというような習性が 空也 ( くうや )以前、「 八幡種蒔 ( はちまんたねま )く」よりももっと昔から、すでにこの島国の住民たちの、もっていた長処短処であるように私には考えられる。 踊も芸能だから、ひとたび天才がこれに参与するならば、いくらでも美しく花やかに、したがってまた人を引き寄せ得られたはずと、 解 ( かい )してすませるのは 月並 ( つきなみ )であって、そんな職業ができたのはずっと 後 ( のち )の話、最初 凡人 ( ぼんじん )大衆の群を面白がらせ、是を何でもかでも土地のものとして、守り育てて行こうという気にならせた元の力は別にあり、それは技芸というよりもむしろ宗教的で、ことに外から入って来たものが多かったのではないかと思う。 すなわち仲間の大勢とともにみんなのする通りに飛び 跳 ( は )ねまた歌っているということが、まず大きな楽しみであり心強さであった期間が 暫 ( しば )らくつづき、それからおもむろに次々の改良と応用とが企てられるようになったものらしい。 鹿島事触の足跡は絶えて年久しく、是と 弥勒 ( みろく )の 踊歌 ( おどりうた )との関係は尋ね 難 ( がた )いが、少なくともかつて何らかの形をもって、このいわゆる路頭託宣が行われなかったならば、とうてい持ち運び得られまいと思う地域にまで、この一種の歌は分布し、しかも多くは祭礼の日の踊に 伴 ( とも )のうている。 私は問題がじつは是より外にあるのだけれども、ここを通って進むのが、最も解釈に近づきやすい道のように感じている。 鹿島踊という踊歌が、現在またはごく近い頃まで行われていた地域は、だいたいに東日本に偏している。 小寺氏の辞典に拾い上げられた例の中で、一ばん鹿島から遠いのは 越後 ( えちご ) 頸城 ( くびき )地方の弥勒歌で、是だけは祝宴の席に歌われるとあって、神社の祭礼とは関係がないようだが、歌の章句にはやはり前に掲げた「世の中はまんご 末代 ( まつだい )」があった。 それ以外には多摩川上流の 小河内 ( おごうち )村の鹿島踊でも、 下総 ( しもうさ ) 印旛郡 ( いんばぐん )の村々に分布するものでも、 安房 ( あわ )の半島から 伊豆 ( いず )、大島さらにその対岸の幾つかの海村に現存するものでも、いずれも一年にただ一度の大祭の日の催しとして、住民総員の熱意を傾ける 晴 ( はれ )の行事となっていたのは、単なる流行とか好みとかという以上に、何か下に隠れたる共通の理由が、あったことを推測せしめる。 箱根山 ( はこねやま )を西へ越えると、今はまだ一つだけ、 遠州 ( えんしゅう )島田の大祭に、鹿島踊が出たという話を聴くのみで、それも詳しいことは知っておらぬが、是は自分たちの今までの注意が足りなかったためというのみで、是ほどの東西交通において、大井川が一方の終端ということは多分は有り得まい。 そうすると分布はどこまで及んでいるとするか。 名がまず消え失せて感覚はなお残り、 手振 ( てぶ )り歌言葉の 端々 ( はしばし )が、古い姿を 留 ( とど )めているという例が、是からも少しずつ集まってくるのではないか。 私のひそかに興味を寄せているのは、いわゆるみろく船の章句には、明らかに二度以上の改定が行われている。 土地々々の空想も参加しているにちがいないが、なお根本には鹿島の神徳を説く点の共通が失われていないのは、単に伝来の経路を明らかにする以上に、或いはまた是をしも収容し得たような、以前の神社信仰の本質を、 窺 ( うかが )い知らしめる、一つの手がかりになるかもしれない。 したがって将来のもっと 弘 ( ひろ )い比較のために、あらかじめやや細密にこれを検討しておく必要がある。 各地の鹿島踊歌のうち、 武州 ( ぶしゅう )小河内のものには 紛乱 ( ふんらん )があり、全くちがったコキリコ踊と 繋 ( つな )がって、もう意味が取れなくなっている。 大島 元村 ( もとむら )の吉谷神社、正月十六日の踊歌というのは、今伝わっている新らしい事触の言葉と近く、よほど遊戯味の多いものになっている。 島に事触の渡って行ったことは考えにくいが、或いは別に海上の宣伝方法があったものか、またはこれを招致するに適するような、特殊な信仰の 素地 ( そじ )があったのか。 何かまだ我々の知らない理由が有ったらしく、 眼近 ( まぢか )く 相対 ( あいたい )する伊豆東海岸の各地から、 相州 ( そうしゅう ) 足柄下郡 ( あしがらしもぐん )の浦々にかけて、祭にこの弥勒歌を踊ったという例が多く、しかも歌の 詞 ( ことば )は一様に、かえって大島のものよりは古風なのである。 熱海 ( あたみ ) 来宮 ( きのみや )の七月十六日の例祭に、古来行われていた鹿島踊の記録は、かなり精密なものが『民俗芸術』三の八に報告せられている。 附近の幾つかの村のも是に準拠したものか、歌の 詞 ( ことば )などは互いによく似ており、 俚謡集 ( りようしゅう )に出ている次の 安房郡 ( あわぐん )のものも大同小異である。 ちはやふる神々をいさめなれば みろく踊のめでたし まことやら熱海の浦に みろく御舟が着いたとよ ともへには 伊勢 ( いせ )と 春日 ( かすが )の 中 ( なか )は 鹿島 ( かしま )のおん 社 ( やしろ ) 云々 他にもまだ色々の歌はあるが、鹿島踊というからには是が 元歌 ( もとうた )であったろう。 この「熱海の浦」の句を、足柄下郡の方では「 真鶴 ( まなづる )みなとに云々」と歌い替えており、安房では 本 ( もと )のままに「鹿島の浦に」と歌い上げていた。 すなわち『 鹿島志 ( かしまし )』などに出ている「世の中は 万劫末代 ( まんごまつだい )」という初の句を、「まことやら」という想像の語に改めたのみで、だいたいに以前の構造を保存したものが、太平洋岸の是だけ弘い区域に、ついこの頃まで残り伝わっていたのである。 伊勢と春日とを 招請 ( しょうせい )した、一種 東国風 ( とうごくふう )ともいうべき三社信仰は、推理によってでもほぼその成立の年代を明らかにし得られようが、それがはたして私の 謂 ( い )う 世直 ( よなお )し神の、遠く海上よりこの国土を訪れたもうべしという伝承の、起原を成していたかどうかは、そう簡単にはきめられない。 それよりも前に考えてみなければならぬのは弥勒の船、この人間の 遁 ( のが )れがたい苦悩と哀愁を、いつかは完全に抜き棄てんがために、 下生 ( げしょう )したもうべしという 仏様 ( ほとけさま )が、やはり船に乗り水を渡ってこの岸にお着きなされるものと、最初から想像せられていたかどうか。 或いは 漫々 ( まんまん )たる大海によって取り囲まれたる島国である故に、ここのみはそう解せずにはおられなかったか、ただしはまた別に元からの是にやや近い言い伝えが、常人の心の底に潜み残っていて、迎えて彼の信仰をこのように育て上げたのではなかったか。 それを考えて行くためにも幸いにまだ僅かな資料がある。 かつて鹿島の宣教が、今よりもずっと盛んだった時期があるにしても、人間の 脚 ( あし )には 大 ( おお )よその限りがある。 鳥も通わぬとさえ言われていた南の南の島々に、今でも行われているという年々の弥勒踊が、この東国の同名の行事と、幾つかの類似をもっていて、しかも鹿島との因縁が 捜 ( さが )し出せないのは大きな意味がある。 是ももとより 斯 ( か )くあれかしのわざおぎではあったろうが、その懐かしい幻影の種はどこにあるか。 ことにミロクという名の起こりは何に 由 ( よ )るか。 八重山 ( やえやま )諸島の 節祭 ( せちまつ )りの歌と行事、一方には 宮古島 ( みやこじま )の 世積 ( よづ )み 綾船 ( あやふね )の古伝等に引き 比 ( くら )べて、私は今改めてニライという海上の浄土のことを考えてみようとしているのである。 [#改ページ] 肥前 ( ひぜん )の 下五島 ( しもごとう )、昔の 世 ( よ )の 大値賀島 ( おおちかのしま )の北部海岸に、 三井楽 ( みいらく )という 岬 ( みさき )の村が今もある。 遠く『万葉集』以来の歌に出ているミミラクの崎と同じだと、今日の人はみな思っている。 『万葉集』は巻十六に歌が一首出ていて、そこに「肥前国 松浦県 ( まつらのあがた ) 美禰良久崎 ( みねらくのさき )」とあり、また『続日本後紀』の承和四年の記録にも、多分この地のことだろうと思われる松浦郡の 旻楽 ( みんらく )の崎という地名がある。 私の想像では、とにかくこの崎は早くから大陸に渡る船が 此処 ( ここ )まで行き、もしくは向うから 還 ( かえ )って来た船が 茲 ( ここ )に 船繋 ( ふながか )りして、 風潮 ( かざしお )の 頃合 ( ころあ )いを待つといった、海上の要衝として注意せられていたのである。 一方にまたミミラクの島という歌は、それからずっと後の幾つかの歌の集に出ていて、その中で一番有名なのは 源俊頼 ( みなもとのとしより )の『 散木奇謌集 ( さんぼくきかしゅう )』の中の、「 尼上 ( あまうへ )うせたまひて後、みみらくの島のことを思ひ出でてよめる」という 詞書 ( ことばがき )のある歌であるが、 みみらくの 我日本 ( わがひのもと )の島ならばけふも 御影 ( みかげ )にあはましものを と 謂 ( い )うのは、この島に行けば、亡くなった人の顔を見ることができるそうなという言い伝えが、この時代にあったことを暗示している。 「我日本の島ならば」とあるのは、すなわち日本でなかった 何処 ( どこ )かの海に、その伝説の島はあると伝えられたので、下五島北岸の同名の崎は、むしろそれに基づいて後に生まれたものであり、一方の島の名のミミラクは起源がもっと久しく、或いはこの『散木奇謌集』などに出ているように、 其処 ( そこ )へ行けば死んだ人に 逢 ( あ )うことができるというような伝説が、 夙 ( はや )くからあったがためではないか。 この点が私の新たに心づいたこの問題の出発点なのである。 すなわちこういう空想上の名前がもとからあった故に、日本の一番突端の、外国に最も近く、さまざまの人の集まってくる 処 ( ところ )を、新たにまたミミラクの崎と言ったのではないだろうか、ということを是から考えてみたい。 文献の上から言うと、『万葉集』の巻十六にしても、『続日本後紀』の記事にしても、みな『散木奇謌集』などの時代よりは古い。 従って或いは崎の名の方が前にできていて、その珍らしい地名の評判から新たに国の外にそのような 奇怪 ( きっかい )な島、そこに行けば死に別れた親はらからにも 逢 ( あ )えるというような、また一つの同名の島を空想し始めたとも、考えられぬことはないようだが、それには或る程度の反証が自分には挙げられる。 単にミミラクの島という名が文献の上に現われないだけで、日本に古くから伝わっている死者の国、それも海の 彼方 ( かなた )に隔絶して、 稀々 ( まれまれ )に生者も 往 ( ゆ )き通うと信じられていた第二の世界が、我々の古典においてはネノクニであり、またはネノカタスクニとも呼ばれており、それとミミラクとの繋りは説明し得られる。 故に、それを日本の西の突端、外国に渡る境の地、是非とも船がかりをしなければならぬ 御崎 ( みさき )の名にしたのにも、埋もれたる意味があるのではないか。 たとえ『万葉集』や『続日本後紀』の時代であろうとも、そこにこういう名を付けるためには、何かそれ以前からの伝説がなお民間に残っていることを必要としたのではないか。 今までの世の考証家たちは、とかく記録の前後ということに 囚 ( とら )われてしまうようだが、我々の忘れ残りは、必ずしも文字や土器石器の間だけに限られてはいない。 そこで最初にはまず 根 ( ね )の国の問題、是がいかなる変遷を 累 ( かさ )ねて今日に伝わっているかを考えてみようと思う。 根の国という語は、日本に 常世 ( とこよ )の国という類の文芸語が現われた結果として、次第に記録の上には使われなくなっていて、それを説明する資料は乏しく、従ってすぐれた近代の学者の中にも、びっくりするような解釈の相違があって、今もなお多分に研究の楽しみを残している。 たとえば死後の世界を意味するヨミヂまたはヨミノクニという語は、今日も一部にはまだ現存するが、是がはたして漢字通りに光なき地下の国を意味したかどうか、確かな証拠もないのに、『日本紀』にも『古事記』にも、 夙 ( はや )くから「黄泉」という隣国の語を用いていて、さもさも人の 魂 ( たましい )が土の底深く、入って行くもののような印象を与えている。 私などの推測では、是はまったくネノクニという 我邦 ( わがくに )固有の大切な言葉に、やや無造作に漢字の「根」の字を当ててしまった結果、夙くこのような誤解を導いたものらしく思われる。 それというのも多数帰化人の文化の知識を重用して、国の口語の相応に発育し複雑化して後まで、なお久しい間自分の表記法を設定せず、いわゆる万葉式の不自由きわまる書き方を、最近の 候文 ( そうろうぶん )時代まで、守りつづけていた 公 ( おおや )けの過失のためであった。 もちろん漢字の「根」の字とても、根源とか根本とか、応用の区域は次第に拡張しているが、その起こりはやはり地下に入って行くものにあったらしいに反して、こちらのネ(根)の語の基づくところはどうやら別にあったらしく、しかも世に出て働くために、一生懸命に一字ずつ漢語を学んで行く人々は、そういう根本のちがいまでは経験する機会がない。 すなわち上代の人もまた上代なりに、思いちがいをする場合が有り得たのである。 久しい年月を重ねるうちには、そういう誤解もまた固定することがある。 今日も「地下に 感泣 ( かんきゅう )す」だの、または「地下の霊もし知るあらば」だのと、平気でいう人もぽつぽつある。 人の 亡骸 ( なきがら )を深い穴の底に、ことんと入れ.

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【あつ森】金のバラの作り方手順と増やし方【あつまれどうぶつの森】|ゲームエイト

あつ森青い花咲かせ方

お金の効率的な稼ぎ方 カブを売る 毎週日曜日に島にやってくる、ウリから購入した「カブ」を売ることで稼ぐ事ができます。 購入したときのカブの価格よりも高いカブ価のときに売ることで、 何万単位で稼ぐことも可能です。 そのため、カブの買取価格が高い島にお出かけして売ってくる、という方法で稼ぐ事もできます。 魚・虫を売る つりざおやあみで捕まえる魚や虫を、商店で買い取ってもらうのが一番効率的です。 種類によって金額は様々ですが、1日で集められる数の上限はありません。 そのため魚や虫、貝を売ることは、『あつまれどうぶつの森』において、基本的なお金稼ぎの方法となります。 5倍で売れる 案内所をリニューアル後、島に来訪するようになるレックスとジャスティンは、虫や魚を通常の1. 5倍で買い取ってくれます。 高額な魚や虫はあえて収納に残しておいて、来訪した際に一気に売却するのもいいでしょう。 なお レックスは虫を1. 5倍で、ジャスティンは魚を1. 5倍で買い取ってくれます。 ただし高額な虫は逃げやすいため、うまく捕まえられない場合は、自分が捕まえやすい虫をたくさん集めたほうがいい場合もあります。 以下で紹介しているのは、出現する季節が多い虫や、捕まえやすい虫です。 その中でも、買取価格が高めのものをまとめています。 蝶のため逃げにくく捕まえやすい。 他の蝶よりも動きは早いだけで、捕まえやすい虫。 捕まえるコツは「だるまさんがころんだ」。 がお金稼ぎに向いている。 特に背びれがある魚影のほとんどが、買取価格が高額の魚のため、積極的に狙っていくようにしましょう。 以下で紹介しているのは、釣れる時期が多い魚や同じ魚影の魚が少なく狙いやすい魚です。 SS 極小 の魚影はあと「クマノミ」のみのため、狙いやすい。 1年中釣れるため、夜の小さな魚影は積極的に釣るのがおすすめ。 フルーツを売る 木になっているフルーツは商店で買い取ってもらえます。 マイレージの達成も並行して行えるため、少しずつ集めて売却していきましょう。 フルーツは地面に埋めると5日で育ち実るようになるため、他の島で手に入れたら、自分の島で育てておきましょう。 木が育てば、フルーツは3日ごとに実るようになります。 「高額商品」を作って売る 高額商品は通常の2倍の価格で、家具を買い取ってくれます。 高額商品は商店解放後、日替わりで1つの家具が対象となり、対象の家具はDIYで作成できます。 DIYに必要な素材を貯めて、毎日欠かさず高額商品をチェックしましょう。 なお、たぬき商店が改築されている場合、高額買取の対象が2つになります。 材料に余裕がある場合や、普段あまり使わない素材を使う家具だった場合は、積極的に売ると良いでしょう。 ただし、「」や「」といった、 素材の売価そのものが高い物を使う家具は、売ってもあまり得をしないものが多いため、注意が必要です。 DIY家具を作って売る DIYで作れる家具は、素材のまま売ったときよりも高い金額で売ることができます。 素材がたまりすぎて収納を圧迫しているときには、DIYで家具を作って売却するといいでしょう。 集めやすい素材のため、序盤のお金稼ぎに最適です。 また、雑草は「」に売ると、お店の2倍の値段で買い取ってもらえます。 この化石は博物館のフータに鑑定してもらうと、高額で買い取ってもらえます。 1日で入手できる数は少ないものの、ひとつひとつの金額は大きいため、毎日欠かさず化石を集めましょう。 特定の離島に行く マイル交換で手に入る「マイルりょこうけん」を使って行く離島には、高額の虫や魚が大量に発生する島や、お金が出る岩だけがある島が存在しています。 いくつもある島の中の一つのため必ず行けるわけではありませんが、行くことができた場合にはかなりの金額を稼ぐことができます。 お金の稼ぎ方(1日の回数制限あり) 木を揺するとベルが落ちてくる 島にある木を揺すると、木の枝以外にベルが落ちてくることがあります。 金額自体は大きくありませんが、毎日木を揺らして素材集めと並行しながらベルを探してみるといいでしょう。 ベルや素材の他にも、家具や蜂の巣が落ちてくることもあります。 「」は捕まえると高額で売ることができるので、もしも見つけたときは捕獲に挑戦してみましょう。 石を叩くとベルが出てくる 島にある石を叩くと、素材が出る以外にもお金が出てくることがあります。 制限時間が決まっており、叩けば叩くほど金額が大きくなっていくため、時間内に最大数である8回叩けるよう頑張りましょう。 最大の8回叩くことができれば、合計で16100ベル手に入れることができます。 角に2ヶ所に穴を掘っておくと、石を叩いた反動で後ろに下がるのを防げるため、最大まで叩きやすくなります。 障害物が多すぎるとその場所にアイテムが落ちないため、ベルを全て出せなくなってしまいます。 光る地面を探そう 1日に1ヶ所、島のどこかに光る地面が出現します。 光る地面を掘ると1000ベル入手することができるため、毎日光る地面は見つけるようにしておきましょう。 今作でも掘ったあとの光る地面にベルを埋めると、金のなる木を育てられます。 時間操作を使ったお金稼ぎ お金を預けて利子で稼ぐ 案内所のタヌポートから、ATMを利用して、お金を預けることができます。 預けたお金に対して、日数の経過により利子が発生するので、これを利用したお金稼ぎが可能です。 お金を預けて、セーブする。 本体の日付を進める• ゲームを再開して、セーブして終わる• 本体設定から日付を元に戻す• ゲームを再開してセーブして終わる• 手順2に戻る 時間操作を利用して、 最大9999ベルを利子として増やすことができます。 預けた金額が大きいほど、利子も増えるので、進める日付を減らすことが可能です。

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