真如苑 おかしい。 教団データベース(新)

真如苑

真如苑 おかしい

宗名 真如苑 包括法人名• 総本山 燈檠山真澄寺(とうけいざん・しんちょうじ)• 立教開創 1936年2月8日• 1951年、施行後、1953年にによりとして認証。 本尊 (くおんしょうちゅう・しゃかむににょらい、自刻の。 経典 大乗(正依経、傍依としてと等大乗経典、大方広佛荘厳経 華厳経 も重視。 なお、・法華・をもって真如三部経と称呼する。 (いとう しんじょう、1906~1989)• (いとう ともじ、1912~1967)• 苑主 (いとう しんそう、1942~)• 現代表 米村彬(所轄包括宗教法人代表役員)• 信者数• 所在地 東京都立川市柴崎町1-2-13 略史 草創期 真如苑の開創者、真澄寺開基上人・伊藤真乗(・文明)と妻・伊藤友司 は共に北巨摩郡出身。 真乗は、高等小学校卒業後、に進み卒業した。 1923年、上京して(現NTT)購買部で働きながら、正則英語学校普通科(現・)を卒業し、ついで高等科に進学するも、に入るため 英語学校を辞した。 まもなく電信局を退職し、写真機材店に就職した。 1926年の徴兵令により、東京・立川の管下に入営し、の撮影等に携わった。 除隊後は、(のちの株式会社)に入社。 勤務の傍ら、少年期に父から継承した、伊藤家家伝の易学研鑽のために大日本易占同志会に入会、易を学び、鑑定により人生相談に応じるなどした。 真乗は易学研鑽の途上で知り合った真言行者の紹介で、雑司ヶ谷の天明教会(部)先達 浦野法海と縁を結んだ。 真乗は、少年期に信者であった母の影響で天理教に親しんだ。 のの檀家総代であった父は、老師に就きをしていた。 真乗は父から禅を学び、の流れという、伊藤家一子相伝の家学であるを受け継いだ。 上京後は、、、またの心霊科学にも触れ、航空機開発の技術者として先端科学知識を培う傍ら、父母の衣鉢を継ぎ、生来の宗教的情操を育む青年時代を過ごした。 1932年4月に遠縁の友司と結婚してのちは、夫婦で新宿淀橋のキリスト教会にも通い野外伝道にも携わった。 妻・友司の祖母は法華行者で霊能家であり、明治初年、横浜で落としなどのを行っていたという。 祖母の霊能を継承した伯母もまた2代目霊能家として活動していた。 1935年暮、信仰を深めるべく諸教を研鑽、真言密教を学ぶうちに本尊として仏像を迎えたいと考えていた伊藤夫妻は、東京市牛込区肴町(神楽坂上)の仏師宅で遇った を立川駅南口(東京府立川町南幸町)の自宅に、翌正月早々から寒三十日の修行に取り組んだ。 1936年2月4日、寒修行満願の夜、友司は入神状態となり、居合わせていた伯母から、祖母から続いたを受け継いだことを告げられ、友司は祖母から数えて3代目の霊能家となった。 これを受けて真乗は、4日後の2月8日、会社勤務を辞し、宗教活動に専念することになった。 現在、真如苑ではこの日をもって立教開創の日としている。 この月、2月26日、が勃った。 戒厳令下の3月28日、真乗30 歳の日、明治憲法によるに沿い、自宅をとし「立照講」を届出、「 」として合法活動を講じた。 5月19日 、総本山に上り、道場にて戒師のもとの儀に臨み、得度畢の辞令を得た。 初期の活動は、真乗の易占と醍醐寺で修めるに拠る、、によるものが主であった。 その後、次第に友司をとした霊意を受けての指導が取り入れられていった。 1938年10月、醍醐派管長 、東京府知事の認可 を得て、後に「 」と呼ばれる道場が現在地に完成し、組織も「立照閣」から「 真言宗醍醐派立川不動尊教会」へと改められた。 1939年2月5日、真言宗総本山醍醐寺 特派阿闍梨大導師のもと、真乗願文奏上、浦野法海経頭による落慶法要が営まれた。 道場建設場所(現在地)は、友司による霊意により選定された。 真乗は醍醐寺で、1939年10月27日、三宝院灌頂堂道場にて入壇、三宝院門跡大僧正のもと伝承の(醐山に伝わる法流)を畢え 、更に本宗部へと上行をかさね 、1943年3月5日、傳戒大阿闍梨 醍醐寺座主 三宝院門跡佐伯恵眼大僧正のもと、醍醐寺三宝院灌頂堂にて 、三宝院流方によるを畢め、となった。 この間、1941年3月、真言宗醍醐派管長の命に、東京府北多摩郡村山村萩ノ尾、一住坊常宝院の特命住職を拝命。 明治初年、新政府による 再興の布告、(1868年)につづくの激化、(1875年)以降、衰微していた()の修験寺院の特命住職として、廃寺然と、衰微に瀕していた堂刹再興に取り組んだ。 同年3月31日付、文部当局の意向に、仏教は十三宗五十六派から 十三宗二十七派 に統合、真言宗各派も合同し「大真言宗」となる。 真乗が主管する二院も、合同真言宗第十五教区 (東京府下 二市三郡)第二組 に所属 、立川・村山を往復し寺門運営に当たった。 1942年4月、戦時下、統制がより厳しくなったによる制約に、宗教結社「常宝会」を結成届出 、篤信信徒に呼びかけ有縁の各地に支部を結成 、常宝院主として復興に努め、特命住職の責を果たした。 同じく村山郷ので、和銅3年(710年)、開基とされる龍華山真福寺 の第八世 法範が醍醐三宝院より法流を相続 、18年、発布(1613年)ののち当山派法流が村山に定着したのは年間とある。 ここに、真乗阿闍梨は、年中、真福寺塔中六箇寺、上院坊 権大僧都法印 俊慶が萩ノ尾に引寺し「一住坊」と改正 以来、代々当山派修験職として継承され、明治の混乱期も乗り切った堂刹三百年の法統を廃絶させることなく護持し得た。 この「常宝会」の同志的結集が戦後の独立、新たな宗団の形成に結んでゆく。 僧階もからへと昇補した。 1945年8月の後、廃止、につづくの廃止による合同解体決議、各宗各派は分派還元に向かう。 12月28日、公布に伴ない、1946年2月、立川不動尊教会(真澄寺)は真言宗を離脱し、新たに宗団を形成。 同時期、茨城県霞ヶ浦畔の古寺、歩崎山長禅寺 本尊 十一面観世音菩薩立像 が包括寺院となるなど、戦時下結成の常宝会以来の活動が実を結び、都区内はじめ、山梨、埼玉、山形と各地に塔中寺院も充実、1948年には名称も「 」へと改められた。 1950年8月21日、不祥事により教団を去った元教務総長の地位にあった青年僧が、前年の夏、修行を名目に体罰を受けたと真乗を訴えたことにより、真乗が逮捕された。 1952年5月7日、一審・東京地方裁判所八王子支部では有罪と認定し、真乗に傷害罪懲役1年の実刑判決を下した。 1954年1月30日、東京高等裁判所の控訴審判決では、一審の判決を変更し、体罰に関しては宗教上の行為として無罪。 また、告訴人の一部事実誤認、本件の動機、目的、本人の経歴などを総合すると地裁判決は重すぎ失当であるとしつつも、教団の監督者としての責任を問われ、真乗に傷害罪懲役8月・執行猶予3年の判決を下した。 この事件は「 まこと教団事件」と言われ、をにぎわせた。 この事件は、一般に新宗教を淫祠邪教視する社会風潮によるものとする見解が有力である。 真如苑が当時加盟していた (新宗連)は、「当然無罪となるべき事件だったが、官憲やジャーナリズムを始め世間一般が、新宗教といえば実体を見極めずに邪教視、弾圧しようとした、そのころの風潮を露骨に示す実例」と総括した。 教団存続が危ぶまれる事態に真乗の妻・友司が第3次吉田内閣の国務大臣の自宅を訪れ、樋貝は弁護士を紹介した。 その後、樋貝が死去した後、毎月の祥月命日には欠かさず墓参りに来たという。 真如苑としての出発 この事件による教団の打撃は大きく、教団は危機的状態になったが、立て直しをはかり、1951年にを所依の経典とし「 真如苑」と改称。 1952年7月、にに基づき、書類を提出し、翌年5月に認証された。 真乗は管長を辞し教主となり、友司が苑主に就任した。 1957年3月、教主真乗が新道場の本尊となる丈六 約4. 8m の大涅槃像 塑像 を自刻造立、謹刻開始から完成まで80日という短時日での聖業であった。 翌1958年5月、新道場が落慶。 これを機に、涅槃経を主軸とする教理体系を充実、まこと教団時代に開講、開発した教師養成機関「智流学院」「接心修行」を軸に、体制を出家仏教を基盤とする在家仏教教団として整備、このことがのちの教団躍進の嚆矢となった。 また従来の僧衣を平服・襟袈裟 折五条袈裟 に、剃髪から有髪とし、真乗も円頂から蓄髪となって、出家・在家の隔てを超えての独自の修行法確立に、戦後混迷期の革新的在家教団として面目躍如たるものがあった。 1966年3月、より、教主真乗に位、苑主友司 僧名 眞如 に権大僧正位が贈られた。 7月、タイ国・パクナム寺院より、仏舎利が奉戴された。 11月、真如苑一行が、タイ国で開催された「第8回」に日本代表として出席、その後インドを巡り、仏跡を訪ねた。 1967年6月には、「欧州宗教交流親善使節団」として欧州7ヵ国とイスラエルを訪問、英仏各仏教会はじめ聖書協会との交流、6月28日には、において、と謁見。 欧州帰国後の8月、苑主友司が急逝した。 友司には、醍醐寺より、女性として初の大僧正位が追贈された。 苑主・友司没後~開祖死去まで 1967年8月、苑主友司の没後、70年代より急速に教勢が伸長し、80年代後半には、公称信者数200万人と発表した。 この頃より信者数200万人という数字がメディアから注目され取り上げられることが多くなったため 、真如苑は、真乗の死を期に、信者数を実数に合わせ、下方修正し発表した。 1973年3月、真如苑初の海外支部がハワイ(アメリカ)に落慶した。 1976年5月、醍醐寺金堂にて、真乗を導師として、醍醐寺開創一千百年慶讃法要が執行された。 1978年10月、真乗がタイ国を訪問、上座部仏教と交流を深めた。 1979年3月、立川総本部に十一面観世音菩薩を本尊とする発祥第二精舎が落慶した。 6月には、真乗が欧州5カ国を巡教、1980年5月にはハワイ、アメリカ本土に巡教した。 1983年10月、真如法燈継承の儀により、三女、四女真玲が法流を相承した。 1984年4月、醍醐寺金堂にて、真乗を大導師として、、真玲を副導師として、弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要が執行された。 1989年7月、教主真乗死去により、伊藤真聰が苑主・真澄寺首座を継承し、継主となった。 近年・開祖の死去以降 1992年3月、醍醐寺より、継主真聰に大僧正位が贈られ、1997年9月11日には、教主真乗が興した密教法流「 」を顕彰する「 」が醍醐寺に建立された。 2002年、(一部)の旧日産自動車工場跡地106ヘクタールを取得した。 2006年3月、東京都立川市に総合道場となる「応現院」が落慶した。 2008年3月、海外流出が懸念されていた鎌倉時代の仏師・の作とみられる「像」(2009年、指定)が、ニューヨークのクリスティーズでオークションにかけられた。 真如苑はに依頼して落札した。 文化財としての調査と展示のため、その後7年間に寄託された。 また対外的には、文化財の海外流出を防いだと広報している。 2012年10月、東京都に友心院ビルを落慶。 2015年、真如苑は「地域のために役立ててほしい」と、旧日産自動車工場跡地の一部約3. 8haを武蔵村山市に無償譲渡した。 武蔵村山市は、公共・公益施設などを整備する方針としている。 2018年4月、運慶作と推定される大日如来坐像(重要文化財)などの仏教美術品を一般公開する文化施設「半蔵門ミュージアム」を設立。 教義と修行体系 真言密教の伝統や儀式を重んじつつ、社会生活の中で他者と協調し、融和の精神と利他行の実践に努めて心を磨くことを重視する。 真如苑の教えは、「伝燈法脈」、「」、「真如霊能」の三つの柱からなる。 「伝燈法脈」は、教主真乗がで修行し、醍醐寺座主から受け継いだの法脈である。 のちにそれを基盤として、教主真乗は、1997年に醍醐寺より顕揚されたといわれる流派、真言宗醍醐派管長、三宝院門跡、大阿闍梨、岡田宥秀大僧正が命名した法流「 」を確立することとなる。 「」は、真如苑の所依の経典であり、教えの根本とされる。 「」の要旨は、如来は不滅であり、永遠に存在するという「如来常住」、生きとし生けるものはすべて仏になれる性質を持つという「」、闡提でも成仏できるという「」、さらに理想の境地とされる「」の4つからなる。 「真如霊能」は、教主真乗が受け継いだ家伝易学による霊能と、苑主友司が祖母、伯母を通じて継承した霊能が一体となり湧出したものであり、今日の「接心」修行(後述)の基盤であるとされる。 また、このときこの世とあの世は一つにつながっているという「顕幽一如」という教えが示された。 あの世の諸霊は、その子孫や縁故者に対して影響を及ぼすことがあるとされる。 あの世の諸霊にをし、この世に生きている者が修行してを清めていけば、その結果として諸霊・現世の者も幸福が得られるという。 真如苑では、を集約したとする「3つのあゆみ」の実践が修行とされる。 「3つのあゆみ」とは、「歓喜」(行)、「お助け」(活動)、「ご奉仕」(教団内外における奉仕活動)をいう。 その他、朝夕の、法要参座、接心も主な修行とされている。 教義面では、密教の他に、諸宗教・・易などの影響がみられる。 護摩法要をはじめとする儀式面はに則ったものとなっている。 接心と霊位 真如苑では、「接心」と呼ばれる瞑想修行を行う。 接心修行は、日常生活における自分の心の在り方や自分の持つ傾向性を霊能者(ミーディアムとも呼ばれる)を通して、見つめ直すもので、日常生活の中で覆われてしまったが開発されるという。 接心には、有相接心・無相接心の2種類が存在する。 有相接心では、霊能者と信者が対座し、霊能者から信者に対して、心を磨くために必要なアドバイスが「霊言」として伝えられる。 霊能者から伝えられた霊言の内容を、自己反省し深め、日常生活の中で実践していくことを「無相接心」と呼ぶ。 霊位向上のための「相乗会座」という修行に参加するには、各霊位によって所定の活動実績(入信させた信者数、歓喜・ご奉仕の継続的な実践等)を満たすことが条件である。 「相乗会座」において祈りが深まり、相応しい境涯に達していると判定されることで次の段階の霊位を得られる。 霊能者となることで、接心において「霊言」を受ける側から、与える側となる。 心霊科学者の梅原伸太郎は、真如苑の霊能者を用いる方法は、やその前身に学んでいるとしている。 両童子・抜苦代受 真如苑では、伊藤夫妻の夭折した2人の息子を「両童子」と呼び、の両童子が信者の苦しみを身代わりとなって引き受けてくれるとしている。 これを「抜苦代受」と呼んでいる。 真乗は、長男が病死した際に、長男は皆の苦しみを代わりに引き受けるために死亡したと解釈した。 死んだには救済者としての役割が与えられ、教団の宗教活動の中で重要な役割を担うようになった。 ただし、当時は「身代わり」などと称し、「抜苦代受」の用語は使われていない。 長男・次男の死後には、信者の病人が救われるなどの救いの力が示されたという。 また、長男・次男の他界により、霊界との道交を開かれ、円滑な接心修行が可能となったとしている。 対外的活動 社会貢献・海外交流 1970年より、早朝の清掃活動が始まり、2020年現在、全国約5,800カ所の公共の場所において清掃活動を行っている。 1月17日のにおいて、震災当日に有志のが現地入りし、状況把握と共にボランティアメンバーを募集、22日より救援物資の積み下ろし、仕分け、班の補助についた。 信者の中にはに埋まった人を助け出した人もいる。 この経験を通して同年2月1日、真如苑救援ボランティアである「SeRV(サーブ)」が発足した。 4月時点ボランティアの登録者は1万人を超え、やの要請に応え、現地に派遣された。 その後、特に避難所となっているのやトイレ活動を中心に約7ヶ月間にわたるボランティア活動を行なった。 では、11,330人がボランティアとして活動した。 3月11日のにおいても、震災当日に教団施設の一般開放、SeRVはボランティアを被災地に派遣し、義援金を届けるとともに、支援物資の運び込み、炊き出し等を行った。 においては、8,742人がボランティアとして活動した。 SeRVは、1995~2015年において、国内外5ヶ国の59災害にボランティアを派遣した。 海外においては、の修復事業・現地技術者育成支援、小児病院支援、カンボジア留学生支援などを行うカンボジア・プロジェクトを実施している。 スリランカにおいては、1988年より幼児教育施設ランカスクールを設置し、2012年までに6,000人の卒園生を輩出している。 その他、、(ユニセフ) 、、、、、、など多方面の国連諸機関や各種NGO等への支援を行っている。 また、各種財団があり、財団を通じた社会活動も活発である。 醍醐寺との関係 伊藤真乗は醍醐寺で出家・得度したのち、伝法灌頂を法畢した(前掲)。 このような経緯があり、醍醐寺との関係が深い。 真如苑は、醍醐寺への寄進も行っており、2008年8月、醍醐寺上醍醐の准胝堂が火災で焼失した際には、准胝堂再建勧募2億円、2009年10月、醍醐寺の開祖・聖宝理源大師1100年遠忌法要においては、1億円の遠忌勧進募金があったことが醍醐派定期宗会で報告された。 詳細は「」を参照 入信・退会手続き 真如苑に入信するには「精進願い」に所定の事項を記入して提出する。 この時、登録費と会費を収める必要がある。 入信には、紹介者が必要であり、紹介者は導き親と呼ばれ、新たに入信した信者はその子信者となる。 導き親と子の関係は以後継続し、導き親は子信者の教化の手助けをする。 退会の意志があればだれでも退会することができる。 退会の際は、所定の用紙に必要事項を記入して提出する。 参考文献• 梅原正紀ほか『新宗教の世界 3』(大蔵出版、1978年) 絶版 新宗教教団をルポタージュし、民衆宗教の動向を探るシリーズ。 真如苑の章の執筆は、毎日新聞記者の横山真佳。 『理想』-世俗社会における仏教の可能性(理想社、1986年2・3月合併号) 当時、宗務課職員で助手だった宗教学者によるのと真如苑を考察、研究した論文。 立井啓介対談集『夢はゆめ色』(清水弘文堂、1987年) 絶版 詩人で非信者である著者が教団の信徒である各界著名人との対談した本。 立川商工会議所発行の月刊誌『とぅもろぅ』に連載された対談をカットせず、ほぼオリジナルな形で再収録。 山口富夫『真如苑 常楽我浄への道』(知人館、1987年) 絶版 幻想的共同体論をメインテーマとする著者が、初めて真如苑を内部取材したルポルタージュ。 1986年、にて得度。 一時、真如苑に在籍していた体験を元に批判を展開した論評。 ひろたみを『ルポルタージュ真如苑-その現代性と革新性をさぐる』(知人館、1990年) 絶版 フリーである著者が、まこと教団事件や長女・次女問題などの教団動向を加えて内部取材したルポルタージュ。 桜井秀勲『かっぽう着の法母(上・中・下)』(学研、1990年) 絶版 という言葉を提唱し定着させ、またや等の雑誌編集長を歴任した著者による、伊藤友司に関する物語風伝記。 一部、フィクションも含まれる。 沼田健哉『宗教と科学のネオパラダイム 新新宗教を中心として』第九章 真如苑の研究(創元社、1995年) 調査対象となる教団に入信した上で調査・考察された研究書。 真如苑の章は、沼田健哉『真如苑の研究』桃山学院大学社会学論集 1990 を修正・増補し、収録。 出口三平ほか『新宗教時代〈1〉』(大蔵出版、1997年) 『新宗教の世界 全5巻 』に続き、1970年代以降発展した教団等の80,90年代の動向を紹介した本。 真如苑の章の執筆は、ジャーナリストの。 『ブッダ最後の教え 真如苑-涅槃経に生きる人びと』(毎日新聞社、2001年6月) 毎日新聞社によるグラフ。 制作番組• () 関連項目• (真如教主) - 開祖• (摂受心院) - 霊祖、初代・苑主• (長男、教導院)• (次男、真導院)• (三女、真如継主) - 現・苑主• (四女) - 財団理事長• - 立飛駅付近への応現院へのアクセス路線として立川駅・玉川上水駅~応現院の路線バスを管轄する立川バスの営業所• 作と推定される仏像 - に展示 脚注 注釈• 「真言宗報」掲載 寺院名簿 1941• 小村の信仰学1995『日本大百科全書 12』 1986. 11 P566,P567 新宗教• 文化庁『宗教年鑑 平成28年版』 P15,P16• 文化庁『宗教年鑑 令和元年版』 P113• 文化庁『宗教年鑑 令和元年版』 P71• 伊藤真乗著『燈火念念』1976 「回想」• 『神変』 録事• 『神変』 修験道部 録事• 総本山醍醐派管長名による 『立川不動尊教会設立認可証』下付 1938年7月15日• 東京府知事名による 『立川不動尊教会設立認可書』下付(1938年10月4日)• 『燈火念念』1976 寄稿:岡田宥秀 醍醐寺座主• 『神変』 酉々往来抄• 2016年5月10日閲覧。 ひろたみを『ルポルタージュ真如苑』知人館 1990 P144• 真言宗 東京府宗務所 宗務所長 七生村・高幡山金剛寺• 東京府宗務支所 第二組長 : 田無町 総持寺• 『真言宗報』 合同真言宗 宗報• 真言宗(新義)豊山派: 明治29年(1896年)、村山 真福寺 醍醐三宝院末から 豊山派長谷寺に編入 〔* 『武蔵國北多摩郡中藤村眞福寺 離末承認書(1896. 4付)』• 武蔵村山市歴史民俗資料館 史料• 東京都公文書館 史料• 『一住坊明細書』 武蔵村山市立歴史民俗資料館• 『月輪』 立川不動尊教会 青年教養会• 12月20日、合同真言宗、東寺での臨時宗会にて、新日本の建設と各山の独立を決議。 ひろたみを『ルポルタージュ真如苑』知人館 1990 P16• 週刊ポスト2010年11月26日・12月3日号• 『戦後宗教回顧録』新宗連調査室(1963年) P70,71• 醍醐寺ホームページ 下醍醐 伽藍のご案内「」参照• 『中外日報』平成18年3月21日号• 朝日新聞 2008年3月25日• 『真如苑 不動産・仏像買い取る巨額経済活動の原動力』朝日新聞ウイークリー アエラ2010. 18 P34~P37• 建通新聞. 2020年6月5日閲覧。 2018年4月7日閲覧。 『中外グラフ』 平成21年12月19日号 14項3段目文章• 2016年5月10日閲覧。 井上順孝『宗教社会学を学ぶ人のために』 世界思想社 2016 p178,179• 真如苑. 2020年2月15日閲覧。 1995年4月10日付 「宗教・こころ」欄• SeRV20年史編纂委員会『SeRVボランティア活動の軌跡』文藝春秋 2016. 3 P108~P109• 2020年6月13日閲覧。 2016年7月12日閲覧。 2019年7月2日閲覧。 情報ページ• - 宗教情報リサーチセンター 真如苑が母体となって設立した諸財団・諸団体• 教団をサポートする• 災害時などのボランティア団体 - 真如苑救援ボランティア• 写真美術館• 高齢者福祉の推進を主業務とする• 国内外の大学院留学生への奨学援助、相互交流を主業務とする• 感染症対策の助成を主業務とする• 日産自動車村山工場跡地利用計画の• 等における市民活動公募助成事業を行う• 真如苑が所蔵する仏教美術品を一般に公開する文化施設• (1814年)• (1840年)• (1857年)• (1859年)• (1869年)• (1872年)• (1873年)• (1880年)• (1882年)• (1882年)• (1892年)• (1900年)• (1905年)• (1908年)• (1916年)• (1927年)• (1930年)• (1930年)• (1932年)• (1935年)• (1941年)• (1945年)• (1946年)• (1947年)• (1948年)• (1948年)• (1949年)• (1952年)• (1952年)• (1954年)• (1955年)• (1957年)• (1958年)• (1970年)• (1970年)• (1972年)• (1984年)• (1985年)• (1999年) 天理系.

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目次はこちら• 真如苑の始まり 真如苑は1936年に伊藤真乗さんという方が始めたまこと教団という教団を母体しております。 分類としては真言宗系ですね。 仏教色々日本の宗派があると思うんですけど、浄土宗とか浄土真宗とか日蓮宗とか色々な宗派があるんですけど、その中で真言宗っていうのに分類される宗教です。 真言宗っていうのは結構密教系っていう風に言われまして、呪文を唱えて悟りに至るみたいな、魔法も使える霊能力みたいなそういうのも結構親和性が強いんですけれども、開祖の伊藤真乗さんという方は色々キリスト教の施設に行ったりとか、さまざまな宗教に足を運んだりしながら結局その真言宗系に落ち着いたという事で、それ以来所属している団体です。 過去にあった暴力事件 1946年に真言宗からは離れてというか、まこと教団という名前で新しく宗教団体として歩み始めることになります。 まこと教団の時期に結構不祥事があって、開祖の伊藤真乗さんが信者に対する暴行だとかそういった容疑で有罪判決を受けてるという歴史がある教団です。 その後色々事件があったり社会問題があったりしながら、1952年に真如苑と名前を改めて今まで歩みを続けているわけです。 色々悪い噂というか要するにこれで真如苑に入ったせいで家庭が崩壊したとかっていうような噂はいっぱいあるんですけども、特別事件とか大きな事件というか表沙汰になることはなく、今日まで来ているということですね。 真如苑の宗教活動 実は私の叔父が真如苑に入っていまして色々話を聞くんですけど新宿とかを朝行ってゴミ拾いしてたりするような感じで、何とか唱えると何か良いとかっていう事も聞いたんですけど、特別それも強く推しだされているわけでもなく、それは叔父の性格もあるのかわかリません。 特別真如苑の人に強く勧誘されたという経験もありませんし、無理やり金を出させるようなという事もありませんので、事件自体はあったんですけれども昔の事なので今よりも暴力とか日常的だった時代ですから、意味合いも違ってくるのかなと思います。 現段階では特別危険のない日本の新宗教、おじさんとかおばさんの寄り合いの場になってる、コミュニケーションの場になってるという宗教といっても過言ではないのかなという風に思います。 宗教団体がおかしい以外にも理由がある 真如苑という所でひどい目に遭った、調べてくれとかそういうようなコメントが来るんですけれども、宗教団体っていうのは大きくなるほど変な人も入ってくるわけなんですよね。 宗教団体のせいでひどい目に遭ったのか、宗教団体が大きいからその大きい宗教団体の中の変な人にひどい目に遭わされたのかと、これはちょっと分けて考えるべきかなと思いまして、やたら勧誘が激しかった人とかが一人いたところで、特別その宗教団体が全体としてヤバイという事にはなりません。 真如苑を凄く悪く言ったりしたら、まじめにと言ったらおかしいですけれども、おとなしく信仰生活を送ってる隠れ真如苑の方とかもいると思いますので、そういう方を傷つけることにもなるので慎重に論評っていうかをされたらいいんじゃないかなという風に思います。 えらてんの個人的な見解 わたし自身は現在は真如苑については特に思う所はないというか、面白みもないというか特に掃除しているだけなんで面白みもないですけれども、それで楽しんでいる人がいるならいいんじゃないかなという感じです。

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n125nozoさん、真如苑から脱会

真如苑 おかしい

また、真如苑という言葉の意味は、以下の通りです。 「真如」とは仏教でいう真実そのもの、あるがままのものという意味で、「苑」とは囲いのない庭をいい 、つまり、真如苑とは誰もが仏教の教えに沿って、真実を見いだすことのできる場所という意味です。 引用: 1936年、真言宗の醍醐寺で修行を修めた伊藤真乗と、妻の友司 ともじ が仏の道に入ることを決意し、始まりました。 真乗はもともと、航空エンジニアとして働いていました。 その傍ら、人生相談を行なっており、それが評判になり、宗教活動に専念するようになります。 初めは「立照閣」という名前で活動していました。 その後、当時の東京府知事の許可を得て「真言宗醍醐派立川不動尊教会」へと改められました。 さらに宗教法人令公布に伴ない、「まこと教団」へと改称します。 しかし1950年にまこと教団が後述する事件を起こし、翌年の1951年から現在の「真如苑」となります。 現在は後継者として、真乗の娘の伊藤真聰 いとうしんそう が指導しています。 真如苑の教え 真如苑では、基本的な行いとして「3つの歩み」という修行を行います。 お歓喜 かんぎ• お救け• ご奉仕 順番に見ていきましょう。 お歓喜 感謝の気持ちを持ち、できる範囲でお布施をすることです。 誰でもお金には執着があるものですが、捧げることで、自分への徳が帰ってくるという教えです。 仏教にも喜捨という言葉がありますね。 意味としては同じことだと言えるでしょう。 お救け 他の人に、真如の教えを語り伝えていくことです。 お救けを通して、人に安心や喜びを感じてもらうことを目指します。 ご奉仕 代表的なものとして「早朝奉仕」があります。 公共の場を早朝に清掃するもので、こうした行動を通して、自分の中にあるモヤモヤもきれいにできます。 お釈迦様の時代にも、お掃除を通して悟りを開いたお話が伝えられており、それが元になっているようです。 また、他にも「接心修行」というものがあります。 これは瞑想を通して自分と向き合う修行で、いわゆるカウンセリングのようなものです。 そのため、現代人のニーズにマッチしており、信者数がこの10年で増加しているのは、ここに理由があるのです。 特に、若い女性信者が増えているようです。 座禅やマインドフルネスと同じような話なのかな、という印象です。 スポンサーリンク 真如苑は危険? 信者数が増えているということもあり、危険なようには見えませんが、実際はどうなのでしょうか? 先述したように「まこと教団」という名称の時、マスコミを賑わせた事件を起こしています。 それが「まこと教団事件」です。 1950年、不祥事により教団を去った元青年僧が、修行を名目に体罰を受けたと真乗を訴えたことにより、真乗が逮捕されたのです。 一度は無罪になったものの、教団の監督者としての責任を問われ、判決が一転し、有罪になりました。 この事件による教団の打撃は大きく、教団は危機的状態になりました。 しかし立て直しをはかり、1951年に現在の「真如苑」と改称することになりました。 まこと教団事件以降、特別大きな問題はないように思います。 ただ、真如苑の修行には「お歓喜」と「お救け」があります。 これはつまり、「献金額」と「勧誘実績」が修行成果として評価されるということです。 ということは、無理な勧誘や、入信すると多額の献金をしなければならないのだろうか?と思ってしまいますよね。 一方で、真如苑は1995年1月17日の阪神・淡路大震災で、積極的にボランティアに参加し、活躍しました。 その後、真如苑救援ボランティアである「SeRV サーブ 」が発足しました。 そして、2011年3月11日の東日本大震災においても、義援金を届けたり、支援物資の運び込み、炊き出し等を行っています。 「ご奉仕」がボランティア活動に繋がっているのはいいことですよね。 真如苑に入信している芸能人 真如苑には、かなり多くの有名な芸能人が関係していると言われています。

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