雫石 あ ねっ こ。 宮沢賢治も絶賛した雫石あねっこ♪

まんま

雫石 あ ねっ こ

石城 しずくいし-じょう は、岩手県岩手郡雫石町字古館の標高200mにある丘城で、比高は10mと、周辺より少し高い所にあります。 別名としては、古くは滴石城と書き、 ・八幡館とも呼ばれました。 最初の築城は不詳ですが、 時代のはじめに、平忠正の孫・平衡盛が、大和国三輪より陸奥国磐手郡滴石荘に下向したとされます。 平衡盛 たいらのひらもり は、奥州攻めで戦功をあげ、滴石荘の戸沢村に屋敷を構えると、戸沢氏を称しました。 更に、その子・戸沢兼盛は、1206年に から攻められて、山を越えると、出羽国の山本郡門屋(かどや)に進出し、を築きました。 ただし、その後も、雫石は戸沢氏の領地として回復したようですが、戸沢氏の本拠は から戻ることはありませんでした。 その後、滴石の戸沢政安は、南部晴正の重臣である 主・ によって攻撃を受けたようです。 1540年、 には、石川高信をはじめ、福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸氏、玉山氏、工藤氏らが押し寄せました。 戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城にて戦いましたが敗れ、手塚氏は討死し、長山氏は自らの手で長山城を焼き払い、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ち伸びました。 現在の雫石城址にある八幡宮は、滴石城主・手塚左衛門の氏神でした。 その秋田街道の両側を挟むように、雫石城が築かれていたようです。 南部領となった滴石を、 の斯波詮高が攻撃したようで、一度は、石川高信に撃退されますが諦めず、1546年に次男・斯波詮真 しば-あきざね が入って雫石詮貞 しずくいし-あきさだ と称し3000貫文にて「斯波・雫石御所」を開きました。 この頃、雫石に改名しています。 また、遠野の 主・阿曾沼氏の一族である綾織広信 綾織越前広信 が、雫石御所を頼って逃れて来たとも、軍師として迎えられたとも言われています。 綾織越前は滝沢の地に、灌漑用堰を1586年頃に完成させています。 しかし、 の代になると、1584年~1586年まで何度も雫石城が攻撃を受けて、周辺を徐々に失います。 1586年、雫石御所の3代目・雫石久詮 しずくいし-ひさあき は、繋舘市城主・高橋出雲を に送って、和平交渉をしましたが高橋出雲は捕縛され、また南部勢に攻撃されました。 ついに、雫石久詮は「よしゃれ」の故事 後述 を残し、雫石城を捨てて戸沢氏の家臣・手塚左京に譲ると、陸奥・高水寺城に逃れたと言います。 その手塚氏も繋舘市城に退却したため、雫石城に残ったのは百姓ばかりだったとされ、雫石城は落城しました。 高橋出雲は許されて釈放され、手塚左京は仙北角館に落ち伸びたと言います。 雫石町の祝いの席では必ず「よしゃれ」が唄い踊られてきました。 これは、雫石城には水の手として、葛根田川上流から地下水路を使って用水を敷いていたそうです。 そして、この水路が南部勢に発見されないよう、茶屋を設けて、美人の女将に見張らせていたと言います。 南部勢は隠密を使って水源を察し、ついに茶屋に目を付けて、女将に水路の秘密を聞き出そうとしましたが、見破られてしまったという話が、歌詞になっています。 その後、踊りが付けられて、民俗芸能・雫石よしゃれになった次第です。 雫石城への交通アクセス・行き方としては、JR秋田新幹線・ 線の雫石駅からタクシーで約5分となります。 今回は止めることが見つからなかったのと、3月も終わろうとしている時期でも雪が降って来たため、道路から写真1枚だけ撮影して退散しました。 城址付近には駐車場が無いので、雫石駅の駐車場に停めると徒歩15分となります。

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[予約制]御明神線[あねっこバス(雫石町)]のバス路線図

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雫石町

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