北条 氏政 の 子 氏 房 が 主 に 支配 した の 所領 は 次 の うち どこ か。 後北条氏(ごほうじょうし): 七尾城の戦い

小田原征伐

北条 氏政 の 子 氏 房 が 主 に 支配 した の 所領 は 次 の うち どこ か

小田原合戦(おだわらがっせん は、18年 )にがを降した歴史事象・戦役。 後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を違反とみなされたことをきっかけ一方的に関白の地位を利用して起こした戦いである。 は秀吉に後北条氏討伐のを発しなかったものの、遠征を前に秀吉にを授けており [ ]、であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。 ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 、 小田原の役、 小田原の戦い、 小田原の陣、 小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。 北条氏康から氏政の時代へ 戦国時代に新興大名として台頭したは進出を志向してで、やなどを排除し、の、のとのを背景に関東進出を本格化させるとを継承した越後のと対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じくにおいて上杉氏と対峙する武田氏とのにより連携して対抗した。 戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻()を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信とを結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。 信玄がの途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていたと、同じく養子で謙信の甥のの間でが勃発した。 は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。 なお、勝頼と景勝はを結び8年()、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した。 氏政は氏直に家督を譲ってに隠居したあとも、 やなど有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。 上杉氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、とも和睦を試みているが天正10年()に信長・は本格的なを開始し、後北条氏もこれに参加している。 この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏はや駿河における武田方の諸城を攻略したものの、時期を逸したものとなった。 しかし、同年末ので信長がの謀反によってした直後に北条氏は織田家に謀反を起こし織田領に攻め込んだ。 織田氏家臣のの軍を敗退させたを経て、織田体制に背いた北条氏を征伐するために軍を起こした家康との間にが勃発した。 この遠征は家康が単独で行ったものではなく、織田体制から承認を得たうえでの行動であり、織田体制側からもが援軍として甲斐に出兵していた。 また、追って上方からも援軍が出兵される予定であったが織田信雄と織田信孝の間で政争が起こったため中止された。 家康は北関東の、、、らと連携しながら北���氏打倒を目指した。 北条氏は一時は東信濃を支配下に置いたが、が離反。 後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、10月に織田信雄、織田信孝からの和睦勧告を受け入れ、後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・を、それぞれ切り取り次第領有することで講和の道を選んだ。 だが、徳川傘下となった昌幸は勢力範囲の一つの割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し景勝を頼ることとなった。 後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。 既に房総南部のを事実上の従属下に置いていた北条氏は、北関東に軍勢を集中させることとなった。 北条氏は翌天正11年 1月に早速を攻撃すると、3月には沼田にも攻め込んだ。 6月、北条氏と家康の間で婚姻が成立した。 この婚姻成立は、天正壬午の乱のときと同様家康に対北条の後ろ盾になってくれることを期待していた北関東の領主たちに衝撃を与えた。 北関東の領主たちは家康から離れ、一斉に羽柴秀吉に書状を送り、秀吉に関東の無事の担い手になることを求めた。 秀吉も北条氏の無事を乱す行為を問題視したものの、当時の政権内では東国についての優先度は低く、10月末に家康に関東の無事の遅れを糺しただけで終わった。 それさえも翌天正12年 に小牧・長久手の戦いが始まると無形化してしまった。 天正11年11月末、が起こり北条氏と北関東の領主たちは全面戦争に突入した。 天正12年になると北条氏は宇都宮へ侵攻し、佐竹氏も小山を攻撃した。 両者は4月から7月にかけて沼尻から岩舟の間で対陣した。 天正13年 から15年 にかけて秀吉が西国計略を進める裏で関東の無事は放置され、北関東の領主たちは苦境に陥った。 北条氏は天正13年1月に佐野を攻撃し、当主の佐野宗綱を戦死させ氏政の六男・氏忠を当主に据えることに成功した。 また同月までにのを服属させた。 館林は南関東と北関東のに当たり、館林攻略によって北条氏の北関東への侵攻が容易になった。 9月には真田領・沼田に侵攻し、14年4月にも再度侵攻した。 北条氏は並行して皆川氏にも攻撃を加えた。 天正14年5月にいったん和睦したが、その後再び侵攻した。 皆川氏は上杉氏の助力を得て撃退に成功するが、天正15年に講和し北条氏の支配下にはいった。 また、天正13年閏8月には家康が真田を攻撃し、翌14年 にも再度侵攻を計画したが、秀吉が間に入って未遂に終わった。 天正15年12月、秀吉は北関東の領主たちに北条氏の佐野支配を認めることを通知し、現状を追認することを明らかにした。 天正16年 2月、北条氏直は笠原康明を上洛させ沼田領の引き渡しを条件に豊臣政権に従属を申し入れた。 「五畿内同前」と重要視していた九州の平定を天正15年中に終えた秀吉は、天正16年4月、の行幸を行った。 北条氏に対して氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否した。 京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けた。 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない• 今月中に兄弟衆を派遣する• 豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる 行幸には東国の領主たちも使者を派遣したが、北条氏は使者を派遣しなかった。 5月、東国取次の家康は北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求め、8月には氏政の弟の氏規が名代として上洛し、両勢力間の緊張は和らいだ。 また、12月に氏政が弁明のために上洛する予定であることを伝えたがこの約束は履行されなかった。 宇都宮周辺部ではおよびのがもともと親北条であり、宇都宮家の重臣で城主のも当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正17年()終にこれに屈し、那須一族とは主導的な盟約を結び、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。 さらに常陸南部にも進出し、佐竹氏背後の奥州のと同盟を結ぶなど、関東制圧は目前に迫った。 劣勢となった佐竹義重、宇都宮国綱、ら反北条氏方は秀吉に近づくこととなる。 沼田城割譲 年が明けて天正17年2月、北条氏直家臣のが上洛し、秀吉は北条氏が従属の条件としていた(沼田領)の割譲について裁定を行った。 また、 来年春または夏頃の上洛を氏政が提示したが、豊臣氏側に拒否されている。 当時、沼田一円は(一応、徳川氏の傘下という立場にあった)真田氏の支配下にあった。 秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、秀吉からすると譲歩に近い裁定を行った。 また秀吉は、北条当主の上洛ののちに沼田を引き渡すとし、これに対し6月5日付で北条氏直より、氏政が12月初旬に上洛すると伝えた(岡本文書)。 この上洛の約束より先立つ形、つまりここでも秀吉は譲歩する形で7月、秀吉家臣のと、徳川家康家臣のの立ち合いの下、沼田城は北条氏に引き渡され、真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた。 秀吉は天正13年に関白に就任しており、この裁定は天皇から「一天下之儀」を委ねられた存在である秀吉が行ったもので、この裁定に背くことはすなわち天皇の意思に背くことをも意味した。 この時点では北条氏当主の 12月中の上洛は前向きに検討されており、費用の調達や調整が行われている。 ただし、以降は後述の名胡桃城事件が起こるまで、北条氏から豊臣氏への音信・交渉は途絶える。 名胡桃城事件 11月10日、秀吉は佐野房綱に対し、氏政の上洛が無い場合、北条氏討伐のために関東に出馬することを伝えた。 一方同年10月下旬、北条氏は真田領となった領分の拠点であるに沼田城代を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した。 この事件は真田氏から徳川氏を通して秀吉に伝えられた。 北条方からは弁明の使者としてが上洛し、豊臣氏側からは先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。 秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。 しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した。 これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留や北条氏の国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際にと婚姻しを人質と��た上で上洛する厚遇を受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。 また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない」、「既に名胡桃城は真田方に返還した」と弁明している。 しかし同時期、上野主であるが下野のを攻めており、これも秀吉の施策に反する行為である。 11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の 11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した。 11月21日付でにも書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」「来春(年頭)に出兵する」旨を記している。 11月24日、秀吉が家康へ書状を送り、来春の出陣決定と陣触れを出したことを伝え、軍事の相談のため家康の上洛を要請した。 また津田盛月・富田一白を派遣して家康領内の駿河国沼津のに在番させ拠点地としての用意をさせること、北条からの使者は北条氏の返事次第で国境で処刑することも要請した。 このように家康に対しても北条討伐の意向を言明し、どちらかといえば北条氏と懇意であった家康の動向が注目されたが、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した。 また、 同日付で秀吉は北条氏に対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状を送った。 この書状は12月5日に三枚橋城に着いた津田と富田により、北条氏へ届けられた。 秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。 その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。 何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。 所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し、すなわち「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした」と述べている。 氏直は12月17日、北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた。 開戦 北条氏は小田原で籠城することを決定し、1月に軍事動員令を出している。 徳川家康は三男の長丸(後の)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた。 この人質は即座に送り返され、秀吉は徳川に対し領内の軍勢通過の際の便と、領内の諸城の使用を要求している。 徳川は2月中にかけて、大軍勢の領内駐留・通過の便宜を図るべく、領内の城や舟橋、茶屋の整備を行った。 2月中に、、徳川家康、、ら各大名が出陣し、徳川軍三万が24日にに着陣。 この長久保城は北条方の山中城と10kmも離れていない位置関係である。 24日に織田信雄が三枚橋城に到着、25日に徳川が着陣。 3月3日に豊臣秀次、の軍勢が到着。 2月20日、に、、、、、その他・らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し、出航。 2月27日、へ到着。 輸送としても、大軍勢と長期の合戦を想定して、清水港には20万石を越える兵糧が運び込まれていた。 3月に入ると、水軍は秀吉の到達を待たずに伊豆長浜城を攻略。 以降、西伊豆の防御が手薄と見た徳川水軍はが土肥高谷城、八木沢丸山城を占拠し、とは安良里城と田子城を、と西伊豆の諸城と重要港を落としながら伊豆半島を南下した。 北条方は伊豆の南端の下田城を防衛ラインとして水軍を集結させており、西伊豆の諸城砦には少数の陸戦部隊しか配置していなかった。 3月1日、秀吉はから北条氏の討伐を名目としてを賜り、から大軍を率いて東国に下向した。 北方()からはいわゆる北国勢(前田利家・・真田昌幸・)らが3月15日にへ進軍。 3月19日に秀吉が駿府城に入り、徳川がこれを迎えた。 27日、秀吉が三枚橋城に到着。 翌28日、秀吉は家康と共に北条方の拠点であるを視察して、長久保城に入った。 その他、のやのら東国・東北の諸勢力も秀吉の下に参陣し、所領安堵を受けている。 翌28日、北方では攻めを開始。 29日にはで山中城が攻められ、一日で陥落した。 開戦までの経過 後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にしたや、鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。 また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応しての拡大修築や、、などの築城を進めた。 また、それらにつながる城砦の整備も方面を中心に進んでいった。 一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。 また、陣触れ直後にに命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、1万枚で馬畜や穀物などを集めた。 や、らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送にあてがわせた。 には水軍を供出させたが、輝元当人には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。 豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。 を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である。 これに秀吉に恭順した、、、、、、、の関東勢1万8千が加わった。 なお、天正18年3月当時の参戦した大名のうち、官位、石高などの上位者は以下の通りである。 豊臣秀吉 - 従一位関白太政大臣。 織田信雄 - 正二位内大臣。 100万石。 秀吉旧主の織田家の当主(扱い)。 徳川家康 - 従二位権大納言。 130万石。 小田原北条氏と親族。 羽柴秀次 - 従二位権中納言。 43万石(豊臣家領内)。 豊臣家後継者。 上杉景勝 - 従三位権中納言。 「豊臣景勝」。 50~90万石。 毛利輝元 - 従四位下参議。 「豊臣輝元」。 112万石(安国寺・小早川領除く)。 毛利水軍は参加したが輝元本人は京都留守居。 前田利家 - 正四位下参議。 「豊臣利家」。 80余万石。 秀吉の個人的知己。 各方面での「総大将」や、講和交渉の窓口担当などにあたるのは、およそこの力関係に拠ると推測される。 なお豊臣政権内部での序列二位の実力者と目されていた(従二位大納言。 100万石。 )は、当時病気がちであり、畿内の留守居となり参戦していない。 豊臣側の主だった将兵 主力:、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、(兵のみ)、、、、。 約17万。 水軍:、、、、、毛利水軍。 約1万。 北方隊:、、、、、、。 約3万5千。 関東勢:、、、、、。 1万8千。 推定総計約21万。 後北条側の主だった将• 小田原城:、、、、、、、、、、、、、、、、、南條重長、、、、、、、、、、、、()、、酒井康治、酒井政辰、内藤直行(息)、、、、、、、、、、、、、、、、大胡高繁、• その他の城:(山中城)、(忍城)、(韮山城)、(松井田城)、(鉢形城)、(厩橋城)、(下田城) 豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、の三城を突破し、同時に水軍でをめぐって小田原に迫らせる方針であった。 一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も、支配下の諸将に小田原籠城を命じ、5万余の兵力を小田原城に集め、そこから精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。 主力を小田原に引き抜かれた各城の留守居部隊には、徴兵した中年男子などを宛てたが、守備し切れることを想定されてはいない。 佐江戸城などは城が空になったため、豊臣方に無抵抗で接収されている。 各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。 氏邦、氏照、伊勢貞運らは野戦を主張したが、氏規や松田憲秀らは籠城策を主張した。 氏邦は領内ではなく駿河国に打って出て、富士川などで会戦を行いたいと主張したが、この野戦策が入れられないことに不満を持ち、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となった。 こうして最終的に小田原籠城戦略が採られる事となった。 にはが率いる数千の兵が、さらになどにも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、小田原・箱根西方だけではなくその他の諸拠点、特に北方からの侵入軍を迎え撃つ城にもある程度の備えは配置されていたといえる。 豊臣秀吉の東征 東征軍の北条支城攻略 天正18年()春頃から豊臣軍主力は、かつてが打倒の挙兵の際に兵を集めた周辺に集結した。 には秀吉自身が に到着し、29日に に向け進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛ててそれぞれ攻撃を開始した。 山中城 と山中城などの位置関係• 攻撃軍の編成 合計67800人• 右軍 計18300人( 2,500人、 2800人、 3,600人、 8,700人、 700人• 中軍 計19500人( 17,000人。 家老、、など。 2,500人)• 左軍 30,000人• 控え 、ら• その他、(中村一氏配下)、(木村重茲配下)、、など• 山中城守備軍 4,000人(城主 、援軍 、、、援軍 、間宮信俊、間宮直元、、蔭山氏広、行方直清(弾正)、朝倉元春、多米長定、長谷川近秀、追沼氏雅、宇津木泰朝、等) の攻撃軍の大将として秀吉は、兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していたとする説がある。 北条方も西の関門であるこの城の重要性は重く考えていたようであり、武勇で知られた康郷ら松田兄弟のみではなく、一族の北条氏勝ら玉縄衆や間宮氏、蔭山氏らの援軍を、さらに諸家に命じて増援を割り当て、城に派遣している。 それでもなお、大要塞として構築してしまい、かつ開戦の直前までもなお工事が続けられ、豊臣氏に備えて足柄城などと共に増改築されていたが(岱崎出丸など)、故に未完であったともされる一大要塞である山中城を正しく完全守備するためには、4千人では全く人数が足りなかった、とも伝わる。 間宮康俊は前日に孫の直元を城から出し、小田原に送っている。 3月29日の朝8時半頃に豊臣方の攻撃が始まると、岱崎出丸(だいさきでまる)に攻め手が殺到した。 出丸守備の勢が銃撃などの猛烈な抵抗を行い、康俊は手勢を率いて突撃と退却を繰り返し奮戦、間宮衆は2時間ほど抵抗するが出丸は陥落した。 この際の一番乗りの戦功を挙げ、中村家の旗を掲げたのが渡辺勘兵衛(渡辺了)と伝わる。 攻め手は大手からの三の丸攻略の最中にが銃弾にてするなどの損害を出したものの、なお力攻めを続けた。 これについて、功を焦った豊臣秀次が無策にひたすら力攻めを命じたとも伝わるが、岱崎出丸と大手に猛攻を加えることで守備を集中させ、一方で徳川軍に西の丸を攻略させることで、城の欠点と守備兵の不足を上手く突いている。 豊臣方は総大将の秀吉が長久保城に到着する以前から、山中城周辺についても調査を行っており、その調査を基に軍議を重ねている。 これにより城の縄張りおよび攻略の糸口を掴んでいたとも推測される。 多数の損害を出しながらも諸将の活躍により郭は次々と陥落、西の丸が陥落した段階で本丸の松田康長は、兄弟や弟の松田康郷を逃した。 松田康長は手勢2百と共に本丸の建物に籠っていたが、「櫓を守っていた100人ほどの将兵が、怒涛の大軍に押し寄せられて敵味方一丸となって櫓ごと堀に転落」するような状況で守備方は壊滅し、午前中のうちに城は陥落した。 松田以下、間宮兄弟、多米長定、長谷川近秀、追沼氏雅らは戦死し、北条方の戦死は約2千人とされる。 小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの山中城が、豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城した。 この事実は小田原北条氏陣営に深く重い衝撃となった。 秀次の力攻めの方針により豊臣方にも結構な損害が出たが、それを上回るダメージを敵に与えたと言える。 その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に を落とした。 徳川軍は鷹之巣城に入城し、短期間だが本拠とした。 同じく箱根越えの要衝であった は・が守備していたが、山中城の陥落を知ると守将は主な兵をまとめて城を退出、小田原城守備軍に合流したため、翌日に徳川麾下の隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、4月1日に落城した。 、 河村新城などを含め、山中・足柄城を中心とした小城砦のネットワーク(箱根十城)も全て陥落ないしは放棄され、小田原城以西は豊臣方の勢力圏となった。 経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。 一柳直末の戦死を聞いた秀吉は深く落胆し、三日ほど口をきかなかった、という話が伝わる。 韮山城 韮山城の位置 天正18年()3月29日から6月24日まで続いた。 攻撃軍の編成 合計44,100人• 右軍 計8,400人 4,000人、 1,200人)• 中軍 計9,700人( 1,500人、 2,200人、 2,500人、 1,800人、 1,700人)• 左軍 計9,000人( 2,700人、 2,100人、 2,000人、・等 2,200人)• 旗本 17,000人• 韮山城守備軍 約3,640人(城主・、、、富永政家ら) では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。 そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。 籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康を交渉役として派遣し、北条領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。 下田城 下田港。 中央の岬が下田城址• 下田城攻撃軍の編成 約20,000人軍船1,000隻(水軍 、、、、、、、、毛利水軍(・・・・・など)、徳川水軍(、、など)• 下田城守備軍の編成 約600人(城主 、。 援将 江戸朝忠、吉良氏広、) 伊豆半島南部に位置し、北条水軍の根拠地であった は、北条氏直から全任を受けた清水康英が守備した。 西伊豆の諸城から兵と船を引き上げ、防衛ラインとして下田城に全てを集中させた。 この用意は前年度中から既に始まっており、梶原景宗などが合流して兵2800にて防備する予定であったが、梶原ら主力は小田原城の海上防衛に当るために引き揚げた。 一説には清水と梶原による主導権争いにより、梶原が兵を引き連れて去り、これを小田原も容認した、とも伝わる。 大型の安宅船などを動員し、手薄であった西伊豆を3月以降の瞬く間に支配下に置いた豊臣方は、4月1日に下田城攻めを開始した。 西伊豆から上陸した部隊は陸路からも城に迫った。 この上陸部隊と交戦し、3月25日に岩殿寺城で清水英吉(康英弟)が戦死している。 加藤嘉明らは下田港に上陸し、街を焼いて出丸を占拠した。 4月1日に徳川勢の本多重次・向井正綱らが安良里砦・田子砦を落とした。 3月29日の山中城の落城により進軍速度が速まったこともあり、秀吉からは「水軍を速やかに小田原沖に展開し海上封鎖するように」との命が下った。 攻城側は長宗我部元親ら2500を残し、主力の羽柴秀長、宇喜多秀家などの残りの将兵は東伊豆を北上した。 清水康英は総兵600余で約20日に渡って籠城抵抗した。 長宗我部軍は海上から大砲を打ち込み、北条方に損害を与えた。 4月7日には江戸朝忠の叔父の江戸満頼が戦死した。 4月23日、脇坂安治とが降伏を勧告し、康英は起請文を交わし開城した。 康英は河津の林際寺に退去した。 後北条氏配下のの、最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、他の伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上封鎖に加わった。 先に山中城落城から脱した蔭山氏広は居城の河津城に帰還していたが、子のらと共に戦わずに開城した。 以後は修善寺付近で蟄居した。 玉縄城 玉縄城堀切 先に山中城の落城の際に脱出し落ち延びた北条氏勝は、これを恥じて自害しようとしたが、家臣の朝倉景澄や弟の・らに説得され、手勢700騎を率いて居城の に逃げ戻り籠城した。 この際に小田原城の北を迂回するルートで玉縄に戻り、すなわち��田原城籠城軍に顔見せもなく合流することもなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。 その後、徳川麾下のらを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・)住職の良達による説得に応じ、4月21日に降伏開城。 開城後は徳川氏や、らが守備した。 以降氏勝は豊臣方として、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。 小田原城包囲 蓮上院土塁 山中城と周辺の諸城を落とした秀吉本隊は、4月1日に箱根山に本陣を移した。 諸将は箱根を越えて小田原に進軍し、海からは伊豆を経由して九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治らの水軍が迫った。 4月4日、徳川家康や堀秀政らが小田原の包囲を開始した。 5日、秀吉は箱根湯本のを占拠し、当初この寺を本営とした。 この寺は小田原北条氏の家祖とも言えるに由来する、北条氏のであった。 8日、韮山城を包囲していた軍勢の内、織田信雄らが小田原包囲に加わるために移動。 韮山城は蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らが継続した。 この包囲が成されていく間、城方からは抵抗らしい抵抗は無かった。 9日、小田原城中にいたが手勢100余と共に城を脱出し、の陣に投降した。 またこの頃、参陣命令を受けていた安房国のが、浦賀水道を渡って三浦半島に進軍した。 小田原包囲戦が始まると秀吉は小田原城を見通せる石垣山に を築き始めた。 また茶人のを主催とし大茶会などを連日開いた。 などの妻女も呼び寄せ、で温泉旅行などの娯楽に興じた��� 皆川広照が投降した際、一緒に茶人のが投降してきた。 宗二は秀吉の勘気に触れて逃亡し、北条氏に世話になっていた身であった。 利休の執り成しにより秀吉はこれを許したが、茶席を儲けた際に不作法があり、宗二は処刑された。 5月27日、包囲の陣中にてが病死した。 予想以上の進軍速度のせいでもあったであろうが、小田原に駆けつけた北条氏側の兵の中には、攻城側の包囲が完成してしまった後に到着してしまった者もいた。 だが秀吉は当人の希望通り籠城できるよう、包囲を通してやった、との話が伝わる。 北方軍(北国勢・信州勢など) 北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木房頼(常林。 の子)、(元・佐久野沢城(伴野氏館)主)をに潜入させ、佐久郡の で挙兵させたが、これは徳川家からが派遣され即座に鎮圧され、伴野は敗死し相木は上野国方面に逃走している。 また北条方は に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。 前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方軍は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻せんとした。 松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、与良が真田勢の先方の隊に打ち取られ、主力も真田軍と激戦になり、総兵力で圧倒的に劣勢であったこともあり、松井田城に退却し籠城した。 豊臣方は碓氷峠を越え、関東平野に侵入した。 松井田城 松井田城の位置 天正18年()3月28日から4月20日まで続いた。 松井田城攻撃軍の編成 約35,000人• 西部(追手) 約10,000人• 東部(搦手)・ 約18,000人• 北部 約7,000人(・ 約4,000人、(・信繁) 約3,000人)• 松井田城守備軍 約2,000人(城主 ) 北緯36度19分21. 5秒 東経138度47分31. 6秒 北方隊は 攻略に取り掛かった。 3月20日に総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ。 北方隊は城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けたが、城方の必死の抵抗により攻城は遅々として進まなかった。 北方隊は松井田城は包囲したまま、周辺の城塞を攻略してまわった。 一方の東海道方面では山中城が半日で落城したため、予想以上に小田原包囲が早まることとなり、北方軍は秀吉から松井田城攻略の督促を受けている。 焦った北方軍は攻城の勢いを増した。 守将の政繁は嫡子を脱出させ、自らは激しく抵抗するも、連合軍���猛攻の前に廓をひとつ、またひとつと落とされ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれ、総攻撃から一か月後のに終に降伏開城した。 以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった。 北方隊の関東平野侵入、制圧 前後して北方隊は4月17日頃に 国峯城、 の諸城、 (4月19日)、 (4月24日)、 (5月15日) (5月22日)、その他 西牧城、 石倉城、 、 など上野・武蔵北西部の各城を開城または攻め落とした。 西牧城には72歳の多米周防守長宗なる将が武蔵国から派遣されていたが、攻め手の松平康国兄弟により城は陥落、多米は城近くの大岩の上で切腹したと伝わる。 ほとんどの各城はそれぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。 松山城では当主のが主力を率いて小田原城にいたため、城代の山田直安以下、や金子家基、木呂子友則、若林直盛ら約2千300名が松山城に籠城したが、前田利家・真田昌幸・上杉景勝らに包囲攻撃されたために降伏開城した。 降軍の3千余騎が前田軍の先手に加わり、攻撃に参加した。 なお、この間に石倉城で松平康国が戦死している。 のも小田原に籠城しており、留守の城は母親のが守備していたが、妙印尼が国繁嫡男のを立てて桐生城を開城し、兵2千を集めて松井田城攻めに加わった。 これが評価され、戦後に妙印尼に対して常陸国牛久城5400石が与えられ、は存続することとなった。 4月末に前田利家は、降伏した大道寺政繁父子を伴って小田原包囲中の秀吉の下へ参陣している。 5月1日に自軍へ帰還しているが、護衛の軍勢を引き連れていたとはいえこの時点で既に、上野から小田原間に、豊臣軍の通行の妨害となるものが少なかったことが窺える。 なおこの往路で大道寺政繁は自城の河越城に開城勧告を行っている。 歴戦の要害・要衝である の本来の守将は先に松井田城で降伏した大道寺政繁であり、城は政繁の子(養子)のが大道寺氏の留守守備部隊を指揮していたが、政繁の降伏を受ける形で河越城も降伏開城し前田軍が入城している。 以降の大道寺氏の軍は秀吉方の道案内を務め、各城攻めにも加わっている。 武蔵国の平野部にある館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍が進出した形跡は乏しい。 浅羽城では当主の浅羽氏ら主力が小田原に籠城したため、生まれつき隻眼の姫や家老らで守備していたが、前田・上杉勢に攻められて落城し、姫は堀に身を投げた。 以来その堀跡の池では、魚は全て隻眼である、という伝説が残っている。 南方からの加勢 一方、東海道方面から進出した主軍は、圧倒的多数で小田原城を完全包囲していた。 秀吉は包囲勢から兵力を抽出し、北方隊を助ける部隊を編成し、に進撃させた。 に率いられた2万を越えるこの軍は前出の相模国(4月21日)や 佐江戸城、(4月27日)、と進軍した。 4月28日、秀吉は浅野隊に対し、河越城方面で北方隊と合流し、を攻略するように命じたが、浅野隊は翌29日に (4月29日頃)。 を陥落させると、そのまま方面に侵入した。 牛久城 浅野長政や、徳川家臣(・・・榊原康政・戸田忠次・)、玉縄城の降将であり道案内および開城説得役の北条氏勝らで構成された下総方面軍は、 、 、の と 、の 竜ヶ崎城、 、 江戸崎城(5月5日)、の拠点の (5月10日)、伝統ある武士団の本拠であった (5月18日)、 、両家の と (5月10日迄)、の 庁南城、 、 、 小見川城、 北生実城(北小弓城)、 、の 大崎城(矢作城)など、諸城を次々と開城させた。 このあまりの急進撃に、浅野に対して秀吉からは敵である房総諸将の不甲斐無さを詰った上で「房総諸城の攻略は(あまりに簡単過ぎて)戦功として認めない」とする書状が送られたほどであった。 ただし5月12日時点でも秀吉は浅野に対し、北方の鉢形城攻略軍に合流するよう指示を出していたため、相当な命令違反行動であり、5月20日には秀吉から浅野・木村両名へ、鉢形城へ向かわない件について長文の詰問状が送られ叱責されている。 つまらない城を二万の軍勢で請け取るのではなく、降城は二、三百人の使いを出して請け取ればいいから、早急に鉢形城に包囲軍に加われ、という旨が書かれている。 35度55分17. 80秒 139度38分18. 85秒 先の書状の20日時点での浅野らは、命に従い急ぎ軍を返して武蔵国方面に侵攻しており、 や後述するを攻め、時点で岩付の二の丸・三の丸を落とした、と秀吉に知らせている。 秀吉は「一人残らず討ち果たせ」「女子供は全て連れてこい」と命じたが、浅野は開城条件として城兵の助命をしてしまっており、25日にこの件での再度叱責と、急いで鉢形城へ向かうように、との指示を受けている。 ただし浅野は降伏開城処理のため、6月1日迄岩付城に留まっている。 この軍は6月8日には北方軍の前田利家らと合流し、忍城攻めに加わったのち、前田や上杉らとやっと鉢形城の攻略に向かっている。 これら房総・武蔵の諸城の異常ともいえる速さでの陥落の理由は、北方の諸城と同じである。 各城が本来動員出来得る兵力のほとんどは、小田原城の籠城戦のために動員されており、当主や城主自身も小田原城籠城に参加していたために、どの城も最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。 例を挙げると、下総の小金城のの動員軍事力は豊臣側が作成した『関東八州諸城覚書』には700騎と記されているが、実際には城主のら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されていた守備軍は200騎と軽卒300名であったとされる。 原氏の拠点のひとつ(北)生実城が攻略された際、城将のが酒井家次に討ち取られたとする説がある。 当主を失った原氏はしかし、嫡男のが小田原城に詰めていたため、原邦房を名代に立てて臼井城に立て籠もったが、上述の通り開城している。 本佐倉城の場合、北条氏からの養子であるも本来の血統の当主のも、共に小田原城に詰めていて留守であった。 北方戦線の箕輪城の場合、北条氏としては決して失いたくない重要拠点ではあったが、豊臣方の大軍勢と周辺諸城が続々と陥落していく中、その状況を見た城兵によるクーデターが発生し、主将の垪和氏が追放されて無血開城している。 ただし決して北条方が弱かったわけではなく、ある程度の兵士が確保されていたや、主将が指揮を執った前出の松井田城、東海道方面でも城主が守将となった伊豆方面の韮山城などは豊臣方も攻め倦み、それらの城を攻略する際は豊臣方にも相応の損失があり、進撃の速度は大幅に落ちている。 また、、を脱出し、で先に降伏した北条氏勝や重臣である大道寺政繁らの、元北条方の諸将による降伏開城の説得交渉に応じた城もあり、さらに彼ら降将による各城の攻略時の案内、具体的に言えば城の弱点のリーク、という情報的有利さも影響している。 有名な話としては、八王子城攻略の際に、降将から進言された裏門からの攻略を行った件が挙げられる。 岩槻城(岩付城) 岩付城の位置 天正18年(1590年)5月19日から22日まで続いた。 攻撃軍の編成 計20,000人• 約3,000人• 2,300人• ・など徳川勢• 岩槻城守備軍(の留守部隊。 宿老の、宮城為実、妹尾兼延など) 約2,000人• 氏房の留守軍 は城主の氏房により、来たるべき豊臣軍の来襲に備えて城の防御力を上げるため、城を囲む長大な堀を新たに構築してあった。 しかし氏房以下の主力は小田原城に籠城したため戦力を欠き、付家老である伊達房実の指揮の下で数日間の激戦が行われたが、彼我の戦力差は如何ともし難かった。 攻撃側は秀吉から、早々に鉢形城攻めに取り掛かるように、との再三の督促を受けていたため、城に対して持久戦ではなく火攻めと力攻めで圧した結果、籠城側は兵のほぼ半数である1千余人の死傷者を出したのち降伏した。 秀吉からは「岩付の兵は全て殺し、女子供は全て連行するように」との指示があったが、責任者の浅野は生き残った兵や女子供を助命し、つまりは秀吉の指令を無視した。 鉢形城 鉢形城址 天正18年(1590年)5月14日から6月14日まで続いた。 攻撃軍の編成 約35,000人• 18,000人• 10,000人• 3,000人• (大道寺政繁)先に松井田城開城で降伏し、道案内となっていた。 3,000人(小田原陣から来た援軍)• 2,300人(小田原陣から来た援軍)• 、、(徳川氏家臣。 小田原陣から来た援軍)• 鉢形城守備軍() 約3,000人 城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。 小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立した。 氏邦は籠城より先に積極的な野戦迎撃を説き、駿河国に打って出ること、平野部での大規模な野戦を主張したが容れられなかった。 このため、小田原ではなく自城に帰還して籠城した。 後詰めもなく、彼我の差は10倍以上であったが、家臣らと籠城戦を戦った。 秀吉は鉢形城の動静を気にしていたらしく、小田原陣から分離した援軍の浅野軍に対し、北方軍と合流して早急に鉢形城を攻略するよう、何度も何度も指示を出している。 6月13日、忍城攻略を行っていた北方軍と浅野軍が分かれ、鉢形城の本格攻略に向かった。 浅野軍であった本多忠勝が近隣の山に大砲を運び上げ、城に向かって打ち込み始めると被害は甚大となり、城兵の助命と引き換えに守将の氏邦は開城した。 鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許された。 身柄は前田の預かりとなり、前田領内の津向(現在の)に知行1000石を得た。 浅野長政と真田昌幸は忍城へ向かい、包囲軍に戻った。 館林城• 館林城攻撃軍の編成• 関東諸侯• 忍・館林を攻略するよう命じられた石田三成・長束正家らは、下野方面の関東諸侯と合流し、を攻めた。 5月29日に館林城を攻略し、忍城の攻略に移動した。 この落城の際、次のような話が伝わる。 館林城は築城時の狐伝説が残る城であるが、この城は沼地に囲まれた天然の要害であったため、数日間をかけて攻めるも効果が少なかった。 このため豊臣方は近隣の山から木材を伐採し、一日をかけて城の周辺に木道を構築して城攻めの道を作った。 翌朝から本格的な攻勢を行うつもりであったが、朝になるとこの木道はひとつ残らず消え失せていた。 警備の兵も誰も、異常に気がつかなかった。 忍城の戦い が布陣した 石田三成・長束正家らは館林城を攻略したのち軍を返し、6月4日頃から忍城に取り掛かった。 の成田氏当主の成田氏長と弟のが小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。 当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。 当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢からなる浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城はやをとして効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。 秀吉からは利根川を利用した水攻めの指示があったが、石田三成は秀吉に対し、もっと積極的な攻勢をかけるべきではという伺いを行った。 しかし6月12日の秀吉からの返信では、三成に対し改めて水攻めの注意点を事細かに指示している。 翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し攻めに向かった。 攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの()に置いて忍城を包囲し、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤()の築堤が進められた。 現在残る しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であり、水攻めの効果は薄かった。 その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。 結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。 鉢形城を落としたや真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。 その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城が先に開城してしまった。 小田原で降伏した氏長の説得により、忍城は開城した。 城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に、秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。 八王子城の戦い 曳橋(推定復元)と御主殿石垣(一部復元) 天正18年(1590年)6月23日。 攻撃軍の編成 総勢15,000人• (など)• 元・北条降将• 松山城降将(上田氏、山田直安、、、木呂子友則、若林直盛など)• 小幡衆(当主は小田原城籠城中)• 八王子城守備軍(の配下)および領民 総勢3,000人 攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約1万5,000人が動員された。 当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の、家臣の、、、および近隣の農民・婦女子ら約3,000人が立てこもっていたとされる。 先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。 秀吉軍は前夜のうちから城の大手と搦手の双方から侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。 その後は激戦となり攻め手も1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、上杉景勝の下にいたの家臣の平井無心がこの周辺の地理に詳しく、抜け道を案内した。 絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。 氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。 金子氏は城内にも、攻め手にも金子氏がいたため、同族が戦うこととなった。 城代の横地監物以下の残兵は、さらに奥地である平山氏重の守る 檜原城を目指しに脱出した。 獲られた将兵の首は本来の城主である氏照も籠る小田原に運ばれ船に並べて堀に浮かべられ、または捕虜にした者を小田原城の城門近くに晒すなどして、八王子落城の現実を小田原城守備兵に見せ付けることで、豊臣方は小田原城の早期開城を迫った。 八王子よりさらに山間部にある檜原城にて平山氏重以下は奮戦したが、前田利家や上杉景勝らの軍勢に敵わず、7月12日に落城し、氏重ら平山一族は城下で自刃した。 この時、小田原城は既に開城となっていた。 以降、前田利家と上杉景勝は八王子城に在陣した。 詳細は「」を参照 関東諸侯の動き 開戦前夜 北方の伊達政宗と対立していた佐竹氏は、早くから中央の織田氏や豊臣氏と連絡を取っていた。 伊達氏は佐竹氏を挟む形で小田原北条氏と同盟関係にあり、佐竹氏は伊達氏を挟む形で上杉景勝と友誼を深めていた。 一方、北関東の小諸侯はその動静として、小田原の傘下となるか、あくまで逆らい滅亡の道を辿るかの選択を迫られていた。 佐竹氏はそのような諸侯を庇護し、あるいは縁戚となることで、反北条氏の連合を形成していた。 前年の天正17年(1589年)、の結果、の次男のは伊達政宗に破れ滅亡し、南奥州の諸侯が伊達氏の傘下に下った。 ただしこれはに違反しており、豊臣氏の出兵理由ともなっている。 これにより南北を伊達と北条に挟まれた佐竹氏は、存続の危機に陥っていた。 下野国でも北条氏の圧迫は強まり、傘下に降る勢力も多く、抗戦した宇都宮氏は天正17年(1589年)9月に北条氏邦にやを攻められ、家臣にも北条氏へ下る者が現れるなど、風前の灯と言ってよい状況であった。 なおこの宇都宮攻めも豊臣氏の総無事令に違反しており、北条氏征伐の名目の一つとなっている。 このような状況の中、豊臣氏による小田原征伐が号令された。 常陸国と下野国 当初、南奥州にて佐竹義重の嫡男は伊達政宗と対陣していたため、身動きが取れなかった。 一方下野や常陸の北条方の諸侯は皆、兵力を従えて小田原城籠城に加わることを義務付けられていたため、これらの手薄となった北条方の城は4月下旬から5月にかけて、佐竹氏を中心とする反北条氏の諸侯によって次々と陥落させられた。 とはの と近藤実方の を5月半ば迄に奪い、佐竹勢とや・はが留守の や に4月16日に攻撃を開始し、29日に占拠した。 が留守の も開城された。 しかし北条氏に屈服して数年来、宇都宮氏や佐竹氏と抗争してはいたが、もともと豊臣側と誼を通じていた皆川広照は、4月8日に小田原城を脱して包囲する豊臣側の陣所に投降していたため、皆川氏に城は返還され本領安堵された。 さらに義宣はらと共に兵1万を伴って豊臣方に参陣し、5月24日に、結城晴朝と、5月27日に佐竹義宣と宇都宮国綱、結城朝勝らが小田原にて秀吉と面会を果たした。 そのまま忍城攻めに加わり、戦後は奥州仕置などにも従った。 元々豊臣氏の幕下に加わっていた上に、これらの戦功が認められ、佐竹氏は8月1日に常陸一国の采配を任された。 これにより、や・・など、旧国人系の勢力が正式に佐竹氏の家臣となることとなった。 南常陸には反北条勢力として のや のがいたが、この両者はお互いを牽制し、小田原に参陣することができなかった。 この両者は参陣できない件について佐竹氏に執り成しを依頼しているが、佐竹氏はこれを黙殺した。 このため江戸氏と大掾氏の領土は安堵されず、同年12月、豊臣政権を後ろ盾に佐竹氏は両者を攻め落とした。 佐竹氏と長年死闘を繰り広げていた北条方のも領地を没収され、翌天正19年()2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡のと称されるなど一族の領主を、佐竹氏本拠の に招いて一度に謀殺した。 さらに同年、江戸氏支族の抗争に乗じ、 額田城のを攻め、秀吉からの退城勧告を突きつけた。 額田小野崎氏は下野のを頼って落ちて行き、さらに日光に逃れ、伊達氏の庇護を得た。 こうして豊臣政権を後ろ盾として佐竹氏は常陸一国を統一した。 元は岩付城主であったと親子は、北条氏との幾多の抗争の後、佐竹氏に客将扱いで庇護されていた。 親子は秀吉に謁見し、翌年の江戸氏・大掾氏攻略にも功績を挙げたが、旧領岩付帰還は叶えられなかった。 資武はのちに結城氏の招きに応じて結城家臣となった。 下野国内ではやの所領が没収された。 小山秀綱は実弟の結城晴朝の下に身を寄せた。 結城晴朝は11万石の所領を安堵され、結城家臣のや・らも所領を安堵され、結城氏の与力大名となった。 宇都宮氏は18万石の所領を安堵されたが、最盛期よりは所領は小さくなった。 前年から上方の豊臣氏に臣従していたも所領は安堵された。 伊達政宗に対しては浅野長政らが説得命令を続けた結果、彼我の差を鑑みた伊達氏主従は4月15日に会津を一旦出立した。 政宗母親のによる実弟の擁立および政宗毒殺未遂、政宗による政道謀殺などの話が残るのはこの時期である。 順当に考えれば会津から下野国方面へ出るのが小田原への最速最短の行路であるが、戦場となっている北条領や佐竹氏らと出会う可能性があるためルートを変更せねばならず、一旦黒川に帰還したのち5月9日に再度出立、米沢から小国を経て日本海側に至り、上杉景勝の所領である越後国から信濃国~甲斐国を経由して、5月27日に甲府に到達した。 ここで伊達氏との取次窓口となっていたが関東平定に出陣していた浅野長政に対し、小田原に帰陣していて欲しいと連絡している。 6月5日に小田原へ到着している。 惣無事令違反を問われたが、を滅ぼしたのは親の敵討ちである、と弁明した。 伊達氏は本領を安堵されたものの、やを経て、前年に獲得した会津すなわち旧蘆名領は没収された。 下野諸侯の動静 下野国のは、先代のが天正13年(1585年)元旦に戦死した後、北条氏からを迎え当主とした。 佐竹氏から養子を迎えることを画策していたやは不満を持ち、上洛して豊臣秀吉に裁可を訴えていたが、北条氏はこれを無視した。 このため反北条氏の家臣らは出奔し、房綱や山上らは上方で豊臣氏に仕えていた。 小田原征伐が構想されると房綱らに対し、関東地方の絵図面の作成が命じられ、房綱は山上道及らに依頼し関東諸国の山河、城、街道を詳細に色分けして描き、に提出した。 東征が始まると房綱と道及は佐野家に対して集結を呼びかけたが、思ったより少数の兵しか集まらず秀吉に落胆されたと伝わる。 ただしこの頃佐野氏の主軍は他の諸勢力と同様に、北条一門である佐野氏忠に率いられて小田原籠城に加わっていたため、集まりが悪い理由も推測できる。 房綱らは碓氷峠を越えて来た北方軍に加わっており、道案内も務めていた。 天下の要害ではあるが寡兵の守る唐沢山城は4月28日に開城となり、北条氏の勢力は一掃され、佐野房綱が城を受け取り佐野氏の当主として認められ、本領安堵された。 下野のは、周辺の宇都宮氏や結城氏、佐竹氏と抗争していたため、北条氏や伊達氏と組むことが多かった。 このため豊臣氏が東国に干渉してくるようになった際も敵対的な態度を取っていた。 秀吉の参陣の命にも従わなかったため、戦後所領は没収された。 しかし重臣のがの際に歓待を行い、資晴の子のを連れて面会し陳謝したため、資景に5千石が与えられた。 大田原晴清のは主家とは逆に早くから豊臣氏に接近しており、天正16年(1588年)には父の名代という形で弟のを上洛させ、謁見に成功していた。 晴清自身も秀吉が駿河国沼津に着いた頃に早々に謁見に成功しており、秀吉の覚えが良かった。 大田原氏は忍城の戦いなどにも参加した。 同じく那須家臣のも早々に主家を見限り秀吉に参陣し、所領安堵されている。 主家や他の()が所領を失い、あるいは減らす中、大田原氏と大関氏は時流を読み、上手に立ち��ることに成功した。 上野国 上野国の北条支配下の諸侯も、小田原に籠城することを義務付けられていたため、籠城中に北方軍に城を攻略され本領を失う例が多かった。 との兄弟も小田原に籠城しており、国繁の留守のは母親のが守備していた。 この齢70を越えた妙印尼が主導し国繁嫡男のを立てて兵2千を集め、前田利家を通じてを開城し、松井田城攻めに加わった。 これが評価され、戦後に由良国繁と長尾顕長は助命された。 さらに妙印尼に対して常陸国牛久城5400石が与えられ、これを国繁が相続した。 国替えとはなったが、由良氏は存続に成功した。 のは上杉景勝を介して投降し、所領は失ったが助命され上杉氏のの家臣となっている。 安房里見氏の侵攻 安房国のはを巡って、北条氏とは長年抗争を続けていた。 豊臣秀吉からの参陣の命を受けたはこれを好機と捉え、庇護していたの遺児を擁してへ渡航上陸しへ進軍、の復活を標榜し独自の禁制を発した。 また房総方面ではを奪還したともされている。 これら一連の動きは秀吉の不興を大きく買ったが、徳川家康の執り成しがあったため里見氏は赦された。 しかし安房一国は安堵されたものの、上総国の所領は没収された。 関東の旧勢力たち 家は当時男子の当主は不在で、実質女当主のであったが、主立った動きをしていない。 古河城周辺でも戦闘は無かったが、当時の公方家家中は実質的に北条氏系統の家臣が実権を握っていた。 このために本来の公方家臣であったやは単独で豊臣氏と講和を行ったが、各々所領の安堵はならなかった。 その後は徳川氏に仕えた。 戦後、古河公方家は北条方であったとされ、古河城を立ち退かされ、鴻巣御所()に移らされた。 翌年、秀吉の斡旋により、足利頼淳の子のと結婚することになり、古河公方家と小弓公方家が統一されることとなった。 世田谷のもまた、小田原北条氏と数代に渡る縁戚関係となっていた。 古河公方同様に、北条氏は権威ある家を自身の権力基盤の支えとして利用していたようであるが、独立性は保たれ完全な臣従関係ではなかった。 ただしや氏朝などは、北条氏から一字拝領する力関係となっていた。 当主の吉良氏朝は小田原に籠城したため、戦後は所領を没収され、(現・)や(現・)などの支城も廃城となった。 氏朝は菩提寺に住んだが、のち関東入府した徳川家の家臣となった。 の本拠であったは、当主のが北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮したらが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。 戦後、深谷上杉氏は所領を失った。 氏憲は上杉景勝の領する信濃国更級郡に逼塞し、死去した。 子孫は池田氏に招かれ、士となった。 氏憲の従兄弟の吉次の子孫は500石の旗本となり江戸幕府に仕えた()。 相模国のは北条氏に臣従していた。 臣従とはいえ「宅間殿」と扱われる家格であった。 小田原征伐の際、宅間規富は北条方に与したため、戦後に所領を失った。 のち徳川家の旗本となった(宅間氏)。 はが若い頃から徳川家康に仕えており、徳川家が関東に移封されると武蔵・相模国内に3千石を領し、数代後には万石を超え、一旦大名となっている。 は前田利家や上杉景勝らの北方軍によって白井城を攻められた。 は抗戦したが、本丸以外を落とされ開城した。 ・政景兄弟は前田利家に預けられたが、のち同族である上杉景勝の家臣となった。 の長尾顕長は小田原に籠城し、本拠も陥落しているが、前述のように実母妙印尼の活躍により助命され、子孫は徳川家臣のに仕えて家老職となった。 「」と言われた諸侯の、小田原征伐後の状態は、以下のようになる。 宇都宮氏 所領安堵。 豊臣の権威を背景にした佐竹氏により追放。 小山氏 所領没収。 佐竹氏 常陸国統一。 所領没収。 (これ以前に本家は勢力を失っていた)支流の皆川氏が本領安堵。 那須氏 所領没収となる所を家臣の嘆願により存続。 本家分家共に所領削減。 結城氏 所領安堵。 小田原開城へ 5月9日、後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州のが、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かった。 開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。 6月に入る頃、小田原を囲む豊臣軍主力の陣中の風紀が乱れ始め、乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる(「」)。 この包囲中、戦らしい戦と言えば、7月3日に配下の広沢重信が・勢に夜襲をかけ、広沢と蒲生が一騎打ちを行ったのが後北条氏側唯一と言える攻勢であり、囲む方は、が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。 それ以外は、互いの陣から散発的に鉄砲を射掛けるぐらいのものであった。 そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。 4月8日、小田原城に在陣中のが豊臣軍に投降し、6月初旬には家康の働きかけによって、上野の家中と箕輪城家中が城外に退去している。 この6月に入る頃には、氏房、氏規、氏直側近らによって、親族の徳川家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。 後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講和交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉がに命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた。 6月7日、織田信雄家臣の岡田利世が小田原城へ入り、氏直単独と二日間面談し、内容を徳川家康に報告している。 城中では講和開城の噂が流れていて、警戒が緩んでいたようであり、12日には氏直から小幡信貞に対し、城内の綱紀粛正の命が出ている。 同12日に氏政の母であると、継室の鳳翔院が同日に死去しているが、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。 、北条氏重臣であったの長子のが、数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを、政晴の弟のが氏直に報告することで発覚し、政晴は氏直により成敗された。 、小田原城の篠曲輪を夜半の雨中に徳川家中のが攻撃し、占拠した。 に落城したから守備隊だった者たちの多数の首と、将兵の妻子が城外で晒し者にされたことは、後北条氏側の士気低下に拍車をかけた。 石垣山一夜城から望む小田原城 、小田原城を見下ろすに、関東初の総石垣の威容を誇った一夜城()が完成したことも、後北条氏側に打撃をもたらした。 城中では後北条氏の一族・重臣が、豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く議論が紛糾した。 この印象が後世に強くなり、本来は「平時に月2回ほど行われていた、後北条氏における定例の施政方針重臣会議」を指すものであった「」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。 また豊臣方はこの頃、城方を精神的に追い詰めるため、夜中に包囲全軍で城に向かって一斉射撃、をやっていたとする話も残る。 残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城はに守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城もに開城し北条氏規が秀吉の元に出仕した。 八王子城の落城に続いて も開城し、秀吉は黒田孝高と共に織田信雄の家臣を使者として氏政、氏直の元に遣わした。 、太田氏房勢が蒲生氏郷・関一政と織田信雄の陣に夜襲をかけた。 最後の意地とも言えるこの攻撃を予想していなかった蒲生陣は一旦取り乱すが、自ら槍を取った氏郷やら主従は奮戦し、これを退けた。 、氏直と太田氏房は滝川雄利の陣に向かい、滝川と黒田孝高を通して、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。 戦後処理 7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は、自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、赦免はともかく切腹は見送られた。 当初の開城・降伏の条件は• 北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。 氏直に上洛をさせる。 であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に開戦の責があるものとして、この四者に切腹を命じた。 から9日にかけてと、の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。 、氏政と氏照は小田原城を出て徳川の陣所に入った。 、城下の医師の屋敷にて、・・・・榊原康政の検視役が見守る中、兄弟の氏規の介錯により切腹した。 氏規は兄弟の自刃後、自らも追い腹を切ろうとしたが果たせなかった、とも伝わる。 氏直は徳川家康の婿でもあったために一命は温存され、に蟄居を命じられた。 7月21日、氏直は家臣ら30名ほどを連れて出立し、8月12日に高野山に入った。 翌年2月には早くも徳川家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、8月に1万石が与えられた。 しかし、11月に病死した。 北条氏は氏規の子孫が紆余曲折の後に・の大名として豊臣・徳川期と存続した。 氏政と氏照の首は16日に京に送られ、聚楽第の橋に晒された。 一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城に対し、城主の氏長の小田原城での降伏を受けて使者が送られ、に開城した。 その後、氏長の娘のが秀吉の側室となって寵愛を受けたため、氏長に2万石が与えられた。 の本拠であったは、当主のが北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮したらが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。 戦後、深谷上杉氏は所領を失ったが、秋元長朝は関東へ入封した徳川氏に仕え、での投降を促した功により大名となり、後に子孫から()を輩出した。 北条方に加わって豊臣軍と戦った者が江戸時代にになった唯一の事例である。 7月12日には檜原城が落城し、八王子城の残党や平山氏らが自刃しているが、彼らに小田原開城が伝わっていたかは不明である。 7月13日、秀吉が小田原城に入った。 この日、徳川氏の関東転封が公表された。 ただしそれ以前からこの方針は伝えられていたようであり、徳川家臣のの日記『家忠日記』の6月20日条に「国替わり近日の由」と記されている。 翌8月1日には徳川家康が江戸城に入り、9月には家臣らに知行が割り当てられている。 8月1日は豊臣軍は宇都宮に駐屯し、以降は奥州へ向かったため、徳川は宇都宮まで同行しそこから戻ってきたと考えられる。 に関しては4月中に徳川氏に与えられている。 7月16日、秀吉が小田原城を出発。 秀吉はその後、を平定したに倣って、の政庁があったに入りに奉幣、19日に江戸城着、20日に出発。 7月26日、同じく頼朝に倣ってに奉幣してへ入城し1週間ほど滞在、および奥州の諸大名の措置を下した()。 その後、豊臣家の大軍勢は伊達政宗の案内により、北上しへ向かった。 後北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることとなったが、空いた徳川旧領へのを秀吉に命じられた織田信雄は、この命令を拒んだたためされ下野国に蟄居させられた。 この改易により、秀吉の旧主家の織田氏は勢力を失い、北条氏を短期間に攻め滅ぼした上で国持ちの大名であり正二位内大臣の旧主家であろうとも改易できる秀吉の実権力が確定し、同時に官位・所領の両面において、徳川家康が豊臣政権の大名として一の実力者と確定した。 また前述の秀吉の裁定で��真田氏が北条氏に譲っていたは真田に返還された。 秀吉の怒りを買ったは、徳川家康が執り成したこともあり、一国は安堵された。 しかしの所領は没収されて徳川氏に与えられた。 は一国がに与えられた。 この豊臣政権の御墨付きを後ろ盾として、佐竹氏は常陸中部のやを滅ぼし、さらに天正19年()2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡のと称されるなど一族の領主をに招いて謀殺するなどして常陸国内を統一を達成した。 8月中のなどを経て9月1日、豊臣秀吉は京に帰還した。 脚注 [] 参考文献• 『小田原合戦-豊臣秀吉の天下統一』〈角川選書〉、1996年。 『小田原合戦と北条氏』〈敗者の日本史 10〉、2013年1月。 関連項目• 外部リンク• - 小田原市公式ホームページ・デジタルアーカイブ.

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【ニッポン城めぐりクイズの答え】7/25 北条氏政の子・氏房が主に支配したの所領は、次のうちどこか?

北条 氏政 の 子 氏 房 が 主 に 支配 した の 所領 は 次 の うち どこ か

おもしろい仲間この世はおもちゃ箱 新家完司 仮装大会の模様を描いた絵本太閤記 菅笠をかぶり、腰蓑を着ける男性(中央)が秀吉。 「瓜売りが瓜売りに来て瓜売れず、売り売り帰る瓜売りの声」 「仮装の歴史」 仮装大会の歴史を探ってみれば、400年ほど前の文禄元年 (1592)、 肥前名護屋城で 豊臣秀吉が催した 「仮想大会」に行きつく。 これは、今のディズニーやハロウインの仮装パレードのようなもので、 当時は、 桟敷席を設けて大名たちや博多大商人などを見物人に仕立てて やったという。 今では、 欽ちゃん と香取慎吾の全日本仮装大賞や 京都時代祭りが有名だが、 「文禄の役」の最中、前線基地を構えた肥前名護屋城そばの瓜畑で、 秀吉が開いた仮装大会が先例となっている。 甲冑を脱ぐと人情交叉する 上田 仁 司馬遼太郎の「新史太閤記」に、 「つれづれのあまり、諸大名や女官をあつめて仮装大会を催した。 諸事、企画のすきな男なのである」 と秀吉のこの催しに触れている。 また 「絵本太閤記」には、 蒲生氏郷、前田利家の仮装がこの絵本に登場。 おぜほあん 小瀬甫庵・著 「太閤記」では 徳川家康の 「ザル売り」が紹介されている。 なぜこんな催しをしたのだろうか。 絵本太閤記には仮装の時に、 ございじん 「名護屋の御在陣も徒然におはしませば」 とあり、城の陣中はさぞ退屈な時間が多かったのだろう。 トゲのないバラと一日戯れる 百々寿子 江戸の手ぬぐい (拡大してご覧ください) どのような仮装大会であったのか、かいつまんで見ると。 「味よし瓜めされ候へ~「おいしい瓜はいらんかいねー」 「瓜売り」になった秀吉は、もと百姓の経験があり堂にいったもの。 そこで旅の僧に扮した 織田有楽斎が、秀吉の売り瓜に 「瓜をご寄進下され」と請うと、 瓜売りは瓜を二つ施した。 「こっちは熟しておらぬ。 熟した物を下され」 と有楽斎がアドリブでコトバを返すと見物客は大受けしていたという。 路茶売りに扮したのは、 蒲生氏郷である。 「極上のお点前にありますれば」 とやれば、 そこへ瓜売りの秀吉が、 「ほほう、で、お代はなんぼじゃ」 茶売りの 氏郷は、 「100両でございます」 と、ここでも 有楽斎に負けじと氏郷のアドリブが飛び出す。 瓜売り (秀吉)は開いた口が塞がらなかったようだ。 青梅のすってんころり祭りめく 斉藤和子 「あじかはいらんかね~いらんかね~」 この声は、「あじか売り」に扮した徳川家康。 家康の物真似は、本職はだしだったとベタ褒めで記録されている。 「念仏をただとなえていれば必ず仏になれる」 と説法の声まで、 「おねえ喋り」で髭の大男がやるものだから、 秀吉や五大老はじめ、名だたる将や見物客は笑い転げたという。 そして歌舞伎ものの 伊達政宗は、桟敷席で見物客の一人になった。 正宗は正宗らしく、やんややんやの野次を入れて盛り上げた大会であった。 水で酔えるのも血液型のせい 井上一筒 この頃、秀吉は朝鮮での戦果を待つ間、茶や能にも親しんでいる。 「ほかにも何か面白いことを、と考えるのは不思議ではない。 秀吉はもともと庶民の出。 昔の自分を懐かしむと同時に、武家育ちの家臣が、 ぎこちなく庶民のまねをする様子をひたすら楽しんだのでしょう」 と解説されるのは大阪城天守閣研究主幹・ 北川央氏。 いかにも、遊興好きの秀吉らしい知恵といえそうだ。 そして神戸大教授の 油井清光氏は、 「普段、人は上司と部下の立場を意識するものだが、 肩書を外した『無礼講』という非日常を一緒に経験すると、 互いに連帯感が強まる。 中だるみしていた自軍の結束を強めようとしたのでは」 と想像する。 雨季限定軽い頭をさし上げる 河村啓子 時代祭りの行列 因みに、秀吉時代の行列(当該写真)は、 秀吉の嫡男・秀頼の元服の報告に御所へ参内する様子。 「京都時代祭り」 「京都時代祭」は、平安時代から明治維新までの各時代の装束に扮し、 道中4. 5kmをパレードする。 先頭から最後尾まで2kmにわたる長大なものとなる。 祭礼は、まず午前中に平安神宮より神幸列が京都御苑に到着し、 「行在所祭」の後、正午ころから 「ピーヒャーラドンドンドン」という 維新勤王隊の鼓笛隊のマーチとともに、仮装の行列行進が始まる。 総勢2千人と多数の牛馬が、京都御所の建礼門前を順次出発し、 京都御苑の堺町御門をくぐりぬけ、烏丸丸太町~烏丸御池と南に進む。 次に、河原町御池~河原町三条~京阪三条~三条神宮道と西に進み、 最後に神宮道~平安神宮へと向かう。 先頭が平安神宮に到着するまで三時間はかかるとか。 ガタンゴトン単線謳うトロッコ列車 小林満寿夫 [2回] 波打ち際の演出である砂の城 山口ろっぱ 名護屋城図屏風 (拡大してご覧下さい) 5層7階の天守閣とともに、周囲には130カ所余りの陣屋が築かれ、 巨大軍事都市が形成された。 「東槎録」 (とうさろく) 1596年に明国使節とともに来日した朝鮮国使節・朴弘長の日誌。 名護屋城が7層(実際は5層7階)の天守閣だったことや、 城下町の繁栄の様子を書き留めている 文字瓦 名護屋城跡から出土した「天正十八年銘文字瓦」 火遊びで生命線が砕け散る 上田 仁 「朝鮮出兵」 天正18年 (1590)天下統一を果たした 秀吉は、 翌19年に朝鮮出兵を決意し、 全国の武将たちに新たな戦の準備を整えるよう命じた。 一方、出兵するための軍事拠点となる城の築城にも着手し、 肥前国名護屋の東松浦半島の波戸岬に、 「名護屋城」が築かれた。 城は全国各地の諸大名の割普請によって築城が進められ、 わずか3ヶ月で完成させたという。 秀吉が名護屋城に居住したのは、凡そ1年半程だったと言われているが、 全国の諸大名も集結したこの時期の名護屋城は、 まさに日本の政治経済の中枢になっていたともいわれる。 城の周辺には大名や家臣だけでなく、商売を営む者や 様々な生活に必要なサービスを提供する人たちが集まり、 ピーク時には20万人以上の人々で大変な賑わいだったという。 5階から入道雲に触れます 井上一筒 朝鮮出兵の絵 「文禄・慶長の役」 文禄元年 (1592)4月、15万を超える軍勢が対馬海峡を渡り、 朝鮮半島に上陸した。 秀吉の朝鮮侵略の開始であり、 「文禄の役」の始まりである。 このあと一度引きあげて再び慶長2年 (1597)に再征しており、 これを 「慶長の役」とよんでいる。 2度にわたる侵略によって、朝鮮は大きな被害を受けた。 秀吉による大陸侵略は、 「名誉欲にかられた秀吉の愚挙」とか、 「思い上がりが生んだ無謀な戦い」と言われることが多いが、 秀吉は、なぜこの時期、朝鮮への侵略戦争をはじめたのか。 大きく振り被った次の音 蟹口和枝 これにはいろいろな説が語られる。 そこに、 「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候 心に候か」 とある。 分かりやすく言えば、秀吉は、 「関白として、日本全体の統一支配だけでなく、唐国までも、 そのようにせよと命令された」と解釈をしたのである。 封建的主従制を保つ手段として、 「御恩と奉公」の関係がある。 「諸大名たちは、恩賞をもらえるから自分についてきているのだ」 という、認識を秀吉は、もっていたはずである。 その裏返しとして、 「与える恩賞がなくなったとき果たして彼らは自分についてくるだろうか」 という不安をもった。 それゆえ秀吉は、九州征伐・関東征伐・奥羽征伐が、終わったあとも、 さらに、明にまで攻めていくことも、構想していたものと思われる。 「予の願いは他に無く、只、佳名を三国に顕すのみ」 に見るように、 秀吉の名誉心、功名心、野望が侵略戦争を招いたという人もいる。 また、秀吉が朝鮮出兵の前に、明への陸路ルートにある朝鮮に対して、 服属と明出兵の先導をつとめることを要求した。 が、 「朝鮮はこれを拒否した」というのも、理由のひとつにある。 いかなごとクロスワードを埋めている 赤松ますみ 何はともあれ、 「天下を統一した」とはいっても、 世の中には、戦国の風潮、 「下克上の時代」を知る者が、 多数生き残っている。 秀吉の心配の種は尽きなかったのである。 なお、秀吉自身は、慶長の役の最中、慶長3年(1598)8月18日、 に没している。 秀吉死後、秀頼が相続するが豊臣政権は急速に瓦解していく。 朝鮮出兵が、豊臣政権の屋台骨をガタガタにしていたからである。 浮雲ごときに憧れてしまった 雨森茂樹 [3回] 帰還したのは竹薮に捨てた足 井上一筒 橋立の茶壺 「利休の死」 利休が持つ数々の茶道具の中で 「橋立の茶壺」は彼が最も愛した一品。 それを知った茶好きの 秀吉は、自分の立場を利用して利休に、 「それをよこせ」 と強引に望んできた。 しかし利休は秀吉がいくら望んでも、橋立の茶壺は手離さなかった。 これを渡さなかったことが、秀吉の勘気を買い利休切腹の一因に、 なったとも言われている。 千利休 始発から執着駅のフィクション 堀冨美子 千利休という名は、天正13年 (1585)10月の秀吉の 禁中茶会で、 おおぎまちてんのう 正親町天皇から賜った居士号であり、 それまでは 「千宗易」という法名を名乗った。 利休は、わび茶の完成者で、 「茶聖」と称された。 わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、禁欲的で緊張感のある茶。 その世界を追求するため利休は、草庵と呼ぶ 「二畳の茶室」を創り、 また 「楽茶碗」、「万代屋釜」、「竹の花入れ」などの 「利休道具」を考案し、露地の造営にもこだわり、 茶の湯を、 「一期一会の芸術」にまで高めたのである。 点す部屋消す部屋風の階のぼる 田中博造 一時期、利休は聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、 禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。 天正15年 (1587)の「北野大茶会」を主管し、 一時は、秀吉の重い信任を受けていた。 しかし、天正18年 (1590)、秀吉の弟・秀長が死去した辺りから、 秀吉と利休の関係がおかしくなってくる。 同年、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、 利休の愛弟子・ 山上宗二が秀吉への口の利き方が悪いとされ、 即日処刑された。 『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、 その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。 (久保利世が自叙伝・「茶説・茶話」) そして、この事件から、秀吉と利休の間に、 「思想的対立」がはじまる。 からまった糸蒟蒻になじられる 野口 裕 黒楽茶碗 瀬戸黒茶碗 利休は、晩年の天正18年から天正19年にかけて、 「百会の茶会」を開いた。 徳川家康 や毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、大徳寺の禅僧など、 多様な人々が出席した。 そして、この茶会には利休七種にもあげられる 「赤楽茶碗・木守」や、 利休愛用の 「橋立の茶壷」などの道具を用いた。 1月13日の茶会では、黄金の茶碗を所望した秀吉に、利休は、 「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、 禁欲的で緊張感のある茶である」 と主張し あえて 『黒茶碗』を出した。 これが、秀吉の勘気に触れた。 黄金の茶室と利休についても、 「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は、相反するもの」 と利休は持論を述べた。 阿と吽の隙間泣いたり笑ったり 古田祐子 利休の手水 その10日後の22日、秀吉の弟・秀長が病没する。 秀長は諸大名に対し、 「内々のことは利休が」「公のことは秀長が承る」 と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。 秀長は秀吉のそばにあって、唯一利休の理解者で後ろ盾であった それから、1ヵ月後の2月23日、突然、秀吉から、 「京都を出て 堺で自宅謹慎せよ」 と利休に命令が届いた。 止められぬ時の流れがごうごうと 岡田幸男 大徳寺山門 千利休は、山門の閣を増築し二層とし、自らの像を安置する。 秀吉はこれに怒り、寺を破却しようとしたが、宗陳に止められる。 2月25日、利休の木像が聚楽大橋に晒され、 翌26日、上洛を命じられる。 前田利家 や、利休 七哲の古田織部、細川忠興ら、 大名である弟子たちは、 大政所 や北政所が密使を遣わし、 命乞いをするから、秀吉に詫びるようすすめた。 しかし利休は、 「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、 御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」 と断った。 よしや それから3三日後の、2月28日、利休の京都葭屋町の屋敷に、 秀吉の使者が訪れ、 「切腹せよ」の伝言を持ってくる。 この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。 ザンゲする命を止めておく画鋲 上田 仁 使者に最後の茶をたてた後、利休は静かに口を開いた。 「茶室にて茶の支度が出来ております」 そして、利休は一呼吸ついて切腹をした。 利休は、天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、 粛々と受け入れることで、信長や秀吉の上に立ったのである。 享年70歳。 「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」 【人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る 我得具足の一太刀 今此時ぞ 天に抛 】 (じんせいしちじゅう りきいきとつ わがこのほうけん そぶつともにころす ひっさぐる わがえぐそくの ひとたち いまこのときぞ てんになげうつ) 血液はサラサラですが生き下手で 山本昌乃 利休の二畳の茶室 国宝) 利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。 晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、 利休と同じ作法で食事をとったり、 利休が好む 「枯れた茶室」を建てさせたという。 有り様もあらざるモノも現世 山口ろっぱ [3回] 天狗の鼻がポキンと折れて夜が明ける 上田 仁 (拡大してご覧ください) 小田原包囲網 城の周囲ばかりでなく、海上までびっしりと包囲された小田原城。 秀吉は石垣山城にあって、日々歌舞音曲を楽しみつつ城方の自滅を待った。 「小田原征伐で激戦を演じた武将」 北条氏康 「大日本名将鑑」に描かれている 北条氏三代目当主・氏康。 信玄や謙信、今川義元と渡り合った知将であった。 「北条氏康」 北条氏三代目・ 北条氏康は、 北条早雲の孫であり、 氏政の父である。 生涯三十六度の合戦で、一度も敵に背を見せたことがない。 受けた傷は全て身体の前面につく 「向こう傷」だったといわれている。 これが 「氏康の向疵」といわれるものである。 同期では、 信玄・謙信・今川義元らと戦って、不敗を誇る名将である。 一方で氏康は政治家としても非常に優秀であり、 他の大名家に先駆けて「検地」を実施し、通貨を統一し、 経済改革に努めている。 北条家には、 「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」 という家訓が代々あり、氏康 の統治は、まさにそれを表したものであった。 くすぐると腹を抱えて笑う幹 森田律子 永禄4年 (1561)、越後の上杉謙信が関東管領職についてから、 関東を一円に支配するため、謙信は北条家に毎年の様に進攻してきた。 また長年敵対していた房総半島の 「里見家」とも戦い、 今川義元の死後に三国同盟が解消されると、武田家 も進攻してくる。 また かつて撃退した 「 山内上杉家」なども北条への敵対行為を続けており、 まさに四方から外敵の進攻を受けるような状態であった。 こうした事情から、氏康は堅牢な城の必要性を考え、 難攻不落の巨城・「小田原城」を築いたのである。 柔らかに月光三小節目のメンソーレ 山口ろっぱ 「成田長親」 忍城主の 成田氏長は北条方に与していて、 小田原征伐が始ると手勢を引き連れ小田原城に籠城。 やすすえ 「忍城」は長親の父で氏長の叔父にあたる 泰季が城代となった。 しかし防衛戦が始るとすぐ泰季は病死し、代わって長親が指揮を執る。 籠城方は長親配下の5百騎と武装した農民兵を合わせて約3千で、 豊臣方5万の大軍を防いだ。 戦後は氏長とともに会津の 蒲生氏郷の元に身を寄せたが、 氏長と不和になり、下野国烏山で出家して暮らす。 晩年になると尾張で隠棲している。 歌うには足場が少し低すぎる 森田律子 小田原城外郭には北条氏時代の空堀や土塁も残されている。 北条時代は大坂城を凌ぐ規模の惣構えを持つ城郭であった。 「大道寺政繁」 後北条氏家中で 「御由緒家」と呼ばれていた家柄。 これは後北条氏を興した 伊勢新九郎 (北条早雲)が駿河に向かう時、 従兄弟の 大道寺重時のほか5人の同輩が同行する。 その出発に際して、7人は伊勢で神水を酌み交わし 「誰かひとりが大名となったら、他の者はその家臣となる」 誓い合ったのである。 そして新九郎が戦国大名として独立すると、 他の6人は御由緒6家として仕えた。 墓石の裏に紋白蝶を結ぶ くんじろう 大道寺氏は代々、北条家で重きを成していたが、 政繁は 北条氏康、氏政、氏直の三代に仕え北条を支えた。 秀吉の小田原征伐が始ると、信濃国に近い上野国の松井田城の守将として、 前田利家、上杉景勝、真田昌幸らが率いる大軍を迎え撃つ。 圧倒的な戦力差の前に碓氷峠での迎撃戦を回避し、 松井田城での籠城戦を展開、約一ヶ月に渡り豊臣軍を防いだ。 しかし水脈を断たれ、本丸にも敵兵が迫ったため開城。 その後は 「忍城」、「八王子城」へと転戦する豊臣軍の道案内を務める。 八王子城攻めでは、自身の軍勢を率いて果敢に働いた。 しかし戦後、秀吉から開城の責任を問われ、 北条氏政、氏照らとともに切腹させられる。 前ぶれはほんの小さな風の音 桑原すず代 石垣山一夜城 関東に築かれた本格的な石垣の城。 小田原城から見えないように築き、 完成後に周囲の木を伐採したため一夜城と呼ばれた。 今も随所に石垣が残るが、関東大震災時に崩れている。 「北条氏照」 北条氏照は 四代目・氏政の弟で文武両道に秀でた聡明な人物として伝わる。 16歳で初陣を飾り、以来一生を通じ勝戦が36度もあったという豪の者。 また 織田信長 や徳川家康、伊達政宗らと親交を結ぶなど、 政治外交手段にも優れていた。 最初は滝山城城主の 大石定久の養子となり、 「滝山城」と武蔵守護代の座を譲られている。 永徳2年 (1559)には家督を譲られ、滝山城に入城する。 当時の支配地域は八王子を中心に北は五日市から青梅、飯能に至るまで、 南は相模原、大和、横浜の一部にまで及ぶ広大なものであった。 行く末はどうであろうとも帆をあげる 笠嶋恵美子 永禄11年 (1568)には 武田信玄に率いられた2万の大軍を撃退する。 その際に滝山城の防備に厳戒を感じたため、深沢山に堅固な山城を構築した。 これが八王子城で、天正15年 (1587)頃には、ほぼ完成する。 「小田原征伐」の際は、ここで秀吉軍を防ぐ計画であった。 しかし秀吉軍が小田原城に迫ると、本家の命で氏照は4千の城兵とともに、 小田原城に詰めることになった。 城主不在の八王子城は、激しい抵抗を見せるも反日で落城。 小田原城も包囲されてから3ヶ月後に降伏、開城する。 秀吉は氏照も主戦派のひとりと見なしていたため、 兄の氏政らとともに切腹を命じられた。 お月さまも畳の縁は踏まないで 釜野公子 [4回] 裁かれた後にひとりぼっちの闇 勝又恭子 小田原征伐秀吉と家康 「北条氏滅亡」 上野国に生じていた小さなわだかまり (名胡桃城事件)が、 ついに天下の軍勢を関東に引き寄せる大戦の要因となった。 だが北条方としても、関東制圧を進めているころから、 上方の豊臣政権を意識していたようである。 その証拠に、秀吉の軍勢と一戦に及んだ場合を想定し、 早くから15歳から70歳までの男子を対象とした徴兵令を布告。 さらに寺から梵鐘を供出させ、これを大砲に鋳造するなどして、 戦闘への準備を着々と進めていた。 また 小田原城の拡張工事だけでなく、東海道筋にある 山中城や 韮山城の整備、さらには 箕輪城や松 井田城、鉢形城、忍城といった 関東各地の城砦との連携や整備も進めている。 日の昇る水平線を信じたい 森田律子 秀吉がいくら大軍で押し寄せて来ても、広大な関東各地で釘付けになり、 そのうち兵糧が続かなくなって上方に引上げるであろうと考えていた。 それに北条軍の首脳陣は 「小田原城はかって武田信玄や上杉謙信の軍を跳ね返した難攻不落の城。 秀吉ごときに落とせるものではない」 と自負していたのである。 アカンタレやのに「へちょ」がでしゃばる 山口ろっぱ しかし、 秀吉の下した陣触れは、 それ以前の戦いのスケールをはるかに凌駕するものであった。 まず傘下の大名には、その領地の石高に応じた人的負担を下した。 また奉行の 長束正家に命じて米や雑穀を合わせて20万石を徴発させた。 馬蓄やその餌となる穀物も、天正大判で1万枚分も集めている。 くきよしたか これらの物資は、 長宗我部元親 や九鬼嘉隆らが率いる水軍が輸送。 兵站線が伸びきって、すぐに兵糧不足になると予測した北条方にとって、 すべてが想定外のことだった。 そして小田原征伐に参加する豊臣軍は大きく二つの軍団に分けられていた。 秀吉自らが率いる本隊に徳川勢を加えた約17万の主力軍は東海道を進軍。 東山道は 前田利家を主将に 上杉景勝 や真田昌幸らの隊約3万5千が進む。 これに対して北条方は、小田原城に5万を超える精鋭部隊を集めていた。 そして豊臣軍の主力が進軍してくることが明白な箱根山中での持久戦を 想定した戦略を立てていた。 だが、あまりの兵力差に北条方は籠城戦に切り替えている。 捉まえた尻尾くんくん嗅いでみる 小谷小雪 鉢形城 多くの城がさしたる抵抗を見せずに落城した中、 約一ヶ月に渡り北方隊をひきつけた北条氏邦の守った城。 荒川と合流する深沢川が堀の役目を果たし、大規模な空堀や 土塁が縦横に張り巡らされていた。 戦いの様子を見てみると、 天正18年3月29日に進撃を開始した約7万の 主力は、 東海道筋にある山中城を数時間で落とした。 伊豆にある韮山城には 織田信雄の軍を主力にした約5万の兵を差し向けた。 箱根周辺にあった鷹ノ巣城や足柄城は、徳川勢によって次々に攻略された。 水軍部隊は西伊豆沿岸に点在する伊豆水軍の砦を撃破。 下田城も攻略して小田原沖に展開する。 こうして小田原城の包囲網が完成すると、秀吉は北条方の戦意を削ぐため、 小田原城を見下ろす笠懸山に本格的な石垣の城を築いた。 小田原城の籠城軍は一夜で城が出現したかのような錯覚を覚えたという。 このことからこの城は 「石垣山一夜城」とよばれるようになった。 生と死の狭間でちろちろ泣いている 合田瑠美子 初代早雲 二代氏綱 三代氏康 四代氏政 籠城戦が長引くと、秀吉は上方から茶人の 千利休や側室の 茶々、 諸大名の妻女らも呼び寄せ、石垣山城内で連日茶会や猿楽などを催した。 その歌舞音曲の音色は、小田原城内にも聞こえたといわれている。 秀吉はまた、しばしば城を抜け出し、 箱根方面の湯に浸かりに行ったりもしている。 こうした富と権力、さらに余裕を見せ付けることで、 篭城兵を圧迫していった。 北条方が頼りにしていた鉢形城に続いて6月23日には八王子城も落城する。 同盟関係にあった奥州の 伊達政宗も秀吉の陣に馳せ参じ、恭順を誓った。 5代氏直 そして城方からも寝返る者が続出したため、 城主の 北条氏直は7月5日自らの切腹と引換えに、城兵の助命を申し出た。 ここに関東の雄・後北条氏は五代目氏直で滅亡したのである。 私には空き缶だけが残される 前中知栄 [5回].

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北条 氏康

北条 氏政 の 子 氏 房 が 主 に 支配 した の 所領 は 次 の うち どこ か

深谷家嫡流のの嫡男・は氏憲と共に久保田氏に改め、氏憲の弟・の子孫は旗本として存続し、幕末ペリー来航時に80代の高齢にもかかわらず、大目付・海岸防禦御用掛を兼務したを子孫から出した。 宅間上杉家もになったと云われる。 上杉満定の男系子孫であるはとなった。 (上杉入庵)の次男・の子孫は、旗本()上杉氏として存続し、領地は・などである。 長男・の子孫はとして上杉家に仕え、三男・の子孫も(のち高家)、の挙兵を止めたのがその末裔である(千坂や色部だというのは俗説)である。 また米沢藩士としてもなど上杉家のが存続した。 上杉氏には数多くの分家があり、、の子息の代で分かれた以下の系統が著名である。 室町時代は隆盛したが、戦国時代以降の混乱によりいずれも没落しており、その末裔は上記のように旗本や諸藩士になる者が多く、江戸時代にとして存続したのはからを養子に迎えた山内上杉宗家のみである。 また、庶流のは一時的に大名となったが改易された。 宅間上杉家 「」も参照 のの実子であるが「庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)」を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。 7代当主のは、永禄12年()のの締結によって深谷城が上杉氏の勢力下に入ると謙信に属す。 憲盛の嫡男・は、父の死後は後北条氏に付き、天正6年()には北条氏政の養女を正室に迎え、氏政の猶子となる。 で後北条氏が敗れた後は、重臣のらが深谷城を開城して豊臣軍に降伏、氏憲はの所領である(現・長野市)にて隠居した。 氏憲の嫡男・は景勝から仕官の誘いがあったとも云われるが、に播磨主のに仕えた。 の次男・吉次の子孫は、徳川家に出仕して500石の旗本となり、は、天保8年()に70歳で勘定奉行、弘化元年()に77歳で大目付(役高3000石)に昇進して 、安政元年()に87歳になるまで勤めた。 越後守護上杉家 越後では山内上杉家と犬懸上杉家がを2分割して支配しており、この半分を基盤として犬懸上杉家系の越後上杉家が成立したが、守護職は山内上杉家が継承していた。 ところが、越後守護職を継承する山内上杉家系のが養子として犬懸上杉家系越後上杉家を継承することで、越後守護を世襲する越後上杉家が成立した(系統的には犬懸上杉家・血統的には山内上杉家に属する。 なお、山内上杉家の国衙領は引き続き同宗家が継承する)。 越後上杉家から、越後国内に、、を分家した。 のと対立するようになり、の代には長尾氏を抑え優勢となり全盛期を築き上げた。 房定の死後は、を擁するによってが自害に追い込まれるなど下克上され、上杉定実は為景の死後、の支援により復権を図るもののにより挫折し、後継のないまま死去、に断絶した。 千秋上杉家(小山田上杉家)• 上条上杉、深谷上杉、宅間上杉の各氏。 加賀爪上杉氏は、大名だったが江戸初期に改易になり、旗本で存続。 「」『古樹紀之房間』、2007年。 神保忠昭は儒学者・軍学者として米沢藩に仕えた。 大崎義隆は、奥州仕置で失領ののち上杉景勝に仕え、2700石を与えられたという。 (5年()分限帳)• のちに畠山景広の子孫は、米沢藩の重臣(席次2位)となる。 また、畠山義真は8歳で米沢藩主となった上杉綱勝を後見した。 前嶋敏、福原圭一、片桐昭彦、森田真一、阿部哲人、竹下多美、今福匡、村石正行、田嶋悠佑、簗瀬大輔、萩原大輔、矢部健太郎著「上杉謙信」(、高志書院刊行)P31-41,52-53• 渡邊大門『戦国・織豊期の諸問題』P30-59「越後長尾氏と上杉謙信の閨閥 -「越後長尾殿之次第」の検討を通して - (今福匡著)」(歴史と文化の研究所、2017年)• 天正13年(1585年)閏8月1日に秀吉は自ら富山城に入り、越後の上杉景勝に対し会談を申し入れるが、景勝が応じなかったため、同5日富山城を破却した(富山市郷土博物館編「秀吉 越中出陣」)• 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」(『武家事紀』第三十一、「加能越古文書」「毛利家文書」など)であったとする学説・文献もある。 蒲生騒動(大老として利家と景勝が調停)の混乱時のため、前田家中に新川郡の加増と城受け取りを記した文献はあるが(「加賀藩文書」前田育徳会など)、秀吉もしくは豊臣家からの領知判物や朱印状がなく江戸期に問題にされる。 この際に、加賀藩に移った直江勝吉(本多政重)が幕府と交渉している。 佐藤家忠は福島を本貫とする地侍(信夫佐藤氏18代目)。 古川重吉は信濃衆(更級郡塩崎城主・小笠原氏の出身)で不仲だったという説もあるが、現在は西根神社に、信達総鎮守として共に祀られている。 21世紀の現在も維持管理されている。 下堰(したぜき)と上堰(うわぜき)の2つの水路があり、灌漑面積は約1,400ha。 一時閉鎖されるが、後に片山一積の私塾を改築し、と改称して再興した。 後に上杉治憲により「先聖殿」と改称された• 「上杉家御年譜」(米沢温故会) に「元禄五年(1692)中山御役屋と改称」と記される。 置賜郡の支城のうちは天領(の代に米沢藩となり、の代には米沢藩に戻される)となった。 次代のは、能に凝るなど再び浪費・奢侈路線に戻り、財政が悪化した。 米沢市上杉博物館・復元「動く能舞台」• 「上杉家御年譜」(米沢温故会)• における名目上の(正式な)盟主は仙台藩伊達家だったが、諸事情により指導力を発揮できなかった。 2万石との説あり。 のち県庁移転により山形県となる。 第1次府県統合では、まちまちだった一県の大きさを30~40万石程度にまとめる動きがあった。 屋代が編入された置賜県は約40万石• "Unbeaten Tracks in Japan" 第二巻「北日本旅行記」(Isabella Lucy Bird 1880)• 沖縄県の資料・出版物では1500円と3000円の2説があって定まっていない。 ただし離任後により、「県への1500円寄付」についての褒状が贈られている。 県令の月俸は200円だった。 「日本の名家・米沢藩」(週刊読売編集部、1987年)• 東京大学での博士論文は「Optimum low-thrust multiple rendezvous 低推力による多数回ランデヴーの最適化に関する研究 」• 公益財団法人米沢上杉文化振興財団・役員名簿(平成28年 6月11日現在)• 「寛政重修諸家譜」• 山本英貴著「江戸幕府大目付の研究」• 植田真平「山内上杉氏と越後上杉氏」(黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年))• 勝憲の長女であった孝久の母が、上杉家から粕谷家に嫁ぐ。 「上杉家9代目当主」(週刊朝日)2014年12月26日号• 「加々爪」とも表記される場合あり。 犬懸上杉家・の次男。 越後上杉家・の三男。 越後上杉家・の子。 ・の次男。 古河公方・の次男。 の次男。 初名、長尾景虎。 政虎を名乗った後は輝虎、謙信と改名。 の子あるいは孫。 の七男。 の次男、謙信の甥(姉の子)。 粕谷信吾の子。 八条上杉家・上杉房孝の子。 八条上杉家・の子。 の子、と同一人物とも。 高家・の三男。 ・の三男。

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